ぼくの手は届かない  ぼくの手は届かない。 「嫌だなー」と彼女は言う。「歯医者なんて行きたくなーい。ドリルは怖くないの。キュイーンってやつは怖くない。でも病院は苦手。消毒液の匂いとか。真っ白だし。ビリビリしていて。待合室なんて地獄行きのバスの停留所みたいじゃん。きっと猫バスがくるよ、猫バス」  彼女の背後には死神が見える。  黒いもやみたいなソイツを、ぼくは死神と呼んでる。  彼女だけじゃない。ほかのひとの背後にも時折見えてしまう。 「猫バスって、なんだか楽しそうな気がするんだけど」「騙されちゃいけないの。トトロは絶対死神なの。あの時代、結核って絶対治らない病気なんだから。お母さんは死んじゃうの。あれはお母さんを迎えにきた地獄行きのバスなの、絶対」  彼女が死ぬとき、ぼくには猫バスが見えるのだろうか。  死神が憑いてるひとは死ぬ。だからぼくは正体不明の黒いもやを死神と呼ぶ。  最初に死んだのは祖父。続いて祖母。校長先生。本屋の店長。全員、例外なく死んだ。  通りすがりの他人に死神が見えることはしょっちゅうある。  たまに、死亡事故のニュースでかれらが死んだことを知ってしまう。  知りたくない。なにもできないのに。どうしてぼくには死神が見えるのだろう。 「嫌だな嫌だな、でも行かなくちゃいけないから行くしかないのかー」と彼女は自分に言い聞かせて、「それじゃまた明日ね、バイバーイ」手を振って別れた。ぼくも手を振って彼女の背中を見送る。黒いもやの見える背中を。  ぼくは反射的に彼女の背中に手を伸ばす。  死なせたくない。こんな黒いもやなんかに殺させたくない。  でも、ぼくの手はすり抜けてしまう。ぼくの手は届かない。絶対。  家に帰って、とりあえずシャワーを浴びことにした。  熱いお湯を浴びながら髭を剃るために鏡を見たら黒いもやが映っていた。  薄々予感していた。ぼくが死ぬとき、いつかぼくの背中に死神が現れるんじゃないかと。  ――キィィィィィィィィ。  鏡に映った黒いもやを剃刀で切ろうとする。  傷ついた鏡は甲高い悲鳴を上げるが黒いもやは消えない。絶対。  ぼくは死ぬ。ぼくは死ぬ。ぼくは死ぬ。ぼくは死ぬ。もう、ぼくにあとはない。 「わかったよ――」  ぼくは鏡を殴った。  鏡は割れて、バラバラと破片が零れた。  握り締めた拳から血が流れる。ぼくの命は流れ落ちる。 「――だったら、やってやる」  諦めて。  覚悟を決めた。  ぼくの手は届かない。  けど、だったら、拳はどうだ。  ぼくの声は届かない。  けど、だったら、雄叫びはどうだ。  ぼくに彼女は救えない。  けど、だったら、コイツを殺すってのはどうだ。 「何度も何度も見てきたんだ。歯医者なんて比べものにならないくらい慣れっこだ。死んだら終わり。早いも遅いもない。ぼくは死ぬ。だったら死を有効活用してやる。ぼくの心残りはオマエだ。どのみちオマエをどうにかしないことには、ぼくが安らかに死ねるはずないんだよ――ッ!」  剃刀で、ぼくは手首を縦に切り裂いた。  パックリと裂けた傷口から血が命が流れ出て死が浸食する。  そしてぼくは背後を振り返った。これから死を以て打ち倒すべき敵を見据えるために。 「WRYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYY――――――!」  死神が見えた。いままでにないくらいはっきりと。  黒いもやは輪郭を固定して古めかしい死神のイメージとなった。  黒いフードを被った骸骨ってやつだ。こんなやつ。こんな、こんな陳腐なやつに。 「オマエが死ねッ!」怒りが爆発した。いままで絶望を味わった怒りが、「何度も何度も救えなかったッ! 届かなかったッ! オマエが、オマエが、オマエが! 今度はオマエを殺してやるッ! 何度も何度も見殺しにしてきたんだッ!」  ガンガンとしゃれこうべを殴りつける。  死神は大鎌を引っ張り出して、それを振りかぶった。  ぼくの胴体の半ばまで大鎌が突き刺さって命が盛大に噴き出る。 「こ、のォ――――ッ!」 「WRYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYY――――――!」  このままでは先に死んでしまう。そのまえにコイツを道連れにしないといけない。  言語化するならこんなかんじなのだろうけど、それよりぼくは原始的な感情に突き動かされて死神の首に手をかけた。手首を切った手だけが死神に触れられる。だからぼくは片手に必死で力を込めた。必死で。ぼくは死ぬ。けど、コイツも道連れだ。  そのとき携帯電話が鳴った。  トゥルルルルルルルルルルルル。  初期設定のまま変えていない着信音。 「もしもし?」留守電が録音を始めて、「いま、どこにいる? サトコが事故に遭ったんだって、交通事故。重体で大変なんだって。いまからおれたちも病院にいくから、おまえも、できるだけ来てくれ。えーと、病院は」「WRYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYY――――!」  死神が嗤った。だからどうした。こっちはとっくのとうに覚悟を決めたんだ。ぼくは手に込める力を緩めない。絶対に。たとえ胴体を真っ二つにされたって、この手は離さない。ぼくはオマエを、いやオマエらを道連れにすると決めたんだ。  ――ゴギッ。  乾いた音を立てて死神の首が折れた。  そして次の瞬間、死神の痕跡は消え失せる。  ぼくの胴体に大鎌は刺さってない。手首は切れてるけど。 「次だ……」ぼくは手首に包帯を巻いて応急処置を施すと服を着て外に出た。目指すは病院だ。ぼくの死が続くかぎり殺し続けてやる。たとえ救えなくても。この手は届かなくても。だからこそ、余計に。ぼくは。  ぼくの足が階段を踏み外した。  ぼくは最後まで手を伸ばし続けていた。 シュレティンガーワープ  ぼくは携帯電話を持っていない。というのも時計が嫌いなのだ。子供のころはもっと一日は長かった気がするのに、かちこちと時間を刻まれてから、あ、いま一分経った、あと十秒しかない、もう二時間も座りっぱなしだ、なんてせこせこして生きてる自分に気付いた。だから時計を手放した。腕時計も持っていないし目覚まし時計も持っていない。幸いにして早起きは得意だし、時計抜きで生活してから太陽の加減でおおよその時間くらいなら分かるようになった。だから大して不便はない。社会に出たらそうも言ってられなくなるかもしれないけど学生のうちは時計に縛られない生き方を満喫しようと思っていた。  ところが最近、変なことが起こる。時間が飛んでしまうのだ。子供のころ、楽しい時間があっという間に過ぎたような、あの感覚のせいだと最初は思っていたんだけど、そういうのだってよくよく思い返してみれば、時間の経過に相応しい体験を経ているはずだ。そういうのじゃない。楽しい時間、なにかに集中していたという点は同じだけど、たとえば小説を数ページ読んだけでいつの間にか朝になっていたりとか、そういうことが起こり始めたのだ。  そのことをSF好きの友達に相談すると「タイムスリップみたいだね、まるで」と言われた。「それ、いつも一人のときに起きるって言ったよね」「うん」「で、しかも、きみの部屋には時間を測るものがない」「うん」「つまり時間を観測することができないわけだ。きみの意識まで本に奪われたら」「だからなんなんだ?」「一番可能性が高いのは、なんらかの病気だ。病院へ行って相談するといい。けど、もしも病気じゃないとしたら、ひょっとすると面白いことが起きているのかもしれない。まあ、冗談半分に聞いてくれ」「どういうことだ?」「観測者が不在だから時間という概念が曖昧になっているのかもしれない。案外、宇宙ってのは不安定で、主観的に観測するものが必要なんだ」「つまりぼくが意識した瞬間に時間が決定してるってこと?」「話が早くて助かる」「ぼくもたまにSFも読むから」「これは古い仮説で、間違ってるのかもしれないけど、SF的にはオイシイよね」  こういう現象は何と言うんだろう。タイムスリップが一番近い気がするけど、なんだか違う気がする。ぼくは勝手にシュレティンガーワープと名付けることにした。シュレティンガーワープは一旦自覚すると、なかなか起きなくなった。ぼくの意識が時間に集中してしまうからだ。時間が飛んでやしないかと。そのかわり読書に集中してしまえばシュレティンガーワープしたときには好きな時間を決定することができるようになった。  一時間、二時間、三時間。一日、二日。決定する時間を伸ばしたり縮めたり。だけど時間を逆行することはできなかった。ぼくが過去を知ってるからだと思う。たとえば昨日、ぼくは学校に通っていた。その過去と違う過去に行くためには、ぼくの認識を変えることが必要だ。もっとも過去に行く必要性なんかなかったらからそれでいいと思った。それよりも未来だ。ぼくは未来に行きたくなった。このシュレディンガーワープがきっかけでSFを読み漁るようになったのが原因かもしれない。つまりはただの憧れだ、行く必要性はないけど、ぼくの知らない未来に憧れを抱くようになってしまった。  そしてとうとうぼくはやってしまった。ぼくは想像もできないような未来を意識してシュレティンガーワープに突入してた。ぼくの死んだ後の未来。だれも想像しえない未来。どうなるかわからない憧れだけの未来。  本から首を持ち上げると真っ白だった。ぼくはなにもない空間に浮かんでいた。いや、ぼくのからだもない。ぼくの意識だけが浮かんでいるような、だけど不安や恐怖はない、なにもないけどなにかがあるようなところに浮かんでいるとしか言えない不思議な感覚だ。そこで声が聞こえた。 「アンタ、バカ?」「アスカ?」「なにそれ?」「いや、こっちの話。きみはだれ?」「つーかアンタこそ何者よ。こんなところまで侵入して。どんな手を使ったの? ここは不可侵条約結ばれたの知らないの? どうなっても知らないよ、ほんとバカ。バーカ、バーカ、バーカ」「いま、西暦何年?」「西暦?」「ぼくは西暦二〇一〇年からきたんだけど」「ちょっと待って、西暦って、うそ、マジで? あの西暦? マジで西暦なんて使ってる時代から来ちゃったの? どうやって?」「タイムスリップ? ワープ? ぼくにも上手く説明はできない」「そりゃまーアンタの時代で理解していたら驚きよ。ちょっと待って。そっかそっか。えーとね。わたしのことは神様みたいなもんだと思って、神様。本当は全然違うけど」「全然違うって」「いいの、説明するのめんどくさいから。それで、まあ、ここはなんでも叶う場所なの。どこへでも行ける。どんな場所へでも行ける。さっきタイムスリップとかワープとか言っていたけど、それよりもっとすごいことができちゃう場所。アンタ、どこへ行きたい?」「いいの?」「いいも悪いも、そうしないとずーっとここにいるのよ?」「ここ?」「そ、わたし、ずーっとここにいるんだから。すっごい退屈よ、ここ」「退屈なんだ」「そう。だから早く好きなところに行っちゃいなさい」  ぼくは考えた。特に行きたい場所はない。想像できないような場所に行きたかったのだから、想像できる範囲の場所には特に行きたいとは思わない。この神様とやらは退屈そうだ。ずっとここにいると言った。ずっと。「ここ、ほかにひとはこないの?」「こないよ、全然。不可侵条約結ばれてるから」「またきてもいい?」「え? アンタは、そっか、うーん、西暦の人間ってことは条約無視しても問題ないのかな。いいのかな。でもここにきてもなんにもないよ?」「たとえば、いろんな世界に行って、ここに来て、お話して、またどっか行って、ここに来て、を繰り返してみたいなー、と思ったんだけど、どうかな」「うーん? あれ? それってどうなんだろう? アリなのかな? なんかものすごくかぎりなく灰色に近いブラックのような気もするけど」「駄目かな? それじゃあ、諦めても」「あーっ! わかった! いいからいいから! わたしが許す!」「いいの?」「たぶん大丈夫!」「たぶんって」「いーからいーから!」  どうやら喜んでもらえたらしい。とりあえずはぼくも嬉しい。ちょっと安直すぎやしないかと思うけど、そもそもぼくはシュレティンガーワープしちゃうような人間なのだ。時間に縛られるのも、もっと言えば、ありとあらゆるものに縛られるのも嫌いだ。こんなふうにいきあたりばったりというのは理想的な生き方とさえ言えた。「それじゃ、まずは、どこへいこっか」「えー、その前に、最初の話聞かせてよ」「最初の話?」「アンタの生きていた世界の話に決まってるじゃない」「ああ、そっか。でも、そのまえにさ」「なに?」「自己紹介しない? ぼくの名前は」 カサカサ  カサカサと音が聞こえる。  冷蔵庫の裏から。  僕は、ちょっと怒った声を出す。 「おい」  カサカサという音が止まって、 「ご、ごめんなさいっ! ついっ!」 「謝る前に出て来い」 「……はい」  カサカサと出てくる、ソイツ。  黒くて光沢のある長い髪。人間の髪と触感が違う。固くて脂っぽい。そこから二本だけみょーんと飛び出てる。いわく触角とのことだが、どう見てもアホ毛だ。  茶色いワンピースを着た変な髪の女の子。  いや、髪より何より特筆すべきは彼女のサイズ。冷蔵庫の裏に隠れてしまうくらい小さい。まるでハムスターみたいなサイズだ。彼女はゴキブリだと言い張ってるけど。  そう、ゴキブリ。  彼女は自分はゴキブリだと言い張ってる。  ゴキブリホイホイからすすり泣く声が聞こえて心霊現象かと思って開けてみたらコイツが捕まっていた。助けたらなつかれてしまった。心霊現象ではなく超常現象だった。  最初は自分が疲れてるのだと思った。  寝不足が続きっぱなしだった。  数日放置してみた。  その間、コイツは家にいるかぎり僕にまとわりついてきた。もっとも、それは猫になつかれてネズミの死体を「これあげる」されるような困った内容だった。  彼女は自分はゴキブリだと言い張ってる。  では、ゴキブリの場合、ネズミの死体にあたるものは。  それは冷蔵庫の隙間に落ちてしまったような生ゴミである。しかも落ちてから数日経過しているものが多いため腐ってる。そんなカビの発生した生ゴミを、 「ねえねえ、これあげるっ!」  と実に可愛らしい笑顔で枕元に持ってきたりするのだ。  ハムスターみたいなサイズの女の子が生ゴミを、だ。  根負けして、とうとう僕は彼女の存在を認めた。  悪夢のような混沌とした光景を回避するために「ごめん、生ゴミはいらないから」とお願いするためだけに始まった付き合いだったが、なかなかどうして良い事もあった。  彼女が住みついてから、ほかのゴキブリが出ないようになったのだ。それ以外の害虫も。  彼女いわく「だって、ここはわたしの縄張りですからっ!」とのことだが、しかしゴキブリって縄張り意識のある生き物だったけなあ、と疑問は残った。  ともかく。  彼女とは、それ以来の付き合いだ。  そして僕としては生ゴミを漁って欲しくないのだが、 「でも、あそこ、沢山落ちてるんだよ? もったいないよ?」 「もったいないのはよくわからないけど拾わなくていいから。あとで僕が掃除しておくから」 「えー」 「その生ゴミを拾い食いした口でキスされる僕の身にもなって欲しい」 「……き、気付いて……いた……の……?」 「都市伝説だとは思っていたが、まさか本当にやるとは思っていなかったぞ」 「きゃぁぁぁ―――――――っ!」  彼女は悲鳴を上げて逃げた。  ブラフのつもりだったが。  当たっていたとは。  カサカサと彼女は本棚の隙間に今度は隠れた。  あそこならいいだろう。生ゴミは落ちてないし。  というか、それより問題はキスだ、キス。  夜中、たまに口元に違和感を覚えることがあった。で、ふと思い出したわけだ、実はゴキブリは夜眠ってる人間の唾液から水分を接種しているのだー、という都市伝説を。  まさか本当に、そんなことをやっていたとは。  だがしかしどうして赤くなって逃げたのか。  いつもなら「ゴキブリの習性ですからっ!」と開き直ってるのに変なヤツだ。やっぱゴキブリってのは嘘臭い。まだ宇宙人のほうが真実味がありそう。 「おーい」  隠れた彼女を、しょうがないから呼び出す。 「手洗って歯磨いてこい。お菓子出してあげるから」 「えー、油落ちるからヤだー」 「んじゃお菓子食べさせないからな」 「いってきますっ!」  彼女は本棚から飛び出すとケージに駆け出した。  本来はハムスターを飼うためのケージだが。  そこに彼女の空間を用意してやった。  ――バシャバシャ。  手を洗って歯を磨いてる音だ。  彼女は体を清潔にすることを嫌がる、が。  それもお菓子で簡単に釣れる。いままで全戦全勝。  確かにゴキブリはお菓子に群がるが。  なんというか、ただのわがままな女の子みたいだ。 「今日のお菓子はなにー?」  彼女が戻ってきた。 「チョコレート」 「やったーっ!」 「ところでさ」 「んー?」  チョコレートに飛びついた彼女に提案する。  最初が最初だったから、ずっと言うタイミングがなかった。けど、そろそろ言い出しても良い頃合だろう。そのためにもチョコレートを買ってきた。 「オマエの名前、教えてくれ。もしなければ名前決めるから。ずっとオマエじゃ不便だ。なんて呼べばいい?」 「……ゴキブリで、いいよ?」 「いや、それじゃ落ち着かない」 「なんで? だって、ゴキブリなんだよ?」 「ゴキブリって言うけど、ピンとこないんだよ、僕には」 「……じゃあ、わたしは、なに?」  しばらく、考えてみた。  一番ピンとくる単語はUMAだったが。  それを言ったら怒るだろうから、ごまかすことにした。 「うーん、なんなんだろう?」 「ちぇー」 「どうして舌打ち?」 「なんでもないですぅー」  彼女はイタズラっぽく舌を出した。  なぜか、頬を赤らめながら。 ボタン  たとえば目の前にボタンがある。  そのボタンには「絶対押すな!」と書いてある。  俺は好奇心を抑えきれずボタンを押してしまう人間だ。  何事も起こらなければ、あるいは大したことが起こらなければ、あるいはあるいは面白いことが起こればいいなと、そんなことを期待してボタンを押してしまう。  けれどもけれども「絶対押すな!」と書いてあるからには押しちゃいけない理由があるわけで、それが不幸を招くこともある。というか大抵不幸を招く。 「げぇ……」  と、便器に寄っかかって、反吐を吐く。  あれは不幸を招くボタンだった。  後悔しても、もう遅い。 「ったく、畜生、俺の馬鹿」  胃の中のものを全部、胃液まで全部吐き終えると、転がるようにして壁に背中を預けた。  いますく身体を洗いたくなって、全部洗い落としたくなって、俺はシャワーのバルブを捻った。  服を着たままだが構いやしない。  熱い滴が上から降り注ぐ。  その中で俺は泣いた。 「ちっくしょぉ……」  自分が汚れてしまった気がした。  あんな人間に気を許してしまった自分が許せなかった。 「ちくしょうめ……ッ」  後悔が形を変えていく。  強大な後悔は歪に、歪に。  逆恨みの殺意へと変貌する。 「殺す……ッ! ブッ殺す! ブッ殺してやる!」  逆恨みだと自覚していた。  後先考えずにボタンを押した自分が悪い。  だけど、だからといって、この感情は消えそうにない。   シャワーを止める。  立ち上がってユニットバスから出ていく。  ずぶ濡れのまま鏡の前に立つと鬼が映っていた。 「フフ、フフフ」  自分の姿に満足すると、俺は台所から、包丁を取り出した。  ためしに自分の手首を切ると真っ赤な血が流れた。  この切れ味なら申し分ない。 「殺す」  そのためには充分だ。  いまからこのまま殺しに行こう。  全部、全部、全部なかったことにするために。  今、自分の中のボタンを押した。  そのボタンにも「絶対押すな!」と書いてある。  けれどもけれども押さずにいられるか、このボタンを!  ボタンを押した、後戻りはできない、さあ、殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ! 少女娼婦と白馬の王子様  少女の世界は毒色の館で完結していた。  その館はいわゆる娼館で、そこで少女は育てられた。どこのだれが少女の父親で母親で、どうして娼館が少女を育てることになったのか、そのゆえんを少女は知らないし、いまさら遠い過去の出来事を知ろうとも思わない。いまある現実。娼館で育てられた少女もまた必然的に娼婦とならざるを得なかった。それ以外の生き方を教えられなかった。  夢を売る少女は、だから夢を見ることを諦めていた。ここで生まれて、ここで死ぬ。それがすべて。それがすべてだと思わなければ、やっていけなかった。それ以外の生き方を教えられなかったから、それ以外の生き方を望まないとはかぎらない。いや、だからこそ。けれども、それ以外の生き方を許されることもなかった。  わたしは親に売られたの。もしも客に「どうして君みたいな子が、こんなところで働いてるんだ?」と聞かれたら、そういうふうに答えるようにと教えられた。そして少女も、それが真実かもしれないと思っていた。それが真実だとして、あまり意味を持たないことだけど。それよりも、たまに「だったら君を買うこともできるのか?」と続く言葉が重要だった。  実際、少女を買うことはできる。だけどその金額を告げるとみんな苦笑いして「またくるよ」と言うのだった。だから彼の言葉は予想外だった。 「じゃあ、逃げる?」  そんなことを言う客は初めてだった。たまに文無しが金を支払えずに逃げようとすることはある。けどかれらは一人の例外もなく用心棒に追われ捕まり殺された。金を払う客には夢を見せるが金を払わない客には地獄を見せるというのが娼館のモットーで、そんなことは金を払う客であれば常識として重々承知しているものだ。 「どうして? 本当に? できるの?」  困惑と疑心と、そして期待。決して見せることのなかった少女の素顔。商売用の艶の抜け落ちて年相応の混乱を露呈した表情が浮かんでいることに少女自身気付いていなかった。だけど無論、睦事用の薄暗い部屋でも男の眼には彼女の表情がありありと映っていて、だからおかしそうに笑った。 「どうして笑うの?」 「自分で気付いていないのか?」 「ねえ、どうして? 本当に、できるの?」 「逃げたいのは君自身だろう? 俺は手を貸すだけ」 「それは……」 「できるできないは半々。銃弾一発で人は死ぬ。どんな凄腕でも流れ弾が当たったら、おっ死ぬ」  死ぬ。それは魅力的な結末だった。もしも失敗して連れ戻されたら、どんな酷い目に遭うのだろうか。たとえ仮にすべての咎は男に架せられ少女はおとがめなしになったとしても、逃走を覚悟して、それが失敗したのであれば、そのとき自分の心は挫けてしまっているだろう。再び人形に逆戻ることができるとは思えない。それならいっそ死んでしまったほうがいい。  少女の心は、すでに男と共に逃げるほうに傾いていた。 「でも、やっぱり、どうして? あなたにメリットは? わたしは逃げたい。それは認めけど、それはわたしの話で、あなたとはなんの関係もない話」  少女は覚悟を決めたことで冷静になっていた。そして少女の声が媚を帯びていく。この機会を逃すまいと娼婦の技術を我知らず使い始める。それしか他人に物を頼む術を知らなかった。それが一番確実な手段だと知っていた。 「あなたは? あなたは、わたしが欲しいの?」 「戦争から帰ってきたら町がなくなっていた」 「え?」 「君が知らなくて当然といえば当然か。ここで現実の話は相応しくない。あったんだよ、戦争が。いまもドンパチやってる最中だけど、そろそろ停戦が結ばれるはずだ。まだ一応形だけは続いているから無人兵器は稼働してるけど、それ以外の有人部隊は引き上げることになった」  少女が初めて聞く話だった。この少女は驚くほどものを知らない、というより知らされていない。ここは浮世の世界、娼婦は無知であるほうが喜ばれるのだ。少女は今日が何月何日何曜日で自分が何歳であるかさえ知らされていない。少女が知っているのは男の悦ばせ方だけ、それだけが娼婦に求められていたから。 「そんなわけでめでたく除隊になった俺は故郷の町に帰ったんだけど、そこはすでに焼け野原になっていた。前線の士気を下げるから聞かされていなかっただけで内地も戦場になっていたんだ。俺は全てを失った。それからあてもなく旅に出て、ここに流れ着いて、たまたま宿が取れなくて、ここで夢を見せてもらおうと思ったんだけど」  そのとき男が浮かべたのは少女には馴染みのある表情だった。よく鏡に映ってるそれは理不尽な境遇に対する怒りと諦めの入り混じった表情だ。その表情を鏡に発見したら意識して笑顔を作るようにしてきた。つまり諦めに傾く。だけど男は怒りに傾いていた。 「だというのに、こんなところでも、そんな眼に出会ってしまったら、いい加減俺だって馬鹿みたいなことをしでかしたくなる。君を助けても、俺にはなんのメリットもない。俺は神様に八つ当たりしたいだけだ」 「わたしが欲しくはないの?」 「もしも無事に逃げることができたら、あとは好きにしろ」 「駄目、そんなの」 「なにか不都合でも?」 「大アリよ。あなたの話は、わたしになんの価値もないって言ってるようなものじゃない。そんなの駄目、許さない。あなたが命を賭けるなら、わたしを欲しいって言って。あなたが命を賭けるように、わたしは体を賭けるから。あなたが助けてくれるなら、わたしはあなたのものになるから」  少女の啖呵に男はしばらく茫然としていた。そして苦笑。 「なんて不器用な慰め方だ」 「しょうがないじゃない、そんなの教えてもらわなかったんだから」  恥ずかしくなったのか少女はすねた。そんなことよりよっぽど恥ずかしいことなんて日常的に経験しているが、それらはすべて娼婦というペルソナをかぶった行為、自分自身の素としてこういうことを言ったのは初体験だった。 「さて、と」そんな少女を尻目に男は着替え始めていた。それを真似るように少女も着替える。といっても下着同然の衣装はほとんど羽織るだけだから男より先に着替え終えてしまった。「逃げるんだろ、当然?」 「責任取ってよね」 「結婚する?」  冗談めかした男の台詞に、少女は顔を真っ赤にしながら「け、けっこ、こ、こ」とにわとりみたいなことを口走ってパニクっていた。ますます悪戯心が刺激された男は少女の頬にキスして、 「それじゃ、いくぞ」 「せ、責任取ってよねっ!」  もはや少女は耳まで赤い。それはまったく娼婦らしからぬ仕草だったが少女にはそっちのほうが似合ってる。そのことに男は満足して勢い良く扉を開け放った。そこには見張りが一人。  男が、見張りの喉に手を触れた。少女の目には、そう見えた。次の瞬間、見張りの喉がぱかっと開いて噴水のように血を噴き出した。 「きゃあ!」  あまりの早業に少女は悲鳴を上げた。こういうことになるだろうと覚悟はしていたが予想外のタイミングだった。  男の指先には高級紙に印刷された娼館の広告が摘まめられていた。それはそれでいつの間にかだから驚いたが、そんなものでどうやって喉をかっ切ったのか、と少女の目が疑問を訴えていた。 「紙で指を切ったことあるだろう? あれと同じだ」 「そんなこと、できるの?」 「十分な速さがあれば、できる。お、拳銃持ってんじゃねーか、こいつ」  少女に答えながら男は死体を漁り始めた。すでに発見した拳銃を片手に、もう片方の手で予備弾倉をポケットに突っ込む。しばらくのあいだ死体をまさぐっていたが、それ以上使えそうなものは出てこなかった。 「そこ、危ないから、一旦部屋に戻って」  と、男が言ったので小首を傾げながら部屋に戻るとチンという聞き慣れた音と共に廊下の奥のエレベーターが開いて「てめえ、なにやってんだっ」と用心棒たちが現れた。  早く逃げないで死体なんか漁り続けているから、あいつらがきちゃったじゃない! 少女は心の中で男を非難した。それに返事するように男の手が動いた。廊下の奥、エレベーターから出たばかりの用心棒たちに向かって。  破裂音が三つ。そして用心棒たちが倒れた。  男の手には拳銃。空のやっきょうが床に落ちた。 「よし、いまだっ」  死体を漁る振りをして、このタイミングを待っていたのだろう。それが狙い通りにいったことで男は本格的に逃走を開始した。少女の手を取って走り出す。  男と手を繋ぐだけで少女の心臓は早鐘を打った。こんなこと全然大したことないのに、と思う。わたしは娼婦なのに、まるで初恋に浮かれる処女みたい。でも。そういえば。  わたし、これは初恋なのかもしれない。  白馬の王子様。 「噂の用心棒とやらの特徴を教えてくれっ」 「さっきの」 「ん?」 「さっき殺したのが、そう」 「嘘、マジで?」 「うん。だから一番怖いひとたちは、もういないよ」 「あれが切り札ってことは……ない。それはない。ということは、ああ、そうか、くそったれ」  一番怖い用心棒たちを殺したのに男は全然嬉しそうじゃなかった。その意味を、まだ少女は理解できなかった。このときは、まだ。  それから男は手当たり次第に撃ちまくって出口へ向かって猛進する。ひょっとしたら一発一発狙いがあって撃っているのかもしれないが少女には判断できなかった。少女を育てた館の主人も撃ち殺したかもしれない。けど、どうでもよかった。そんな遠い過去の出来事は。  いま、少女は自由を謳歌していた。  自由には代償がつきものだとも理解していた。  やがて出口まで辿り着く。静かだ。動くものは殺した。動かないものは死んでいる。生きているのは二人だけだった。そして外の世界は二人をいまかいまかと待ち構えている。それは気配でわかった。その圧倒的な気配は絶対の未来だった。 「どうやら、ここまでのようだ」 「十分、楽しかったよ。ねえ、最後に」  二人同時に扉を開け放つ。外の世界には軍警が待ち構えていた。娼館の切り札は、あんな用心棒ではなく軍とのコネだったということだ。そのことに男は用心棒を殺した瞬間気付いていた。少女も外が騒がしくなってサイレンが鳴り出してから否が応でも気付いていた。  少女は娼館から逃げきれない。  男は軍から奪われる。  結局のところ、それが現実だった。それが結末だった。 「撃ぇーっ!」  号令と共に数えきれないほどの銃弾が二人に迫る。最後、二人は唇を重ね合わせていた。見せつけるように。これがハッピーエンドだと言わんばかりに。  事実、少女は外の世界に一歩だけ踏み出していた。 死体は笑ってる  末端から体が腐っていく。もう立ち上がったり、ものを持ったりすることもできない。かろうじて這うことくらいならできるが、それはなにもできないと同意義だ。  おれは死んでいる。そして、いずれ死ぬ。  生きてる間は死ぬ前に海を見たいとか銀行強盗したいとか色々考えていたけど、こんな体ではそのどれもできやしない。おれにできるのは這うこと、うめき声を上げること、こうして頭を使って考えること、それくらいだ。  だから考える。これから死ぬまでのあいだ、なにを考えるべきか、それを考える。なにを想って死ぬべきか、そういうことを考える。  せめて、笑いながら死にたい。それは別段前向きな思想に基づくアイデアではなくて、うじうじと悩み事を考えなら苦痛に充ち満ちた死を迎えたくないという、いたって消極的な発想だ。  だから過去を振り返ることにした。楽しかった思い出、嬉しかった思い出、そういった思い出を振り返り続けていれば笑顔のまま死ぬことができるはずだ。  幼稚園より前のことは、よく覚えていない。なぜか幼稚園に咲いていたあじさいの花だけは覚えているけど。  小学校と中学校の思い出はごっちゃになっている。どっちも子供らしくて、無意味で、馬鹿馬鹿しいけど、それなりに楽しかった思い出だ。  高校に入ってから悪い遊びを覚え始めた。アルバイトも始めた。大学に入ってからもサークルなどに参加しないで、悪い遊びとアルバイトに明け暮れて、健全とはいいがたいけど、それなりに楽しかった思い出だ。  社会人になってから。  大人になってからは。  ああ、なんということだろう。おれは愕然とした。  楽しかった思い出がない。あるにはあるけど、それらは苦しいことから逃避しているだけで、心底何かを楽しんでいた思い出というものが見つからない。  逃避でもいいだろう、楽しければ。そういうふうに考え直そうとしても、一旦思ってしまったことは、なかなか変えられそうにない。  違うものは違うのだ。心底何かを楽しんでいた思い出と、逃避していた思い出とでは、輝きというか、なんというか、とにかく全然違うのだ。  こんなことなら、と悔やんでしまう。  こんなことなら、なにかしていればよかった。なにか笑って死ねるようなことをしていればよかった。苦しいからとか忙しいからとか言い訳しないで、なにか笑って死ねるようなことをしておくべきだったのだ。  後悔が膨れ始める。血と膿の混じった涙が頬を伝う。  涙の感触に、ますます泣きたくなってくる。おれの人生は笑って死ぬこともできないようなクソみたいな人生で、そのことに死ぬ直前になってようやく気がついて泣きじゃくってるなんて、おれはなんて馬鹿なんだろう。  おれにできるのは這うこと、うめき声を上げること、こうして頭を使って考えること、それくらいだ。いまさらなにができる。なにもできない。  あとはもう、死を待つだけだ。  そして、おれが死んだら役人がやってきて、おれの死体を片付ける。  その光景を思い描いたとき、たったひとつだけ最後の最後にできることがあると気づいた。それをすれば笑って死ねるだとか、そんな大したことじゃない。けど。  おれの死体を見た役人に「クソみたいな人生だったんだろうな、コイツ」とあざ笑われるのは我慢ならないと、そう思った。おれの人生はクソみたいな人生だったけど、おれの死までクソみたいだとあざ笑われるのは、それだけは許せないと、そう思った。だから。  だからおれは死を待った。待った。待ち続けた。  走馬灯のように過去の記憶を振り返る。良い思い出も悪い思い出も、そのひとつひとつが後悔を増大させる。後悔だけが、おれに残されたエネルギーだ。  クソみたいな人生だった。くやしい。  クソみたいな死とあざ笑われて、たまるものか。  末端から体が腐っていく。指が、手が、腕が、脚が、胴が腐っていく。そして腐りに腐り果てて、どう見たってクソみたいな死体が出来上がった。  それから数時間後、大家の了承を得て合鍵を譲り受けた二人組の男たちが部屋に侵入した。かれらはスーツにマスクといういでたちで、そのうち一人は部屋に入るなりスプレー式消臭剤を噴射し始めた。 「おい、それ、やめろよ、うざいんだよ」 「だってくさいじゃないですか」 「慣れろ、いい加減。大体消臭剤くらいでどうにかなるもんじゃない」 「どうしてこんな死に方なんでしょう。もっときれいな死に方だって、できるはずでしょう」 「見せしめだよ。きちんと税金払わないと、こんなふうに死にますよって」 「見せしめですか。ああ、こういう死に方は怖いですね」 「おまえの稼ぎなら人口削減条例を心配する必要はない。こいつみたいな負け組だけだ。ほら、さっさと死亡確認して業者に引き渡すぞ」 「はい、えーと、まずは呼吸をチェック」  一人の男がチェックシートを用意して、もう一人の男が死体を検分する。  どう見ても死んでいる。腐敗は末端から始まって最終的に臓器まで及ぶ。そこにあるのは人型の腐肉の塊で、これを死体と呼ぶのもおこがましい。  それでも役所仕事の手続きに従って呼吸確認のために死体の口元に指を近づけた。その瞬間だ。  死体が動いて男の指にかじりついた。 「おわっ」  筋組織は腐敗しきってる。歯も触れれば抜け落ちるありさまだ。死体がかじりついても男の指は傷一つ負うことなく、かえって死体の顎が外れて、ぼとりと床に落ちた。 「自重で傾いたのか? 風でも吹いたのか?」  死体が動くはずがない。ただの偶然だ。偶然だとわかっていても死体にかまれるという出来事は気持ち悪くてしょうがなかった。 「おい、いくぞ」 「え、でも、まだ死亡確認が」 「そんなもん全部適当でやっつけとけっ」  一人の男が部屋から逃げ去る。それを追って、もう一人の男もためらいながら部屋から去ってゆく。そして部屋には死体だけが残った。  それは死体だ。クソみたいな人生を送った男の死体だ。最後の細胞の一個まで腐りきって、いま、自重を支えることもできず、顎に続いて上体が崩れ落ちた。べちゃりと湿った音が響いた。  なんて醜い死に様だ。  だけど結果として、あくまでも結果として、この死体は一人の男を恐れさせた。それは偶然の出来事だ。たまたま自重で傾いたのか風が吹いたのかそれ以外の要因なのかは知るよしもないが、とにかく死体が動いたのは偶然の出来事だ。  だけど一矢報いたのは事実。負け組と言われた死体が、だとすれば勝ち組にあたる人間に恐れを抱かせた。  ゆえに死体は笑ってる。  顎を失った死体は、奇妙に頬の裂けて、笑っているように見えなくもない。ざまあみろと笑っているように見えなくもない。そうして焼却処分されるまで死体は笑い続けていた。 「オナニーして人生変わりましたか?」 「オナニーして人生変わりましたか?」 「変わりましたね。オナニーを覚えてからというもの毎日欠かさずやっています」 「そこまで夢中になるオナニーの魅力とは何でしょう?」 「一言では難しいですね。色々な楽しみ方があるのがオナニーですから。どんな人でも、どんな気分のときでも楽しめるのが、オナニーの最大の魅力ではないでしょうか」 「なるほど」 「一口にオナニーと言っても色々あるじゃないですか。シンプルに手でしごいたり、床でこすったり、道具を使ったり」 「十人十色のオナニーがありますね」 「それにオナネタも、色々。AVやエロ本、同人誌。妄想も好きです」 「エロサイトは多種多様なオナネタが用意されているから便利ですよね」 「ハマりすぎるとヤバイですけどね。ダイヤルQ2とか。親にバレて家族会議になったことがあります」 「(笑)」 「それに、男として、やっぱり“しごく”という行為に浪漫を感じるんですよ」 「浪漫ですか?」 「ええ、なんだか鍛えているみたいで。“しごき”って言うじゃないですか」 「確かに、言いますね」 「オナニーを通して自分を鍛え上げる、それもまたオナニーの楽しみ方だと思うんです。自分のためになるからこそ夢中になれるんだと思います」 「なるほど。本日はありがとうございました。これからも素敵なオナニーライフを送ってください」 人生、宇宙、全ての答え  人生、宇宙、全ての答えを何年も前から考え続けている。  取り憑かれていると言ってもいい。  四二という数字が頭から離れない。  人生、宇宙、全ての答えとはダグラス・アダムズの著作「銀河ヒッチハイク・ガイド」に登場するガジェットであり、もっといえばジョークであり、その答えである四二という数字は、すでに作者によって「全く意味の無い平凡な数字」であると明かされている。  だが、この四二が頭から離れないのだ。  一旦気付けば世界は四二で溢れている。  犬科動物の歯の数は上下合わせて四二本、千手観音の手は四二本、タンパク質が変質するのは摂氏四二度、水が全反射を起こす光の角度は四二度――  きっかけは酔った勢いだった。  酔った勢いで「人生、宇宙、全ての答えをネタにして一本書いてやるよ!」と言ってしまったのが、そもそもの始まりであり、そして、まだまだ終わりが見えていない。  おれは映画監督だ。  とはいえ器用貧乏。  監督脚本演出兼業。  で、人生、宇宙、全ての答えをネタにして脚本を一本書くと宣言したのだが。  それが間違いだった。のめりこんでしまった。というか、いや、なんだこれ。  人生、宇宙、全ての答えなんかで頭が一杯になるのは哲学者だけでいいのに。  呪いかのように、おれの住んでいる部屋は四二号室だ。  ふつう、アパートの部屋番号って四○二号室とかだろ。  これでは四二に閉じ込められてるような気がしてくる。 「コンビニでも、いくか」  コンビニだって二四時間営業だけど。  週刊誌も二四〇円で益々気が滅入った。  四二から逃れるために分厚い月刊誌を手に取って――  その時、気付いた。  目の前、ガラス窓。  窓の向こうに、熊。 「……着ぐるみ?」  我知らず呟いてた。  熊が、立っていた。  多分、ヒグマだ。  ここは北海道でなければロシアでもアラスカでもないのに?  大きい。これが本物だとすれば、やっぱり四二〇キロとか?  というか熊って直立歩行できるんだっけ? 立ってるけど?  熊は、おそらくだが、道路の向こう側を見ていた。  熊だから表情は分からない。ただ遠くを見ている。  なにが見えるのだろう、と、おれもそっちを見た。  ――ダンッ!  なにかが跳んだ。  突然飛来したそれを目視できるのは反射神経の優れたなんらかの競技者や常日頃周囲を観察することが癖になってる特殊な人種だろう。たとえば四二に取り憑かれて、その数字を解き明かすことに躍起になってる映画監督だとか。  それは女子中学生だった。  制服からして女子中学生。  女子中学生の、飛び蹴り。  まるで仮面ライダーのような見事な跳び蹴りは、熊を、吹き飛ばした。  体重差は一体何キロだろうか? どれだけの速度でぶち当たったのか?  熊と入れ替わるように、女子中学生は、アスファルトの上に着地した。 「ゴァアアアァァァアアアアアアアア――ッ!」  熊の、怒り狂った獣の雄叫び。  熊が、怒りと共に立ち上がる。  だが、このとき、おれは――  恐怖を覚えなかった。  四二を探していたからだ。どこに四二がある?  この光景、四二が働いて然るべきじゃないか? 「ゴァァァ――ッ!」  熊が、腕を振り回した。  力任せの、乱暴な一閃。  だが、その力、熊の力。  女子中学生は人形のように吹き飛ばされた――こっちに向かって。  スローモーション。割れるガラス。飛び散る破片。崩れる陳列棚。  女子中学生に巻き込まれて、おれは――そのとき一瞬、気絶した。  目を開けると暖かいものが顔に当たっていた。  ありがちだ。ありがちだから迷ってしまった。  試しに揉んでみる。  ありがちだけど揉んでみる。  ふやっとして柔らかい。意外と大きい。 「いつまで、そうやってんの?」  上から、声。 「邪魔なんだけど」 「あと、六揉み」 「わかった」  もみ、もみ、もみ、もみ、もみ、もみ。 「充分だ。ありがとう」 「どういたしまして」  一回多めに揉んだが許してもらえた。  おれが胸を揉むのをやめると、女子中学生は、立ち上がった。  そして、おれに背中を向けて、その正面にいる熊と相対する。 「熊だ! 逃げろ!」 「女の子が戦ってるぞ!」 「写メ、写メ! 撮っておく!」  パシャリ。  間の抜けた音を残してコンビニの店員たちが逃げ出した。  体の上に降り掛かっていた商品を払い落としながら、おれも立ち上がる。 「君、逃げないの?」 「私、サラエボ使いだから?」 「サラエボ?」 「格闘技の名前」 「ボスニア・ヘルツェゴビナの首都だと思うんだが」 「ボスニア・ヘルツェゴビナの首都級の格闘技」 「強そうなのか弱そうなのか微妙過ぎる」 「熊と戦える程度」 「四二の奥義とか、ある?」 「なにそれ?」 「いや、ないならいい」 「ゴゥアアアァァァアアアアァアアアアアアアア――!」  おれを無視するなと言わんばかりの雄叫びが上がった。  のしのし、ゆっくり、だが威圧的に熊が近付いてくる。 「あなた、逃げないの?」 「いざとなったら匍匐前進で逃げる」 「なんで匍匐前進」 「世界記録持ってんだ」 「いや普通に逃げなさいよ」  熊が、女子中学生の目の前まできた。 「それに、さ――」  スプレー缶が目の前に転がっていた。  左手で、スプレー缶を拾い上げる。  右手は、ポケットに忍び込ませる。 「――ここで逃げたら愛と正義、二度と撮れねえ!」  右手から、ライター。  良い子は真似するな。  ――ぼわっ!  スプレーとライターによる火炎放射が熊を襲う。  直接熊を燃やすには距離が足りなかった。  だが充分、目眩ましには、なってくれた。 「――サラエボ・ピース・アタック!」  女子中学生が、その隙に熊の目を突いた。  二本の指が熊の目に、ずっぷりと刺さる。 「ゴゥオオオァアアアァァァアアアアアアアア――ッ!」  視力を失った熊が前肢を無闇に振り回す。 「――サラエボ・ハートブレイク!」  そしてトドメの一撃。掌底――否。血飛沫が舞う。  女子中学生の五指は赤黒い臓器を抉り出していた。  どうやら紛争期のサラエボ級の強さだったようだ。  抉り出した心臓をポイッと捨てると、 「それじゃ、逃げるよ」 「いや、倒したじゃん」  というか殺したわけだが、熊。 「こんなのより、もっとヤバいのが、まだ――」  女子中学生が言いかけた、そのとき。  ――パン、パン、パァン!  破裂音が三連発。  映画監督して聞き慣れた音。  銃声と共に、その声がコンビニの店内に響き渡る。 「おまえら、毎日米を食ってるか? 俺は食っていない。ところで全然関係ないけど米って字を見ると精って字を思い出すんだ、俺。精液の精って字。エロいよな、米。米の炊ける匂いを嗅ぐと、つい勃起してしまうよな」  黒いコートを風になびかせながら現れた男は理解不能なことをひとりごちていた。  それとも、まさか、あれは、おれたちに向かって言ってるんだろうか。  ごめん、おれ、日本語しかわからねえや。 「きた。あいつ。殺し屋」  その両手に拳銃。  理解不能の妄言はともかく、拳銃は、ヤバい。 「逃げる?」 「逃げよう。いざってときだ」  おれと女子中学生は二人一緒に逃げ出した。  ――普通に走って。  夜の闇を全力疾走する。 「アハハハ! 走れ走れ! 女の子が走ってるといいよな。息を荒げていると、特に。セックスの最中みたいで。すげえエロい。超エロい。勃起してしまう。あ、やべえ、ちょっとパンツが汚れたかも」  背後から追ってくるは笑い声と、たまに銃声。  どうしてパンツが汚れたのかは聞きたくない。 「ハァ、ハァ、ハァ! どうして、なんで、あんなのに追われてる!」 「私っ、がっ、可愛いっ、からっ、じゃっ、ないっ!」 「女子高生にっ、なってからっ、言えっ!」 「もしかしてっ、オバサンっ、趣味っ?」 「全方位にっ、向かってっ、謝れっ!」  まったく、なにがなんだか。  いつまで経っても42も出てこない。  いい加減、出てくるはずなんだけど。 「なあ、四二って数字に覚えはあるかっ!」 「私は十三歳っ!」 「全然関係ねえっ!」  どうやら、いつの間にか四二から解放されたらしい。  というか、まあ、こんなことに巻き込まれたら、ね。  くだらない妄想なんかより、よっぽど大変な、現実。 「クク、クフフ」  自然、笑みが溢れる。 「なに、おかしくなった?」 「おれはまともだ。まともに戻ったんだ。ひっさびさに世界が楽しいぜ!」 「なにそれ? 中学生? 中学生のポエム?」 「うっせえ、現役中学生」  ザッとアスファルトを越すって立ち止まる。  もう、いい加減、逃げるのにも飽きた。  女子中学生も脚を止めて、おれと並ぶ。 「勝算、ある?」 「勝ち目のある人生なんて面白くねえよ。なんの答えもわかってねえくらいでちょうどいい。たとえ答えがわかったとしても、それがまったくの無意味だったら最高だ。つまり、なにが言いたいかってな、自分次第でどうにでもなるから世界は美しい」 「うわ、やばいよこの人、世界は美しいとか言っちゃってるよ……」  女子中学生がサラエボの構えを取る。  米の炊ける匂いで勃起する殺し屋が迫ってくる。  おれはどうすれば映画的にかっこよく切り抜けられるか考える。  人生、宇宙、全ての答え、その意味するところは。  四二について考えていたら、こんな面白いネタに出会えるってことだ。  これでようやく脚本を仕上げることができると、おれはニヤリと笑いながら―― 獣と少女が交わって  女を組み敷いて腰を振る。 「あぁ、もうやめて! いや! いやぁ!」  俺の爪は女の柔肌に食い込み血を滲ませている。  俺の舌は犬のようにだらしなく伸び涎を垂らしている。  俺の皮膚は獣毛に覆われ五体は歪な姿に変わり果てている。  俺は――  俺は、獣だ。  俺は、人間じゃない。姿形も。心も。 「だれか! たすけて! だれか、たすけてぇ!」  女は泣き、喚き、叫んでいる。  かつての俺なら罪悪感を抱いたことだろう。  かつての俺ならこんな強姦じみたことは到底出来なかった。  だけど、今。  もっと泣け、もっと喚け、もっと叫べ。  俺は獣、人間は獲物、悲鳴は俺を心躍らせる。  やがて女の声が掠れてきた。  そろそろ限界のようだ。  女を孕ませることが目的ではない。人は獣の子を孕まない。  性欲が目的ではない。もっと単純な暴力として犯していただけのこと。  苦しませて、悲鳴を聞く、それだけが目的だった。それができないとなれば。  俺は腰を振るのをやめた。  最後の楽しみ方、牙を立てる。 「ぎぃああああああああああああああああ、あ、あああぁ……ぁぁ……」  最後の悲鳴も長くは続かなかった。  肉を食い千切り、血を啜り、骨を噛み砕く。  人通りの少ない深夜の路地裏。獣の嗅覚は無人であることを察知している。  食い終えるまで邪魔が入ることはないだろう。  それだけは人間らしい狡猾な思考といえた。  闇から闇へ渡り歩く生活を続けて、もう何日、何週間、何ヶ月、何年が経ったのか。  人に見付からないように生き、人に見付かったら、そいつを殺して、食う。  ひょっとしたら縄張りのような意識が働いているのかもしれない。  ここ数日、建設途中で放棄された廃ビルをねぐらにしている。  建設途中の廃ビルは巨大な墓標のように静かだ。  ホームレスもいない理想的な環境。  その時、俺は廃ビルの一室で眠りに落ちようとしていた。 「うわぁ……」  人の匂いには敏感なつもりだった。  だというのに、少女。少女の声を聞くまで気付かなかった。  廃ビルに迷い込んだのか、年幼い人間の少女が、俺の前に立っていた。  ――眠気で五感が鈍っていた?  ――食欲が満たされて慢心していた?  ――この俺が、獣の身でありながら油断した?  だが、しばらくして気付いた。  少女に気付かなかった理由。油断ではない。  俺は、人の匂いには敏感だが、彼女は、なんだか違う。  どう見ても人間。人間の少女であることには間違いない。  だけど、その服装。服と言ってもいいのか。  少女が身に纏っているのはカーテンのような布きれだった。  そして少女の体から漂う匂い。それは精液や小便といった体液の匂いだ。  不衛生というだけでは、こうはなるまい。なんらかの蹂躙を受けないかぎりは。  彼女の容貌や美醜には、俺は、興味を抱かなかった。  というより個体差が分からなくなっている。  人は人。獣には、みな同じに見える。  ただし、少女は、人は人でも、人以下の扱いを受けてきたようだ。  人でありながら人であることを否定されている、少女。  だから俺は気付かなかったのだ。 「寝て……る……?」  少女は、そっと呟いた。 「それじゃあ……」  なにを、どう判断したら、そういうことになるのか。  少女は俺の体に頭を預けて、横になった。 「おい、お前、何を考えてる?」 「驚いた。あなた、喋るの?」 「色々、事情があってな」  俺は、かつて人だったことを、わざわざ説明したくなかった。  もう、ほとんど覚えていないし、それに、めんどくさい。 「へえ。そういうこともあるんだ」  少女はあっさりと納得した。  少女にとって重大なことではないらしい。  不思議な人間だ。ちゃんと状況を理解しているのだろうか。 「お前、俺が怖くないのか?」 「怖いよ?」  その答えに俺は安堵した。  怖いのであれば、ちょっと脅せば逃げ帰るだろう。  食ってもいいが、食うタイミングを、すでに逃している。  犯してもいいが、すでに少女は、人に犯されている。 「俺は、獣だ。お前も食っちまうかもしれないぞ?」 「いいよ。私を食べて。遠慮しないで食べていいよ」 「なに――? まさか、そのつもりで、来たのか?」 「私、食べて欲しいの。どうせ死ぬなら、その方が有意義でしょ?」  少女は明るく、そう言った。  その瞬間、俺は、理解した。  ――人間の世界から弾き出された、俺。  ――人間の世界から否定された、少女。  少女も、この人間の世界に、居場所がないのだ。  俺たちは、世界から爪弾きにされた似た者同士。  だったら、食ってしまうのは、おもしろくない。 「死ぬよりおもしろいことがある」 「どうして? 食べないの?」 「気が向いたら食ってやる。背中に乗れ。走るぞ」  少女を背中に乗せて、夜の街を、走る。  縦横無尽に屋根や屋上を飛び伝う。 「あはは、は、はは!」  少女が笑う。  俺は、あの日のことを思い出す。  あの日、俺は、怯えていた。  変わり始めた己の体に。  あの時、まだ俺は人であり獣であり、人でもなく獣でもなかった。  あの時、まだ俺はどっちつかずの状態だったはずだ。 「――怪物ッ!」  ……あれは、いつ、言われたんだっけ。  ……あれは、どこで言われたんだっけ。  ……あれは、だれが言われたんだっけ。  確かなのは、あの日、あの時、あの言葉によって、俺は獣に変わり果てた。  あの時、俺の名を呼んでくれていたら、あるいは違ったのかもしれない。  だけど今、俺は身も心も獣で、そして少女を獣の世界へ誘惑している。  少女は、体は人間だが、心は獣に相応しい。  というより、それしか残されていない。  獣として生きて欲しい、と思う。 「すごい、あなた、すごくはやい!」  少女のはしゃぎっぷりは、なんだっけ、あれ。  大きな場所。派手な場所。子供を連れていくと喜ぶ場所。  名前は忘れたが、あそこに連れていったようなはしゃぎようだ。 「楽しいか?」 「うん、たのしい!」 「まだ、死にたいと思うか?」 「それは……」  と、少女は口籠もる。  俺は苦笑する。 「安心しろ、一緒に、いてやる」 「本当? でも、どうして?」 「気が向いたからだ」 「気が向いたら、食べるの?」 「気が向いたら、食べることも、あるかもしれないな」  本当は、そんな気は、とうの昔に失せいてるけど。  少女は、また笑った。 「変なの。いいよ。その時は食べても。だけど、それまで、一緒にいてね?」  その瞬間、不覚にも欲情してしまった。  俺の性器が硬く大きくなるのがわかった。  俺は答える代わり、月に向かって、吠えた。  俺は、かつての俺をなぞることに決めた。  あの日、獣に変わり果てたときのことを。  路地裏に降り立って獲物を探す。  狩りの時間だ。  いた。  ちょうどいい。  そいつはひとりだった。 「いくぞ」 「え? どこへ?」  少女は見当違いのことを言った。  俺は答えず、その代わり行動して見せた。  獲物が気付くより早く、爪を振り下ろす。  一撃で即死、悲鳴を上げるもない。 「その人、食べるの?」  少女は死体を見ても、さして驚かなかった。  良い兆候だ。 「食う。お前も食え」 「え、私?」 「食うのか、食わないのか?」 「うーん、わかった、食べる」  かつての俺。獣となった時、俺は人を食べた。  カニバリズムには儀式的意味合いがあるという。  本来のそれとは違うが、なるほど、あれは儀式的だった。  だから、この少女にも、カニバリズムを経験させようと思ったのだ。  二人、血まみれになりながら、殺したばかりの人を食べた。  人を食うことに不慣れな少女に手解きしてやるのは案外楽しかった。 「もう、おなかいっぱい」 「小さいくせに、よく食ったな」 「もう、小さいなんて言わないで……よ……?」  俺の軽口に言い返そうとした少女が、不意に、口籠もった。 「どうした?」 「大きく、なってる」  少女の視線は、俺の腹を、その下、股間を見ていた。  そういえば、さっきから、ずっと勃起しっぱなしだった。 「おなかいっぱいになったから?」 「いや、そういうわけじゃないが」  まさか、少女に欲情していたと言うのは口憚れる。  俺が何と誤魔化すべきか迷っていたら、 「したい?」  少女が言った。 「私と、したい?」 「な、お前、冗談は――!」 「冗談じゃないよ。私は、いいよ」  少女は、そう言った。  幼い顔立ちに似合わない、色香。  それを認識した途端、俺の獣欲が爆発した。  獣の唸りを上げながら、少女を押し倒し、組み敷いた。  それは獣姦というべきなのだろうか。  一人と一匹であれば、そうなのだろうが。  もはや彼女は人ではない。もはや二匹の獣だ。  もしも、その光景を人間が見たら、吐き気を催したことだろう。  獣と少女が交わっていて、しかも少女が喜んでいるのだから。  だが、人間がどう思うかなんて、そんなのは糞喰らえだ。  俺たちには、獣の世界しか、居場所がないんだ。  高ぶった俺は、少女と繋がったまま立ち上がった。  少女は、俺の腹にしがみつく。もちろん繋がったままだ。 「どうしたの?」 「気分がいい」  俺は、そう答えると、少女を腹に抱えたまま走り始めた。  そのままの状態で路地裏を抜け、大通りへ、姿を現す。 「なんだ、あれ?」 「おい見ろよ!」 「きゃああああ!」 「化け物!」 「警察を呼べ!!」 「おい、あれ、女の子が」 「逃げろ!」 「食われるぞ!」 「テレビ?」 「嘘だろ?」 「殺せ、あの獣を殺せ!」  深夜といえ、街には大勢、人がいた。  そいつらは、やはり好き勝手、騒ぎ始める。  俺は少女と繋がったまま、そいつらを襲い始める。  爪を振るい、牙を突き立て、巨体で押し潰す。  血が降り肉が散り、内臓がばらまかれる。 「あはは! すごい、もっと、もっとやっちゃえ!」  少女は惨状を見ても、平然としているどころか、むしろ楽しんでいる。  俺は、少女を喜ばせるために、もっと、もっと殺しまくる。  悲鳴、悲鳴、悲鳴。悲鳴が街を包み込む。 「獣の世界へようこそ、人間」  殺しながら、俺は、腰を振っていた。  殺戮と快楽と、俺の頭ン中は、もう人間性の欠片も残っていない。  少女も、力一杯俺にしがみついて、時折、歓声や、嬌声を上げる。  ――ここはもう俺たちの世界だ。  ――どこへだって行ける、俺たちは。  ――どこでだって生きていける、俺たちは。  パトカーのサイレンが聞こえる。  新しい獲物だ。  俺は走り出した。 サンダル  三日三晩、家に籠もっていた。  三連休の初日から風邪を引いてしまったのだ。  見舞いにきてくれた友人はいなかった。そもそもだれにも風邪であることを知らせていない。かといって外出するような気力も体力もなく、その結果、外界と完全に遮断した生活を送ってしまっていた。 「あー、くそ、だりィ……」  だれにともなく悪態を吐いた。  ようやく回復してきたが、まだまだ本調子ではない。しょうがない、こんなんじゃ仕事になんないから今日は会社を休もう――そう思って会社に電話をかけたのに、どういうわけか何度掛け直しても繋がらない。八回留守電を聞いて諦めた。体調不良の旨を留守電に吹き込んで、なにか食べ物を買い込むべきだと思って外に出たものの、どうにも苛立ちが残っていた。  やけに静かだった。まだ朝方とはいえ、いつもなら向こう側の国道をひっきりなしに走る自動車の排気音が聞こえてくるはずなのに、それさえも聞こえない。まるで三日の間にゴーストタウンと化してしまったようだった。 (そんなはずないか)  アパートを出て、そこの角を曲がったところに、すぐコンビニがある。それをいいことに冬だというのにサンダルで出てきた。  部屋着のジャージにコートを引っ掛けただけという、だらしない格好である。さすがに顔は洗ったが。たかだかコンビニへいくのに、わざわざおめかしするつもりはない――もっとも、あとになって、もっと身支度を調えておくべきったと後悔したが、このときはそんなこと思いもしなかった。  コンビニの前へ辿り着く。そこで違和感に気付いた。コンビニへ辿り着くまでも兆しはあったが、そこで目にしたものは、はっきりと異常事態を告げる痕跡だった。  ――ガラスが割れている/無事なガラスにも血痕がこびりついている――  客も、店員も、警察も、あるいは強盗も、だれもいない。  ただ悲惨な痕跡だけが、そこに残されていた。  驚きのあまり、しばらくそこに立ち尽くしていた。やがて落ち着きを取り戻すと、なんの物音も聞こえず、どうやら安全そうだと確認してから、それでも念を入れて店内の様子を窺った。  ここにくるまでも違和感があったのだ。やけに道端にゴミが散乱していた。だがここまではっきりと違和感を告げるものには出会わなかった。このゴーストタウンのような街の様子を解き明かすことのできる、なにか――なにかがここに残されているのではないかと期待しての行為だった。  コンビニの店内は荒らされていた。陳列棚の商品が散乱している。そのなかに共通点を発見した。食料だ。食料品が荒らされているのだ。食料品とは関係ないところが荒らされている場合、近くの床に血だまりができていた。まるで世界の終わりが訪れ、暴動が起こり、食料の争奪戦をしたかのような惨状だった。 (まさか、な)  頭を振って妄想を振り払った。  だがしかし、この街の状態を、なんと説明すればいいのか。まるでゴーストタウンのように静まりかえった街/路地にはゴミが転がって/コンビニは荒らされ/血痕が残っている――とてつもなく低い確率の偶然と片付けるには空恐ろしい異常事態だ。なにかしらの説明が欲しくてしょうがなかった。  誘われるようにコンビニの自動ドアのまえに近付いていく。一定距離まで近付くと自動ドアが開いた。どうやら電気は生きているようだ。  と、そのとき。 「……ぅぅぅ……」  自動ドアの、わずかな音に反応したのか、コンビニの奥から呻き声が聞こえた。  あるいは――唸り声。  だれか怪我しているのか、とは思えなかった。なにか獣が潜んでいるのか、と本能的に警戒した。ここへ紛れこんだ野良犬だろうか。それとも、ここの血だまりを作った、もっと恐ろしい化け物だろうか……かといって逃げ出すことはしなかった。この異常事態を解き明かしたいという欲求のほうが勝ったからだ。  声の主は、なかなか正体を見せない……  ならばと覚悟を決めて、ゆっくりと店内の奥へと足を進める。  カウンターを横切って/血だまりを避け/用心深く奥に視線をやる。 (――――――ッ)  悲鳴を上げそうになった。というより、あまりにおぞましい光景に、悲鳴を上げることができなかったのだ。  店の奥、トイレの前に、女性が倒れていた。それだけなら声を失うほど驚きやしなかっただろう。その女性は仰向けに倒れて腹部を晒されていた――  腹部の内側を晒されていたのだ。  シャツが引き裂かれ/柔らかな腹の肉も引き裂かれ/ソーセージのようなものがこぼれていた。きっとあれは大腸だろう――と、理性的に判断できたのは、感情が麻痺していたからかもしれない。そして――どう見ても死んでいるはずだ――とも理性は囁いた。  ……それでは、さっきの呻きとも唸りともつかぬ声は、なんだったのか……!  ごくり、と唾を飲みこんだ。 (逃げよう)  今度は、そう判断した。これは、ここは――好奇心だけで足を踏み入れていい場所ではない。徐々に戻ってきた感情が警鐘を鳴らしていた。この場所から立ち去るべきだという本能的衝動が、ひっきりなしに頭の中に響いていた。  だが、なぜか――なぜか目を離すことができない。この死体から。 (あの声は……なんだったんだ……!)  あの声と、この死体――ふたつが組み合わさったとき、まるで猛獣に出会ったかのように、背中を見せてはいけない、という恐れが生まれ、目を離すことができなかった。この死体から――いや、本当に死体なのだろうか? (まさか)  生きているはずない。  医術の心得なんて欠片も持ち合わせていないが、こんな状態で人間が生きていられるはずがない。そんなことが有り得るとすれば、これは人間ではない。人間の振りをして油断を誘い、背中を見せたら背後から襲いかかってくるような――そんな、おぞましい化け物の擬態ではないのか――あの声は、おれをおびき出すための、釣り餌のようなものだったのではないか―― 「………………オイ!」  妄念を振り払うために、あえて声を上げた。この声に応える者がいなければ、ようやく安心して、この忌々しい場所を立ち去れるというものだ。  ――だが、その声に応える者があった――あったのだ! 「――ォオオオォォォオオオオオオオオ――」  まるで地獄の底から湧き上がってくるような/呪詛や怨念の塊じみた/意味をなさない声ならぬ声が――この死体から発せられたのだ!  おれは目を見開き、固唾を飲み、この死体が――もやは死体といえるのだろうか――この正体不明の怪物が次になにを起こすのか見守っていた。ただただ圧倒されて、いますぐ逃げるべきだとわかっているのに、なにもできずにいた。  怪物の腕が動いた/脚が動いた/起き上がろうとしているのだろう。だがじたばたと藻掻くだけで、どうしても起き上がれない様子だ。なにせ腹筋が千切れているのだ。からだを持ち上げるという動作が、どうしたって物理的に無理なのだ。  このまま、こいつは、ずっと藻掻いているだけではないのか――そう安堵した時、怪物の動きが変わった/手のひらが床を突く/足の裏で床を突く/そしてブリッジして起き上がったのだ! 「オオオォォォオオオオォオオオオオ」  再び声ならぬ声を放つと異形の四つ脚で、こっちに駆け出してきた。 「ひぃ」  これがおれの声か、と思うくらい情けない声が上がったのをきっかけに、ようやくおれは逃げ出した。だがしかし四つ脚で迫り来る怪物から目を背けられない。何度も振り返りながら自動ドアを目指して、おぼつかない足取りで走る――サンダルの走りにくいことが腹立たしたかった。もっとしゃんとした身なりで出かけるべきだったのだ。  どうしてブリッジしたままで、そんなに速いのか――そう思わずにいられない高速移動で異形が迫る。  自動ドアまで辿り着いた。自動ドアがおれを察知して、ゆっくりと開き始めた。じれったいほど遅い。このままでは異形の怪物に追い着かれる。そう判断したおれは手近にあった新聞差しを倒した。間一髪で新聞差しが怪物の上に倒れかかった。しかも、うまいこと大腸のこぼれた腹の上に取っ手が刺さった。 「こ、このっ! このぉっ!」  おれは新聞差しを、おもいっきり踏みつけた。新聞差しが怪物の血で赤く染まる。飛び散った血がコートの裾を汚す。新たな血だまりが床に広がっていく。 「死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ねぇぇぇ! 死ねぇぇぇ!」 「うごぉぉぉ、おぉおおおお、おおおぉぉぉおおおおおおおおおおおおおお!」  何度も何度も踏みつける。怪物が悲鳴なのかなんなのかわからない声を上げる。  何度踏みつけたか分からなくなった頃、怪物のからだが上半身と下半身に分離した。大腸以外の様々な肉塊=内臓がぼとぼととこぼれ落ちる。それでも怪物は死なず上半身だけでばたばたと足掻いていたが、さすがにこの状態では這うこともできないようだ。さっきからおれと怪物の死闘に反応して開いたり閉じたりをしていた自動ドアから、おれは悠々とコンビニの外へと出て行った。  風邪がぶり返したのか、それとも緊張のせいか、どくんと頭痛が走った。 「なんなんだよ、一体……」  ますますわけがわからなくなった。なんなんだよ、これ……  とりあえず家に帰ろうか、だけどこんなときに暢気に家に帰っている場合か、ぼーっとしたとき、もはや懐かしくなった自動車の排気音が聞こえた。やがて国道沿いを走ってくる4WDが見え始めた。  だれが乗っているのか通りすぎるところ確認しようと思っていたら、おれの眼前で4WDは急ブレーキをかけて止まった。  そしてドアを蹴破って少女が現れた。だが、おれの意識を奪ったのは彼女の性別ではなく、その手に握られた鉄の塊だ。どう見ても銃器――サブマシンガンだ。 「噛まれた? 怪我は? 血を飲んだ?」  サブマシンガンの銃口をおれを捉えていた。 「待った。きみはだれだ? なにが起こっているんだ?」 「噛まれた? 怪我は? 血を飲んだ?」  おれが問うても少女は同じことしか言わない。ここで素直に「噛まれていない。怪我もしてない。血はコートに少しかかっただけで飲んでいやしない」とさっさと答えていればよかったものの、おれだって焦っていた。動転していた。この異常事態の説明が欲しくて欲しくてしょうがなくて、 「なにが起こっているんだよ! 教えろよ!」  と怒鳴り、サブマシンガンの銃口も気にせず、少女に近寄ろうとした。  そのとき――  ――バララララララララララララララララララララ――!  サブマシンガンが吠えた。  火薬の音ではない。聞き覚えのある――エアガンの音だ。  その音は、おれを狙い澄ましたものではなかった。おれの後方へ火線は走った。 「おおぉぉおおおおぉぉおおおおおおおおおおおお」  振り返ると、すぐうしろまで、さっきの怪物が差し迫っていた。上半身の腕だけで、ここまで這い寄ってきていたのだ。その顔面にエアガンから放たれた弾丸が雨霰のように叩きこまれる。怪物の顔面が見る見る削り取られていく。血と肉片と髪のこびりついた頭皮が飛び散るのを見て改造エアガンだと察しがついた。おそらく弾丸もBB弾ではなく金属製のベアリングに違いないだろう。  数秒間撃ち続けると怪物は動かなくなった。さすがに頭部を破壊されると動けなくなるらしい。それを確認すると少女がもう一度言った。 「噛まれた? 怪我は? 血を飲んだ? ――これで最後。答えなけりゃ見捨てていくよ」 「噛まれていない。怪我もしてない。血はコートに少しかかっただけで飲んでいやしない」 「よかった。それじゃあ乗って」 「そのクルマに?」 「うん」  頷くと少女はさっと4WDの車内に戻ってしまった。  見知らぬ少女/威力充分の改造エアガン/ゴーストタウンと謎の怪物。普通ではないなにかが、この街で起こっている。だったら常識で判断せずに誘いに乗ってみるのも一興だろう。おれは半ば諦めて4WDの車内に乗りこんだ。サンダルで出かけるべきじゃなかった――と繰り返し後悔しながら。 キス・マイ・アス  あと何日生き残ればいい。  期限不明の持久戦。今日か、明日か、明後日か。来週か、来月か、来年か。いつまで耐え続ければいいのかわからない状況は精神を蝕み、すべてを投げ出したくなってしまう。  暗がりの中、息を潜め、耳を澄ませる。やつらの足音を決して聞き逃さないよう絶えず自分に緊張を強いる。  油断は即、死に繋がる。いや、死ねるのであれば、まだ幸福だ。中途半端に怪我を負い、ウイルスに感染し、やつらの仲間入りをしてしまうことは、それはアイデンティティの喪失ともいえる。おれがおれでなくなってしまう。  首都圏が封鎖される直前、正体不明の感染症に殺人病という名称がメディアによって名付けられた。体液を介して感染する、この殺人病を発症した者は、理性を失い、凶暴性に取り付かれる。ひたすらに他者を襲い、殺し、食らう、そんな最悪の存在に成り下がってしまう。  殺人病は感染してから発症するまで個人差がある。早ければ数秒で発症し、遅ければ発症まで数日かかる。この特徴が感染拡大に繋がった。発症者に襲われウイルスに感染したのに、現実から目を逸らし、いつも通りの日常に逃げ込もうとする者。かれらが、たとえば満員電車のなかで発症すれば、爆発的に感染は拡大してしまう。してしまって、この事態だ。  おれは、感染していない、感染していないはずだ。逃げ回る最中に小さな怪我を負うことはあったが、やつらの体液を浴びることは、なかったはずだ。  だがしかし自分自身も実は感染しているのではないか、いずれやつらの仲間入りをしてしまうのではないかという妄想は、生き残った人間なら、だれもが抱える恐怖だ。  首都圏封鎖という事態が、その恐怖に拍車をかける。どうして政府は封鎖するだけで助けてくれようとしないのか。まさか、もう手遅れなのか。おれたちはやつらの仲間入りをする運命なのか。  かたん。  乾いた音が意識を現実に引き戻した。おれは五感を研ぎ澄ます。  ぺたんぺたんと裸足で歩く音。「うう、うああ」と意味のないうめき声。間違いない。やつらだ。  逃走経路を頭に思い浮かべる。隠れ家を見つけたときに一番最初にするべきことは逃げ道の確認だ。逃げ道のないところに逃げ込んでしまうわけにはいかない。おれも当然、この倉庫に逃げ込んだとき、まずは逃げ道を確認した。  背後に階段がある。そこから二階へ上がって、窓から地上へ飛び降りる。一旦二階へ上がることで地上の様子を確認してから脱出するのが、おれのセオリーだ。  静かに、静かに、後方へすり足で移動する。  と、そのとき。  からん。  転がっていた空き缶を蹴っ飛ばしてしまった。からん、かららん、と無機質なアスファルトのうえを金属音を響かせながら空き缶が転がる。小さな、小さな金属音。  おれは唾を飲み込んだ。 「があああああああ!」 「ぐおあああああああ!」  くそったれ。  感染者たちが獣のような叫び声を上げながらこっちへ走ってくる。おれはなりふり構わず段ボールを蹴飛ばし包装紙を蹴飛ばし埃を巻き上げながら全力疾走する。  生存本能が限界まで筋力を引き出す。こんな目に遭うまで、こんなに速く走ったことはなかった。だがやつらはおれより速い。生存本能を無視し肉体を限界まで酷使するやつらは死に神に魅入られた速度で無事な人間を執拗に追い詰める。どういうわけだが感染者同士で共食いすることはない。やつらは敏感に非感染者のみをターゲットとする。このことから殺人病は人工的に作られた細菌兵器という噂が流れている。あるいは神罰とも。どっちもくそったれだ。  おれは階段を登って廊下を走り抜けると窓際に辿り着く。地上にやつらの姿は、ない。チャンスだ。  窓を開ける。と同時、やつらが階段を登り終えて姿を現す。 「キス・マイ・アス」  おれは中指を突き上げる。 「がああああああああああああああああ!」  感染者は絶叫と駆け出し。  そして廊下に仕掛けられた罠に足を取られて転んだ。ごくごく単純な罠だ。足首の位置に糸を張っておく。それだけの罠に、やつらは面白いほど引っ掛かる。やつらに知性はない。あるのは攻撃性だけ。頭の中身は犬にも劣るに違いない。ざまあみろってんだ。  おれは窓から身を乗り出し、地上に飛び降りる。衝撃を下半身で吸収しきって着地する。二階くらいの高さからなら大げさな受け身を取らなくても全然平気だ。  無人の街を走る。背中のリュックサックには三日分の食糧と武器類が十分に入っている。これならしばらく補給しなくてもよいと判断して街外れを目指す。食糧と武器が不足していたら街の中心部へ、十分だったら街外れへというのがおれの方針だ。あんまり意味はないけど素早い判断のためにも、こういう方針は重要だ。いわゆる願掛けのようなものだ。  ついでにもうひとつ願掛け。おれは神に祈る。地獄があるんだから天国だってあるはずだ。どこかに神様もいるに違いない。だから、ああ、神様。助けてくれ。おれは泣きそうになりがら走り続けた。 隣の部屋  目が覚めたら四肢を鎖で拘束された状態だった。  無我夢中で手足を動かそうとする。けれども鎖は千切れやしない。  じゃらんじゃらんと鎖の擦れる音を聞きながら、おれは自分の状態を確認した。  服は。着てる。  ケータイは。わからない。  ここは。暗い。見知らぬ部屋。  おれが拘束されているのは。ベッドの上。 「目が覚めた?」  声が聞こえた。ベッドの横。  白い仮面をかぶった、おそらくは女が立っていた。  長い髪と高い声から女だと判断した。  白いワンピースを着ている。手にはペットボトル。 「喉、渇いた?」 「これ、なんのいたずら?」 「いたずらして欲しい?」  おれはどうやら厄介なことに巻き込まれたのだと悟った。  記憶をたぐり寄せる。ここで目が覚める前の記憶。確か家に帰って、いや。  玄関。玄関に鍵を差し込もうとして、そこから記憶は暗転。今に至る。 「落ち着いたようね」  おれは手足を動かすことをやめた。  女の喋り始めるのを待つ。情報だ。情報が欲しい。  この女が何者なのか。ここはどこなのか。おれをどうするつもりなのか。  逆に自分の情報は与えたくなかった。それもあって女が喋り始めるのを待った。 「目覚めるまで、ずっと待っているわ」 「なんの目覚めだ?」  だれが、とは聞かなかった。おれに決まってる。残念なことに。 「前世の記憶。あなたが目覚めるまで、ずっと待ってるから、安心して」  前世。言葉を吟味する。多角的に解釈を試みる。 「それ、本当か?」  あえて「それ、本気か?」とは言わなかった。  相手のペースに合わせて「本当」という言葉を選んだ。  そうせざるを得ない静かな迫力、狂気を、すでに感じ始めていた。  この直感が勘違いであって欲しいと願ったが、 「本当よ。あなたは転生したの。だけど、まだ前世の記憶が目覚めてないの」  はい、残念。  どうやら本気のようです。  おれの状態は「電波女に拉致監禁されてる」にランクアップした。  おれは心のなかで深く深く溜息をついた。正直逃げたい。目の前の現実から。  けれども女は「待ってる」と言ったのだ。なんの進展もなければ、ずっとこのまま。  進展を作らなければいけない。 「どうして、おれがそうだと気付いたんだ?」 「わたしがこの部屋で目覚めたとき、隣の部屋に住んでいたのが、あなただった。これは運命だと直感したの。あなたが、まだ目覚めていない、わたしの勇者様だということに」  不動産屋を恨んだ。そんな理由かよ、おい。  そういえば部屋を借りるとき家賃を値引きしてもらったけど。  まさか、この事態を想定していたんじゃないだろうなあ。  しかも隣の部屋かよ。近っ。めちゃくちゃ近っ。 「おれが叫んだら、どうする?」 「タオル、用意してあるわ」  叫んで助けを求めるのはやめておこう。 「勇者って、おれが?」 「ラグナロクの日から離れ離れになってしまったのよ、わたしたち」  はい、北欧神話登場。  それともゲームか何か。  もうやだこの女。  諦めそうになった。色々と。  挫けそうな心を必死で奮い立たせ、次の質問。 「きみの名前は?」 「ヘルメスよ」  それギリシャ神話! ギリシャ神話じゃねえか! 北欧神話関係ねえじゃねえか!  必死でツッコミを呑みこんだ。うん、おれえらい。  しかし、そうか、ヘルメスか。  ヘルメス、ヘルメス、ヘルメス。 「オオ、汝であったか、ヘルメス! 会いたかったぞ!」 「プッ」  女は素早く顔を背けたが、肩は小刻みに震えていた。  仮面で顔は見えないが、絶対笑うのを堪えてる。というかさっき吹いたし。 「あーもうちくしょう笑え! おれを笑え!」  めちゃくちゃ恥ずかしかった。  おれの演技力では騙すどころか笑いを取るのが精々だった。  うわー、もう、さっきのなかったことにしたい。 「まだ、目覚めは遠そうね」  女が震えを抑えた声で告げた。自分の妄想を取り戻したようだ。  だがしかし、それは一筋の光明であった。  笑ったということは、おれの話を聞いていたということだ。  致命的な妄想の持ち主だけど、対話は、可能。  会話だ。会話を繋げ。  言葉を以て状況を制圧しろ。 「目覚めることは、ねえよ」  おれは女の妄想を否定した。  女の雰囲気が変わる。  さーて、ここから先は舌戦だ。正気と狂気の根性比べ。どっちが先に音を上げるか。  女の妄想を、おれの屁理屈で打ち負かし、その上さらに取り込まなきゃいけない。  まずは、その仮面を剥いでやる。  おれは唾を飲みこんだ。 ロバの耳  世界から音が消えて一ヶ月が経つ。  そろそろ音がない生活にも慣れてきた。とにかく三百六十度視野を広げ注意を払うことだ。特に自動車と歩行者。不慣れなうちは交通事故に遭いそうになったりすれ違うひとに頻繁に肩がぶつかったりして散々だった。  授業は板書中心になった。コミュニケーションの大部分をメールが占めるようになった。筆談用のメモ帳が飛ぶように売れテレビは音声を流せないかわりにテロップを多用するようになった。  音楽を聴けないことだけはストレスを感じた。というより音楽を聴けないことでストレスを発散できなかった。以前は音楽に陶酔することで現実逃避してストレスを和らげていたからだ。そのかわりにぼくは新たなストレス解消法を獲得した。叫ぶことだ。  嫌なことがあったら思い切り叫ぶ。これはけっこう気持ちがいい。このストレス解消法は世界中で流行っていた。ぼくたちはこの行為を「ロバの耳」や「ロバ」と呼称した。「王様の耳はロバの耳」だ。  嫌なことばかりではない。たとえば「愛してる」という言葉。なかなか言いにくい言葉もロバだったら口に出すことができた。もちろん本人の目の前でロバすることはない。こっそりと口に出すのだ。  聞こえないから、言える。  聞こえていたら、言えない。  ぼくもそういうふうになかなか言えない言葉をロバしている人間の一人だった。ぼくがロバする相手は目の前の席に座っている佐伯さん。彼女の長い髪に向かってぼくはこっそり「好きです」と呟く。教科書で口元を隠しながら。だれにも悟られないように。それがぼくの精一杯だった。  音のない世界は静かだ。当たり前だけどひどく静かだ。先生は板書だけで授業を進めなくちゃいけないから滅多に生徒のほうを振り返らない。だからぼくは窓の外へと視線を向けることが多くなった。  窓の外では世界が動いている。人が通る。車が走る。鴉が鳴いている。たぶん、鳴いている。今は聞こえないけど昔だったら「カァ、カァ」と聞こえたのだろう。そうやって音の聞こえたころを懐かしんでいた。それから、たまに、ちょっとだけ、窓に映った佐伯さんを眺めていた。彼女の横顔。熱心に板書を写している。たまに欠伸を噛み殺して眠たげにまぶたをこする。ぼくの視線に気付くことはないとは思うけどまじまじと見るのも悪い気がして、たまに、ちょっとだけ見るようにしていた。  佐伯さんとはたまに会話を交わす。もちろん喋るのではなく筆談だ。ぼくは真面目に板書を写していないことを口実に彼女にノートを見せてもらう。ちょんちょんと肩をつついて彼女が振り返ったら両手を合わせて拝み倒す。彼女は苦笑してぼくにノートを貸してくれる。ぼくは予め用意してあったメモ「ありがとう」を彼女に渡す。彼女は「どういたしまして」とメモに書き足してぼくに返す。ぼくはそのメモを大切に取っている。  メールや筆談が多くなると自然と文章を観察することが増えた。文章からそのひとのひととなりが窺えるのだ。そしてやっぱり佐伯さんのノートは可愛らしかった。真面目に授業の内容を写していて、消しゴムで消した跡があって、ノートのすみに落書きが描いてあって、そのひとつひとつまでぼくは写したい気持ちだった。  ノートを写しながらぼくは「好きです」以外の言葉を考える。彼女に伝えたい言葉は、もっと、もっといっぱいある。だけどそれらは頭のなかでごちゃごちゃに動き回っていて、ぼくには「好きです」以外の言葉が思いつかない。もっとも思いついたところでぼくにはロバすることしかできないだけれど。  放課後。みんな放課後の予定はメールですでに話し合っているから雑談という時間は消えた。授業が終わると部活動がある者はさっさと部室へ、そうでないものは下駄箱へと向かう。ぼくも佐伯さんも部活動に所属している。ぼくは陸上部、佐伯さんはテニス部だ。  ぼくたちは荷物を鞄に詰めると席を立って廊下へと向かう。ぼくは自然に見えるように佐伯さんの後ろを歩く。まるでストーカーみたいだ、と自分でも思うけど。  彼女の背中に、こっそりと呟く。「好きです」  だけど、なぜだか、このときばかりは。  どうせ聞こえないのだから。  そしてそのときたまたま周囲にぼくのほうを見ている生徒はいなかった。唇の動きでぼくがロバする内容をだれかに悟られることはない状況が出来上がっていた。 「好きです、佐伯さん!」  ぼくは叫んでいた。思い切り叫んでいた。  すると、どういうわけか、佐伯さんが立ち止まった。ぼくも立ち止まる。どうしたのだろう。まさかいまのが聞こえてしまったのだろうか。そんな妄想に襲われる。けれども世界は相変わらず静かで、一切合切音は聞こえなくて、そんなはずがないことをぼくに思い知らせてくれた。  佐伯さんの視線は窓に向いていた。窓には沢山の生徒と、佐伯さんと、ぼくが、鮮明に映っていた。まるで鏡のように鮮明に映っていた。  佐伯さんは鞄を下ろすとポケットから携帯電話を取り出した。そして彼女が携帯電話を弄りだしてから数秒後、ぼくの携帯電話が震えた。佐伯さんが振り返った。 RAYPOZ  Migrez, migrez de Geneve trestous,  離れよ、皆ジュネーヴから離れよ。  Saturne d'or en fer se changera,  黄金のサトゥルヌスは鉄に変わるだろう。  Le contre RAYPOZ exterminera tous,  RAYPOZの反対が全てを滅ぼすだろう。  Avant l'a ruent le ciel signes fera.  到来の前に、天が徴を示すだろう。 ―――ノストラダムス「百詩篇第9巻44番」  スイス・フランス国境の地下一〇〇メートルに位置する欧州合同原子核研究所の素粒子実験施設が運転を開始し、そして大型ハドロン衝突型加速器が暴走したと報じられた。わかりやすく言うと、こうだ。  ―――ブラックホールに地球が呑みこまれる。  質量の起源とされながら未発見の「ヒッグス粒子」や暗黒物質とみられる「超対称性粒子」を探すことが目的だった実験は大型ハドロン衝突型加速器の暴走によってブラックホールが質量を得る危機に瀕しているいう。この危険性は以前から提唱されていたが「瞬時に多数の粒子を放出して蒸発すると考えられる」として黙殺されていた。だが現実として大型ハドロン衝突型加速器は暴走し粒子の放出量が増加し続け、ブラックホールが質量を得、地球を呑みこむのは時間の問題という事態が起こってしまった。  ………と、ラジオは放送している。どこか遠い国の出来事のように思えた。いや実際遠い国の出来事だ。なにせスイス・フランスなんて地球の裏側だ。それが自分と、ましてや地球、地球が呑みこまれるだなんて、すぐに納得できるはずがない。けれどニュースキャスターは喋り続ける。このままだと世界が終わると。 「米国では核の使用も検討しているとのことです。なお、この事態をノストラダムスが予言していたという識者の声も………」  ぼくは席を立った。 「ちょっと休憩に行ってきます」  上司は呆然とラジオに聴き入ったまま「あ、ああ」と生返事を返すばかりだった。どうでもいい。ぼくは上着を羽織ってデスクを離れ、エレベーターに乗って、外に出た。あんんなラジオではなくて現実を肌で感じたい。本当に世界は終わるのか。  街は喧騒としていた。それは一見相変わらずのようだったが、よくよく人々の会話に耳を澄ませてみれば「どうしよう?」「逃げなくちゃ」「本当かよ」「世界は終わるんだ!」どこもかしこもパニックに陥っていた。そうしてぼくは初めて実感した。本当に世界は終わるんだ。  ひょっとしたら大型ハドロン衝突型加速器とやらを停止させることに成功して世界の終わりは防がれるのかもしれない。けれども、いま、この瞬間、世界は終わりへ向かっているのだ。  人波は二方向へと流れている。駅へ向かうか駅から離れているか。どこへ逃げても一緒なのにじっとしていられないのだろう。ぼくだって似たようなものだ。じっとしていられなくて外へと飛び出した。そしていま、ぼくはどうするべきなのだろうか。やっぱり世界は終わるんだなあ、と納得して会社に戻るのか。そうして世界の終わりを迎えるのか。そんなのは嫌だ。じゃあどうする。とっさに浮かんだのはアユミの顔だった。ぼくは携帯電話を取り出した。  電話帳からアユミを検索して通話ボタンを押す。なかなか繋がらない。ぼくは駅へ向かいながら「トゥルルル、トゥルルル」という音を聴き続けた。 「もしもし?」 「ぼくだ、タツヤだ。いまどこにいる?」 「家。バイトにいこうしたら、お母さんが―――」 「家にいろ。いまからそっちにいく」 「え、でも、バイトが」 「バイトなんてどうでもいいから家で待っていろ!」  ぼくは怒鳴って携帯電話を切った。しまったと思ったが、頭を振って、思考を切り換えた。駅に入る。改札口を通る。ホームへ降りる。電車を待つ。こんなときでも電車は走るしマスコミは機能している。それは義務感からだろうか、それとも現実逃避なのだろうか。それとも惰性で機能し続けているのだろうか。  電車が来た。  人波に揉まれながら、なんとか列車に乗りこむ。  ずっと、アユミのことが気になっていた。いままで好きだと意識することはなかった。ただ、なんとなく気になる女友達だった。だけどいまならわかる。ようやくわかった。ぼくはアユミが好きだったんだ。ずっと。いまぼくはアユミに会いたい。それがするべきことなのかどうかわからないけど少なくとも会社に戻るよりはアユミに会いたいと思った。  駅に着くとホームを上がって改札口を抜けてタクシーに飛び乗った。  アユミの家の近くのコンビニまで。  運転手は道中無言だった。  コンビニで降りる。  金を渡す。  そしてぼくはすべてを失った。なんの前触れもなく一切合切全ての感覚を失った。なにが起こったんだ。これが世界の終わりなのか。ぼくは死んだのか。ここは天国か、それとも地獄か。なにもない。なにもわからない。こんなふうにぼくは終わるのか。ぼくは。ぼくは。ぼくは―――! 「落ち着け」  声が聞こえた。  聴覚だけ復元されたかのようだった。 「ここは天国でも地獄でもない。どっちでもあったともいえるけどな。けど、もう、どっちでもない。いまから世界は再生するんだ」 「なんだ、あんた、だれだ!」 「幽霊だよ」 「なに?」 「観測者問題って知ってるかい?」 「そりゃ、まあ」 「ブラックホールに地球は呑みこまれた。世界は終わった。ところが「この世」が終わっても「あの世」が残っていたんだ。それで、な。どうなったかというと「あの世」が「この世」になるんだ」 「なにをいってるかさっぱりわからない」 「観測者が交代したことによって位相が変わるのさ」 「だから、なにをいってるかさっぱりわからない!」 「よーするに、だ。―――これからとんでもない世界が始まるぜ」  その言葉を最後に光がぼくを包んだ。視覚が戻った。触覚が戻った。味覚が戻った。嗅覚が戻った。五感が戻った。ぼくは世界に戻ってきた。そしてぼくは言葉を失った。ぼくの眼前に広がっていたのは変わり果てた世界の姿だった。  コンビニがある。そのコンビニをぼくは知っている。けれどもそれはもはやぼくの知っているコンビニではなかった。片腕のない血まみれの女性がコンビニの店内を闊歩している。コンビニの脇の公衆電話の横には腸のはみ出した犬がいる。なによりコンビニの店内から悲鳴が聞こえる。 「ぎゃぁぁぁ――――――――ッ!」  声の主は見えない。そのうえに幾人もの死体が乗っかっているからだ。死体だ。動く死体が、声の主を、おそらくはコンビニの店員を………生きたまま食っている………? 「なんなんだよ………」  ぼくの唇から声が漏れた。 「…………アユミ………ッ!」  アユミのことを思い出した。アユミの家にいく途中だったのだ。けれどもコンビニの店員が。ぼくはどうすればいい。どうするべきなんだ。このままかれを見捨ててアユミの家へ向かったほうが安全だ、と理性が囁いている。そうるべきだと思った。  ………ちくしょう!  ぼくはコンビニへ向かって走り出した。このままかれを見捨てたら、ぼくはどんな顔でアユミに会えばいいんだ。もしかしたらアユミも襲われているかもしれない、と理性が囁いている。もしもアユミも襲われていて、もしもぼくが遅れて、もしもそのせいでアユミが死んでしまったら、ぼくは後悔するだろう。けれどもそれらはすべてもしもの話でいまぼくの目で前でコンビニの店員が生きたまま食われようとしているのだ。  コンビニの自動ドアが開く。 「うおおおおおおおお!」  ぼくは喚きながらコンビニの店員を襲っている死体を蹴飛ばした。死体は上半身と下半身が千切れて、ぼくが蹴飛ばした上半身はコンビニの床を滑ってポテトチップスの陳列されている棚に激突した。調子に乗ったぼくは残る二体の死体も蹴飛ばして、すると面白いほど顔が飛んだり腕が飛んだりして簡単にコンビニの店員から死体共を駆逐することができた。 「大丈夫ですかっ!」  コンビニの店員は血まみれだった。が、それは死体から滴り落ちる血を浴びただけのようで、かれのからだは軽傷のようだった。 「あ、ありがとう。あいつら、死体が突然………あいつら………どうして死体が………」  ぼくは周囲を見渡した。もう動いている死体は見当たらない。さっきまでコンビニの店内をうろついていた片腕のない血まみれの女性の死体も、公衆電話の横にいた腸のはみ出した犬の死体も、どこかへ行ってしまったようだ。するべきことはやった。あとはかれが自分自身でどうにかすればいい。かれを落ち着かせるのはぼくの仕事ではない。ぼくだってまだパニクっているんだ。 「それじゃあ、ぼくはこれで」  コンビニの店員の無事を見届けたぼくは颯爽と踵を返すとコンビニの外へ戻ってアユミの家へと走り出した。あちらこちらで死体が動いている。ぼくを見つけると緩慢な動作で追ってくるけど、ぼくの脚のほうが速い。すぐに引き離す。 「あの世」が「この世」になるんだ、と言っていた。世界が終わった直後、自称幽霊の声は、そう言っていた。それが、これか。あの世の亡者がこの世に甦った、いや、あの世にぼくたちが迷い込んでしまった。なにが正しいのかわからないけどそういう解釈も可能といえば可能だ。とりあえずそういうことなんだ、とぼくは考えることにした。とりあえずでも事態を解釈できれば多少は落ち着く。そんなことよりいまはアユミに会うことが先決だ。  アユミの家の前に辿り着く。玄関前には死体が群がっていた。まるで家のなかにいるアユミを嗅ぎ付けたかのように。それを見てぼくは安堵した。まだ死体は家のなかに侵入していない。ということは、まだアユミは家のなかにいるはずだ。 「アユミ―――――――!」  ぼくは力一杯叫んだ。ぼくの声に気付いたかのようにアユミの家のまえに群がっていた死体の一部が振り返り、ぼくのほうへと緩慢な動作で迫ってきた。どうする。こいつらを全部倒そうとするのは無謀なアイデアだ。いかにのろいとはいえ多勢に無勢。取り囲まれたら終わりだ。アユミ、ぼくの声に気付いてくれ。そう願いながら、ぼくはじりじりと迫ってくる死体の群れと対峙した。 「タツヤ!」  上から声が聞こえた。アユミだ。  二階の窓から身を乗り出して叫んでいた。 「逃げて、タツヤ! 逃げて!」 「いまいく!」  ぼくは死体共に背を向け来た道を戻った。逃げるわけではない。アユミの家をぐるりと囲うブロック塀まで戻ると、そのうえに登った。平均台のうえを歩くようにゆっくりと進む。ここなら死体は手も足も出せない。落ちさえしなければ。ゆっくり、ゆっくりと。  ブロック塀の傍に木が生えている。その枝に飛び移る。そして木を伝ってアユミの家の屋根のうえに着地する。ここまでくれば――― 「うしろ!」  アユミの声。ぼくは反射的に身を屈める。するとぼくのうえに重量のあるぬるりとしたものが覆い被さってきた。死体の腸だ。  ………どうして、こんなところにまで! 「どけぇぇぇ!」  思い切りてのひらで重量を押し返す。ぐちゃりと湿った感触にてのひらが埋まる。死体の腸のなかにてのひらを突っ込んでしまったのだ。めちゃくちゃ気持ち悪いけどそのまま力を込めて突き飛ばすと抵抗らしい抵抗もなく死体は屋根から落ちていった。  ぼくはてのひらをズボンで拭くと、屋根を伝って二階の窓、アユミの部屋のなかへ転がり込んだ。 「タツヤ!」 「大丈夫だった?」 「うん。ずっと家にいたから………」 「おばさんは?」 「………助けを呼んでくるって外に出て………ケータイも繋がらないの………無事だよね………? お母さん、大丈夫だよね………?」 「大丈夫、きっと無事だよ」  ぼくはアユミを抱き締めた。 「会いたかった」  あたたかい、アユミの感触。アユミは、ぼくたちは、生きているのだろうか。世界は一度終わって、そして再生した。なにが起こっているのかわからないけど世界が一度終わったことは間違いない。ぼくたちは生きているのか死んでいるのか。ここはこの世なのかあの世なのか、そのどちらでもない世界なのか。なにもわからない。だけどアユミはここにいる。ぼくもここにる。ぼくたちは存在している。だから、まだ、するべきことがあるがあるはずだ。いま、ぼくのするべきことはアユミを守ることだ。  あと、それから。 「アユミ」 「なに?」 「好きだ」  告白もしないと、な。  ようやく自分の気持ちに気付いたのだから。  たとえ世界が終わろうともぼくたちは存在している。  だったら告白くらい、してもいいだろう。 空から女の子が降ってくる  突如、街に警報が鳴り響く。 「空から女の子が降ってきます。外出の際は頭上に注意して下さい。繰り返します。空から女の子が降ってきます――」  ドラッグストアの買い物帰りだった僕は、頭上を仰ぎ見る。空から女の子が降ってくる。それはまるで真昼の流れ星のようだ。だが、その実態は隕石さながらの災害である――それとも「女の子」が降ってくるのだから人災と呼称するべきか。いまだ政府も、この奇妙な現象の解明に手を焼き、その実態は依然として謎のまま、今日も女の子は降ってくる。  どこか遠くで悲鳴が上がった。女の子の落下に巻き込まれたのだろう。不思議なことに、女の子の落下地点に若い男性いた場合、女の子は男と共に姿を消す。あとにはなにも残らない。まるで宇宙人に拉致されたかのような現象である。そして落下地点にだれもいなかった場合、あるいは若い男性以外の年老いた男性や女性だった場合、女の子は実体を伴って落下する。つまり落下地点には衝突死体が残される。  落下地点に残された死体を解剖しても、女の子の身元は判明しない。いずれも若い女の子という共通点だけで、どこのだれなのか、どこから降ってくるのか、その正体の一切は判明しなかった。異世界から降ってくるのだ――と主張する人もいた。オカルトや心霊現象を扱う番組ではおもしろおかしく空から降ってくる女の子について諸説を披露しているが、いずれも証拠のない推論である。  周囲でざわめきが起こった。そしてパニックになって人々が軒下に駆け込む。「女の子が振ってくるぞ!」「逃げろ!」「待って! 置いておかない!」「お母さーん!」頭上をぐるりと見渡せば、こっちに向かって女の子が降ってきた。ここにいたら危険だ。僕も避難することにした。ドラッグストアの店内に戻ろうとした――僕を彼女連れの男が突き飛ばした。運悪く買い物袋が地面に落ちてしまって、それを拾おうと身を屈める。すると―― 「なにをしてるんだ! 逃げろ! 降ってくるぞ! そこから逃げろーっ!」  それが僕に向けられた言葉だと気づくのが遅れた。そして気づいたとき、すぐ目の前まで女の子が迫っていた――僕は観念して目を瞑った。  衝撃はやってこなかった。  そして、やけに静かだ。  僕は目を開いた。すると青空と雲海が視界に飛び込んできた。混乱しかけたところで手のひらを暖かな感触が包んでいることに気づく。僕は女の子と手を繋いでいて、そして女の子と一緒に空を飛んでいるのだった。なにがなんだかわからない。けれども不思議な高揚感があった。これがすべての始まり、これから始まりの地へ向かうのだという確信があった。 「どこへ行くの?」 「君の世界」女の子は答えた。「君は主人公。私はヒロイン。主人公がいないと物語は始まらない。だから迎えにきたの。よかった。君と出会えて」僕と出会うことができなければ彼女は地面に落下して激突死していたのだろう。この運命的な出会いに感謝した。そして命懸けで空から降ってきた女の子の勇気に、それ以上感謝した。彼女の勇気に応えるためにできること―― それは一刻も早く物語を始めることだ。「行こう! 僕たちの世界に!」「うん!」僕たちは加速する。雲を切って光よりも早く駆け抜ける。その果てに僕たちの世界が待っている/僕たちの物語が待っている/空から女の子が降ってくるところから物語は始まるのだ。 百円玉  十二月二十三日。昼間から街は活気付いている。そこかしこを幸せそうな人達が闊歩している中、ぼくはひとりきりでゲーセンで時間を潰している。  千円札を両替した百円玉を浪費し続けている。馬鹿馬鹿しいことをしていると自分でも分かっている。もういくら使ったのか覚えていない。三千円を超えてから数えるのをやめた。だけど自分で自分を止められなかった。  サンタのコスプレしたウサギのぬいぐるみ。それがいまのぼくのターゲット。クレーンゲームの鉄則は「欲しい物ではなく、取れそうな物を取る」だ。ちょっと小突けば落ちそうな配置の景品を狙うべきなのだ。  分かってる、分かっている。  だけどぼくは百円玉を浪費し続けている。なかなかぬいぐるみは取れない。ぬいぐるみは難しい位置にある。なにをやってるんだろう、ぼくは。こんなこといますぐやめるべきだ。この金には、もっと有意義な使い道があるはずだ。  アームがぬいぐるみの帽子に引っかかる。ぬいぐるみはアームに引きずられて傾いたけど、途中でアームは抜けてしまい、落ちるには至らない。もう諦めるべきだ。そう分かっているけど、ぼくの手は次の百円玉を投入していた。  このぬいぐるみが欲しいわけじゃない。ぼくが欲しいのは、ただの会話のきっかけ。そんなもののために何千円と浪費するつもりなのだ、ぼくは。  馬鹿だ、本当。  こんなぬいぐるみに、ぼくは一体何千円使うつもりなのだろう。ただの会話のきっかけに、ぼくは一体何千円使うつもりなのだろう。いっそ諦めることができたら楽になれるのに。そうしたらこんな馬鹿馬鹿しいこと、やめることができるのに。  片思いなんて。  馬鹿だ、本当。  このぬいぐるみをプレゼントしたら、あの子は喜んでくれるだろうか。  くだらない妄想のせいで集中力が途切れた。アームは虚空をすり抜ける。ぼくは自動的に次の百円玉を投入した。ぼくの頭と体は言うことを聞いてくれない。こんなこといますぐやめるべきなのに。こんな片思い、さっさと諦めたほうが楽になれるのに。  ウサギのぬいぐるみの無機質な瞳がぼくを捉えて離さない。それがまるで嘲笑っているように見えるのは、ぼくの心情を反映しているのだろうか。ぼくの自嘲と自暴自棄を。  苛立たしくクレーンゲームの筐体を叩いた。  その衝撃でウサギのぬいぐるみは落下した。  呆気ない幕切れ。ぼくは獲得したウサギのぬいぐるみを手に持って、しばらくその場に突っ立ったままになってしまう。これからどうしよう。このウサギのぬいぐるみを写メで撮って、あの子にメールして。  せっかくぬいぐるみを取ったのにメールする勇気が出ない。いつまでも段取りを考え続ける。  そのとき傍らに女の子が立っているのに気付いた。小学生くらいの女の子。彼女はぼくの視線に気付かず、ぼくの持っているぬいぐるみを凝視している。  サンタのコスプレしたウサギのぬいぐるみ。  こんな日は、こんなことするくらいでちょうどいいだろう。  なんとなくそう思った。 「メリー・クリスマス」  ぼくはそう言ってぬいぐるみを女の子に押しつけるとゲーセンから離れた。  少し遅れて「ありがとう」と聞こえた気がした。  馬鹿だ、本当。  ぼくは溜息をついた。 クルイザキ  季節外れの桜が咲いていた。  夜。腹が減って、ラーメンでも食いにゆこうか、と近所の神社の前を通りがかった。そこに桜が咲いていた。  狂い咲き、という言葉が浮かんだ。この桜は狂っている。なにか妄執的なものを感じた。  普通、桜とは、静かに散るものだ。この桜は違う。なにか自己主張するかのように花弁を撒き散らしている。なんだ。なにをそんなに咲き散らしているのだ。  神社は無人だった。そっと足を踏み入れる。そして桜に手を押し当てた。それでなにか分かるはずがない。まさか桜の声が聞こえるわけじゃないし。ただ、ものはためしにやってみよう、と思ったというか。なんというか。なんとなく。ただ、そうしてみた。 「なあ、おい。なにを咲いてんだ?」 「わたしも覚えていない」  ばっと手を離した。  なんだいまのは。なにか聞こえた? 「おい。おい、おい」  手を離したまま声をかけてみる。なにも聞こえない。なんだったんだ。  幻聴か、それとも。  考えていても埒が開かない。取り憑かれるなら、とっくに取り憑かれている。もう一度、恐る恐る、そして覚悟を決めて、勢いよく掌を押しつけた。 「おい。なんとか言えよ」 「なに?」 「なんなんだよ、これは」 「なにが?」 「なんで喋ってんだよ、桜が。これじゃあ、おれが狂ってしまったようだ」  真夜中の神社で桜と喋る男。他人が見たら、どう見てもおれが狂ってる。だけどもちろん、おれは狂っていない。そのつもりだ。  なんの前触れもなく狂ってしまったというなら話は別だが。 「だから、わたしも覚えていないの」 「覚えていないって、どういう意味だ?」 「桜の樹の下には死体が埋まってる、って話」 「は?」 「桜の樹の下には死体が埋まってる、って話。聞いたことある?」 「まあ、よくある都市伝説だな」 「わたしがそうなのかもしれない」 「しれない、って疑問系かよ」 「だから覚えていないの。なにも覚えていない。だけど、それくらいしか思いつかないでしょう? ねえ? 記憶もなにもなくて、いつの間にか桜の精よ? こうなったら花でも咲かせるしかないじゃないの?」 「あー、まあ、そうだな。そりゃあ花でも咲かせるしかないよな」  なんとも言えず、おれは手を離した。 「おれはラーメンを食いにいくからさ。そのあとで。また」  もっとも、その後、再び立ち寄ると、桜の樹は元に戻っていた。花弁さえ消えていた。あれはなんだったのだろう。  本当に死体が埋まっているのだろうか、この下には。それより桜の樹の一時の狂乱と考えたほうがしっくりくる。なんの因果か桜の樹が狂って。狂い咲いて。意志を持って。おれと会話を交わした。いやいや、なにを考えているんだ。  珍しいものを見た。それだけ覚えておこう。あんなに自己主張の激しい桜は、そうそう見られるものではないサ。 ガラクタ  色々なものをよく貰う。  病気以外ならなんでも貰うと放言し、貰えるものならとりあえず貰っておくという貧乏臭ェ性格だから、いらないもの、なんだかよくわからないものもごろごろと溜まって、そういうものは押し入れのなかに詰め込んでいる。しかし押し入れは四次元ポケットではない。がらがらと詰め込んでいたものが雪崩れ落ちたら、ようやく整理するのが不定期的な習慣だ。  今日は古着をもらった。ところがサイズの合う服が一着もない。こりゃあ押し入れ行きだな、と開けたら、がらがらと雪崩れ落ちてきた。  慣れてきたが、雪崩れ落ちる瞬間は、理不尽な怒りを覚える。くそ、めんどくせえ、また片付けなきゃいけねえ、と。だったら常日頃整理整頓して無駄なものは貰わなきゃいい話だが、なかなか生活を変えようとは思わない。それはそれでめんどくさい。  仕方なく「はぁー」と溜息をつきながらしゃがんで、あれやこれやのガラクタの検分を始める。これはいらない。これもいらない。これもこれもいらない。いらないものだらけだ。そのうちオレんちはゴミ屋敷になるんじゃないかと妄想することがある。めんどくさがりが悪い方向に転がったら、あながち妄想では済まされない。そうならない程度には気をつけたいところだ。 「ン?」  なにやら妙なものを見つけた。なんだかよくわからないもの、だ。  ガラスの小瓶だった。  液体が入っている。香水だろうか。  いつ、どこで、だれに貰ったのか思い出せない。そんなのはよくある。いつどこでだれに貰ったのか思い出せないアンティーク人形を見つけたときはぞっとしたものだ。ちなみにそのアンティーク人形は公園のブランコに置いてきた。子供たちにもホラーのお裾分けだ。  ガラスの小瓶の中身を確かめようと、手にとって持ち上げた、そのとき。  ――カチャン。  小瓶の欠片が滑り落ち、ガラクタの上に落下して、小気味良い音を立てた。  蓋だ。  間違えて上下逆様に持ってしまったのだ。  上下逆様に持ってしまった小瓶の蓋が外れたのだから当然中身がこぼれるわけで――そこには運悪くオレのケータイがあった。とぷとぷと滴り落ちた液体が液晶画面を濡らしていく。こんなとき人間は一瞬、思考が停止してしまう。かといって意識を失っているはずもなく五感は働いていて目も見えて耳も聞こえているわけで、どうしてこんなことをわざわざ確認するかといえば、そこに黒い少女が出現したからだ。  小瓶の中身の液体が液晶画面の隙間に滲みるように消えた、その瞬間。出来の悪いフィルム編集でもしたかのようになんの前触れもなく唐突に、その少女は居座っていた。こうなると思考停止は一瞬では済まされない。  数秒間、まじまじと少女を見つめていた。  少女もオレを見つめていた。にこやかに微笑んでいる。人形みたいに整った顔立ち。やや幼いかんじ。まっすぐに切り揃えられた前髪。緑色の髪留め。銀色のチョーカー。黒いワンピース。少々不釣り合いな色合いの青いニーソックス。 「きみ、だれ?」 「やだなあ。なに言ってんですか。ケータイですよ、ケータイ」  や、確かにケータイに小瓶の中身がこぼれて、そこに現れたのが少女だけど。しかし言われてみればケータイの面影がなくはない。あ、待てよ。  小瓶の中身がこぼれた瞬間を思い出す。  あの液体はほかのガラクタにもかかっていた。背後に気配。  押し入れに詰め込まれていたガラクタたち。かれらがオレに、どのような感情を抱くだろうか。刺すような視線。 ニジュウイチグラム  天国は実在した。  魂の重さは二十一グラム。人が死ぬと二十一グラムだけ軽くなる。その二十一グラムが異次元へ移動することが観測された。  異次元。  それは人類が初めて異次元を観測した瞬間であり、謎ばかりの領域であったが、人が死んだ時に消失する二十一グラムの行方は天国に違いない、という俗説が流行した。  その結果、自殺までもが流行した。  自殺を思い止まる最大の理由は無に対する恐怖心であり、その行方が思い描くような天国かどうか定かでなくとも、どのようなかたちであろうとも次があることが証明されたのだ。自殺願望者の不安は取り除かれた。かれらは「人生をリセットする」と言い残して次々と飛び降りた。あるいは飛び立った。  テレビは自殺を奨励するかのように自殺報道を延々放送している。天国という言葉を連呼して自殺をロマンチックに語る。自称霊能力者が天国の光景を喋り散らすだけの番組がもてはやされ、かれらは「人類は死を克服した」というが、わたしにしてみれば死を弄んでいるようにしか見えなかった。  わたしはテレビを消した。  昼夜問わずカーテンを閉めきっている。かつては見晴らしの良いベランダだったが、ある日偶然飛び降り自殺を目撃したことから、わたしは昼夜問わずカーテンを閉め切るようになった。ちなみにいまは夜だ。  今夜はやけにサイレンがやかましい。またどこかでだれかが死んだのだろうか。それにしてもひっきりなしにサイレンが聞こえてくる。そして気付いた。これはパトカーのサイレンだ。  携帯電話が鳴った。発信者は友人だった。わたしは通話ボタンを押した。 「いま、どこにいる?」 「家にいるけど」 「なにしてんだよ! さっさと逃げろ!」 「なに? なにがあった?」 「テレビを見ろ! 死者がよみがえっている。まるでゾンビだ」 「あの実験、成功したの?」  それは消失した二十一グラムを生前の肉体に呼び戻そうという実験だった。その期待結果は消失した二十一グラムが生前の肉体に戻っても人間は生き返られない、つまり消失した二十一グラムは魂などではない、ただの物質であることを証明するための実験だ。  ところが世間では実験を別の意味で捉えていた。つまり消失した二十一グラムはやはり魂であり、死者がよみがえることがかれらの期待結果であり、成功であるとされた。わたしが言った「成功」はこっちの意味での成功だ。  ところが電話口の友人は忌々しく答えたのだった。 「いいや、大失敗だ」 「どうして? 死者がよみがえったんでしょう?」 「言ったろ、まるでゾンビだって。あいつら生きてる人間を襲うんだよ」 「襲うの? 死者が? 生きている人間を?」 「ああ、そうだ。ったく反魂の術なんて昔からうまくいかねえと相場は決まってんのに」 「そういえば、そんなこと言っていたね、きみは」 「ンなことはどうでもいいから、さっさと逃げろ。どういうわけか街中の死体がよみがえってる。なにか連鎖反応が起きているみたいだ」  自殺の流行のせいで火葬が追い着かず、あちらこちらの家や役所に葬儀待ちの死体が安置されている。それらすべてが歩き出したら、ああ、それは地獄の光景だ。 「地震の時と同じだ。体育館とかに人が集まっているはずだ」 「わかった。すぐ逃げる。ありがとね」 「おう、また生きて会おうぜ」  通話を終了する。  いまいち現実味が湧かないが、きっとこれから嫌というほど湧いてくるだろう。わたしは荷物をまとめ始めた。とりあえず数日分の着替えと、貴重品と、それから。その時、悲鳴が聞こえた。  死を弄ぶからだ。  死に立ち向かわなくちゃいけない。  わたしは武器になりそうなものを探し始めた。 コインランドリー  ピー。乾燥機の運転の止まったのを告げる電子音。そしてガチャリと蓋が開いた。「アン?」なんだ……閉めが悪かったのか……? 深夜のコインランドリー。俺を除いて誰もいない。俺の衣類は未だ洗濯機の中で回っている。誰のだか知らない衣服の詰まった乾燥機の蓋が勝手に開いたのだった。……閉めといてやったほうがいいかな……無用心だし……コインランドリーで下着を盗まれたという女友達の話を思い出した。備え付けのパイプ椅子から腰を浮かした、その時だ。ゴロン。ドサッ。「痛っ」なんか落ちた。ブカブカのシャツを着た女の子だった。……なんで女の子? 電子レンジに猫を入れたらというブラックジョークを聞いたことはあるが、乾燥機に女の子とは、これ如何に。「……大丈夫か?」とりあえず聞いてみる。「あー、どうも、こんばんは」「……こんばんは……で、大丈夫なのか?」乾燥機に人間が入ったら、普通、大変なことになると思ったが……違うのか……?「なにが? 全然大丈夫ですよ?」「そうか……」「ところで、私、誰でしたっけ?」……全然大丈夫じゃねえ。「記憶まで漂白されたってか?」「あ、それいいですね。今度からそう言いましょう」「……?」「ああ、私、ちょっとだけ思い出しました。いつも記憶喪失で、その度に、そこにいる人に私は誰なのか聞いているんですよ」なんだそれは。ツッコミを入れるのもめんどくせえ。電波と関わり合になりたくはないが、残念なことに俺の衣類は未だ洗濯機の中で回り続けている。非情な液晶画面は残り何分かあることを示している。仕方なく座り直す。女の子は無視。「ねえ」「……」「あのー」「……」「えーとですね」「……」「無視ですか?」「その通りようやく分かったか」「ひどっ!」「ひどくねえ、これが常識ある対応だ、分かったらどっかよそへ行け」「……そんなんじゃモテませんよ」恨みがましく捨て台詞を残して、女の子はフラフラと俺の前を素通りして、コインランドリーの外に出ようとする。戸を開ける。外へと一歩を踏み出す。「……雨、降ってるじゃないですか」「そりゃあ降ってるな」「濡れちゃいましたよ」「そりゃあ傘を差さなけりゃ当然だな」「あー、もう……」女の子は来た道をUターンした。俺の前を通り過ぎて、乾燥機の前まで戻る。「乾かさなきゃ……」そう呟いて、女の子は乾燥機の中に入った。蓋が閉まって、回り始めた。ウイーン。と同時、ピーと鳴って、俺の洗濯機が止まった。 ちんこもげちまえ 「ねえ、とおこ」 「ん」 「しよっか」 「ちんこもげちまえ」  深夜。  姿勢正しくソファに腰掛けている私の膝になおは頭を預けている。いわゆる膝枕である。その状態でテレビを見ていたら、なんの前触れもなく「しよう」と言われたのだった。 「いいじゃん、ちょっとくらい」 「なにがいいのよ」 「気持ちいい」 「くたばれエロオヤジ」 「イタタタ! ごめん、でも胸が当たって気持ちいイタタタタタタタ!」  腕を捻り上げて関節を極めても口の減らなかったのでマジで折れる五秒前まで極め続けてやった。 「うう、痛かった。女の子には優しくしてよ」 「うっさいふたなり」  関節技から解放するとなおは上体を持ち上げて腕をさすっていた。  確かになおは女の子らしい外見だが、その実、両性具有のふたなりである。しかも困ったことに誰彼構わず「しよう」と言うのだ。  さらに困ったことに意外と成功しているらしい。  二人きりの時や酔っ払っている時が狙い目だそうだが、 「私は絶対嫌なの」 「ケチ」  なんかカチンときたので飛びつき腕十字を極めてやった。 「イタタタタタタタ! このスキンシップはやめて! 優しく! 時に激しく!」 「激しいのがお好み?」 「イギャアアアアアアアアアアアアアアア! 折れる! 折れるから! 折れたらオナニーできないじゃん! それともとおこが手伝ってくギャアアアアアアア! ごめんなさい、もう言いません! だから優しくしてえええ」 鐘の音  青空に鐘の音が響き渡った。断末魔のように長く長くこだまする鐘の音だった。  時刻は十二時十七分。正午を告げる鐘の鳴ったばかりである。昼休みの終わりでもないし、鐘の鳴るにしては、おかしなタイミングだ。級友は、だのに無頓着に、お喋りを続けていた。  私は転校生だ。知らないことは多い。  知らないことは聞けばいい。 「今の鐘、なに?」 「知らない方がいいよ」  不可解な返答。 「それ、どういうこと?」 「だから知らない方がいいって」 「そんな言い方されて気にならない方がおかしい教えてくれなきゃ別の人に聞く」  級友は溜め息をついた。参ったなあ、と。もっと違う言い方をすれば良かった、と表情が物語っていた。  お喋りしていた相手に断ると、私に向き直って、 「変な時間に鐘が鳴るでしょ」 「うん」 「するとね、誰か死ぬの」 「誰か死んだら鐘を鳴らすってこと?」  確かにそりゃ嫌な話だ、と思った。それで喋りたくなかったのか、と。  だけど級友は首を横に振って、 「鐘が鳴ったら誰か死ぬの」  と言った。 「鐘が先、死ぬのが後。鐘が鳴ったら誰か死ぬの。誰か死んだら鐘を鳴らすんじゃなくて」 「なによ、それ?」 「分からない。誰にも分からない。だけど鐘が鳴ったら誰か死ぬのだけはみんな知っている。あの鐘、学校の鐘なんだけど、どうして鳴るのかも分からない。誰もいないのに鳴るの。風のせいだとか古いからだとか先生に聞いたらそういう答えが返ってくるけど絶対そうじゃないことはみんな知っている。先生だって知っている。本当は。知っているけど分からないの。ね。知らない方が良かったでしょ」  まくし立てるように言うだけ言うと、級友は息をつきながら俯いて、そして待たせていた相手とお喋りを再開した。私はなにがなんだか分からなくて呆然としていた。ただ知ってしまった。  サイレンが聞こえてきた。救急車だ。  その夜。  私は学校に忍び込んだ。  そして屋上にビデオカメラを仕掛けた。  その日から、それが私の日課になった。ビデオカメラを仕掛ける。回収する。テープを調べる。自分でもどうしてそんなことをしているのか分からなかった。なにかに取り憑かれるようにビデオカメラを仕掛け続けた。回収し続けた。テープを調べ続けた。  変な時間に鐘の鳴らない日は、なにも映らなかった。たまに鴉の映るだけ。そんな日が何日も何日も続いた。テープは溜まり続けた。  そして、ある日、とうとう鐘が鳴った。午後三時十四分。  私は早退した。家に帰ると着替えもせずにビデオデッキにテープを突っ込んだ。  早送り。午後三時。ストップ。なにも映っていない。早送り。ストップ。なにか映った。三時七分。鴉だった。早送り。ストップ。三時十分。なにも映ってない。小刻みに早送りと再生を繰り返す。十一分。なにも映っていない。十二分。なにも映っていない。十三分。なにも映っていない。十三分十秒。なにも映っていない。十三分三十秒。なにか映った。  黒い影。なにかいる。  十三分四十秒。画面が黒く塗り潰される。  十三分四十五秒。画面が回復する。なにかが画面の前にいたんだ。  そして鐘の前に見慣れたものが映っているのに気が付いた。セーラー服だ。  私と同じくらいの背格好の人物が鐘の前に突っ立っていた。背面だから顔は見えないけど髪型も私と似ているように思われた。  後ろに体を反らしたかと思うと、彼女は思いっ切り鐘に頭突きをかました。  午後三時十四分。鐘が鳴った。  そのまま彼女は後ろに倒れこんだ。頭突きの反動で。ちょうどカメラの前に仰向けになった彼女の顔が映り込んだ。  額から血を流す彼女は、その顔は見慣れたものだった。私の顔だった。  テレビの電源を切った。  ドッペルゲンガーという言葉を思い出した。見たら死ぬ、もう一人の自分。  今頃、私の次に、あそこにビデオカメラを仕掛けている人がいるのだろうな、と直感した。ビデオデッキから変な音が聞こえた。テープを噛んでいた。どうしてこんなことをしていたのか分かった。あの話を聞いた時から私は取り憑かれていたのだ。聞かなければ良かった。級友の言う通り聞かなければ良かった。だけどもう彼女に謝ることは出来ないと分かっていた。私は分かっていた。分かっていた。この次にくることも分かっていた。 ホシニネガイヲ  雨が降っている。台風が近付いているらしい。今は静かな雨音も、明日には激しくなるだろう。こんな夜だってのに、都会の空は明るくて、田舎者だからか、俺は不機嫌に空を睨む。「雨、やまないなあ」傍らの猫に喋りかける。「ニャア」と猫は答えた。「雨の代わりにさあ」「ニャ?」「かあいい女の子でも降って来ないかなあ」「ニャー」と、言っていたら。轟音。突風。衝撃。部屋が埃に包まれる。キラキラ舞っているのはガラスの破片だ。「な、なんだあ!」視界が晴れる。部屋の窓ガラスが割れている。部屋の中心、コタツ机が割れて、その上にデカい塊が乗っかっている。人間ほどの大きさの塊。いや、人間だ。「いったァ……!」強かに床に打ってしまったのだろう、尻を押さえながら、彼女はうめいた。彼女。そう、言っているそばから女の子だ。「噂をすればなんとやら……」と、惚けている場合じゃない。「……きみ、だれ?」「誰って、ひどいなあ」尻餅の姿勢で、女の子は不満そうに言った。「望んだのはあなたなのに」「望んだ?」「ほら、言うじゃない」天に指を掲げて、女の子。「星に願いを、ってね」 オンナゴコロ  久しぶりに会った友達は性別が反転していた。男から女。しかも整形手術まで。男だった頃の面影はまったく残っていない。思わず「……だれ?」と言ってしまった。「あはは、褒め言葉と受け取っておくよ」彼は、いや彼女は、そう言って笑った。「ほら、小学生の頃、近所に住んでいた」「ああ」懐かしい話を聞いて、ようやく合致した。「しかし、どうして、性転換手術なんて」「何事も経験」「……そんな理由で?」「いや、マジ、マジ」と彼女、マジな顔になって「実はな、ちょっと前、彼女に振られたのよ」彼女、つまり、まだ男だった頃の話か。頭の中で整理しないと混乱する。「振られた時な、あなたは女心が分かっていない、って言われて。ショックだったぜ。モテていたつもりなのに。いつまでも結婚できないの、そのせいかなあ、と悩んで。悩んで悩んで悩んで」くるくると指を回して、そしてピタッと止まる。「辿り着いた結論。女心を理解するためには、女になるしかない」「えー」それじゃあ、なんだ、男である限り、女心は理解できないのか。呆れている俺に、彼女は、言葉を続ける。「まあ、そんなわけで、今、彼氏募集中です」「……」「どう?」「遠慮しておきます」その後、聞いた話によると、彼女は幸せな家庭を築いたらしい。女心を理解できたのだろうか。 サシノベル 「拾ってください」と書かれたダンボール箱に捨てられた子猫を見かけたら、あなたなら、どうする。俺だったら、拾う拾わないはともかく、とりあえず手を差し伸べる。差し伸ばしてしまうものだ。なにか考えてのことではない。反射的に。「よお、あんた、どうした?」夕方、バイトから帰ってきた俺は、アパートの前にうずくまっている女の子を発見した。膝の間に顎を埋めるように座っている。彼女と目が合った。「べつに」「そっか。――ところで、ジュース、飲む?」「なんで?」「俺の飲み残しでよければ、だけど」「……飲む」バッグの中に放り込んであったペットボトルを少女に投げる。空中でキャッチすると、少女は中身を飲み始めた。あっという間に飲み干してしまう。ペットボトルから口を離して、ふう、と息を吐くと、「……あ、間接キスだね、これって」「わざわざ言うな、恥ずかしい」「うふふ」目を逸らす俺を、少女は笑った。「笑ったな」「え?」「笑えるんだったら大丈夫だな」「心配してくれたの? ありがと」「アパートの前で不景気なツラさらされても迷惑なだけだからな」「それもそうだね」そして少女は立ち上がる。「じゃあ、私、行くね」「おう。行ってらっしゃい」そのまま立ち去る、彼女は、振り返らない。俺も彼女に背を向けて、アパートに入る。最後に聞こえたような気がした。「またね」 チュウショウガ 「なにやってんだ?」「絵」「え?」「絵を描いているの」「へえ。……さっぱり分らん」「やっぱり」「やっぱりって?」「私もなに描いてるか分らなかった」「はあ? 自分で描いてるのに?」「うん」「オイオイ」「私、抽象画って、なんだかよく分らなくて」「ああ、分からないな、さっぱり分からない」「自分で描けば、なにか分かるかなあと思ったんだけど」「ふむ」「やっぱり駄目ね。分からないものは分からない」「そりゃあ、分からないまま描けば、分からないものしか描けねえだろ」「うーん、天啓でも降ってこないのかにゃー、と思ったんだけど」「にゃー?」「気にしないで、口癖」「なるほど、気にしない」「ところで」「ん?」「絵のモデルになってくれない?」「モデル? 俺が?」「うん」「なんで俺が?」「私、本当は、人物画の方が得意なんだ」「だけどなあ」「お願い」「……オッケイ、分かった」「ありがとう」「じゃあ、どうすればいい?」「脱いで」「……はい?」「脱いで」「えーと……」「あはは、ごめん、嘘だから」「なんだよ、驚かせやがって」「じゃあ、楽な姿勢にして」「おう」「……」「……」「……」「どんな具合だ?」「うーん、まだ、下書きだよ」「見せてくれよ」「うん、いいよ」「こ、これは……」「どう?」「……抽象画?」「どうしてだろう、みんな、そう言うんだよね」「なるほど、分かった、おまえには抽象画が向いている」「……ありがとうと言うべき?」「……どういたしまして?」 ウシミツドキ  生きていくのに悩みは尽きなくて、たまに鬱々とした不安が頭ん中を駆け巡って、どうしても眠れなくなる。布団の中に潜りこんでから、もう二時間が経った。時計の針は深夜二時。いわゆる丑三つ時。すると玄関のチャイムが鳴った。ピンポーン。こんな夜更けに来訪者の予定はない。不躾な訪問、いつもなら居留守を決めるところだが、布団の中で悶々としていることに飽きた私は、気まぐれで玄関に出てみる。ドアにチェーンが掛かっていることを確認して、「どちらさんですかー?」そっと開ける。ドアの隙間から見えたのは、黒い外套を纏った女の子。頭からスッポリと全身を覆う不思議な衣装は、てるてる坊主を喚起させる。「こんばんはー」女の子はぺこりとお辞儀する。「お迎えに上がりましたー」「お迎え?」「はい」「私の?」「他に誰が?」「人違いじゃない?」「いいえ、貴方で違いないです」ずっと布団の中に籠もっていたとはいえ、私の頭は明瞭だ。女の子とは初対面だし、来訪者の予定はないし、出掛ける都合も入っていない。何度も記憶を反芻して確認する。やはり思い当たる節は一個もない。「悪いけど、心当たり、ないなあ。どこから、なんのお出迎え?」そう尋ねると、女の子、「あ、申し遅れました。私、死神です」「死神?」「はい」「あの世からのお出迎え?」「はい。ようやく分かってくれましたか」にっこり笑って、「そんなわけで、死んでください」彼女の外套が翻る。私は勘だけでドアから飛び退く。閃光がドアの隙間からきらめいて、チェーンを呆気なく切り落とす。床に落ちたチェーンがヂャリリリンと、やかましく。ギイイイとドアが軋みながら、ゆっくりと解放される。そこには巨大な鎌を携えた女の子が立っている。黒い外套、巨大な鎌、そのシルエットは死神のイメージそのもの。「どうして避けるんですか、大人しく死んでくださいよー」冗談じゃない。私は部屋の奥へと走って逃げる。なにがなんだか分からないが、殺されてやる義理はない。生きていく苦悩はいくらでも抱えているが、だからと死にたいわけじゃない。部屋の隅に転がしてあった野球のバットを拾う。金属の冷たい感触が頼もしい。両手でしっかりと握り締める。死神を名乗る女の子を見据える。さあ来い、死神、打ち返してやる。 ヨウセイ  私の家の周囲一帯には田んぼが広がっていて、夜になると蛙がゲコゲコやかましい。そいつらの合唱に掻き消されるように、私の腹がグウと鳴る。そういえば小腹が空いた、冷蔵庫は空だ、私はコンビニへ出掛けることにする。外に出ると、ますます蛙はうるさくて。私は小走りで田んぼを突っ切る。コンビニの中はさすがに静かだった。暫しの立ち読みを満喫してから、おにぎりと缶チューハイを買って帰る。コンビニで小休憩を挟んだことで、私の聴覚には蛙の合唱を楽しむ余裕が生まれていた。音色に合わせて、ゆっくりと田んぼの間を歩く。ふと見れば、私と同じリズムで、田んぼでなにか光っている。蛍だろうかと眼を凝らす、いや違う、あれは。あれは妖精だ。小さな裸体が、田んぼの上で踊っている。背中から生えた翼は鱗粉を撒き散らして、それがきれいに光っている。蛙の音色に合わせて、彼女はステップを踏んでいる、ひらひらと。良いものを見たと私は一人笑って、いい気分で家に帰る。相変わらず蛙の鳴き声は部屋の中まで聞こえてくるが、悪い気はしない。おにぎりを一口食ってから、缶チューハイを開ける。妖精を思いながら、缶を傾ける。たまにはこんな夜も。 ユウレイ  私の家からコンビニまで徒歩十分。その途中、細いトンネルを通る。暗くて、狭くて、いかにも出そうなトンネルだ。わざわざ不気味なトンネルを歩く人は少ないから、滅多に他人とすれ違うことはない。ところが今日は珍しく、昼飯を買った帰り道、私は正面に立つ少女に気付いた。年頃は中学生くらいだろうか、しかし制服でなく私服で、赤から白にグラデーションする不思議な染め方のワンピースを着ている。彼女は私をじっと見つめながら、突っ立っている。なんとなく眼を逸らして、どうして彼女は私を見つめるのだろうと訝しみながらも、そのまますれ違おうとする。と、少女の声。「見えてる?」他に人はいないから、私に呼びかけているのだろう。なにが見えてると言うのか分からないながら、とりあえず振り向く。「やっぱり見えてるんだ? 聞こえるんだ?」私が反応したことに、少女は歓声を上げる。いよいよ様子がおかしい。言っちゃなんだが、頭の弱い子だろうか。「なにが見えて、なにが聞こえるんだい?」言葉は通じるはずだから、聞いてみる。すると少女は、「私だよ、私」と自身を指差す。「私が見えるんでしょう? 聞こえるんでしょう?」「そりゃ当然だろ」私は唖然とする。そんなこと、わざわざ言うほどのことではなかろう。少女は私をからかっているのか。「ところが当然じゃないんだな、これが」しかし彼女は言葉を続ける。「だって私、幽霊だもん。普通は見えないし、聞こえないんだ。これ、とっても寂しいんだよ?」「なに?」「だから、幽霊」「君が?」「そう」よくよく見れば、トンネルの暗がりで分かりにくかったが、彼女のワンピースの色合いはおかしい。やけに鮮烈な赤。それは、まるで、「血だよ。私の血」私の視線に気付いた少女が、先読みして言う。「ほら」そしてワンピースの裾をまくる。その下から現れたのは、少女の幼い下半身、股間を多う薄い布地、そして腹部からこぼれる内蔵。「うあああ!」「あはは。驚いた、驚いた」驚く私を、少女をけらけらと笑う。反射的に少女から飛び退いてしまった私を尻目に、彼女はワンピースの裾を下ろす。グロテスクな怪我は隠れて見えなくなる。けれども白地に映える赤が、その存在を主張している。私はもう一歩後ずさり、こっから逃げる算段を考える。「逃げても無駄だよ」さらに私の考えを先読みして、少女がにやりと笑う。「もう取り憑いちゃった」次の声は背中から。いつの間にか、少女が背中に抱き付いていた。さっきまで正面にいたのに。私は愕然と凍りつく。耳朶をくすぐる少女の吐息。「これからよろしくね。犬に噛まれたようなもんだと諦めてさ」 ユビワ  私の家には代々とある指輪が伝えられている。成人を機に、指輪は私に相続された。銀製と思われる、骸骨を模った意匠の指輪だ。骸骨と言ってもおどろおどろしい印象はなく、ひょうきんな表情をしている。一族に伝えられるしきたりということで私も日常から指輪を嵌めているが、面白いデザインをしているので、邪魔に思うことは少ない。風呂や寝る時以外は、左手の中指に嵌めることにしている。一体どんな所以でこの指輪は受け継がれているか、と思いながら。今日も私は指輪を嵌めている。陽の傾いた、逢魔が時。ちょっと早めの夕食を採りながら、テレビを見ている私。ふと、カカカッと硬質のなにかが噛み合う音が聞こえた。とても近くから。音の発生源を見つけるより早く、「見ツケタゾ」今度は声が聞こえた。とても近く、まるで私の手の内から。いや微妙に異なる、声は私の指から、指輪からだ。指輪の骸骨がカカカッと顎を上下させて、喋っている。「見ツケタゾ、ヤツダ! ツイニ見ツケタゾ!」「な、なに!」なんだこれ。驚く私を、骸骨は睨んだ。空洞の眼窩の奥から、意志の視線が突き刺さる。「ナンダ、ナニモ聞カサレテイナイノカ、コノ伝承者ハ」「な、なんなんだおまえ、というか指輪!」「落チ着キノナイ伝承者ダ。静カニシテ、俺ノ言ウ通リニシロ。トリアエズ、ヤツノ気配ヲ感知シタノダ、追ウゾ!」言うが指輪に引っ張られるように、勝手に立ち上がる私の体。そのまま見えない力に引っ張られて、私の体は否応なしに歩き始める。「う、うわわわ!」しかも、そっちの方向は玄関ではなくベランダだ。夕闇に染まる空、その向こうに、黒い影が見える。鴉にしては大きすぎる、それに私の視点が定まると、「見エタカ? アレガ獲物ダ!」そう指輪は言った。「なんなんだよ、一体!」「追々説明スル、今ハ、飛ベ!」「ひいいい!」そして私の体はベランダを乗り越えて宙に舞う。なにがなんだか分からない私の体を、指輪から広がった光が包んだ。浮遊感、そして。 トビオリ  あの世の存在が実証されてからというもの、自殺者が急増した。私の学校でも多い。もう何人も校舎の屋上から飛び降りている。屋上には不思議な魅力があるのか、施錠しても錠前が破壊されたり合い鍵を盗まれたり、侵入者が跡を絶たない。だから現在、屋上へと続く扉は開放されている。鍵をかけても無駄だと、学校側は諦めたのだった。屋上の扉が開く。女子生徒が出てくる。見知った顔だったから、私は気軽に声をかけた。「やあ、こんにちは」彼女は先客に驚いたようだった。が、すぐに微笑みを取り戻して、「こんにちは。あなたも?」主語のない問いかけ。けど、この場所で、その言葉が指しているのは。「いいや、私は違うよ。屋上が好きなだけ」「そう、残念ね。一緒に飛ぶ人がいるのも面白いかな、と思ったのに」「遠慮しとくよ。私はまだ死にたくない」私は彼女を引き止めない。彼女の旅立ちを傍観するのみ。死は消滅ではなく、あの世への旅立ち。希望に満ち溢れた彼らを止めることは不可能だ。女子生徒は私の見ている前で金網をよじ登り、またいで、向こう側に降り立つ。最後に私の方を振り返る。「あなた、どうして屋上が好きなの?」彼女の表情は、やはり微笑んだまま。旅立ちを決意した者は、決まって微笑んでいる。私は彼女の、最後の質問に答えてやる。「空が好きなんだ」「そっか。今日はいい天気だものね」「うん。こんな日は、空を飛びたくなる」「飛べばいいのに。やっぱり一緒に飛んでみない?」「それは飛ぶとは言わない。落ちてるだけだから」「はは。けど、魂は飛べるよ」そう言って、彼女は。「ほら」落ちた。あるいは、飛んだ。肉の潰れる音。私は空を見上げる。青い空は、人の魂を吸っても、青いまま。雨くらい降らしてよ。私は泣きたいんだ。 キモチイイ  私の姉の趣味は、私を弄ることだ。性的な意味で。というのも、私の股間にはちんこ、ペニス、男根、いや女根と言うべきか、とにかくナニが生えているのである。いわゆるフタナリというやつだ。姉には生えていない。昔から姉は好奇心旺盛だった。眼鏡のよく似合う、彼女は「知的」好奇心旺盛と思われがちだが、「性的」好奇心も兼ね揃えていた。あるいは姉にとって、両者は同じベクトルの上にあるのかも知れない。彼女はあれやこれやと手を変え品を変え迫ってくる。まさに人体実験。ゆえに私は、姉が嗤った時、不安と期待の入り混じった、複雑な感情に苛まれる。なんだかんだ言いつつ気持ちいいのは否定できない。だから、好き勝手弄られることに不安を抱きつつ、私の股間は隆起してしまうのだ。「ねえ」姉が嗤った。「そういえば、験してないよね」それは夜のこと。二人とも部屋で宿題に向かっていた時。同じ部屋だから、彼女がなにか思いついた時、彼女はすぐさまそれを実行できる。今がその時だった。「なにを?」ドキッとする。今日はなにを思いついたのだろうか。「尿道よ、尿道」「にょ、にょ、にょ?」「なに可愛い声出してんのよ」姉が嗤う。「ほら、いつも幹と玉ばっか責めて、尿道には手を出さなかったじゃない? よく考えたら、ちんこって、尿道も弄れるんだよね」そんなこと考えないでください。あと普通はよく考えても尿道を弄ろうなんて思いません。どういう思考経路を辿ってその結論に思いつくんですか。言いたいことは色々あった。けど、私はなにも言えずにいた。反論そして論破されるに決まっている。姉はそういう人だ。「でも、ほら、今夜はお母さんたち、まだ寝てないよ?」これが精一杯の抵抗。しかし、「声を出さなければいいのよ」一蹴された。「それじゃ納得したところで、始めましょうか」言うが早いが、姉は席から立って、私の前に来る。そして跪き、「ほらほら」私のスカートを持ち上げて、下着の生地をずらし、中身を露出させる。「う」「なんだ、やる気じゃん?」私の逸物は、すでに半ばまで硬くなっていた。下着による抑えを失うと、自ら首を持ち上げる。私は自分の分身のはしたなさに、顔を真っ赤にした。「なに恥ずかしがってんのよ。もう慣れたでしょ?」「慣れるはずないよう」「ああ、そっか、慣れたらインポになっちゃうか。それは困るね。じゃあ、やっぱり、目一杯恥ずかしがって?」無茶苦茶なことを言って。姉は躊躇なく、半勃ち状態の肉棒を咥えた。「うあ!」「ほぉは、ひもひいい?」チュパチュパと音を立てて、私の恥ずかしいものを啜る姉。恥ずかしい音。いつもより湿っぽい音。みるみる私の勃起は勢いを増し、完全に硬くなる。姉が口を離すと、それは淫らに濡れていた。「あっ」思わず声が出てしまった。名残惜しむかのような声。それは、「なーに、もっと舐めて欲しかったの?」姉に図星を指されて私は、答えたくなかったが、私の分身は主の感情に応えて、ビクンと撥ねてしまう。「んふふ。体は正直ってね。でも、今日は、もっと違うことするから」そして姉は、眼鏡を外した。珍しい。いつもは眼鏡を外さない。フェラする時も邪魔になるだろうに、「眼鏡をかけていれば射精量が三割増しになるから」とか言って外そうとしないのに。ちなみに、もちろん、そんな増えない。たぶん。「今日は、こうするの」そう言って姉は、眼鏡のツルを、尿道の先端に押し立てた。「きゃっ」「あに、もう感じてるの? もっと凄いことするのに」「もっとって、まさか」嫌な予感。当たらなくてもいいのに当たってしまう予感。「当たり前でしょ?」眼鏡のツルは、押し込まれ。私の尿道に入り込んだ。「おあ、あああ!」「うっわあ、すごい、入るもんだねー」姉は楽しそうに、ズブズブと眼鏡のツルを押し込んでいく。異物が狭い穴の中を押し広げていく感覚。尿道を犯される、快感。「おあ、あはっ! うへあっ!」変な声が出てしまう。姉は嗤っている。気持ちいい。だから、きっと私は。 コックリサン 「コックリさん、コックリさん」放課後の教室。二人の他には誰もいない、シンと静まる中に、ユキの声が響く。「カズマの好きな子は、アキちゃんですか?」一つの机を挟んで、ユキとカズマ、向かい合って座っている。カズマはごくりと唾を飲む。机の上には平仮名や数字、鳥居等が描かれた紙が敷かれている。紙の上には十円玉が置かれていて、それを押さえているのは二人の人差し指だ。二人とも指に力を込めていないのに、勝手に十円玉が動き出す。或いは相手方が操作しているのかも知れないが、それを確かめる術はない。とにかく十円玉は勝手に紙の上を滑るように動き出して、「いいえ」と描かれた所に止まった。「チッ」外れたか、とユキは舌打ちした。「じゃあ、今度は俺な」カズマが表情を引き締めて、「コックリさん、コックリさん。ユキの好きな子は、カトウくんですか?」再び十円玉が動く。十円玉は「いいえ」で止まる。「カトウもハズレか」「大ハズレよ、私、カトウくん好きじゃないもん」「えー、どうして。ドッジボール強いぜ?」「オナラが臭いのよ」「ああ、そうか、あいつの屁は臭いよなあ」二人は賭けをしていた。コックリさんを使って、相手の好きな子を探る。先に当てた方の勝ち、明日の給食のデザートを献上する。けれども、なかなか当たらない。それもその筈、二人きりで遊ぶというシチュエーションが示す通り、ユキとカズマ、相思相愛なのである。子供らしい意地を張って、あいつなんか、と決して認めようとはしないが。誰がどう見ても、喧嘩するほど仲が良い二人だった。しかし、問題は、互いに好きだと認めないことで、それでは賭けはいつまで経っても終わらない。勝敗は「カズマが好きなのは私」「ユキが好きなのは俺」と言えば着くが、そんなこと言い出せるはずなく。平行線を辿っている。やがてカズマが、嫌気が差して、「ええい、この、いいえばかり指しやがって!」と憤慨して、「こうしてやる!」消しゴムを取り出すや、いいえの文字を紙の上から消してしまった。「ふふ、どうだコックリさん、これが文明の勝利だ」「馬鹿かアンタは!」コックリさんに対して謎の優越感に浸るカズマの後頭部に、ユキのツッコミが炸裂した。グーパンチで。「いってえ!」「なんてことすんのよ! コックリさんが怒っちゃうじゃない!」怒りに震えながら、「アンタ、呪われちゃうわよ! 呪われる! 間違いなく!」「なーに言ってやがる、呪われるなんて、あるはずないだろ、アホらしい」とか言いながら、十円玉から指を離せないでいるカズマは、内心けっこうビビっている。「で、でも、呪われるとしたら、どんな呪いだ?」心配らしく、ユキに尋ねる。するとユキは、うーんと唸って、「もうちょっと大人しくなるように、カズマを女の子に変えちゃうとか?」「なんだそりゃ。だったらユキはチンコが生えるな。すぐ殴るオトコオンナめ」「なによ!」「ほーら! 殴ろうとしている、オトコオンナ!」二人の意識がコックリさんから口喧嘩に移ろうとしていた時。「あれ?」「おっ?」異変は起こった。十円玉が動き出す。二人の指を乗せたまま。しかし二人とも十円玉を動かそうとはしていない。勝手に動いているのだ。コックリさんが動かしているのだ。そして十円玉は「はい」の上で止まった。「な、なにがはいなんだ?」「の、呪い、かしら?」二人、顔を見合わせて、「ん?」「え?」二人、同時に異変に気付く。二人の体に異変が起きている。異変が。 ムシ  夕暮れ時。雨が降っている。小雨だが、風の強いせいで斜めに降り掛かる雨は鬱陶しい。こんな日は外出したくないが、買い物に出なければ今夜の夕食と明日の朝食に困るから嫌々傘を引っ張り出してスーパーに行って来た、帰り道。雨は止んだが、俺のズボンに染みと、道路に水溜まりが残っている。ぱしゃり、水溜まりを叩いた俺の足音に、正面を歩く小学生が驚いたように振り返った。赤いランドセルの女の子だった。彼女は俺の方をじっと見ている。とりあえず笑顔で会釈してやったら、小学生は踵を返して全力疾走で俺から遠離っていった。気のせいか、彼女、怯えていたような。少し心が傷付く。俺のこと、変質者と思われたのだろうか。どこからどう見てもスーパーの帰り道の爽やかな大学生のお兄さん、だろうに。そんな威圧感を与えるような風貌ではないと思っていたのだが。自分に自信がなくなる。雨の馬鹿野郎、と雨のせいにして、歩みを再開する。すると、ばしゃり、水溜まりを踏む音が背後から聞こえた。俺以外の誰かが後ろにいる。仮定。もしも女の子が見たのが俺以外の人物だったら。彼女が怯えたのが俺以外のその人物だったら。その人物が俺の背後にいたら。俺はどんな状況でしょうか。相手の不意を突くかのように、ばっと振り返る。さっきの小学生もこんな風だったな、と思いながら俺が見たのは。変質者どころではない、人間ですらない、虫だった。身の丈二メートルを越す巨体。石灰色の外骨格。八本の脚。なぜか顔の部分だけ人間の女の子。「いい匂いするね?」その顔が喋った。視線は俺が持つスーパーの袋。「トリックオアトリート。食わせるか食べられるか好きな方を選ぶといいよ?」ハロウィンじゃないし、というツッコミは飲み込んで。「チョコ食う? それともポテトチップス?」「肉寄越しなさいよ肉。お肉」「チッ」気付かれていたか。「はい、これな」総菜屋で購入した鶏の唐揚げを差し出す。器用に虫は二本の脚で唐揚げを受け取って、「ありがと。それじゃお礼に上げる」卵を差し出してきた。鶏の卵より大きく、丸い。なんなのか聞かずに、押し付けられた物を受け取ってしまう。「じゃあねー」そして唐揚げを食べ歩きしながら虫は去っていった。どこかへ。俺は卵を抱えて立ち竦まる。ぴしり。卵が揺れた気がした。これ、孵るんだろうか。 アナ  アパートに帰ると、部屋の真ん中、床に穴が空いていた。落とし穴みたいに。ぽっかりと空洞だ。いきなり部屋の床に穴を開けられるような心当たりはない。工事、落盤事故、階下の住人の犯行、あれこれ想像していたら、床から顔がひょっこり現れた。「あ、どうも」彼女はぺこりとお辞儀した。釣られてこちらも、「どうも」頭を下げる。土まみれの女の子だった。泥遊びに興じる子供みたいに、茶色く汚れている。「なに? この穴」とりあえず、聞くべきことを聞く。「ごめんなさい。磁場が狂っていて、ルートを逸れちゃいました」「磁場?」「ほら、磁場が狂って、魚がルートを間違えることあるじゃないですか」「うん、あるね」「それと同じで、私も、磁場が狂っていたせいで、ルートを間違えちゃって」「なんのルート?」「土を掘るルート」「君だれ?」「モグラです」と、彼女は穴の下を指さして、「こんなの掘れるの、モグラしかいないでしょう」近寄って覗き込むと、延々と穴は底に続いていた。アリの巣を思い出した。まあ、彼女がモグラと言うなら、「そんなもんなのか」「そんなもんです。で、磁場のせいとは言え、床に穴を開けちゃったお詫びをしたいのですけど。なにか私に出来ることありますか?」モグラ少女が言う。いきなり言われても困る。沈黙は気まずいので、なんとなく尋ねてみる。「この穴、どこまで続いているん?」途端に彼女の顔が輝く。我が意を得たり、という風に。「気になりますか? 行ってみたいですか? 思い立ったが吉日、さっそく行ってみましょう! いま行きましょう!」「いややや、俺はどこまで続いたか聞いただけで行きたいとは一言とは」「レッツゴー! ドリルでルンルンクルルンルン!」聞いちゃいない。彼女に腕を掴まれ、穴の中に引きずり込まれる。 ヒャクネン  此の家は齢百年を超えると死んだ祖母が言って居た。今此の古家に住んで居るのは、訳有って、私一人で在る。さて、或る日。私が、「只今」と誰も居ない筈の家に帰ったら。「御帰り為さい」と返事が有った。驚く私、見上げると、玄関には子供が居た。私の幼い頃の服を着て居る。「貴方誰よ、何処の子よ」迷子か悪戯子と見当付けて居たのだが、子供は、「此処の子だよ」と言う。然し私は、「貴方なんか知らないわよ、見た事無いわ」家族、親戚、心当たりは無い。訝しむ私に、子供はにんまり笑って、「非道いなあ、毎日私の事見て居るじゃない」「毎日?」「私は此処の子だよ。否、語弊が有ったね、私は此処だよ。此処が私だよ」「はあ? 何言ってんの?」「だから私が此の家なんだよ。私は付喪神と言う奴だよ」付喪神。或いは九十九神とも書く。九十九年を生きて魂を具えた器物を、付喪神と言う。嗚呼、確かに、此の家は古い。齢百年と超えると、死んだ祖母が言って居た。「で、其の付喪神様が何の用?」取り敢えず話を呑むとして、付喪神が何の為に私の前に現れたのだろう。「家族が帰ったのだから、御帰り為さいを言うのは当然でしょう?」子供の姿をした付喪神はそう答えた。「只今と御帰り為さい。家族の挨拶だよ」「家族?」「家族じゃない。私と貴方。此の家に住んで居るのだから、貴方は私の家族よ」えっへん、と子供は胸を張る。「だから、御帰り為さい」「嗚呼、云、只今」再び挨拶。そうして仕切り直した所で。「で、何で今に成って出て来たの? 付喪神なら九十九年でしょう?」そう、其所が疑問だ。どうして今まで出て来なかったのか。「隠れてたに決まって居るじゃない」さも当然の様に言う。「付喪神に成り立てから、今まで勉強して居たのよ。世界の」「世界の?」「生まれて間も無い子供に何が出来る?」成る程。理には適っている。「詰まり幼稚園を卒業したのね?」其の喩えに、付喪神は「うー」と唸る。「幼稚園は嫌だなあ。此でも百何年と在り続けて居るのだから」「あはは、御免御免」一頻り謝ると、今度は付喪神が何か言いたそうにして居た。「何? 何か言いたい事有るの?」「云、あの、えっとね」「遠慮し無いで言いなさいな。家族なんでしょう」家族、と言う言葉に、幼い顔が喜ぶ。「あの、一緒に暮らして良い? 此の姿で、という意味で。嫌なら又隠れて居るけど」何だ、そんな事か。「当たり前、良いに決まって居るでしょう。家族なんだから」「有り難う! やった! 今迄ずっと寂しかったんだ」そして私に抱き付く付喪神。「ねえ、遊ぼう! 遊ぼう!」「はいはい」私の顔に微笑が浮かぶのが分かる。なんて微笑ましい神様だ。 キセイチュウ  いつの間にか脇腹が腫れていた。虫にでも刺されたのだろうか。小さな赤い斑点。ぷくっと肉が盛り上がって、まるで卵。掻こうとすると、ひどく痛い。まるで肉を剥がされるような、堪らない痛みだ。その日は脇腹を引っ掻かないように注意した。たまに脇腹を撫でると、まだ治っていないことを示す痒みが伝わってきた。それから数日。腫れは治まらず、どころか悪化して、脇腹全体が赤く腫れ上がっていた。腫れ上がった患部は硬質化して、さらに数日が経つと、カサブタみたいに黒ずんだ皮質に化けていた。痛みも悪化して、掻かなくても触れるだけで痛みが走った。服を着るだけで痛い。生地が擦れるだけで激痛が盛大に自己主張する。おかげで服を着られない。幸い春休み、学校に行く必要はない。バイトは休んだ。上半身裸で外出するわけには行かない。それに、風が吹くだけで、滲みるように痛いのだ。一日中を家の中で過ごす。痛みが引いたら医者に行こうと思いながら。テレビを見ていたら、床の上にハラリと何かが落ちてきた。黒いそれは、脇腹のカサブタだ。自分の脇腹を見てみれば、硬質化した皮質はヒビ割れ、今にも全て剥がれ落ちそうだ。胴体を捻ってみる。上体をでんでん太鼓みたいに振ってみる。パラパラとカサブタが剥がれ落ちる。だいぶカサブタが落ちたところで、腫れていた箇所がどうなっているか見てみる。よくよく見ると、肉が盛り上がっているように見えた。と、身体を捻らずとも、勝手にカサブタが剥がれ落ちた。内側から小さな手が、カサブタを払い落としたのだ。小さな右手の次は小さな左手、続いて小さな頭、小さな体、小さな女の子が出てきた。「やっほー」女の子は言った。多分、女の子だと思う。彼女の臍から下は、腫れていた箇所と繋がっている。それでも微かに膨らんでいる胸、柔らかい曲線を描く身体、可愛らしい表情で、女の子だと判断する。「ねえ、やっほー? 聞こえてない? 気付いてない?」返事がないのが心配になったのか、女の子は何度も俺に呼び掛ける。「いや、聞こえてる。えーと。こんにちは」「こんにちは! ああ、よかった。たまに現実を見ようとしない人がいるから困るのよねえ」「いや俺もこの現実は受け入れがたいんだけど」いきなり脇腹から女の子が生えても動揺せずに受け入れる人はいないと思う。「これ、なんなんだ? 俺の腹から生えてるのか?」「えー。説明すんの、めんどくさいなあ」「説明してください、頼むから」「はあ、しょうがない。えーとね、私は寄生虫だよ」「寄生虫? 回虫やサナダムシのような?」「うん」「でも虫じゃなくて人型じゃ」「いいじゃん人型でも。個性の時代だよ。人型の寄生虫、個性的でいいでしょ?」偉そうに胸を張る、寄生虫。「そういうもんなのか」「そういうもんなのです」今や寄生虫も個性を追い求める時代らしい。「それじゃあヨロシクね、宿主さん」「いやヨロシクされても困るんだけど」 マイゴ  いつもと違う道で帰ろうと思ったら迷子になった。ここは誰だ、私はどこだ。バイクを道の端に止めて四方を見渡す。いつの間にか陽は沈んで。林の中を突っ切る細い道路。前にも後ろにも、車のライトも人影も見えない。アローン・イン・ザ・ダーク。しょうがないから、このまま進むことにした。来た道を帰るのはめんどくさい。このまま進めば、知った道に出るだろう。たぶん。きっと。バイクのエンジンを掛け直して、アクセルを入れる。法定速度を無視して突っ走る。道路を囲うように生い茂る木々の密度は、林というか森の領域だ。暗い夜、暗い道、暗い森。なんだか不気味で、ますますバイクのスピードを上げる。一対どれくらい走ったのか、このままどこにも辿り着かず永遠に走り続けるんじゃないだろうかという妄想が頭をチラチラと掠め始めた頃、ようやく変化が見えた。といっても木々は相変わらずだが。建物が現れたのだ。遠くからでも分かるくらい大きくて古い洋館で、蔦が絡みついたり寂れた印象がある。けれど明かりは灯っていて、人がいる、人が住んでいる。洋館の前にバイクを止めて、道を聞くために玄関のインターフォンを鳴らす。ピンポーン。「すいません、こんばんはー」もう一度ピンポーン。「こんばんはー」「はいはーい」ガチャリ、と扉が開く。出てきたのは小さな女の子。「こんばんは、なんの御用ですか?」「ごめんなお嬢ちゃん、夜分遅くに。実は道に迷っちゃって。どっちへ行けば街に出るか分かる?」「ああ、道に迷ったんですか。それなら」ああ行ってこう行って、と教えてもらう。「ありがとう。それじゃあ」「はい、どうもなのです」そして礼を行って、屋敷の敷地を出て、再びバイクに跨る。エンジンを掛けて。掛けようとして。そこで気づく。バイクの座り心地が変だ。降りて、タイヤを見ると、見事に後輪がパンクしていた。空気が抜けてペチャンコになっている。「オイオイ、こんなところで」「パンクですか?」背後から声。さっきの女の子が立っていた。「嫌な予感がして。私の勘はよく当たるんです」聞くより早く、女の子はそこにいた理由を答えた。「良かったら、私の親が帰ってくるのを待ちませんか? お父さんなら、パンクの修理、できると思うんだけど」「本当?」もしそうなら、助かる。「んじゃ、悪いけど、お願いしよう。それまで、そうだな、外で待っているよ」「そんな、悪いですよ。中に入ってください。まだお父さんが帰るまで時間あるし」女の子はあどけない笑顔で言う。「いいの?」「はい」「んじゃ、お世話になります」「いえいえ、困った時はお互い様です。さあ」あどけない笑顔で、しかし仕草は妙に大人びていて。慣れている感じがして。誘っている気がして。それこそ嫌な予感がした。そういえば、パンクの原因はなんなんだろう。走っている最中は平気だったのに。いやいや考えすぎだろう。ずるり。洋館を伝う蔦が、蠢いた気がした。 セナカ  最近やけに背中が痒い。鏡で見たら、背中に沢山の痣が出来ていた。背中一面痣だらけで、まだら模様になってしまっている。放っておいたら痣は広がって、斑点状から一つの巨大な痣になっていた。火傷の痕みたいに見える。蝶の羽のようにも見える。異様な形と大きさの痣だ。こんなになっては、さすがに気味が悪い。医者に診てもらったら、「ああ、これは、羽根ですね」と言われた。「羽根?」「たまにいるんですよ。羽根が生えてくる人。まあ病気じゃないんで安心してください」「はあ」「ちゃんと羽根が生え揃ったら、また来てください。飛び方を教えてさしあげますので」「ああ、どうも、ありがとうございます」どうやら病気ではないらしい。背中の痣は、羽根だという。どんな羽根が生えてくるのだろう、私は楽しみに数日を過ごす。風呂では背中を特に入念に洗った。ある朝、眼が覚めたら私はうつ伏せに寝ていた。起きると背中が重い。羽根だ。私は背中を鏡に映す。小振りの羽根が、見事に生え揃っていた。感覚がある。神経が通っている。試しに動かしてみる。ふわり、と風がそよいだ。「あは」面白い。もっと動かしてみる。羽ばたいてみる。と、私の体が少し浮いた。「すごい、すごい」けれども巻き起こる風のせいで、部屋の中の軽い物が飛ばされてしまっている。すぐに飛ぶのをやめて、羽根を落ち着かせる、床に着地する。私は早く羽根を誰かに見せたくて、急いで医者のところへ行く。「やあ、立派な羽根だ」医者はそう言って、飛び方を教えてくれた。最後にはばたき免許をもらって、私は医者のところを去る。 ルスバン  犬を飼い始めて一ヶ月が経つ。純白のチワワだ。ちょこんと座った姿が狛犬を想起させたので、コマと名付けた。人懐こい犬だ。出掛ける時、いつも悲しそうに鳴いて私を引き止めようとする。利口な犬だから檻には入れていない。そんなコマが、留守番の間どうしているのか気になって、ビデオカメラを仕掛けてみた。いつもコマは玄関で私を待っているから、カメラも玄関に設置する。帰宅後、コマを膝の上に載せてあやしながら、ビデオを再生する。テレビには、玄関で主人を待ち続ける愛犬の姿が映し出された。やがてコマは眠りに落ちて、画面は変化を見せなくなる。飽きたのでビデオを止めようとしたら、画面に黒い影が現れた。黒い外套を羽織った子供が四つん這いで背中を向けているようで、それ以外の何かの気もした。謎の黒い塊はコマの上に覆いかぶさり、ビデオは悲痛な鳴き声も再生した。黒い塊の表面がモコモコとうごめき、すぐに動きは止まる、静かになる。黒い塊は滑るように画面から消える。あとにはコマが残っていた。そしてコマは二本足で立ち上がった。スーツアクターが新しいキグルミの具合を確かめるように腕をグルグル回したりピョンピョン跳び跳ねたりする。壁の時計を見る、もうすぐ私が帰ってくる時間だ。コマの姿をした何かは、おとなしく床に座った。いつもコマがそうしていたように。私が帰ってくる、私がカメラの電源を切って、そこでテープは終わる。私は恐る恐る、膝の上に座っている存在を見た。それは眼を細めて笑った。 デンパ  電車の窓。景色は揺れて流れて川みたい。私は窓枠に肘を乗せて頬杖ついて、ぼんやりと外の風景を見ている。列車の振動は眠気を誘い、私はまどろみに包まれる。いま見えているのは夢か現か。秒刻みで景色は変わる。一面に広がるたんぼ、彼方で踊る白いクネクネ、ほの暗いトンネルに入る、列車に並走する老婆、都会の隙間を電車は走る、ビルの一室で首吊り自殺している美女、線路の脇に道路、首なしライダーがバイクに跨がっている、七色の山脈が見える高原、半魚人が手を振っている、電車は宇宙へ、機械の身体が貰える星を通過する、海中へ潜る、ムー大陸の巨大遺跡を目撃する、UFOに電車ごと誘拐される、その間の記憶はなくして列車は線路に戻っている、電車が変形して巨大ロボットになる、世界の平和のために戦う、そして車内アナウンスで終着駅が近いことが知らされる。私は眠りから覚める。頬杖から身を起こし、首を鳴らして大きな欠伸を一つ。また電波を受信していたようだ。私は電波を受信してしまう体質だ。ラジオやテレビ、ケータイ、その他諸々。寝ている状態で電波を受信してしまうと、さっきみたいに、変な夢を見てしまう。これ以上受信しないように、アンテナみたいに生えるアホ毛を手で抑える。もちろん、この毛が、アンテナのはずない。髪の毛は髪の毛だ。アホ毛を抑える、この動作は、私だけのおまじないだ。もう変なもん見せないでよ、と自分のアホ毛に言い聞かせる。しかし電波はいうことを聞かなかった。私は、声を、聞いてしまう。助けて。助けて、助けて、助けて。私だけに聞こえる声は、助けを求めていた。幼い子供の声。彼か彼女かは、か弱い声で、助けてと連呼していた。電車が止まる。他の乗客を掻き分けて、私は真っ先に駅に降り立つ。どこだ、どっちだ、声の方向は。電波の発信源は機械だけじゃない。人間もだ。人間も、微弱な電波を発する。この近くにいるはず。助けて。助けて。助けて。また電波を受信した。信待っていて、私が助けに行く。 ミニスカ  新年早々、正月休みを知らずに賑わう街。活発に行き交う人々は多種多様。その中には制服姿の女子高生もいる。彼女らは、青春を見せつけるように、休日でも制服を着ている。しかし。冬至を過ぎたとはいえ、季節は冬真っ盛り。未だ寒さは厳しく、風の子の小学生さえ厚く着込んでいるというのに。スカートの丈を短くして素足をあらわにしている、女子高生らの出で立ちは、異常ではないか。ファッションの一言で片付けていい疑問だろうか。女子高生たちは鳥肌も立てず、寒さに震えることもなく、素肌を真冬の空気に晒しているのだ。一人の女子高生が男を捕まえた。いわゆる逆ナンというやつだ。普通は男が女をナンパするのを、逆に、「ねえ、お兄さん」と男がナンパされていた。軽薄そうな、頭の悪そうな男は、ミニスカの女子高生に導かれるまま人のいない路地裏に連れて行かれる。「どこに行くんだい?」男が言う。「いいところへ」女子高生が答える。すると彼女の背後の空間が歪み、なにもなかったはずのそこに巨大な物体が現れる。それは、狭い路地に縦に浮かぶ、巨大な円盤だ。円盤の縁から光線が照射されて、男と女子高生を包む。「いいところへ、連れてってあげる」「UFO! 宇宙人!」男が女子高生の正体に気付いた時にはもう遅い、宇宙船から伸びる妖しい光が男をアブダクションする、寸前で邪魔が入った。どこからか飛来した新聞紙が光を遮ったのだ。ただの紙なら男もろとも空間転位して船内に取り込んでしまえるが、この新聞紙はそれが出来なかった。見た目はただの新聞紙だが、外宇宙の超技術を利用した、ブラックホール級の空間歪曲フィールドを発生しているのだ。なにが起こっているか分からず、ただ圧倒されてへたりこむ男の肩がポンと優しく叩かれる。「逃げなひゃい」不明瞭な発音だったが、その言葉は男を安心させるに充分だった。男が立ち上がりながら振り返ると、彼の背後には、みずぼらしい格好の、ホームレスと思われる人物がいた。マフラーのように首に巻かれたボロ布と、目深く被った帽子が、彼の顔を隠している。「逃げな、さい」さっきより聞き取りやすくなった発音で、ホームレスの男が、優しく言った。わけが分からず、けれども感謝はしながら、言われた通りに逃げる。「ありがとう! ありがとう!」そうして路地裏に残るは宇宙船と女子高生、ホームレス。すでに光線の照射は止まっている。女子高生が口を開く。「そんな邪魔をしてなんになる、アドロス星人め。我々の邪魔をして、貴様らの得はないだろう」「正義だ。宇宙の正義が我々を衝き動かす。おまえらの悪行を止めよという」彼らが地球の言語で会話するのは、それが彼らの間で共通して喋れる言語だからだ。敵対する星系の言語など、わざわざ習得しないのだ。「ギラヌス星人、地球侵略などさせんぞ。そんな侵略が成功した試しは、ない!」ホームレスの男はビール瓶を構えた。「愚かなるアドロス星人。その最初がギラヌス星人となるのだ!」女子高生は、携帯電話のアンテナをジャコンと伸ばした。地球の命運は人知れず。路地裏に火花散る。 コクハク  昼休み。男の子に告白されたばかりのショウコは私をトイレに誘った。「ナノカ、トイレ行こ」二人連れ立ってトイレに向かう。どうしてトイレが歓談の場に好まれるのか。密室ゆえかも知れない。ショウコは個室に入る。私は個室の前で待つ。扉にもたれかかる。衣擦れの音が聞こえる。「やっぱさー」ショウコは私に話したいことがある。だから私をトイレに誘った。その話題はだいたい予想がつく。「断ったの?」告白した男の子にどう返答したのか。ショウコ自身からは聞いていない。けど、見目麗しいショウコが告白されたのは初めてじゃない。そして告白を断るたびにショウコは私に愚痴ったものだ。トイレで。今日もトイレに、彼女は私を誘った。「うん」ショウコは肯定する。「だって駄目そうだったもん」「付き合ってみないと分かんないじゃん。もったいない」ショウコにアタックする男の子は、彼女と釣り合うと自負して告白するだけあって、けっこうレベルが高い。易々と振ってしまうにはもったいない。一部の女の子からショウコは妬まれさえしている。ショウコは、「分かるよー」つまんなそうに愚痴る。「絶対、あれ、なんも分かってない顔だもん。私のこと。なんも分かってない。私はみんなが思うような女じゃないのに」「だから、どこが、なんなのよ」「きっと私がケツの穴掘らせろって言ったら嫌がる」「ハア?」文脈と合致しない発言が飛び出した気がする。それとも私の聞き間違いか。ケツの穴掘らせろ……? 混乱する私の背中で扉が動く。私がどくと、扉は内側から開かれる。スカートを下ろしたショウコが立っている。彼女の股間には肉棒が勃起している。「私は入れられたいんじゃなくて、入れたいの」彼女は私を見て言う。正確には私の股間を。「ナノカは嫌がる? 私、ナノカに、入れたい」ショウコが誰とも付き合わないのは、恋愛と性交を一緒に考えているせいで。その性欲は今、私に向けられている。そして私がショウコならいいやと思っているのは友情だった。 キョウゾウ  いつからだろう、物心ついた頃から鏡が怖かった。いつだって鏡は恐怖の対象だった。鏡に映った鏡像が怖い。鏡像を見ていると不安になる。鏡像が勝手に動き出したらと考えると、鏡を見るのが嫌だし、見ていなくても嫌だ。歳を経てもそれは変わらず、一人暮らしを始めた私の六畳間に鏡は一つしかない。アパートに予め備えつけられていた、浴室の鏡だ。アパートはユニットバス制で、ことあるごとに鏡を見なくちゃいけない。私は浴室に入る前に眼鏡を外す。こうすれば、見えても、見えない。ぼやけてしまう。ところが今日に限って眼鏡をつけたまま浴室に入って、鏡を直視してしまった。嫌だなあ。けれども眼鏡を外すためだけに浴室を一旦出るのもめんどくさい。そのまま歯磨きを始める。眼を瞬き、眠気の残る頭で今日の予定を反芻しながら、歯ブラシを動かす。正面には鏡だ。私が映っている。歯ブラシで歯を擦っている。鏡像が動く。歯ブラシを持っていない方の手を、ひょいと上げる。こんにちは、という風に、手を振ってくる。私はそんなことしていない。鏡像が勝手に動いている。歯ブラシを握る私の手が止まる。鏡像は止まらない。見せつけるように。オーバーリアクション気味に、歯茎を剥いて、ごっしごしと泡立てる。しばらくすると鏡像も歯磨きをやめる。口の中の泡を吐き出し、蛇口を捻り、水をすくって、飲んで、ゆすいで、吐き出す。私は歯ブラシこそ置いたけど、そこで硬直したままだ。鏡から眼を離すのが怖い。けど、見るのも、怖い。こいつは、なんなんだ。口元をシャツの袖で拭うと、鏡像はにたあ、と笑った。いやらしい笑みだ。私もあんな風に笑うことがあるのだろうか。自己嫌悪。表情には気をつけようと思う。私は一歩、後ろに退く。鏡像は一歩、こちらに近づく。私は倒れそうに傾いている。鏡像は鏡を覆うように迫っている。ぬうう、と鏡像の腕が、伸びてくる。私の身体は限界まで後ろに反って、浴室のドアに背中が当たる。それ以上は後ろに引けない。私はたわめられたバネを解放する。重心は後ろ足から前足へ。身体は後ろから前へ。運動エネルギーは一点に集約される――私の頭部に。おでこから鏡にブチ当たる。頭突きに鏡は砕け散る。鏡像は消える。鏡は壊れて用をなさなくなる。割れた破片をチリトリで掃いて集めてゴミ箱に片付ける。これで私の家に鏡はない。 スイスイスイム  ういんういんういんういん。太い棒状の機械がその身をくねらせて作動する。黒光りするそれは、どう見ても大人の玩具だ。そしてここは女子更衣室。水泳の授業を前に、無防備な格好の女子生徒たちが談笑しつつ着替えている。そんな所でバイヴを握り締めて、「ほら! これを使えば今日はバッチリ!」ふんぞり返るコトコに、私はとりあえずタオルを頭から被せてやることでそれ以上のセクハラを阻止した。バイヴもタオルに隠れて見えなくなる。安心して私は着替えを続ける。予め内側に水着は着てきたので、タオルなしでも支障はない。制服を脱いでしまうだけだ。「もが! ちょっと、なにすんのよっ」タオルを払いのけてコトコは復活する。「チッ」「なに舌打ちしてんのよ!」「あんたこそなに振り回してんのよ」「サッちゃんのためなの! これは」「……羞恥プレイさせる気?」バイヴを挿入したまま水泳の授業に出る。とてつもなく難易度の高い羞恥プレイである。そんなことをコトコは私に強制しようというのか。友達付き合いを考え直さなくちゃいけないかも。「ちーがーうー! 羞恥させないプレイよ」大袈裟に身振り手振りを交えて否定するコトコ。バイヴを握り締めたままでだ。ういんういんういんういん。ちなみにバイヴはさっきから動きっぱなしだ。「プレイ?」聞き返す。「プレイは関係ないのっ! もうっ!」コトコはなんだかテンションが高い。「サッちゃん、泳げないじゃん? だから私、頑張ったのよ。ずばり水泳用モーター! これでカナヅチな人もすいすいスイム!」「……すいすいスイムって、あんた、オヤジギャグだよ」「違う! ツッコミどころ違う! 水泳用モーターに触れようよ! 徹夜して作ったんだよ!」……そうか、それでテンション高いのか。徹夜した人間が陥る謎のハイハイテンション、コトコはその状態にあるようだ。私は淡々と着替えつつ、「はいはい、水泳用モーターね」これも淡々と応じる。確かに私は泳げない。プールに入れば水に沈む。けれども、コトコの作った怪しさ全開の機械を使おう気にはなれない。「サッちゃーん、使ってよー。浮かばれないよー」ノリの悪い私にコトコはしなだれかかって訴えてくる。互いに半裸、湿った更衣室の中では鬱陶しい限りだ。私は無下に払い除けて、「嫌。だいたい、そんなもの使ったら反則じゃん。意味ないよ」「大丈夫だよう、バレないから。これ、お尻に挿しこむだけ。中に隠れて見えない見えないっ」「バレるバレない以前の問題だ!」お尻に挿れるなんて、大人の玩具そのものじゃない。「はあ」嘆息する。「じゃあ、私は先に行くからね」着替え終えた私はコトコを置いて先に更衣室を出る。付き合いきれない。そして水泳の授業に参加する。プール開きしたばかり、今日で最初の水泳の授業だ。私が泳げないことは、先生にはまだ言っていない。けれども言う気はない。ひょっとしたら泳げるようになっているかも知れない。練習とかしてないけど、いつの間にか泳げるようになっている、そんな奇跡もありうるかも知れない。泳げない子だけ隔絶された授業を受けるのは、実に寂しい。準備体操後、他の生徒に混ざってプールの水面前に並ぶ。次々と飛びこんで泳いで行く。――私の番。心臓が早鐘を打つ。唾が飲み込めない。「どうかした?」後ろの子から心配される。「ううん、なんでもない」そうだ、どうってことない。ちゃんと水底に足はつく。怖くない。怖くない。怖くない。念じて飛びこむ。私の身体は沈む。溺れる。慌てる。パニックを起こして立つことを忘れてしまう。水底で匍匐前進するみたいに藻掻くだけ。口から空気が泡となって消える。ドボン――背後から、飛び込み音。私は安心する。誰か、助けに、来て……くれ……た……? 安心は疑問を挟んで不安に変わる。私はよりいっそう激しく手足をじたばたさせる。背後より迫るはコトコである。その手には、例の水泳用モーター改めアナルバイヴ。ういんういんういんういん。水中に電動音が響く。私は必死で逃げる。水を掻く。水を蹴る。貞操の危機だ。無我夢中の私が我に返ったのは、頭を壁にぶつけた時。「――痛っ!」思わず立ち上がって苦痛の声を出す。「……って、あれ?」いつの間にかプールの反対側。これは泳げたことになるのだろうか。けれども私は水に浮いていない。 ケシゴム  ノートに文字を書く。書く。書く。間違える。消しゴムを呼ぶ。「おーい」「はーい」とててて、と筆箱の中から消しゴムが出てくる。彼女は袖を捲ると、ごしごしと、ノートを擦る。鉛筆で書かれた文字は掠れて消える。消しカスが転がる。それと同量、消しゴムの身体が減る。今は左腕の肘まで減った状態。肩を押しつけてごしごしと、彼女は文字を消す。文字を消す。それが消しゴムの役割。日を追うごとに消しゴムは磨り減っていく。ごしごし、ごしごし。うんしょ、うんしょ。懸命に文字を消す。消しカスが積まれていく。彼女の身体がなくなっていく。両腕がなくなる。それでも、消しゴムは役割を果たそうと、「じゃあ、ここ、消しますね」「あー、いいや。消さなくていい」脚か頭か、どちらかを使おうと膝を折った姿勢の消しゴムにストップをかける。「いいんですか?」「いいよ、うん」「そうですか、いいんですか」「うん」諦めて消しゴムは筆箱に帰る。私はノートの間違えた部分に棒線を引く。その上に書き直す。そうして書き物を続ける。なんだかなあ。なくなっちゃうと、もったいない、というか。さみしい、というか。新しい消しゴムを買うのもなあ。筆箱の、そこに、消しゴムがいるのが、馴染んじゃったんだよなあ。この消しゴムがいいんだよなあ。私は鉛筆からボールペンに持ち替える。「それだと、間違えたら、直せないですよ?」消しゴムが筆箱からひょっこり顔を覗かせて、言う。「いいの。一筆入魂」「……そうですか」消しゴムはさみしそうに顔を引っ込める。私の生活は鉛筆からボールペンに頼ったものに変わる。消しゴムの出番がなくなる。たまに筆箱から出てくる消しゴム。出番がなくなったのが不満なのか。ボールペンに嫉妬の眼差し。ある日、「もう、消しゴム、いらない子なんですか? そのうち引き出しの奥にしまわれちゃうんですか? それとも、ひょっとして、ゴミ箱ですか?」堪えきれずか、そんなことを言い出した。私は、「違うよ」と答える。「ずっと一緒だよ」いつも私の筆箱には消しゴムがいる。指で彼女を弄る、その時間が好き。ふにふに、ふにふに。ずっと一緒だよ。 ショウガイブツキョウソウ  靴紐を締め直して、爪先を地につけてグリグリと足首を回す。軽く飛び跳ねて、身体の調子を確認する。うん、イケる。走れる。一位を取れるコンディション。障害物競走でも、基本は、脚だ。速く走れること。今日の私は誰よりも速く走れそう。合図がされて、私は他の選手たちとスタート位置に並ぶ。気合い充分。みんな、やる気だ。未だうちの学校は体操服にブルマを採用しているけど、きっと放出されているのはフェロモンではなく闘志。スタートラインに揃えられた脚からは、たわめられたバネのような、引き絞られた弦のような、一触即発の力を感じる。体育大会がキワモノ競技にして目玉競技の一つ、障害物競走。出るからには負けられない。私も脚にエネルギーを溜める。溜める。溜める。「よーい」銃声。「どんっ」体育大会実行委員の合図と共に一斉に走り始める。声援の中を私は一番に躍り出る。網の下を猛獣みたいな勢いでくぐり抜ける。平均台の上をカンフー映画みたいに軽快に走り抜ける。有志男子による人間障害物は容赦ない蹴りで問答無用に蹴散らす。なにやらいやらしいことを考えている眼が怖かったので、つい股間に蹴りを叩きこんでしまった。まあいっか。一位を死守しつつ最後の障害物、飴食いだ。私は、うっ、と吐き気を催す。普通は小麦粉の中に飴玉は隠されるものだけど、なぜかうちはチョコレートの中に。溶けた、生チョコだ。どろどろのその中から飴玉を見っけて、咥えて走らなきゃいけない。これ考えた奴は変態だ。人間障害物にしても。顔も知らぬ競技発案者を呪いながら、私は生チョコの中に舌を入れる。唇、頬まで、チョコに濡れる。どろどろの中を舌が這う。チョコレートを飲みこまないよう注意する。甘いものは好きだけど、これは、さすがに、遠慮したい。きっと吐く。やがて飴玉を見つける。鼻先までチョコの中に浸かりながら私はそれを咥えて、口に含む。顔を上げる。うええ、気持ち悪い……けど我慢して、再び走り出す。――いつの間にか私は最下位に落ちていた。飴食いで手間取ったのが原因だ。みんな、もっと、べしゃっとチョコの中に顔を突っこんでいる。先頭を走る選手は耳までチョコにまみれて顔面パック状態だ。私は必死で追走する。後悔する。私には覚悟が足りなかったのだ……ゴール。なんとか追い上げたもののビリから二番目。私は肩を落として自陣に帰る。チョコがついたままの間抜け面で。「はあ」溜め息をつく。「頑張ったわね」お姉さまに声をかけられる。「あっ、ごめんなさい、私」「いいのよ、頑張ったじゃない。楽しかったでしょ?」私はお姉さまのために一位を取りたかったのだ。のに、逆に、励まされて。嬉しいけど、自分が不甲斐ない。せっかく同じ紅組になれたのに、私はチャンスを不意にしてしまった。明らかに不満顔の私にお姉さまは言う。「ほら、気にしない。順位だけが体育祭じゃないでしょ?」そして私に顔を寄せて、私の頬についたチョコを舐め取る。お姉さまの舌が私の唇まで走る。なにか言おうと突き出していた私の舌に、お姉さまの舌が触れる。「ふふ、甘いね」私は口をパクパクさせるばかり。お姉さまの唾液で溶けたチョコレートが皮膚を伝う、それを舌で拭う。「あっ、ありがとうございます!」お礼を言ってしまう。これは間接キスになるのかな、なんて思いながら。もっと舐めて欲しいとも。 ヒミツ  放課後の教室。半開きのカーテン。夕陽が教室を部分的にオレンジに塗り替える。誰もいない。試験期間中、生徒は半強制的に帰される。居残って勉強する生徒もいるけど、それは少数。そのほとんどは図書室を利用して、やはり教室に残る生徒はいない。誰もいない。廊下の端から端まで往復して、全ての教室をチェックして、それでも心臓が高鳴るのを抑えられない。聞く者なんていないのに、忍び足で教室に入る。自分の教室だ。目当ては自分の隣の席、大好きなカノコさんの席。机の横にかけっぱなしのバッグ。中には水泳道具一式が入っている。忘れ物だ。僕はそっとそれを手に取る。バッグの開ける。むあっと、水泳の授業を終えたタオル特有のしめりが広がる。けど、カノコさんのそれは、いい匂い。更衣室で嫌でも嗅がされる同じ男子のタオルの匂いは臭いけど、女の子は違う。それともカノコさんだからかな。タオルを胸に抱いて、匂いを嗅ぎたくなる。思い止まる。そんなの変態みたいだ。いや、好きな子の水泳道具を漁っているのも充分変態だけど。なんで僕はこんなことしているのか。自分でも分からない。ただ、カノコさんの水泳道具をなんとかできる、そのチャンスに、なにも考えずに飛びついてしまっただけで。これからなにをするつもりなのか、自分でも分からない。タオルを机の上に置く。バッグの底には水泳帽、ゴーグル、そしてスクール水着。迷わずスクール水着を手に取る。やばい、僕はなにをしているんだろう。身体が勝手に動いている。引っ張ったり撫でたりして、僕の手はカノコさんのスクール水着をまさぐっている。特に乳首や臍、股間のあたりを。妄想が暴走している。カノコさんはこれを着ていたんだ、ここにカノコさんのあそこが当たっていたんだ……スクール水着の股間の生地が、妙に固い。コルセットを連想させる。こういうものなのかな。満足したのか、スクール水着をまさぐる手が休む。そして、オイオイ、僕、そんなことをするのか。僕は制服を脱ぎ始めた。全裸になる。誰かに見られたらどうする気だよ。教室で、女の子のスクール水着を手に、素っ裸なんて。言い訳できない変態だ。けどそれで終わりじゃない。僕はカノコさんのスクール水着に股を通す。ぐいと引っ張って、肩を通す。小柄な体格、ちょっとだけ無理をして、カノコさんのスクール水着を僕は着てしまう。ピチピチだ。お尻に生地が食いこむ。意外なのは股間に余裕があることだ。僕の、その、チンコは、あまりきつくない。例の固い部分の生地がぴったりとフィットしている。どうしてだろう。女の子にはない余計な部分だから、一番きつくなると思ったんだけど。それはともかく、僕は誰もいない教室でカノコさんのスクール水着を着てしまう。しっとりとした感触が全身を包む。いつの間にか僕は勃起していた。これでは股間がきつくなってしまう。僕はもぞもぞとスクール水着の生地を弄る。擦れて、余計に刺激が加わってしまう。いきり立つ。ガタ――背後から物音。滑りの悪い教室の戸に重みが加わった音。振り返れば、果たしてそこにはカノコさんその人がいた。スカートの前が不自然に膨らんでいるのが眼につく。「あの、その、これは……!」「いいよ、秘密にしてあげる」僕が言い訳するより早く、彼女はそう言った。こんな状況では不自然な笑顔で。ニコニコと。手を後ろにして、近づいてくる。相変わらずスカートの前が半ばまで持ち上がっているのが、変だ。ああ、どうしよう、どういうつもりだろう。悲鳴を上げられるよりはいいけど。なぜか彼女は嬉しそう。「だから、ね。私の秘密も知って欲しいな」僕の前で立ち止まると、カノコさんはスカートを両手で持ち上げる。スカートの下が完全に露わになる。そこには肉棒が起立している。カノコさんのパンツからはみ出して伸びているそれは、僕のと同じ、チンコだ。「私さ、こんなんだからさ。スクール水着、普通と違うでしょ? オチンチンの部分、サポーターついているんだ。あ、男の子には分からないか。はは」笑う。楽しそうに。僕も彼女も勃起したままだ。「シンくんの見ていたら、勃っちゃった。責任取ってよ? 秘密にしてあげるからさ」そしてカノコさんの手が僕の下腹部をなぞって股間、スクール水着の生地の間に差しこまれて、直接手が触れる。スクール水着の水気で湿って、ぬるり、と気持ちよく、「うあっ」僕は腰が引けてしまう。「シンくんのこと好きだったんだよね。けど、こんな身体だから、告白できなくて。でも解決したね。一緒に秘密しよ?」僕は頷くしかない。これでいいのかと思いながらも。僕もカノコさんの肉棒を握り返す。 カベノアナ  壁に穴が空いた。汚れかと思って擦ったら、ぼろり崩れ、壁に穴が空いてしまったのだ。暗い穴だ。底が見えない。懐中電灯で照らしても、底まで光が届かない。壁の向こうはアパートの隣室のはずだけど、この穴は違うところに通じているらしい。隣の部屋から生活音が聞こえてきても、穴の中は真っ暗のままである。アパートの管理人には連絡していない。弁償だなんて言われたら払えない。今の俺は一週間後の食費をどう調達しようかさえ悩む身分なのだ。ので、壁の穴は秘密にして、一人眺める。この穴はなんなんだ。試しに箸を突っこむ。包まれるように締めつけられる感触がある。けど、その力は弱い。対象が細すぎたのかも知れない。大した抵抗なく箸は抜ける。箸には粘液が絡まっている。糸を引いて滴が落ちる。もっと太い棒を入れてみる。制汗スプレーの缶だ。入れるのに抵抗がある。箸を入れる時はすんなり入ったのに、無理矢理挿入しなくちゃいけない。缶から例の粘液が伝ってくる。穴の中からは泡立つようなぐちゅりぐちゅりという音が聞こえてくる。ねっとりと締めつけられる。出し入れすると、いい具合の感触だ。邪な考えが浮かぶ。液体の安全性を確認するために、恐る恐る指につけて、舐めてみる。うん、なんともない。大丈夫だ。スプレー缶を引き抜く。濡れた缶は手から滑り落ちて床に転がる。跡はいやらしくてかる。俺はズボンのジッパーを下げる。眼の前には挿入を待つ穴がある。 フコウナグウゼン 「何者かのスタンド攻撃を受けているです!」「違う。全然違う」チョップを入れつつツッコむ。えーこの場合、チョップは喉に叩きこむのが黙らせるコツだ。むせているのを尻目に、「偶然だろ、偶然」いわく不幸が重なっているらしい。小は消しゴムが見つからないから大はトイレの紙が切れていたまで。トイレの紙が切れるのは人間の尊厳の危機である。その後こいつがどうやってその危機に対応したかは知らない。知りたくもない。不幸な出来事、ではある。けれどもそれらを必然と捉えるか偶然と捉えるかで意味は異なってくる。えーこは必然と主張しやがるのだ。「だってー。お札剥がしちゃったしー。呪われちゃったのかもー」「てめえは小学生か」無論、えーこも俺も小学生ではない。高校生である。こいつの話は、こうだ。実家にある古い蔵で、古い木箱を見つけたそうだ。お札で封印されていたが、えーこは剥がしてしまったという。なにかに躓いて、転んで、手が泳いで、ビリッ――箱の中身は空だったらしい。その日を境にこいつの周囲では不幸が立て続けに起きている。そして偶然、俺の身の回りでも、不幸な偶然が頻繁に起きている。エロ本が親に見つかったり犬の糞を踏んだり推理小説の犯人をバラされたり。が、偶然は偶然だ。必然ではない。空の木箱には貧乏神が封印されていたとかは、ない。だから、一緒に登校路を歩く俺らの背後、さっきから女の子がついて来るのも気にしない。今も電信柱の陰にいる、赤い着物を着た、髪の長い女の子。その足下には影が差していない。こっちを見ている。 ササヤク  私のベッドにはぬいぐるみがいる。熊なのか猫なのか兎なのか、なんなのかよく分からない、もこもこしているぬいぐるみだ。枕元に置いて、そのおなかに耳を当てるようにして眠る。抱きしめるわけじゃない。枕代わりにするでもない。ただ寄り添って眠るだけだ。こいつがいないと眠れないわけじゃない。旅先でもこいつはお留守番。そんな依存なんてしていない。名前もつけていない。こいつ。ただ、子供の頃から、一緒に寝るだけの間柄。布団を被って、首をもぞもぞと動かして枕のポジションを直して、眼をつむる。すぐに意識は落ちる。夢を見る。私の夢は、いつも楽しい夢だ。悪夢なんて見たことない。友達が「昨日ひどい夢見たよー」とげんなりした表情でその夢の内容を語られても、どうにもピンと来ない。私にとって夢は楽しいもの。睡眠学習みたいに耳元で誰か楽しい夢を囁いてるのかも知れない。私はメルヘンな森でカラフルな蝶を追って猫バスをドライブする。爽快。遊園地のパレードとジェットコースターを足したみたいに。楽しい。涎が垂れる。寝返りを打つ。頬が涎まみれの枕に触れてべちゃっとなって、私は眼を覚ます。頬と唇をパジャマの袖で拭う。他に涎で汚した箇所はないか、ベッドを見る。なんだかぬいぐるみの位置が下にずれている気がする。ぬいぐるみの口が、私の耳の位置に。囁く位置に。 エキショウガメン  携帯電話が鳴っている。ポケットの奥からブブブブと。マナーモードでもバイブの振動がけたたましいのは、一緒にポケットに入っている小銭のせい。携帯電話と小銭がガチ合っている。ここは外だ。歩道の上。車のほうがうるさい。放っておいても誰かの迷惑にはならない。けど俺が不快だ。電話で話すのは苦手だけれど、黙らせるためにポケットから携帯電話を取り出し、折り畳み式のこいつを開いて、まずは相手を確認する。液晶画面。空白。表示が、ない。電話番号、登録してあれば登録者名、設定されていれば「非通知」の文字、そのいずれでもなく、あえて表記すれば電話番号あるいは登録者名「        」から送信されているのだ。そんな解釈がされる。もちろん心当たりはない。不気味。とは言えここで無視するのはビビッているみたいで、俺は通話ボタンを押す。携帯電話を耳に当てる。「……」「もし?」もしもし、略してもし。元々もしを二回言うのは悪霊がこっちに来られないようにするため云々の意味があって、それをあえて俺は一回しか言わない。四や九、一三という不吉な数字を好んだり、黒い陰気な色を選んだり、ひねくれたゲン担ぎ、みたいなもんだ。とにかく俺はもしを一回だけ言った。「…ま、………に……か……」「はい? 聞こえませんよ」ここで切らない俺は物好きなんだろう。「いま、…っちに…くからね」「はい? もし?」「いま、そっちに行くからね」「はい?」なにも聞こえなくなった。沈黙している。携帯電話から耳を離して、通話状態を確かめるために液晶画面を見る。さっきまで表示がなかったそこにはランダムな文字が踊っている。無意味な文字の羅列は、まるでなにかが溢れ出そうと。画面が文字で埋まる。いっぱいになる。飽和状態を超える。画面が黒く染まる。次いで白くまばゆく輝いて、光は実像を結ぶ。「おおっ」携帯電話の向こうから、なにかがやって来る。 ハシノシタ  青い空と白い雲。なにより爛々と眩しい太陽。見事な炎天下に対抗して日中からのジョギングを敢行する。いつもは早朝や夕暮れ、夜中、涼しい時間帯に走るのだが、なんだか部屋でエアコンと扇風機に涼んでいるのはお天道様に負けを認めてしまう気がしたのだ。シャツとハーフパンツ、タオルを首に引っかけて、脱水症対策に道中飲み物を買うための五〇〇円玉をポケットに入れる。意気込んで外へと走り出し、ジョギングコースとして走り慣れている堤防沿いへ。さすがに暑いのか人通りは、ない。川辺で水遊びに興じる子供、散歩する老人、徘徊するホームレス、誰もいない。堤防沿いのこの道には俺一人のようだ。セミの音がやかましい。その他の生活音が全てセミの鳴き声に塗り潰される。汗が止まらない。シャツは汗でぐっしょりだ。のに喉はカラカラ。体内は渇いてしまっている。どこかで飲み物を買わなきゃ、と思う。けれども堤防沿いの道に自動販売機は見当たらない。道を外れて売店や自販機を探しに行くべきなんだけど、暑さがそれを億劫にさせる。このままこの道を行く方が楽だ。まっすぐ以外の道を考えるのがめんどくさい。きっと大丈夫だろう。暑さで倒れたりは、今まで一度も経験はない。――慢心。脚がもつれる。受け身を取ろうとするも身体はゆっくりとしか動いてくれない。地面に落ちたのはこめかみから。英語でテンプル。人体の急所である。  セミの鳴き声が遠い。涼しい風。川のせせらぎが近い。おでこにひんやりとしたものを感じる。濡れたタオルだ。気が付けば俺は寝かされていた。堤防にかかる橋の下、仰向けに。太陽の陰のここは同じ堤防沿いの道なのに、気持ちいい風が吹く。「ああ、起きた起きた」横から声。起き上がると女の子がいる。似合わない野球帽を被った、髪の長い女の子だ。首から下は年頃の女の子らしくお洒落をしているのに、野球帽だけが不釣り合い。「大丈夫? 倒れていたけど」どうやら気を失っていたらしい。情けない。まあ、気分は大丈夫だ。暑さより、テンプルから地面に激突したのがいけなかった。一人ノックアウトである。似たようなスキルとして一人ジャーマンスープレックスが存在する。「大丈夫。ありがとう」この子が俺をここに寝かしてくれたのだろう。額に触れてみる。地面に落下した部分だ。「――痛ぅ!」痛みが走った。「あっ、触らない方がいいよ?」「……のようっすね」もうちょっと早く言って欲しかった。「はい、飲む?」ペットボトルに入った水を差し出される。ラベルはない。使用済みのペットボトルを水筒代わりにしているのだろう。「ありがとう」遠慮なく俺はペットボトルを受け取る。あとで飲んだ分の代金を払ってもいいから、喉が渇いている。飲み過ぎないように、まずは一口だけ。「どんどん飲んでくださいね。取れ立て川の水一〇〇パーセントですよ。ここの」「ブフウ!」口に入れた水を吹いた。彼女が指したのは、堤防の隣を流れる、濁った川である。「ちょっと待てンなもん人に飲ませんな!」「あはは、嘘ですよ。じゃ、そういうことで、私は失礼しますね。もう元気そうだし。さようなら」一方的に人をおちょくって彼女は去って行った。俺は一人橋の下に残される。  明日も走ろう。 ネムル  眠る。眠るという動作は肉体の活動を休止させること。感覚が眠っていく。意識も眠る。全てが眠る。肉体のスイッチがオフになる。と同時、違うスイッチがオンにになる。いつの間にか私は森の中にいる。木洩れ陽だけが光源の深い森、忽然と私は立っている。夢の世界だ。私の身体は鱗のようなもので覆われている。剥がれはしない。剥がそうと試みたことはあるけど、鱗は固い。鱗の下で私の肢体はどうなっているのか分からないけど、どうせ夢の中だ。私は探ることをやめている。夢の中を歩く。けどこれは単なる夢ではない。夢なのに痛みや五感をちゃんと感じる。本来、夢の中でそういうのを感じることはない。もし夢で痛みを感じれば、その拍子に起きて夢から醒めるだろう。ここではそういうことはない。ひょっとしたらここは夢ではない別のどこかかも知れない。異世界、異次元、いい言葉が見つからない。裸に覆われた脚で森を歩く。棘の生えた蔦を踏み潰す。幸い、この身体は頑丈だ。鱗のおかげで硬く守られている、ここが夢であろうとなかろうと危機感はない。最初に迷いこんだ時は慌てたけど、今はもう慣れた。ぐしゃりぐしゃりと歩を進める。森の向こうから光が見える。今はそっち向かって歩いている。もうだいぶ近づいて、いつか辿り着けそう。とりあえずの目標地点だ。「そこの人、誰?」頭上から声。見上げると、木の枝に猫が乗っている。茶色と黒と白のまだら模様の猫。しかも、人の形をしている。私みたいに、人が、猫の皮を纏っているのだ。私は急に恥ずかしくなる。今までで初めて私以外の喋る者と出会ったけど、それより裸であることが恥ずかしい。鱗で覆われていても、感覚的には裸なのだ。とっさに胸と股を手で隠しながら、返事する。「私は――」誰だっけ。いけない、また忘れている。いつもそういうことを忘れてしまう。やっぱり夢の中なのか。「なんだ、あなたも忘れちゃったの」「あなたも、って」「あなたも眠ったらここに来ちゃうクチでしょう」「うん、そうだけど」彼女(声の質は女だ)は気になる表現をした。「あなたも忘れちゃったの」と、過去形で言ったのだ。それだけのことかも知れないけど、なんだか、気になる。「あのう、すいません」「あに?」「忘れちゃった、って?」「なんだ、やっぱりあなたはまだみたいね。そのうち全部忘れて、ここから戻れなくなるのよ。夢から醒めなくなるのよ」「そんな」「ほんとよ。アタイがそうなんだから」「どうすれば――」「知らないわよ。けど、あっちに行かないほうがいいと思うよ?」猫の人は、私が向かっていた方角を指す。「あっちに行って、帰ってきたクチだから、アタイ。ぜーんぶ忘れて。あの光、チョウチンアンコウの擬似餌みたいなもんじゃないの? こんな暗い森だとさ、ついつい目指したくなるけど。逃げたほうがいいわよ」確証はないけど、私は猫の人の話を信じてしまう。光のほうで大口開けて待ち構える怪物が思い浮かぶ。そいつははしっこのほうから私の記憶を食べてしまうのだ。回れ右して私は駆け出す。逃げるのだ、光のほうにいるだろう怪物から。けど、どこへ逃げればいい? この悪夢から醒めるまで走り続けるのだ。そして目が醒めたら、眠ってはいけない。 プレッシャー  蒸し暑い夜、喉が渇いて仕方がない。ペットボトルが空になった。水道水は不味くて飲めない。暑いからと半裸でいたけどシャツとズボンをしゃんと着て、ポケットに財布を突っこみ、サンダルを履いて夜外へ出る。アパートを出ると風を感じた。意外と涼しい風だ。閉め切った六畳間は空気が濁っていたと知る。エアコンで冷えた空気を逃さないのも良いが、空気の入れ換えも必要だったのだ。帰ったら窓を開けて、新鮮な空気を部屋に入れよう。夜道を歩いてコンビニへ向かう。深夜、すでにスーパーは閉店している。こんな時、二十四時間営業のコンビニには感謝する。歩道を向かってくる影がある。すれ違う。――違和感。なにかを感じた。振り向いて、己が何者とすれ違ったか確かめる。街灯が明るく姿を照らす。身長が一八〇センチはあろう、筋骨隆々の男だ。盛り上がった筋肉は堅そう。プレッシャーを感じる肉体である。が、それだけではない。それだけの感覚ではない。もっと、なにかがある。その答えはすでに視界の中にあったのだが、すぐには気づけなかった。そんな可能性、考慮に入れていなかったからだ。誰が思おう、彼の者は女装していたのだ。ピンクの肌に張りつくシャツと、白いフリルのついたミニスカート。脚は臑毛を全て剃って、ふくらはぎの盛り上がりや大腿筋のうねりが分かりやすい。踵の高いサンダルを履いている。髪は短いが、耳が隠れる長さだ。女の格好である。その背に恥じらいはない。実に堂々、風を切って歩いている。真なるプレッシャーの正体は判明した。正面に首を戻して、再びコンビニへ歩き始める。が、どうにも迷いが晴れない。気懸かりは、あの女装者の顔。すれ違った後に振り返っても、見えるのは後ろ姿だけで、顔は見えなかった。果たしてどんな顔だったのか。すれ違う前に見えたのではないか。頭が勝手に記憶を辿ろうとする。思い出す前にコンビニへ駆け出す。なんだか、思い出してはいけない気がする。無心に夜道を走る。 ウロコ  気が向いたので晩飯は外で食すことにする。最近気に入っている中華料理店だ。中華と言ってもラーメンと餃子がメインの店、安さに釣られてよく通っている。狭い商店街の一角にある、満腹になった俺はそこを後にする。雨が降っている。季節は梅雨、アパートを出る時は雲は薄かったのに。今や星も見えない。傘はない。雨を予期していなかったのだ。気まぐれのように降ったり降らなかったり。機が悪い己に苦笑する。……たまには濡れて帰るか。食欲を満たされた俺は不機嫌になることなく雨の中に歩み出す。濡れて困るような服でないし、アパートに帰ればシャワーを浴びればいい。気の持ちよう次第ってなもんだ。悠々と帰路を行く。すれ違う人々をぼんやりと眺めながら。傘を用意している人は少数で、大抵は鞄を頭に掲げたり雨から逃れるように駆け足気味である。その中でもシャツが透けている女の子に眼が行く。男の習性として、下着が透けて見えると嬉しいのだ。そして俺も男なのだ。ついつい透けていないか見てしまう。変わった色が透けているを発見する。青と緑が混じり合った、硬質な光沢がシャツの下から浮かび上がっている。凝視する、最後に行き違うその瞬間まで。その瞬間、気づいた。うろこである。彼女のシャツの下から透けているのは、うろこなのだ。何枚もうろこが重なって肌を覆っている。手指は普通の人間のそれに見える。首から上は――視線が届く前に女の子は俺の後ろへと歩み去ってしまった。好奇心が僕を振り返らせる。振り返る、彼女と目が合った。どういう理由か、注目する女の子もこっちを向いていた。彼女の眼、瞳孔が縦に割れている、ような気がする。眼があった一瞬では定かではない。けれども確実なのは、女の子の唇から走った舌が二叉になっていたこと。蛇のように。女の子は僕を、笑った、のだろうか。蛇の舌のインパクトが強すぎて分からなかった。そのままくるりと女の子は元の方角を向いて、僕とは反対の道を去る。足下に水溜まりがある。それは油が敷かれたみたいにぬかるんでいる。ぬめぬめと。 僕は君が一番好き  人魚姫の最後を憶えているだろうか。  最後、可哀相な人魚姫は王子様と想いを遂げることなく泡となって消える。  悲劇である。  少年は夜道を自転車で疾走する。自転車のライト一つでは夜闇を照らすに心許ないが、少年はペダルを漕ぐペースを弛めようとしない。  不吉な童話を追い越すために。  もっと速く、もっと速く。  最後を迎える前に間に合いますように。  夏休み、少年は海水浴へと出かけた。少年は遠く沖まで泳ぐことに挑戦した。  そして溺れた。  そのまま土左衛門と成り果てる運命だった彼を救ったのは人魚だった。  彼は岸まで運ばれて助かる。朧気な記憶は美しい人魚の少女を憶えていた。海の底へ堕ちる彼を救ってくれた、その姿を。  行方をくらました少年を捜しに駆けつけた両親に彼は、 「人魚に助けられたんだ」  と主張する。  けれども大人は笑う。童話じゃあるまいし、と。  少年はしぶしぶ引き下がる。未だ幼くとも、その程度には世知を心得ていた。  夏休みが開ける。  少年は学校へ通う。  その下校路、彼は少女に声をかけられた。  はて誰かと首を傾げたが、すぐに思い出す。  あの人魚である、少年の命を救った。  少女も人魚であることを隠そうとせず、少年が自分を憶えていてくれたことに喜んだ。  少年は不思議を聞く。 「脚生えてるけど、歩いて痛くないの? 声は盗られてないの?」  人魚の少女は笑う。 「童話じゃあるまいし。声と交換なんてしないよ。それに、ほら」  飛び跳ねてみせる。 「全然平気」  跳んだ拍子にスカートがまくれ上がり、下着が見えた。少年は赤くなる。 「どうしたの?」  少女は自身の痴態を知らない。人間の文化を知ってはいても、完全には行動に伴っていない。  少年は笑って誤魔化す。釣られて少女も笑う。  それから数日が過ぎる。  少女は毎日学校と家の往路に現れた。そして戯れる。二人の間で笑いは絶えない。それは幸せな光景だった。  少年は人魚の少女のことを誰にも秘密にしていた。少女が特にそれを強要したわけではないが、少女の正体を他人に明かすことは躊躇われた。そして己に秘密を打ち明かしてくれたからこそ、少年は、 「ねえ、好きな子いる?」  と聞かれた時、自身の淡い恋心をそっと教えた。  その相手は人魚でなくクラスメイトである。  人魚の少女が笑う。釣られて少年も笑う。  彼女の眼に浮かぶは笑い涙だと少年は思っていた。  翌日の放課後現れた人魚の少女は、 「今日でお別れ」  と言った。 「もう今夜で海に帰るから。好きな子と一緒になれるといいね」  残念ではあったが、少年は手を振って少女を見送った。 「また会おうね」  その後ろ姿に呼びかける。  が、少女は応えなかった。  応えずに去り行く。  その晩少年は眠れなかった。  人魚の少女が気になってしょうがなかった。童話が頭から離れない。  それに、少年はいなくなって初めて気づいた、自分が一番好きなのは人魚の少女だったと。少年がクラスメイトに対し抱いていたのは恋心でなく、単なる憧憬であったと。いかな理由があれ、あの少女ほど素直になれた相手はいない。  ふと思い至る。  そう言えば少女は泡になって消えることは否定していなかった。  まさか人魚の少女が自分を好いて、命を賭してまで陸に上がったとは考えがたい。  それはおこがましい想像に思えた。  あの美しい少女と自分が実は相思相愛だったなんて。  けれども、もう、いてもたってもいられない。時間と共に不安は加速している。  少年は布団をはねのけ、こっそりと夜外に出る。両親に悟られないように。  駐車場に止めてある自転車に跨る。  行き先は少女と出会った海の岸。  自転車のペダルを強く踏む。蹴るように、抉るように、渾身の力をこめて。かつてこれほど速く自転車を走らせたことはなかった。ともすればバランスを失って自転車ごと倒れそうになる。それでも少年はもっと速くと切に願う。  時折危うい走りの車と擦れ違う。巨大な鉄の塊がすぐ横を走り抜ける恐怖。轢かれたら一巻の終わりということは理解している。でも自転車の速度を弛めることはできない。ひょっとしたら命が懸かっているのだ、あの人魚の少女の。  少年は己の身より少女の身を案じる。  海岸に辿り着く。  大切な自転車を捨て置いて少年は砂浜をその脚で駆ける。目指すは二人が出会った場所。  果たしてそこに少女はいた。見間違えようはずない、月光を浴びるその姿は、まるで初めて彼女を見た時の再現。海の底へと沈む少年に手を差し伸べてくれた、違いは背負っているのが陽光か月光か。  息も絶え絶えな少年の姿を見て少女は驚く。 「どうして?」  その問いになんと答えればよいか。少女はどうして水泡に帰そうとしているのか。  人魚姫は王子様と想いを遂げられなかったから悲しい結末を迎えた。  少年は王子様ではない。だけど言える言葉がある。  今、少女が流しているのは嬉し涙。 オシイレ  押し入れの中のものを全部出す。暦の上でどうかは知らないが季節はとうに夏そのもの。暑ければ夏だ。春服はしまって夏服を出す。着ない分の服は押し入れの一番奥にしまっている、夏服を出すには押し入れの中のもの全部を出す必要があるのだ。あれもこれも引っ張り出す。その最中、押し入れの低い天上に段ボール箱の縁が引っかかる。ガリッ――なにかが剥がれる感触。押し入れから運び出された段ボール箱には一枚のお札が張りついていた。取ってみる。なにやら呪術的な感じの、ありていに言えばうさんくさい、文字だ紋様だか判別できないくねくねの描かれている。アパートの前の住人のイタズラと決めつけ、お札は捨てて再び押し入れの整理にかかる。中にまだなにが残っているか確かめるためかがんで見る。そこには逆さの人がいた。段ボール箱の引っ掛かりを感じたあたりから上半身が生えて、人がいた。眼が合う。「やほー」陽気に、手を振ってみせる、そいつ。押し入れの戸口を閉める。――ばたん。見なかったことにしよう。としたけど、相手がそれを許さなかった。「ちょっとなに閉めんのさコラア!」喚いている、押し入れの中から。閉めた押し入れに封じる意味と休む意味の両方で背を預ける。……なにも見てない見てない超常現象なんて霊とかお化けとか気のせいアパートでこの部屋だけ家賃が安かったり大家さんに最初に会ったとき「気をつけてね」となぜか心配されたり隣室の人がこの部屋で死んだ前の住人の話を聞かせてくれたりしたことはなにも関係ない! 耳の穴に指突っ込んで聞こえないフリする。その間も相手はやかましく騒いでいる。「せっかくお札剥がしてくれたんだからありがとう言おうと思ったのにさ! なによその態度人をお化けみたいに! お化けだけどさ! もうっ――!」その姿を思い出す、逆さに現れたその姿を。一昔前の大学生風の、少し野暮ったい感じの女の子。整えていない太い眉、染めていない黒い髪。清純、っぽい。けれどもそのイメージが変形する。おどろおどろしく歪んで、恐ろしい怪物の姿になる。相手はお化けなのだ。「――でもいいもん、お化けだもん」静かになる。幻覚が消えたか。俯いていた顔を上げる。目の前に逆さの女の子がいた。壁から半身がはえて。壁をすり抜けて。僕を覗き見てる。「イエーイ、忍法壁抜けの術」Vサインする女の子、のお化け。を見て僕は気絶する。――がっくり。「って、ちょっとお!」聞こえない聞こえないなにも聞こえない。目が覚めたらいなくなっていますように。 ジュウテイオン  ズンズンズンズン――部屋を揺する重低音。……うるせえ。音源はこの部屋でない。隣の部屋からだ。メロディらしきものも聞こえるけど、とかく重低音が強調されている。部屋が揺れる。ぴりぴり、ぴりぴり。隣人の顔は知らない。迷惑である、それだけが認識だ。けれどもこうも迷惑が続けば堪忍袋の緒もブチ切れる。ブチ切れた。どう文句をつけようか。アパートの管理人に注意してくれるよう頼もうか考えるが……直接言わなきゃ気が済まねえ。「ククク」我知らず肩が震えて笑いがこぼれる。いざ隣室の玄関前に立つ。チャイムを押す。が、ピンポーンという呼び出し音はズンズンがなり立てる重低音にかき消されている。連打しても効果なし、呼び出し音は全て相殺される。ノックしてみるが同じ。なら――「――どっせえい!」全身を使って扉にノック、と言うかタックルをブチかます。通常ならガアンと扉震える音が響くだろうに、またしても打ち消される。隣人が気づいた様子はない。堪忍袋の緒が追加で切れる。ブチブチだ。ドアノブに手をかける。鍵を壊して開けるつもりがドアノブはすんなり下りる。玄関扉が、開く。音の洪水に襲われる。鼓膜より腹に響く低周波。でたらめな音量のバスサウント。不法侵入とか言われそうだが構わない、こっちにゃ正当な理由がある。……何デジベルだコラ、騒音公害野郎め。遠慮なく隣人の室内に踏み入る、もちろん靴は玄関で脱いで。うちと同じ造りの六畳間、大音量を叫び続けるスピーカーの前に、初めて見る隣人はいた。相手はこちらに気づかず、行為に没頭していた。音楽を聴いているわけでない、彼女は半裸、シャツ下着は脱いでスカートと靴下だけという格好で、汗を流しながら、股間と胸を弄ることに熱中している。バスサウンドに紛れて高いソプラノが聞こえる。だらしなく涎を垂らしながら艶声を上げる、それを聞かれたくないがゆえの重低音だったのだろう。それが俺を呼ぶ羽目になっては本末転倒だが、彼女は未だ気づいていない。前髪は汗で額に貼りついて、眼は惚けて、舌突き出して、喘ぎながら、没入している。脚の間には水溜まりができている。……どうしよう。気づいてもらうまでアクションが取りづらい。こっちから声をかけるには機を逃してしまっていた。嬌態を眺め続ける。 ダンボール  アパートの廊下、段ボール箱が一個。誰か捨て置いた物だろうか。放置されている。朝に見かけて、夜、帰ってきたらまだあった。空箱だろうか、それとも猫でも捨てられているのだろうか――好奇心で覗き見る。「にゃあ」立方体の中には猫科のものがいた。……つうか猫耳と尻尾のついたボディスーツ着こんで女豹のポーズを取るエロエロしいお姉さんが。関わってはいけないという直感に従って段ボール箱の蓋を閉めて見なかったことに――しようとしたら閉じた段ボールの合間からこじ開けるように手が突き出てきた。ガムテープで封された段ボール箱を殴って強引にぶち破る、あれを内側からするような。迫力あってけっこう怖い。「なんで閉めんのよお!」腕に続いて本体が迫り出てくる。四つん這いの姿勢を解いて直立。女性にしては背丈がある。こっちを見下ろす、女豹。に対して、言い訳する。まあ本心には違いない内容だ。「いやだって怪しさ爆発だし」「どこが!」「……存在そのものが?」「拾って欲しい猫が一匹いるだけじゃないのよ! ほら!」怒鳴り、彼女が指さすは段ボールの一面。しかしそこには特に注目するものはなく、かつてこの段ボール箱にはみかんが積まれていたことを示す絵のみ。しばし沈黙。「……ちょっと待って」断りを入れると自称猫は段ボール箱から抜け出して、箱を反転させると、律儀に再び段ボール箱の中に入った。さっきまで壁と接していた面を指して、「こっちよ!」犯罪者に証拠を突きつけるように、勝ち誇った顔。私は正しいことを言っているのよ、と言う風に。そこには「拾ってください」とマジックペンで書かれている。「もう、こうなったらあんたのとこに住んでやる!」理解不能の勢いに乗って宣言される。「いいわね?」「……なんで?」「餌にありつけそうだからよ!」もっすごい打算的な答えを断言される。なんとか拒否しようと考える。「……うち、ペット禁止なんだけど」「猫は好き勝手生きるものなのよ、そっちの都合なんて知らないわ」そして廊下に残るは空箱。 ドアノブ  トイレに設えられているドアノブ錠は勝手にかかってしまうことがままある。扉を閉めた拍子に鍵が回ってしまう。なにも知らずにトイレを開けようとする。――ガチャン。扉は固定されている。一発蹴りでも入れれば刑事ドラマみたいに派手に扉は吹き飛ぶだろうがそんな必要はない、硬貨をドアノブに差して外側から錠を回す。……これで開いたはずだ。扉を引く。トイレの中、洋式便器に女の子が座っている。「きゃあああああああ――っ!」女の子が叫ぶ。慌てて扉を閉めて出る。「うわあっ、ごめんなさい!」扉を隔てて謝る。相手の名前を知らないことに気づく。名前だけじゃない、なにも知らない。見知らぬ女の子がトイレを占拠している――どこから侵入した? ずっと部屋にいたから俺に気づかれず窓やベランダから入るのは無理。玄関も部屋から見える位置にある、気づかないはずない。密室! この言葉に興奮してしまうのは推理小説好きの性か。推理、してみる。――三秒で諦める。名探偵じゃあるまいし。答えを当人に聞いてみる。「誰、ですか?」敬語を使ってしまうのは排泄行為中の女の子を図らずとも覗いてしまった、つうかモロに見てしまった罪悪感ゆえか。「花子」ぽつりと返事。便器のレバーが下ろされて水が流れる音。そして沈黙。恐る恐る扉を開ける。そこには誰もいない。 コチラヲミテイル  交差点に置かれた花束を見た。変形したガードレールを見た。アスファルトに残る黒い染みを見た。血まみれた女の子が見えるようになった。家に帰ると、俺の部屋にいた。暗い部屋、蛍光灯をつけると、部屋の中央にぽつんと立っていた。血まみれ、異常な角度で向いている右腕、中途で折れて関節が一個増えたみたいになっている右脚。左の頬は皮膚が剥がれて、人体模型を彷彿させるアリサマ。女の子はじっとこちらを見ている。いつものことだ、俺は女の子をすり抜けて自分のベッドへ向かう。横になる。――ゴロン。無害なんだけど、見ていて気持ちのいいものではない。俺は女の子に背を向け、壁と向き合う形になる。だらしないその格好で、ベッドの横の漫画を取る。パラパラめくる。後ろから声がする。「どうして生きてるのー?」無邪気に、心底疑問に思っている声。女の子は俺に返事を求めているわけじゃない。つい口を出た言葉。独り言のようなものだ。「どうして死なないのー?」死者が生者を見て不思議に思う。死んでなお存在できるのなら、生きている理由はどこにあるのか。俺はあくまでも独り言、女の子に気づいていない風に、呟く。「さあねえ。なんでだろうねえ」いつか女の子は俺に飽きていなくなるだろう。それまでの我慢。俺は女の子の疑問に答えることはできない。だから俺が彼女に気づいてる素振りは見せない。あくまで独り言、俺はもう一回呟く。「なんでだろうねえ」生きる喜びを死者に語っても、虚しいだけだ。どうしようもない。どうしようもない。どうしようもない。泣きながら眠りに落ちる。 サワガシイジョシコウセイ 「きゃははははははは」「きゃははははははは」甲高い笑いを上げながら二人の女子高生が駅の構内を走り回る。行き交う人波を縫って走る二つの声。不規則な軌道は時折交わる。――ギイン。金属が高速でこすれる音。――ギイン、ギイン、ギイン。二人がすれ違うたび、金属音が鋭く響く。けれども雑踏に紛れて人々の耳に届く前に消えてしまう。あるいは聞こえても気にしない。誰も騒がしい女子高生なんて見ようとしない。関わりたくない。今時の、チャラチャラした女の子なんて。髪は不自然に明るい茶色、制服をだらしなく着崩し、ピアスや指輪、アクセサリで身を装飾している。その手に握るは一対のナイフ。小さな凶器は袖の中に隠れて、振るわれる瞬間しか表に出ない。本物の殺傷能力を秘めたきらめきは、周囲の人々が知ることなく。堂々と、しかし密やかに、舞い踊る。「きゃははははははは――」「きゃははははははは――」延々と続く嬌笑が遠ざかっていく。あとに残るは点々と血痕。それも無情に歩む人々の足で踏みにじられ、薄く広がり、拡散する。なにも残らない。誰も知らない。――ギイン。どこかで剣戟の音が鳴っている。 カラダハショウジキ  人間の舌はつるつるじゃない。きめ細かなつぶつぶが舌の表面を覆っている。唾液に濡れて分かりにくいけど。摩擦があるからこそ、舐められると気持ちいい。つるつるしていたら肌に刺激は走らない。あるかないかの刺激こそ最適。  それに、暖かい。血が集まっている舌先は、人肌より熱がある。本能が癒される温度。私は肉体の末端にそれを感じながら、しかし緊張に固まっていた。高鳴る心臓はせっせと股間に血液を送っている。膨張して固くなるそれを咥えられながら、気持ちいいけど、私は気乗りしない。 「ねえ、やっぱ、やめない……?」  彼女は行為を中断すると、私のスカートの中から顔を出す。口を私の一物から離す時のすっぽ抜ける感触が私の腰から背に快感を走らせる。ちょっとだけ腰が引けて、私は前屈みになる。口に溜まっていた唾液が口元から垂れ落ちる。真下にいた彼女の額にべちょり、鳩のフンみたいに落下する。 「えーっ」  額を手の平で拭いながら反対するのは眼鏡をかけた同級生。夏物のセーラー服は汗ばんで、下着が透けて見える。熱いのは狭いトイレの個室に二人閉じこもっているのと、行為が私たちを興奮させるから――私のセーラー服も汗ばんでいる。 「そっちだって気持ちいいんでしょ? だらしなくヨダレ垂らしちゃってさ」  拭った手の平についた私の唾液を舐め取る。彼女の唾液と私の唾液が混ざり合う。さっきまで私の秘密なところをしゃぶっていた、彼女の舌。温かくて気持ちいい……  ついさっきまで咥えられていた感触を思い出して股間から生える肉棒が跳ねる。  ――びくん。 「はは、ほら、身体は正直、ってやつだよ」  それを見て彼女が笑う。その眼鏡に映るのは、現在フル勃起中の、いわゆる、ちんこ。 「……うっ」  言い訳不可能、私は口籠もる。この性器は敏感に反応して、分かりやす過ぎる。男性器とは言わない。なぜなら私は確かに女の子、少なくとも私自身はそのつもり。これは私の秘密。誰にも秘密、だったのに―― 「だから続けよう?」  私の返事を待たず、彼女は再び私の隆起を口に含む。青く浮き出た血管を赤い舌がなぞる。たまらなく私は彼女の頭を抱える。  が、止まらない。彼女の頭を固定しても、私の腰が勝手に動く。逃げるように腰を後ろに引くと、その時唇が作る輪っかを通り抜ける感覚が私をとろけさせて、力が抜けてしまう。その隙に彼女は深く咥え直す。その繰り返し。彼女の頭を掴む行為は結果的に行為を加速させた。傍からは見ればイマラチオ――私がフェラチオを強要している――みたいに見えるかも知れない。  ……他人に見られたら一巻の終わりだけど。  と言うか、見られたからこんな事態に陥っている。諸悪の根源は便所の鍵が壊れていたこと。誰が便所の鍵が壊れているなんて思おうか。当然私も思わなかった。面倒だからその経緯は省くけど、要は運悪く鉢合わせて――口止めに彼女に「味見」を要求されたのだ。  私の肉根をねぶる湿った音が便所に響く。彼女は丹念に、余すところなく私のを味わう。私は、 「うあ、うあ……」  とうわごとを漏らすばかり。腰が落ちないよう気張るだけで理性は精一杯。本能がままに快感を甘受する。抗えない。頭ん中がどろどろに溶けてなにも考えられない。私は個室の鍵が壊れていることを忘れる。  誰かが扉の前にいる、その足音を聞きながら。 ボクニハスクールミズギハニアワナイ  梅雨時期。雨が毎日のように降る。洗濯物が溜まる。もともと少ない服は着々と減り、ラスト一着分という日にようやく晴れてくれた。ボクはまとめて洗濯機に放りこむ。制服も私服も全部。今着ている分以外ボクの服はない。  週に一度しかない休日を――土曜日は部活動があるので休日とは考えない――天気に合わせて早起きして家事に充てる。見た目に男らしいゴツさや太さに欠けて「女の子みたい」とも形容されるボクが、家事まめなことを話せば友達はこう言う、 「いいお嫁さんになれるよ」  ……男が家事できちゃあいけないの?  いや、分かってる。ボクの見た目と合わせてそう揶揄されているのだと。  現に複雑な家庭環境にある違う男子生徒も家事を自分でこなしているが、彼は「出来ておる喃」と感心されている。生活力ある男と目されるわけだ。ボクも「出来ておる喃」って言われたい……  つまらないことを考えながら洗濯機が止まるを待つ。居間でテレビを見ながら寝転ぶ。 「ただいまー」  玄関から声がする。未だ熱愛を続けている両親は旅行に出かけている。なら、姉さんだ。けれどもさっき出かけたばっかのはず。 「おかえりー。どおしたの、やけに早く帰って」 「……濡れたのよ、トラックが水溜まり撥ねて」  ふらふらと居間にやって来たのはびしょ濡れの姉。廊下には点々と水の跡。 「あー、もうっ! せっかく買い物行こうと思ってたのに。行く気なくしたあ」  愚痴をこぼしながら姉さんは冷蔵庫を開けて牛乳を取り出す。そして紙パックから一気飲み。腰に手を当て、無駄に男らしい。  水は滴り続ける。ボクは身体を起こしてそれを拭きに行く。台所の雑巾を取って、 「はい、ボクが拭いとくから。さっさと着替えてきなよ」 「あ、ありがと。んじゃ――」  牛乳を口元から下ろして居間を出ようとする、姉の足が自身の作った水溜まりを踏む。 「――あああああああああ――っ?」  そしてこけて足下で雑巾をかけるボクの上に倒れる。 「ぐえ――っ」  ――ビシャン。  トドメに牛乳が降りかかる。水と牛乳とびしょ濡れの姉の身体を受けて、ボクの身体もびしょびしょになる。  最後の、一着が。 「いたたたた……ごめん、大丈夫?」 「……大丈夫じゃないよう」 「えっ! どっか怪我したっ?」 「いや、怪我はしてないけど……もう、着替えがない。どうしよう……?」  先に立ち上がった姉はボクの苦悩の正体を知るや破願する。 「なーんだ、そんなこと? そいやあんた洗濯物けっこうな量になっていたけど、もう、服ないわけ? 下着も?」 「……うん」 「なら、私の貸してあげる」 「え? でも、姉さん、女物の服……」 「その点はだいじょーぶ。それに、他に着るもんないんでしょう?」 「そうだけど……」 「それじゃ決まりね。はい、ついといでー」  姉さんは強引に決定すると自室にボクを引きずって行く。他に代案が思いつかないボクは従うしかない。  ずるずる、ずるずる……  着ている服を脱がされる。勿論風呂場で、一人で。姉さんの前で着替えるはずない。僕が着替える間に姉さんも自室で着替えて、ついでにボクの服も見繕ってくれる。  着替え終えた――とは言え、腰にタオルを巻いただけの姿に、だが――ボクは姉さんの部屋をノックする。  コンコン―― 「姉さん、いい?」 「いいわよー」  ドアを開けて部屋に入る。姉さんはラフな部屋着で、タンスをごそごそ漁っている。  ボクのほうを振り返る。 「うわあ、あんた、脱いでも女の子みたいねえ。なんで胸隠してないんだろうとか思っちゃった、ド貧乳の美少女みたいで」 「やめてよ、そんなこと言うの。それより、服は?」 「うん、あったわよ。ほら――」  姉さんはタンスの奥の奥のほうに手を突っこんで、ぐいーっとそれを引っ張り出した。濃紺色のそれは、まあ、学生である以上、見慣れていると言えなくもないが、しかし…… 「――スクール水着」  ……ボクに、それを、着ろと?  女子向けの校内指定水泳着が、姉の手に揺れている。 「姉さん、ごめん、ちょっと質問」 「はい、どーぞ」 「ボクは男です。それはスクール水着です――そのスクール水着、誰が着るの?」  姉さんはボクを指さして答える。 「あ、な、た」  新婚の奥さんが旦那さんに語りかけるより優しく、慈しみをこめて。  でもボクには天使の皮を被った悪魔にしか見えない。  バスタオル一枚だけを腰に巻いた情けない格好であとずさる。ドアに手をかけて部屋を出ようとする。  ガチャガチャガチャガチャ――  ドアノブを何度もひねる。けれども開かない。押しても引いてもドアは動かない。  ……なんでっ! 「うふふふ、オートロックよ。鍵がなけりゃあ開かないわ」  姉さんが勝ち誇った顔で宣言する。 「さあ、部屋から出たけりゃおとなしくスクール水着、略してスク水を着なさい……!」  蛇に睨まれた蛙。ボクは身が竦んで怯えるばかり。  スクール水着と、いつの間にやらデジカメも構えて姉さんが押し迫る。姉さんの特殊な性癖と、今までにされてきた数々の悪戯と、その度に増える姉さんのアルバムコレクションが思い出される。  ボクにはスクール水着は似合わない。  ……そう信じたい。 ガケ  白い雲、青い空。水平線は境目が曖昧に溶け合って、この場面を写真に撮れば「海泳日和」と題されるだろう。僕は崖から落下しながら、そんなどうでもいいことを考えていた。彼女が「あ――」と言ったのが耳にこびりついている。その顔が網膜に焼きついている。呆然と表情を失った顔。……そりゃあ、なにが起こったのか理解できなけりゃ、表情の作りようもないよな。彼女が悲鳴を上げるのは僕が水面に叩き落とされてから、錆びていたフェンスの向こう、断崖絶壁を見下ろしてからだろう。そのまま彼女が事故でも故意でも後を追って落ちないことを祈りながら、僕は――  ぴちゃんぴちゃん――水滴の音が響く。背面にゴツゴツとした感触。眼を覚ました僕は洞窟の中に寝かされていた。……どこだ、ここ? 意識ははっきりしている。のに記憶が断絶している。僕は彼女と海へ来て、岬から展望を眺めて、フェンスに身を預けて、腐っていたフェンスが崩れて、そこから海へと落ちて……で、どういう流れで僕はここにいる? 身を起こした僕は眼前の少女と眼が合う。「大丈夫ですか?」「うわああっ!」至近距離、それも首を伸ばせばキスも届きそうな接近具合に僕は慌てて後ずさる。肌を突く岩肌が痛い。立ち上がる。少女の全身を視界に収める。洞窟の出口は近い。月明かりが海面に反射して窟内を照らす。暗くはあるが、非常灯程度の明るさはある。……あれ? 少女を見れば見るほど見間違えているような気が強くなる。上から、長い髪、小さい顔、小動物に似て黒目勝ちの瞳、朱の薄い色気ない唇、裸の上半身は髪で胸が隠れているだけで、下半身にもなにも纏っておらず、腰から下は鱗に覆われた魚身が露わ、尾ひれの末端まで見える。「……それ、なに?」僕は彼女の脚、つうか尻尾を指さして尋ねる。「見ての通り尻尾ですよ」「なんで?」「人魚ですから」自慢げに胸を張って少女は答える。その拍子に胸を隠す髪が幾房かずれて、危うい状態になる。が、少女は気にする様子はない。元から裸なのだから当然だろう、けど僕が気にするのだ。視線がそっちに行かないよう注意しながら――てか待て「人魚」って言ったか?「人魚?」「はい」「船乗りを惑わす?」「……ごめんなさい、たまに」「溺れた王子様助けて泡になったり?」「私は泡にならないでハッピーエンド迎えたいなあ」尻尾を岩肌に寝かせた姿勢だから、自然と少女は直立している僕を見上げる形になる。見上げる姿勢というのは蠱惑的に映るものだけど、それだけでなく、彼女の僕を見る眼が、なんだか……「だから私は考えたんです。私が人間になるんじゃなくて、王子様を人魚にしてしまえばいいとっ!」拳を握りながら少女が力説する。もう一方の手には薬瓶。……ヤな予感。「一目惚れしました。付き合って下さい、だからこれ飲んで下さいっ。大丈夫、痛いのは最初だけですからっ!」「……断ると言ったら?」出口は人魚の少女の側にある。外に出るためには彼女の横を走らなければいけない。けど、下半身があれなら、上手く逃げ切れる、はず。僕は一歩前に踏み出し、走り出す用意をする。少女が笑う。「拒否権はありませんよー」それが合図、僕は地を蹴って駆け出す。少女が身を撓ませる。 ベランダ  指を怪我した。指先をざっくり深く切ってしまって、病院へ行って手当てしてもらったけど、ぐるんぐるんの包帯に固定されて料理できない。迷った末、夕食は外食で賄うことにする。財布をポケットに入れて、防犯のために部屋の蛍光灯は点けっぱなしにして、近場の飲食店マップを頭の中で描きながらアパートを出る。空模様が怪しい。暗雲が風に流され見る見る模様を変える。すぐにでも雨が降りそう。ゆっくりと食事を済ませて、会計後、外に出たら、雨――そんな状況はごめんだ。コンビニで弁当でも買ってアパートで安心して食べようと決心する。最寄りのコンビニまでの道中、建ち並ぶマンション群の横を過ぎる。家族連れが住んでいそうな、小洒落た造りのマンション。六畳間に住んでいると憧れてしまう。マンションのベランダを眺めながらコンビニへ足を進める。俺がなにげなく視点を定めていたベランダ、そのサッシを滑ってガラス戸が開く。カーテンの奥から人が現れる。遠くからなのだから――そのベランダは四階にあって、俺はマンションから道を挟んだ位置にいる――眼が合うこともないだろう。人影を見物する。人影はベランダのフェンスに近づくと、そこから身を乗り出した。布団が干されるみたいに上半身が垂れ下がる。さらに身体を外気に晒す。全身がフェンスの外に出る。……落ちる! 投身自殺を目撃しまいと瞼をきつく閉じる。数秒経って眼を開ける。そこにはまだ人影がいた。しかしその全身は完全にベランダからはみ出ている。のに落ちないのは、フェンスに貼りついているからだ。まるでトカゲ。人影は四肢を這わせてマンションの屋上へ登る。登り切るとその姿は消えた。しばらく待っても、再びは現れない。俺は視線を逸らしてコンビニへ向かう。急ぎ足で。……あのマンションには住みたくない。六畳間で、今の俺には充分だ。 ジュウサンニチノキンヨウビ  一三日の金曜日、なにが現れるんだっけ? その映画は見たはずなのに思い出せない。けれども頭を悩ませる問題は空想上の怪物でなく現実の脅威が僕を襲おうということだ。毎週金曜日の夜、大学に進学した姉が下宿から実家に帰ってくる。下宿先からこっちまでは電車で一時間。実家から大学まで通うのは遠すぎるけど、下宿から実家までなら行ける距離だ。一人暮らしの食事は貧相になりがちで、姉はメシをタカりに帰ってくる。娘思いの母親は腕を振るって上等な夕食を用意する。土日を実家で過ごして姉は下宿へ帰る。おかしな話だけど実家と下宿、どっちに行くにも姉は「帰る」と言う。どっちも自分が住まうところだから合っているんだろうけど……今日は姉がこっちに帰ってくる。僕は頭を悩ませる。あの姉が帰ってくる! たまに大学のコンパやらで帰ってこなかったり、僕のほうがよそに泊まっていたり、出会わない時はすっごく助かる。出会えば僕は心臓が鳴りっぱなしの困った事態に陥る。どうにかして逃れられないものか、しかしちゃんとした理由なしに僕の両親は深夜の外出を許してくれない。けっこう厳しくもあるのだ。夕食を食い終わったらUFOが飛んできて夜中だけ僕を拉致ってくれないだろうか、などと考えている内に、ピーンポーンと誰が聞いても玄関のチャイムと知れる音が耳に届いた。この日この時間にチャイムを慣らすのは彼女しかいない。家の者が出るより早く玄関が開かれる。「ただいまー」姉の声が玄関から廊下を通って僕の鼓膜を震わせる。両親が出迎える。僕は自室にこもって居留守の真似事をする。靴があるのだから僕がいるのはすぐバレる。けど声を出さないことで姉の注意を引かずに済むかも知れない。このまま静かに夕食を済ませて――両親がいる夕食の間は、さすがの姉も手を出さない――その後もうまくやり過ごすことができれば……と考えていたのに、「――おかえりの挨拶は?」奇襲されてしまった。無遠慮に、ノックもせずにドアを開けて、姉は僕の部屋に侵入する。僕は精一杯平静を気取ってみる。「……あ、ごめん。本を読んでいて。おかえり、姉さん」机に向かって状態で、僕はいかにも「読書に集中していました」という風に格好をつける。「ふーん、なに読んでたの? エロ本?」けれども姉は背後に回り込んで、無遠慮に――姉が僕に遠慮するのは滅多にない――僕の上から本の内容を覗き見る。薄くても確かに女性を感じさせる感触が首筋に当たる。「違うよ。普通の小説、だよ」カバーを外して小説のタイトルを見せてやる。対姉用に購入した、無難な内容の小説だ。さあ、興味をなくして、早く部屋から出て行ってくれ! 僕は切に願う。けど姉はますます身体を寄せてくる。「駄目じゃない、ちゃんと勉強しなきゃ。そうだ、夕食までに、保健体育の勉強――しよっか?」吐息が耳から頬を撫でる。一三日の金曜日、なにが現れるんだっけ? サキュバスのような気がしてきた。 ボタン  頭が痛い。熱い。額に手を当てると明らかに熱量が尋常でなく、早々に布団に潜ることにする。ズキンズキンと絶えず刺激が脳味噌に伝えられているけど慣れれば眠ることはできた。窓から差す陽光が顔面に浴びせられる。たまらず俺は起きる。いつの間にか朝になっている。……ずいぶんと寝たな。まるでついさっき瞼を閉じたようなのに、夜は去ってしまっている。頭痛も去ったようだ。爽やかな目覚め。昨夜は晩飯を食わずに寝たから腹が減っている。今朝は多めの朝飯としよう。その前に手を洗う。台所、蛇口を捻る。冷たい水が堰を切って溢れ出す。もう水が冷たくても身を切る感覚を味合わなくてもいい季節になった。躊躇わずに水に手を浸す。ばしゃばしゃと手をこすると、そのまま顔も洗ってしまう。杯状にした両手で水をすくって顔にぶつける。グッ――ぶつけた手の指先がなにかに刺さる。肉も皮も破れないけど唐突な痛みに驚く。指先に凸面を感じた額を恐る恐るなぞる。台所に鏡はない。我が家、唯一の鏡は浴室に備えつけられているものだけだ。面倒だから指先でのみ確認する。なにかが貼りついているだけだろうし。なら鏡を見ずともことは済む。額に指を走らせる。こめかみからつうーっと伝う、やがて不自然な盛り上がりにぶつかる。……なんだ? 突起物をまさぐってみる。額のど真ん中からボタンのようなものが、生えて、いる。境目がない。吹き出物にしては大きく、硬い。ボタンと言ったが、服を留めるボタンでなくオンオフを操るほうのボタンだ。そんな感じの突起が生えている。しばらく弄ってみる。取れそうにない。ちょっと上から強く押してみる。――ポチッ。スイッチが、入った。頭蓋の中から歯車の音が聞こえる。ウイイイイイイイイイイイイイイイン――頭の中、なにかが起動した。止める方法は分からない。 キュウシュウニパスポートハイラナイ  九州にパスポートはいらない。のにパスポートを引っ張り出してしまったのは、飛行機に搭乗することが自動的に国外旅行を連想させるからだ。海外と言えば国外である。僕のところから九州は宮崎まで遠い。新幹線と飛行機、どっちで行っても費用はとんとんだ。なら傷心旅行にふさわしく、新天地感を味わえる飛行機のほうがいい。電車旅は陸続きで、いろんなものが繋がっているのを見せつけられて、失恋を忘れるための傷心旅行には向いていない。延々と電車に乗っているのがめんどくさいというのもある。パスポートを机の引き出しにしまう。他の荷物を確認する。海パンをこの旅のためだけに買った。宮崎を選んだのは、すべてを忘れるためにどっか遠くへ行こうと思って、じゃあどこへ行こうという時に最近海へ行っていないことを思いだしただけ。どこでもよかったのだ。……海でナンパしようか、でもそんな勇気ないから、逆ナンされたらいいなあ。忘れ物がないことを確認すると、現実逃避な妄想をしながら出した荷物を鞄に戻す。背負う。玄関のドアを閉めた後、鍵は郵便受けに入れる。こっちのことは忘れていたい。バスを乗り換えて空港に行く。手続きを済ませるとロビーで搭乗時間を待つ。……けっこうあっさり入れたな。行列に並んだり手続きにはもっと時間がかかると思っていたのに、拍子抜けだ。他にこの搭乗口で待っている人は見当たらない。――いや、いた。誰もいないと思っていた座席の背もたれからひょこんと頭が飛び出す。リボンが意匠された髪留めの、身長からして、幼い女の子だろう。その子は連なった席の先頭の列に座っている。僕はロビーに着いて一番近かった後方はじっこの席にいる。鞄の紐を弄りながら、前方の人物の挙動を観察する。動きはない。横手にある売店へ行って、ジュースと飴を選びながらその横顔を覗き見してみる。やはり女の子だ。さっきからだいぶ時間が経っているのに保護者がいないのが気になる。買ったジュースのストローに口をつけてちゅるりと一口吸って、僕は女の子に近寄る。女の子は俺を冷めた眼で見ている。隣に座る。「こんにちは。お父さんとかお母さんとはいないの?」「ナンパ?」胡散臭そうに返事する。「だったらどっか行って。ナンパするような軽い人に興味はないから」僕は笑い出す。僕と女の子の年齢差は、いくつだろう、二〇はないよな、でも一〇はあるはず。「大丈夫、君みたいな子供に手を出すはずない」「最近はロリコン多いから」「……そんな言葉、どこで憶えるんだ。テレビ? まあ、僕は年上好きだから、安心して」「だからお母さんが知りたいの?」面白い子だ。僕は笑いを噛み殺して――笑ったら、「私のお母さんに失礼でしょ!」なんて言われそうな気がして――ようやく女の子の隣に座った理由を口にする。「違う違う、君みたいな子供が一人でいて、心配になっただけ。ナンパするような軽い男じゃないし、その勇気もないよ」「君みたいな子って失礼ね、これでもちゃんとした女の子よっ」……しまった、失言だ。けれどもその失言に対する女の子の怒り方もおかしくて、僕は楽しいままだ。傷心旅行の男が空港のロビーで幼い女の子とこんなやりとり、滅多にない。「ごめんごめん、失礼なこと言って」とりあえず、手を合わせて、頭を合わせて謝る。顔は笑ったままだけど。「当たり前よ」彼女は腕を組んで偉そうにする。「で、お父さんお母さんはどこにいるの?」頭を上げた僕は再度訊ねる。この子には似合わない感じもするけど、迷子なら、なんとかしなくちゃとも思う。けど彼女の答えは僕のどの予想からも外れて、「一人よ。傷心旅行だもの。私、失恋したの」なんと僕と同じ旅の理由まで言った。真偽はともかく、それは僕のツボにはまって、「――あははは、奇遇奇遇! 実は僕もそうなんだよ! はははははははは」大声で笑ってしまう。空港なのに。図書館で騒ぐ人を見るように、別の搭乗口前で待っている人がこっちをやかましそうに見やる。……すいません。心の中でのみ謝る。笑いの発作が収まると、気恥ずかしく肩を狭める。女の子は呆れた顔で僕を眺めている。飛行機の搭乗時刻まで、まだまだ時間はある。 リッパナノハエテコイ  同級生がみんなしていると聞いてびっくりした。まるで私がはしたない女の子のようで、放課後薬局に直行する。家に帰ると自室に引きこもり、スカートをまくし上げてパンツを下ろして、買ってきたものを開封する。――カミソリとシェービングクリーム。スプレー缶をよく振ってから下腹部に噴かせる。石鹸やシャンプーより密度も粘度もある白い泡が股間を覆う。カミソリを手に取る。刃物を自分の身体に当てるのはちょっと怖い。躊躇する。けどみんなしてるって言うし。……ほんとにみんな陰毛の処理なんてやってんの? 迷う。けれどもこんな格好で止まってらんない。私は決断する。肌を伝うクリームのはじっこにカミソリを置く。滑らせる。白い泡ごと黒い毛が刮ぎ落ちる。末端から中心にカミソリを幾度も走らす。慣れが手の動きを速くする。――ッ。無音、だけど抵抗を感じた。股間部が熱くなる感覚も。カミソリが通った跡、シェービングクリームと陰毛は剃り落とされ、ついでに赤いものが股間の中心から滴っている。そこから熱は広がっている。「って、血いいいいいいいい――っ?」気づいた私はその名称を叫んでしまった。慌てて口をつぐむ。自室と廊下を隔てるドアを見る。家族は今この家にはいないはず。今の叫びに誰かが私の部屋に入ってくることはない。大丈夫、あとは自分で処理すればいいだけ。手を床について深呼吸して、まずは自分を落ち着かせる。……オーケー・ベイベー、私は強い子だ。オーケー・ベイベーなんて言葉が出てくるあたりまだ動揺している感もあるけど怪我の手当てを始める。まずは血を拭って怪我の程度を見る。ティッシュに血を吸わせる。何枚かぐちょぐちょになって私の下腹部はきれいになる。患部を見る。一部からはまだ血が垂れている。そこが患部だ。……削れてる? 鏡を股の間に置いて違う角度からも見てみる。――クリトリスの上半分が削れてる。スパッと。「ノット・オーケー・ベイベエエエエエエエ――っ!」いやいやいやいや落ち着け、落ち着け私。カミソリを取り寄せる。顔に近づけて、目を細めて眺める。――肉の芽が刃部に挟まっている。カミソリから視線を外し、天を仰ぐ。「……全然オッケーじゃないですベイベー」しばし呆然とした後、とりあえずパンツを穿く。患部には絆創膏を貼った。カミソリとシェービングクリームを片づける。カミソリに付着しているクリトリスの断片をどうしようか迷う。……そう言えば。「上の歯が抜けたら縁の下に、下の歯が抜けたら屋根に投げる」って話を思い出す。部屋の窓を開ける。「立派なの生えてこいベイベー……」半ば我を失った言葉と共に、屋根の向こう側へ、投げた。  目を覚ますと絆創膏が指先に貼りついていた。……寝ている拍子に取れちゃったのかな。結局昨日は誰にも話さず医者にも行かず、そのまま一日を終えて布団に入った。誰にも言えやしない。恥じらいがある。なんと言えばいい? 布団をのけて、緩慢な動作で立ち上が――ろうとしてつまずいて、コケそうになる。なんとか踏み止まって原因を見れば、パジャマのズボンがヒザまでずり落ちている。昨夜は寝相が悪かったのだろうと判断する。絆創膏も剥がれていたし。ズボンを引っ張り上げる――と、途中で引っかかってズボンのゴムだけが伸びる。……あれ? 男の子の朝勃ちじゃあるまいし、私の身体にどこか引っかかるようなものはないのに。どこのなにが引っかかったのだろう。ズボンを下ろしてみる。――ぼろんと肉棒がこぼれた。……え? それはクリトリスのあたりから生えている。腰を振ってみる。ぶらんぶらん。ぞーうさん、ぞーうさん、おーはながながいのねー……って、違うっ! 危うく現実逃避しそうになる。これはどう見てもちんこだ。しかも朝勃ち気味。立派なのが生えてしまった、本当に。……どうしよう? まあ、誰にも言えやしないのに変わりはない。 ブツカッテ  寝坊した。俺が起きぬ間にアラームの止んでしまった目覚まし時計は遅刻するか否かぎりぎりの時間を指している。布団を蹴飛ばして跳ね起きると顔を洗い、ついでに水で寝癖を梳かして、便所で用を足して、制服に着替えて、鞄に必要な物を掻き集めて放りこんで、冷蔵庫の上に置いてあった本来は昼食用に買ったメロンパンを朝食代わりに包装を破り捨てて咥えて、玄関を出るや全力疾走を開始する。  アスファルトを靴底が噛む。食い千切るように地を蹴り、身体を前方へと押し出す。慣性を伴って加速は最速へ。俺の体力が尽きるまでトップスピードは維持される。  家から学校までそう遠くはない。静かな住宅街を横切るように疾走する。時計を確認せずとも、他に学生が見当たらない状況が危機的な時間であると俺に告げる。  最後の曲がり角、この十字路を曲がればあとは学校まで直線、ラストスパートに意識を集中する。  ――だから反対側から同じく駆けて来る人影に気づかなかった。  相手のコースに乱入する形になって、思いきりぶつかってしまう。衝突、互いに反対方向に弾けて転ぶ。 「きゃあああっ?」  声の高い、女の子特有の悲鳴が聞こえた。スカートの端だけが見えた。景色は流れて、俺の視界は空を映す。転んだ身体は最終的に大の字になって青空と正対していた。口の中に砂利が入っている。上体だけ起こしてそれを吐く。  立ち上がり、ぶつかった相手を探す。  ……あれか。  すぐに分かった。彼女もまた派手に転んで――やはり女の子で、うちの学校の生徒であることを示すセーラー服を着ている――スカートが完全にめくれたM字開脚の形で路面に寝ている。スカートの中身はまる見えで、青と白のストライプ柄の下着が露出している。  なるべく縞模様に気を取られないようにして倒れたままの女の子に近寄る。 「すいません、大丈夫ですか?」  ……怪我とかしてなけりゃいいけど。  心配してしまう。ぶつかったのは俺の責任だ。手を差し伸べながら、声をかける。 「うん……だ、大丈夫です」  女の子は気丈に笑みを浮かべて答える。  けど、彼女自身が気づいてない怪我を負っている可能性もある。  引っ張り上げながら、俺は彼女の全身を観察する。上から順に、まず頭部。特に傷も出血も見当たらない。手も同様、鞄をクッションにしたようだ。彼女の腕の下に学校指定の鞄が見える。肌が露わな脚部を見る。こちらも無傷のようで、俺は彼女の無事に安堵する。  女の子が差し出されたままの俺の手を掴む。タイミングを合わせて引っ張り上げようとする。同時に俺は女の子の股間部分を見た。  ――見て、しまった。  さっきはすぐに目を逸らして気づかなかったけど、パンツを押し上げて、男性を象徴する一物が、にょっきり生えている。俗称、ちんこ。  俺が手を握ったまま硬直しているのを不審に思った女の子は、その視線の先、自身の露出を悟る。 「きゃあああああああああああああああっ!」  さっきと同質の、しかしより大きな悲鳴が上がる。俺の手を放してスカートを抑えながら自分で立ち上がる。  ぶつかって転んだことは大丈夫でもそれを見られたことは大丈夫でないらしく、 「みっ、みっ、みっ、見ましたねっ!」  涙を浮かべそうな瞳で俺を睨む。  ……否定するべきだ。しなきゃ、この子、俺をどうにかするつもりだ!  その迫力に身の危険を察知する。 「いや、なんも見てないよ!」 「嘘っ、さっき、見ていたじゃないですかっ。はっきりと!」 「違うっ! 見てない、いや、ほんと!」  女の子に圧されて後退する。  追って彼女は踏み出し距離を詰める。  じりじり、じりじりと。 「なんで否定するんですか? やっぱり皮被っているから馬鹿にするんですか? ひどい……っ」  確かに、彼女のは余った皮が先端を包んでいたけど、 「そんなつもりじゃない! 大丈夫、日本人の七割はそうだって言うしっ」 「……やっぱり見たんですね?」  ……しまったあああ、墓穴を掘っちまったあ!  女の子の迫力が増大する。王手を詰まれたカエルが断崖絶壁でヘビに睨まれている。  俺が一歩下がれば女の子は二歩詰める。静かな住宅街のど真ん中、コンクリート壁が背に当たり、やがて俺は女の子に追い詰められる。 「口封じ、させて貰いますね――身体で」  彼女のスカートを押し上げる隆起がある。それは攻撃的に俺のほうを指している。  学校は、遠い。 オコス  毎朝姉さんを起こすのは一苦労だ。毎朝なんだから慣れるだろうと思われるかも知れないけど、そんなことない。喩えるなら……いや、ここは、姉さんの名誉のために喩えるのは控えておこう。とにかく俺は姉さんを起こす。姉さんの部屋の前に立つ。ノックせずにドアを開けて立ち入る。部屋と廊下の境界線を踏み越えた刹那、強烈な勢いで投げつけられた熊のぬいぐるみが頬を掠める。本能的に眠りを妨げる者を迎撃しているのだ。姉さんの無意識は起きるためでなく眠りを貪るために働いている。日に日にその具合は強くなり、ついには身体の衰えが現れ始めた両親では起こすこと敵わなくなった。そこで俺の出番だ。お小遣いの値上げを条件に俺は両親の願いを呑んだ。けれども少し安かった気がする。もうちっと高くついていいはずだ、この激務は。次々とぬいぐるみが飛来する。避ける。受ける。払う。たまに無防備な顔面にぶつかる。けどまだ大丈夫、柔らかいぬいぐるみだから。問題は姉さんの布団周囲のぬいぐるみ残弾が〇になった時。その前に辿り着きたいが、成功した試しはない。的確に俺の身体のバランスを崩す部位に当てている。そんなこと学習しないでくれ姉さん。無意識だから言っても無駄だけど。ぬいぐるみの投撃が止む。状況は次の段階に移る。布団の中から伸びる姉さんの手は次の獲物を握り締めている。……本能って、怖えー。姉さんの手が捕らえているのは鞄だ。ただの、鞄。スポーティーなデザインのショルダーバッグ。しかして寝惚けた姉さんが握ればそれは凶器になる。バッグの紐部分を握って振り回される様はまるでヌンチャク、いやモーニングスター。鞄の中身は入ったままで、当たれば痛い。ブォンブォンと手首の最小の動きだけで最大の破壊力を秘めた軌道をショルダーバッグが描く。軌道は球形の結界を成形する。その隙を見極める。思い切りよく飛びこむ。頭上スレスレを鈍器が通りすぎる。このタイミングを狙ったとは言え怖気が走る。けど脅威の懐に侵入した俺はもう安全、ミッションコンプリート、あとは姉さんを叩き起こすのみ――そこで油断してしまった。姉さんは日々学習しているのだ。その腕が俺を掴む。「うああっ?」布団の中に引きずりこまれる。姉さんの会得した新たなる技――誘惑。俺は姉さんと共に、眠りの中に堕ちる。 ケイタイデンワ  ない。ない。どこにもない。部屋中ひっくり返してひっかき回して探したけど見つからない。こんなことなら夜の内に探しておけばよかった。すぐに出てくるだろうと楽観したのがいけなかった。もう時間が残り少ない。あと五分、そしたら家を出て学校に行かないといけない。携帯電話のために遅刻なんて、できるはずない。……でも、見つからないと、それはそれで困る。家の電話機から携帯電話にかけてみる。けど反応はない。騒々しく着信を告げる電子メロディも硬貨の上で鳴ればけたたましいことこの上ないバイヴ機能が震える音も聞こえない。この家は電波が悪いわけでないし電池の充電も充分だった。どこかでなくしたか? いや、帰宅後玄関で最後にメール送信した記憶がある。俺の携帯電話は、この家のどこかにある。どこかにあるはずなのに……「お兄ちゃーんっ、学校行くよーっ」部屋のドアを無遠慮に開けて妹が時刻を知らせる。彼女はすでに用意万端、あとは階下に降りて靴を履くだけだ。「もうそんな時間か……」「どしたのお兄ちゃん?」「んー、ケイタイが見つからないんだ。見てねえ?」妹はしばし宙を睨むように考えてみせたが、「ううん、私は見てないよ」「……そっか」期待していたわけではないが、それでも、自分でも意外と、ヘコんだ。もし妹が携帯電話の在処を知っていれば、万事解決だったのだが……「もう時間だよ、遅刻しちゃうよ? 帰ったら私も探すからさ、もう行こう?」妹が俺の登校を促す。しょうがない、「応。んじゃ、帰ったら、また探すか……」「うんっ」妹に励まされながら、俺は鞄を手に取る。  その後携帯電話は見つかった。俺より先に帰っていた妹が、俺の帰宅直後に差し出してきたのだ。「お兄ちゃーん、あったよー」「おっ、マジか! さんきゅ! どこにあった?」俺が尋ねると、妹は少し迷って、「んー、廊下のほう?」と、なぜか疑問形で応じた。……廊下? 調べたような気もするけど。違和感がある。が、携帯電話は見つかったのだ。気にしない。携帯電話の電池は切れている。自室の充電器に接続、電源を得たところでオンにする。メールは来ていない。――いや、メールがない。メールボックスが空になっている。それどころか登録しておいたアドレスも全て消えている。「壊れてるウウウ――!」思わず叫んでしまう。「お兄ちゃん、どしたっ?」俺の叫びを聞いて、妹が部屋に入ってくる。俺は意気消沈した弱々しい声で答える。「いや、たいしたことないよ……ケイタイのアドが全部消えてただけだから……ハハハ、うん、ほんと、たいしたことないよ……」どこかで落としたのだろうか。落とした拍子にデータが消えてしまったのだろうか。分からない。結果だけが残っている。燃え尽きたボクサーみたいになっている俺から妹が携帯電話を奪い取る。「しょうがないなー」そしてカタカタとキーを打って操作する。「とりあえず、はい」返された携帯電話にも妹のアドレスが入力されていた。「私の入れておいたから。ね、元気出して?」いま俺の携帯電話には妹のアドレスしか入っていない。妹は笑っている。やたらと嬉しそうに。 ミエナイ  交差点、横断歩道の前で信号機が青を示すのを待っていると、僕の横に女の子が並ぶ。なんとはなしに視線を傾けた僕は彼女と目が合う。ランドセルを見せるようにおじぎしながら彼女は挨拶する。「こんにちはっ」僕もそれに答える。僕と彼女のやりとりはこれだけで終わる。もう彼女は僕のほうを見ようとしない。僕も信号機に視線を戻す。青色の表示が車道を横断することを許可する。左右から車が来ないことを確かめると――信号が青になったからと言って車が来ないとは限らない、やつらは信号無視して突っこんでくることもままあるのだ――僕は一歩を踏み出す。僕の前を女の子が先行する。彼女の右手は不自然に前方に突き出されている。「待ってよお、そんなに引っ張らないで」女の子の声が聞こえる。どんどん距離を離される女の子を、彼女の手を観察する。その手は開いている。いや、空白を握っている。……握られている? 彼女の手の平は透明の圧力を受けて白っぽく変色している。すぐにその手は見えなくなる。僕が道路の半ばの時点で彼女は横断帯を渡りきる。女の子の前方には水溜まりがある。昨夜の雨が、歩道の凹みに溜まっているのだ。彼女は左に進路をずらして水溜まりを避ける。相変わらず右手を突き出したまま。水溜まりの横を通り過ぎる瞬間、ばちゃんと水が撥ねた。彼女の足は水溜まりを避けている。けど、まるで誰かが水溜まりに足を突っこんでしまったかのように。飛沫が女の子に浴びせられる。「きゃっ」突然の冷たい刺激に彼女は驚きの声を上げる。「もう、気をつけてよー」諫める声に続いて、「……ごめん」謝る声が、確かに聞こえた。横断歩道の途中で立ち止まって、女の子を注視してしまう。彼女の視線の先を凝視する。けどなにも見えない。僕の興味など知らず、女の子は「あーあ」と服についた染みを気にしながら再び駆け出す。僕も再び歩き出す。水溜まりを通りすぎる時なにか映らないかと覆い見たけど、眉根を寄せる僕の顔以外なにも見えなかった。 カイダン  メグミの朝は早い。共働きで彼女が起きる頃にはすでに出社している両親の用意した朝食を食べて、食器を洗って、日によっては洗濯物を干したり母親のやり残した家事を済ませ、身支度を整え、独りでも「行ってきまーす」と朗らかに言葉を玄関に残してから家を出る。そして自転車で駅に向かって電車に乗って学校に最寄りの駅で降り、そこから徒歩で学舎に向かうわけだが、それでも教室に入るのは彼女が一番である。早くから活動を始める運動部もあるから下駄箱に着くの一番ではないが、彼女の目的は一番に学校に着くことではなく早朝の教室、窓から学校の裏手に拡がる四季折々の光景を楽しみながら静かに読書することだから問題ない。してメグミは教室に向かう途中、生徒泣かせの急角度の階段を上る。そこが狙い目だ。彼女が階段を登る場面に遭遇できるよう俺も頑張って早くに登校する。規則正しい彼女は毎朝同じ時刻に現れる。待ち構えたいところだけど俺は朝が弱い。ぎりぎりのタイミングで滑りこむのがやっとだ。校門前から下駄箱の間で彼女と遭遇する。けどこの年頃に共通して気恥ずかしく、「……お、おはよう」「あっ……おはよう」と、躊躇と遠慮で挨拶は終わってしまい会話には発展しがたい。一対一である点も緊張を促している。この状況を打破するのが先述の階段だ。ここを行く際、俺は必ずメグミを先行させる。急な階段、前方を制服姿の女の子が歩く。すると当然、下から下着が見えないか心配する。スカートを覗きながら後方を、俺のほうを見る。俺はできるだけ自然に、「ん、どした?」メグミは、まさか「パンチラが気になるから」とは言えないし、「あのさ――」と俺に話しかけて誤魔化す。話を聞くために俺は彼女の横に並ぶ。教室に着くまでの短い道程、俺と彼女は会話する。最近彼女が俺に声をかけるタイミングが早くなっているのは気のせいだろうか? 短い会話の最中に笑顔を見る機会が多くなっているのも気のせいだろうか? 教室に入ると俺と彼女は離れて、会話は終わる。同じクラスだけど、彼女と席は遠いし、彼女はそもそも朝の読書を楽しむために早朝に登校しているのだ。不粋に邪魔はできない。けれども願ってしまうのだ。いつの日か、教室に入っても会話が続いていることを。 ラジオ  愛用していたハンディラジオが壊れた。毎日ポケットに入れてイヤホンからコードを垂らして道程の暇潰しに聞いていたのだが、けっこう乱暴に扱っていたせいで、とうとう壊れてしまった。愛着はあったけど安物だし、早々に新品に買い換える。壊れたラジオは机の上に転がしたまま。……資源ゴミの日、調べないとな。ポケットに入れている際にどこかで強くぶつけたか、液晶画面が割れて、電波の受信もできなくなった、雑音を吐き出すしか能のなくなったがらくた。行き場はごみ箱しかない。部屋の照明を消して布団に入る。屋外の騒音が微かに聞こえる。静寂に雑音が割り込む。砂嵐と形容される、でたらめな入力に応えるスピーカーの出力である。……勝手に電源が入ったか? 壊れたラジオの悪戯に嘆息する。寝床から起き上がるのをめんどくさがっていると、やがてラジオは静かに、静かになる。スピーカーへの入力が切れたのではない、安定したのだ。壊れたラジオが音声を紡ぎ出す。「――……えていますか? 誰か、聞こえて、いませんか?」電波を受信できないはずのラジオ。壊れた液晶は暗いまま。僕は不可思議な現象に聞き入る。「誰か、私の声が、聞こえませんか? 誰でもいいです、誰か、お願いです。私の声、聞こえて下さい。誰か、いませんか? ――助けて下さい」僕は動けない。この声にどう対応すればいいのか分からずにいる。「助けて下さい。お願いします、誰か私を助けて下さい。助けて、下さい……!」声の主は助けを乞うている。助けを求めている。その声は女の子で。僕は、男だ。なら、「任せて」決意は容易く。「僕が助けに行く、君を」布団から起き上がる。身支度を調える。壊れたラジオをポケットに突っこむ。一方通行の通信は助けを願い続けている。その声だけを頼りに、僕は夜の街に出る。 チャイム  NHKや宗教勧誘、布団のクリーニングの宣伝営業その他もろもろ。見知らぬ訪問者が玄関のチャイムを押した時、ろくな用事でない。だから俺は予定外の訪問者が玄関のチャイムを押しても無視を決める。わざわざ覗き穴まで近寄って足音や物音、気配やらで己の存在を知らせるのは無益と学習したのだ。一人暮らしを始めて一年、このチャイムは招かざる客を知らせることのほうが圧倒的に多い。――ピンポーン。来訪者を知らせる音が六畳間に響く。俺は動かない。日干しから回収していい具合にぬくい布団の中で読書に勤しむばかり。ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン――……しつこい。けど応じるつもりはない。俺は本のページを傾ける。はらりとめくれて次のページが現れる。文字を読むのに追従してチャイムが連打される。根比べだ、俺が諦めて玄関へ行くか相手が諦めて去るか。ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン……不意に途切れる。静かになる。どうやら俺は勝ったらしい。――ピンポーン。再びチャイムが鳴る。ただし俺のところでない。隣室からだ。廊下にいる詰問者は次の標的に移ったと見える。自分のところから離れたことに安堵しながら俺は読書を続ける。ピンポーン――再度隣室のチャイムが鳴らされる。「はいはーい」隣室の住人は俺より我慢が弱いのか外交的なのか、いずれにせよ訪問者に応じる。薄い壁の向こうからチェーンを外す音、鍵を解錠する音、扉を開く音、そして悲鳴が聞こえる。元の声が分からないほど変質した悲鳴だが、隣人のものだろうと思う。この場合、罠にかかったのは隣人のほうだ。なら悲鳴を上げるのも彼が相応しい。俺はその場を動かず読書を続ける。どうせろくでもないことが起こっているんだ、自分から関わりに行くのは無益が過ぎる。ページを傾ける。はらりとめくれて次のページが現れる。どこかでチャイムが鳴る。 バー  紫煙と喧噪が曇る、アウトローばかりが集うバーの扉が開く。濁った空気と入れ違いに清楚な少女が入ってくる。白いワンピースを着ている。親や保護者はいないようで、自分が入ると、すぐに扉を閉めてしまう。飲酒勤務している店員は彼女を追い返そうとしない、店長によく言い聞かされているのだ。不審に思いながら、目の端でワンピースから露出する彼女の幼い肢体を追いつつ、見て見ぬ振りをする。少女はカウンター席に座る。小さな彼女の身体は椅子に座ると脚が床から離れる。「ミルク、ちょうだい」少女が言う。店員は困る、「ミルクはねえなあ。酒しか」「じゃあ、いいわ」少女はあっさりと引き下がる。店員は安堵する。この少女にどう対応すればいいのか、よく分からない。少女は、今度は隣に座っている男性客に眼をつける。ワンピースの胸元を覗いていた彼は、突然彼女が自分のほうを向いたので眼を逸らせようとするが、少女が自分を見ているをいいことに、ねぶるような視線をあどけない顔に注ぐ。「なんだい、嬢ちゃん?」明らかに好色の眼だが、少女は臆することなく、「ミルク、ちょう・だい」と言う。カウンターの向こうにいる店員に言った時より、ゆっくりと。舌と唇が動く。男は邪なことを期待してしまう。「ミルクってのは、俺のミルクでいいのかい?」「当たり前よ。ねえ、ちょうだい」「じゃあ、あっちのほうでいいか?」男は便所を顎で指す。少女は頷く。「うん、いいわ」男は少女と連れだって便所の個室に入る。しばらく経つと少女は一人で出てきて、「ごちそうさま。店長によろしくね」と店員に告げて店を出た。男は帰ってこない。その後便所を掃除しに行った店員が見たものは、白濁した液体で壁に描かれた『騙された助けてくれ! 搾り尽くされて消される! 消える、俺が』というダイイングメッセージだ。男の姿はどこにもない。男が便所から出てきた様子もない。店員は不思議に思ったが、深く考えることなくモップで白濁液を拭き流した。余計なことに首を突っ込まないほうがいい、それだけは知っている。 マチアイシツ  一人の男が空港の待ち合い室にいる。男の他に少女が一人、他には誰もいない。人気のない便なのだろう、掲示板に表示されている地域へ向かうのはこれ一本だ。男は文庫をめくっては閉じてを繰り返して暇を潰している。少女は男をちらちらと、値踏みするように窺っている。スカートの裾の飾りを指に絡めて弄んで、落ち着きがない。待ち合い室の天上に備え付けられたスピーカーからアナウンスが放送される。男は飛行機に搭乗するべく文庫を鞄に仕舞ってゲートへ向かう。その腕を掴んで引き止める手が伸びる、他でもない少女だ。「お願いしたいことがあるんです」切羽詰まった表情で少女が懇願する。眉根に皺を寄せて、躊躇と焦躁が見て取れる。「これを、この飛行機が向かう先にいる人に渡してくれませんか?」と彼女が差し出したのは変哲のない紙袋。振られた拍子に硬い音が中から響く。男は当惑する。「君が自分で行けばいいだろう?」少女は首を横に振って、背後を視線で指し示す。そこには別の地方へ飛ぶ便の搭乗ゲートだ。「私はあっちへ行かなくちゃいけません。誰かに……もう、あなたに頼むしかないんです」今この場には男と少女しかいない。搭乗へのタイムリミットは訪れた。少女を信じるなら、これがラストチャンスに違いない。再びアナウンスが流れる。時間がない。男は少女を信じることにする。「分かった、届けよう。でも、誰に?」これ次第では返答を覆すつもりだという声だ。けれども少女は安心して答える。「行けば分かるはずです。分からなければ捨ててもいいです、それ」わけが分からない。男は再度問い直そうとするが最後通告のアナウンスが放送され、男はそれどころではなくなる。すぐに搭乗しないと飛行機は男を放って飛び立ってしまうだろう。小さく舌打ちして、「分かった、行けば分かるんだな? 分からなくても、どうなっても知らないぞ――」と捨て台詞を残してその場を去る。少女は青空へ消える飛行機を見守っている。 ゴキブリ  机の裏からがさがさと束ねたプリントやルーズリーフが擦れる音がする。ゴキブリでも現れたかといらない雑誌を適当に見繕って丸めて握って机の裏側へ迂回して忍び寄る。そこには二本の触角がびよーんと伸びている、黒色の存在がいる。けれどもそいつはゴキブリではない。サイズが違う。虫なんかより大きい――そのものずばり人間だ。二房の撥ねっ毛が触角のように、背を覆う長い黒髪は外殻のように、背後からみればゴキブリと形容できるかも知れないけど、彼女は小さな女の子だ。いくら長いとは言え髪が彼女の背面を覆えるのはその面積が小さいからだ。して、僕は彼女のことを知らない。もちろん僕は子持ちでないし、彼女と面識はないし、見知らぬ幼女を招き入れる趣味はないし、玄関は閉まっていたはず。「あっ、お邪魔してますー」彼女がお辞儀する。「や、それはいいんだけど」よくないけど。それより「君、どっから入ってきたの?」「隙間からです、ゴキブリですから」「ゴキブリ?」「はい」「どこに」「ここに」「ゴキブリ?」「はい」自身を指差しながら女の子はにこにこ笑う。僕は溜め息を吐くと「分かった。ゴキブリでいいから。帰って――」玄関の方を丸めた雑誌で指そうとする。それが女の子の頭上を通過した瞬間、「きゃあっ!」彼女は頭を抱えて畏縮する。……なんだ? 筒状になった雑誌の口の部分を向けて尋ねる。「どうかしたん?」「いやあああああああ――っ! そんなもの向けないで下さいっ、殺す気ですかっ!」大粒の涙を浮かべながら本気で怯えられる。「これ?」丸めていた雑誌を拡げて、ひらひらと振ってみせる。雑誌の隙間からチラシがこぼれてじぐざぐに滑空する。紙片ははらりと女の子の足元に触れる。「ひゃっ」恐慌状態の彼女はそんな物にも怯えてしまう。「これが、怖いの?」僕は少し離して、雑誌を振って示す。「そうですよう、叩き潰すつもりですかっ! 私はゴキブリなんですようっ!」ふざけているようには見えない。けどその言動はふざけているにも程がある。僕は判断に迷う。女の子が泣いているのを見るのはそれが演技でも嫌だから、雑誌は手近なところに置く。静かに、そっと。乱雑に置いてバンッ! なんて音を立てたら、また女の子が泣きそうになると思ったからだ。凶器が消えたを見て女の子の顔に安堵が浮かぶ。「で、どうしたいの、君は?」「ご飯下さい。あと、子作りもしたいです」「誰が?」「私が」「誰と?」「あなたと」「なにをするの?」「子作りですよう」彼女の表情は真剣そのものだ。「私、ゴキブリですから」 コイノイッポンショウブ  親友の突然の一言が、その場を危険地帯へと変貌させる。 「私も、先輩のことが好きなの」  憧れの先輩にどう告白しようか相談した矢先の親友の台詞は、私に対する宣戦布告と同意義だ。眼鏡の奥で輝く彼女の瞳は本気の輝き。今や校舎の屋上は談笑の場でなく決闘の場。鮮やかな青と白の下、私たちの視線はぶつかり合い鎬を削る。フェンスに身を任せて見つめ合う私たちは傍目には気楽そうに見えるだろうが、実際には苛烈な戦いが始まっているのだ。  彼女は親友には違いない。それはこの状況でも変わらない。けれども先輩にどちらが先に告白するのか――それはこっから先の話し合いがものを言うのだ。  いかにして相手に「私より、あなたが先に彼に告白して」と言わせるか。親友の立場を崩すことなく先制権を勝ち取るか。  恋の一本勝負が始まる。 「へえ、知らなかった。あなたも先輩のことが好きだったなんて」  まずは軽くジャブを入れて探りを入れてみる。 「先輩の、どこが好き?」 「うーん、夢を追っかけているところかな。ううん、先輩の場合、夢じゃなくて目標で。ほんとに実現させる気だもん。毎日頑張っているの知っちゃったら眼が離せなくて。気付いたら、全部知りたいと思ってた。そして好きになっていたの」  ……うわああっ、解る! それ凄い解る!  思わず「だよねっ!」と手を取り合って賛同したくなるけど敵に塩は送らない、私はスカートの裾を握り締めて耐える。クールを装う。 「うん、そうだよね」  余裕を見せることで優位を演出しようとする。  が、眼鏡っ子はこちらの攻撃をさらりと受け流し、さらに言葉を畳み掛ける。 「私は先輩のことが好き。大好き。愛して、いる。この気持ちなら絶対誰も負けない」 「私だって!」  ここで言わせては負けてしまう。  私は誤算に気付く。眼鏡っ子は、私と違って親友の関係がどうなっても先輩に先に告白する気だ。  先にどちらが告白しても結果は変わらないかも知れない。その可能性は圧倒的に高い。けれどももしもの時を考えると、どうしても先に告白したいのだ。それがオンナノコという生き物なのだ。私は落ち着きの仮面をかなぐり捨てて想いを露わにする。 「私だって、先輩が大好き。大好き。大好き! こればっかりは負けられない。誰よりも私が一番先輩のこと好きなんだからっ!」 「ふうん……」  眼鏡っ子はフェンスから背を離し、二本の脚で屋上のコンクリートに立つ。私もそれに倣う。食べ終えた昼食の弁当箱は隅に移動させる。  眼鏡っ子が吼える。 「先輩に告白するのは、私よ。そおいうことは私を倒してから言いなさいッ!」 「望むところよッ!」  戦局はいよいよ最終局面に突入する。私たちは拳で話し合いを始める。原初の肉体言語を駆使して相手を説得するのだ。 「フシュッ」  蛇に似た呼気と共に私の腕は鞭の如く眼鏡っ子の腕を叩く。機先を制する。眼鏡っ子の腕はリズムを崩され、次の行動が遅れる――  はずだった。  連携技に持ち込もうと飛び込んだ私を襲ったのは強烈な下段回し蹴り。パアン! と快音が太腿で鳴る。  ……腕は囮で、本命は脚だったかッ!  本当に機先を制されていたのは私の方。眼鏡っ子が取ったのはいわゆる後の先の戦術。一手限りの後手とは違う、その後の何手にも及ぶ技の組み立てまで意識した動き。不意の下段蹴りを喰らった私は不利に置かれる。  ……上手いッ。  高度な技術に私は戦慄する。しかし先にも宣言した通り、こればっかりは負けられない。私は眼鏡っ子の攻撃を予測して、痺れる脚に意志の鞭入れて一歩踏み込む――側頭部に当たる直前に上段蹴りを両手で受け止める。  一歩踏み込んで打点をずらしたお陰で衝撃は浅く、私は眼鏡っ子の脚を耐え切って押し返すことに成功する。眼鏡っ子のバランスが僅かに崩れる――  十二分の隙。  私は拳を横薙ぎに振る……おうとしたのだが、屋上に新たなる来訪者を発見してしまい、意識と共に拳も逸れてしまう。拳は虚空を空振る。 「……?」  最高のタイミングでの大暴投に不審を抱いた眼鏡っ子は私の視線を追って、決定的光景を眼にして固まる。今なら隙だらけで打ち放題だけどそんな無粋はしない。というか意味がない。この決闘はノーコンテストとなったのだ、たった今。  屋上と校舎を繋ぐ階段から先輩と見知らぬ女の子が現れる。二人は手も繋いでとても仲が良さそう。今にも口吻を交わしそうに。それがあまりにも目に毒で、私たちは視線をずらしてお互いを見つめ合う。同情と共感が親友の絆を復活させる。  これでいいんだ……  春が訪れるにはまだ早い空気を肌で感じながら、私たちは笑うことにした。 ムービー  借金のかたに身売りに出された女の子が脅される。「スナッフかファックか。どっちがいい?」女の子は死体になってまで借金を返そうと思わないから、多少効率が悪くても後者を選択する。男はそれを見越していたようで、すぐに用意がなされる。この程度なら覚悟していた女の子は毅然とした態度で裸になる。安っぽいベッドの前にはもう一人、全裸の女の子がいる。視線が落ち着かずあちらこちらを泳いでいて、うぶな様子からこの子も私と同じなんだと女の子は知る。「攻めと受け、どっちをやりたい?」にやにや笑みを浮かべながら男が問う。女同士ならと安心していた女の子は「攻め」と答えてしまう。どっちみちどちらかを選ばされる羽目になるのだから、熟考しても結果はそう変わらないけど。「攻め」と答えた女の子はクリトリスに注射を打たれる。ようやくこれがただのファックムービーの撮影ではないと気付いて嫌がり騒ぐが屈強な男達に押さえ込まれぷすりと刺される。得体の知れない液体が注入される、液体が自身の身体に浸透する感覚に女の子は身震いする。注射から十分後、女の子のクリトリスが膨らみ始める。股間にカロリーを奪われる虚脱感、急速に成長する熱さ、痛み、そして――疼き。それを弄りたくなる。クリトリスは男性器を形作る。「立派なちんちんが生えたねえ」いよいよ楽しくなって来たと男は笑う。ちんちんの生えた女の子はよだれを垂らしながら腰砕けになる。もう一人の女の子は自分はなにをされるか恐怖する。果たしてこっちの女の子は注射をされたりすることなく、順当にちんちん付き女の子とセックスする。女の子達は男性器の出入りする感覚に狂う。腹になんべんも子種を撃ち込まれて妊婦と見紛おうばかりに腹がぼてる。そして本当に妊娠する。「子供の分まで頑張って稼ぎな」母性か父性かどっちか分からなくなった本能を発揮させ、勃起する女の子は我が子の養育費を稼ぐため同性に腰を振る。ファックムービーは順調に売れる。女の子は効率を上げるために乳首にも注射を打たれる。乳首もクリトリスみたいに変形してちんちんになる。途端にムービーの売り上げは落ちる、今度の改造は需要がなかったらしい。「売り物にならねえから、おまえはもういらねえよ」と女の子は開放される。幸い借金は返済することができた、女の子は今や自由だ。 オボロゲ  そいつに気付いたのはいつごろだろうか。そいつがいつからいるかとなるともっと分からない。予想が付かない。想像の範囲外。正体不明。なんせよく見えないのである。おぼろげなそいつは視界の隅、焦点の合わないところに現れる。見ようとして視線を移せばそいつの輪郭は背景に溶けてしまう。例えば眼球に貼り付いたゴミなのかも知れない。でも違うかも知れない。私は後者の可能性を捨て切れない。そいつはこっちに私に近付いている。少しずつ接近している。輪郭は少しずつ定まっていく。ぼやけた実像が見えてくる。うずくまったなにか。何者なのか。私向かって手を伸ばしながら這い進んでくる人型。人の形をしているけど、きっと人じゃない。こんな不気味な存在が人であるものか。日々少しずつ前進してくるそいつを遠ざける方法はある。石を投げたりして物理的に干渉すると逃げるように、次から離れたところに現れる。どうせなら消えてしまえばいいのに。鬱陶しい。そんな風に一時凌ぎはなるけれど、抜本的解決には至らない。私は考えた。私は我慢する。そいつがこっちに近付いて来るのを黙って見過ごす。一人で夜道を歩いているといつもの癖で小石を拾って弄んでしまうけど、それも我慢する。やがてそいつは視界の隅だけれど手の届くところまでやって来る。斜めうしろにそいつはいる。見えそうで見えない、チラチラとなにかが見えるだけ。とうとう息遣いも感じる距離になる。そこで私は覚悟を決める。私は背後に手を回して伸ばす。得体の知れない物を掌が掴む。それ以上に無数の腕が私を掴む、その感覚に私はパニックになる。引きずり込まれる。風景が歪む。否、私は実感を以てそれが違うと確信する。なにがなんだか分からなくなりながら、私はそれだけは確実に知ることができた。……歪んでいるのは、私の方だ。きっと今他人から私は輪郭を失った正体不明のなにかに見えるに違いない。怪異に触れるべきではなかったのだ。引きずり出そうなんて思い上がっていた。引きずり、込まれる―― ナキガオ  二日酔いに微睡む意識をザアア――と砂嵐に似た単調な音が叩く。ソファから起きてベランダを覗けば激しい雨が降っている。私はベランダの鍵を開けて雨の只中に立つ。閉めるとガラスに背を預けて座り込む。天然のシャワーが私に浴びせられる。私は空に顔を向けて濡れやすいよう工夫する。あっという間に私の顔から髪から胸元までびしょ濡れになる。湿っていないの背中と尻だけだ。絶え間なく注がれる雨水で顔を叩く。昨日のことを思い出すが涙は雨に溶けて私は泣いていない。……泣いて、いない。気分が落ち着いたところで私はベランダから部屋に戻って絞れるほどに湿った衣服を洗濯機に放り込む。髪をまとめ上げてシャワーを浴びる――今度は人工のシャワーを。雨に奪われた熱が身体に帰ってくる。指先の感覚が戻る。頬に触れる。涙の道筋が刻まれていない。いつも通りの私の顔。髪の毛から顔、身体を洗うとシャワーを終えてタオルで身体を拭いて髪はまとめ上げて髪留めで留めてエアコンを点けると私は裸のままソファに横になる。腰骨になにかが当たる――携帯電話だ。メールが届いている表示がされているが私は開くことなくケータイを部屋の隅に放り捨てる。雨音が心地よく耳朶に染み入る。このまま空気に溶けて雨と混じり合ってしまいたい……という夢想を玄関のチャイムと乱暴に扉を叩く音が叩き起こす。「あーっ、ちょっと待ってーっ」私は呼び出し音の主に叫ぶと急ぎ服を身に纏い化粧を仕上げ見繕いする。最後にもう一度鏡を見る。私は泣いていない。泣き顔は見せたくない。私は笑顔で友人を出迎える。「ごめん、待った?」「んん、大丈夫。ところで、メール届いている? 返事来なくてちょっと心配したんだけど。昨日あれから泣いているんじゃないかなあ、って」投げ捨てたケータイは部屋のどこかに転がっているだろう。あとで帰ったら探そう。今は嘘を並べて誤魔化す。「ごめん、修理に出してて……って、私がなんで泣くのよ?」「ふーん。別にいいけどねー」友人は知った風な顔で笑む。「んじゃ、行こうか」「うん」傘を差して外へ出る。私はもう泣いていない。泣くのは一人の時で充分だ。 ボブ  早朝の公道を自転車に跨り奔走する。太陽が昇りつつある時間帯、自動車の走行数はピークを迎える。それでも私は歩道でなく車道沿いを走る。より速くより早く学校に到達するために。歩道は歩行者や、ちんたら走っている他の自転車が邪魔になる。私にはあんたらみたいな余裕はない、急いでいるんだ。尻をサドルに埋めて精一杯ペダルを踏み回す。立ち漕ぎより尻をサドルに着けた方が自転車は速く進む。立ち漕ぎは体重を懸けやすいが脚力が拡散しやすい。ちゃんと座って尻を固定したほうがしっかりをペダルを踏めて、結果的に自転車は速く進むのだ。体重と脚力、どちらのほうが強い力かは明らか……もちろん、脚力だ。体重なんて言ったら殴られます。殴ります、グーで。それに立ち漕ぎだとスカートがまくれちゃうし。「見せパン」と言ってのける図太さを私は持ち合わせていない。坂道では頑張って座り漕ぎか、自転車を降りて押して歩く。今は平地を全力で走る。渋滞で止まっている自動車を追い抜いて行く。信号で止まる。腕時計で時刻を確認する。……やばい、間に合わない。このペースでは無理だ。遅刻を免れるために私は奥の手を使う。吹き飛ばされないよう鞄の紐を締め直す。カゴに備え付けていたヘルメットを被る。エンジンキーを回す。耳鳴りにも似た唸り声をロケットエンジンが響かせる。燃料がもったいないから使いたくなかったけど背に腹は代えられない。また今度叔父さんのところに行こう。信号の色が緑に変わる。私は己が跨っている獣を解放する。ファイヤートリック・ボブをヒントに作成されたカスタムメイド・ロケットエンジン搭載アシスト自転車『009号』がその真価を発揮する。私は奥歯を噛み締めて自転車にしがみつく。加速装置は自動車でも追い付けない領域まで自転車を押し上げる。私は必死で暴れ狂う自転車を御しながら心の中では安堵している。これで遅刻はしない。 アカナメ  股間がこそばゆい。朝起きた時の第一感想がそれだった。夢精か寝小便か? この歳になって。恥ずかしいな――寝惚け眼で上体を起き上がらせながら布団をはだける。女の子がめっちゃ舐めていた。朝日が眩しい。爽やかな日光を浴びて俺のナニはそそり立ち、泡立つほどたっぷりの汁でぬめっていた。女の子が舌を離して俺を見上げる。「おはようございますー」「……なにしてんの?」「垢舐めです」「あかなめ?」「はい、垢舐めです。私、妖怪なんです。妖怪アカナメ」読んで字の如く垢を舐める妖怪、アカナメ。それは知っている。で、「君がアカナメ?」「はい、アカナメです。それじゃあ、続けさせて貰いますねー――ンむ」そして彼女は垢舐めを再開した。そーいや昨日は風呂入っていなかったっけ。俺はされるがままにしておく。やがて食事を終えると彼女は「ふう、ごちそうさまでしたー。じゃあ、失礼しますー」と、布団から離れると視界の外へ消えて行った。俺は立ち上がる。アカナメの女の子のせいでべたべたになった服は脱ぎ捨てシャワーに向かう。トイレと一緒になっているユニットバスには赤いスカートとおかっぱ頭が印象的な少女がいる。俺の部屋は、アパートの端から二番目に位置しているのだ。「遊ぶの?」「んにゃ、シャワー」「そう。今度遊んでね」これまで花子さんと遊んだことはない。なんだか嫌な予感がするから。シャワーを終えると花子さんは消えていた。身体を拭いて着替えている最中、視界の隅を子供が走っていたような気がした。確認したことはないが座敷童だろう。テレビを点ける。貞子が出てくる。なぜか彼女はダビングしたテープを■■■■に見せて呪いを解いたのに居座っている。「ごはんまだー?」しかも飯を要求するほどこの部屋に馴染んでいる。きっと色々な影響を受けて変化したに違いない。インターネットがイメージに与える影響は強力だ、その本質を変えてしまうほどに。俺は貞子と朝食を食べ終えると食器を水に浸けて(食器洗いは帰ってから)手早く歯磨き等済ませて用意を調えると鞄を持って出掛ける。部屋を出る前に玄関に置かれている招き猫を見遣る。こいつを置いてから色々来るようになった。今日はアカナメ。明日はなんだ。「それはお楽しみ」招き猫に宿った付喪神が俺の無声の考えの読んで答える。招き猫の表情がにやりと変わる。「そうかい、せいぜい楽しみにしているよ」嘆息気味に俺は返事する。どうにでもなれ。 サンポ  久しぶりに外食して腹がふくれた。気分は上々、火照った身体を掠める涼しい夜風が心地良く、気の向くままに散歩と洒落込む。空を仰げばみるみる雲は流れ、月光がランダムに降り注ぐ。風に任せて歩み流れて気付けば細く入り組んだ路地。かつては繁盛していたのだろうが、時代の波かどこもシャッターが閉ざされたまま何年も解放されていないように見える。子供の頃は冒険と称してこんなところを探検したものだ、と思いに耽る。ここは去年引っ越してから初めて訪れる場所で、子供の頃の冒険と状況は変わらないはずだが、やはりあの頃の気分の高揚はない。年を取ったから当たり前だけど、それがなんだか寂しく思えた。飽きて帰り道を探す俺の前に電灯の光が現れた。一件だけぽつりと開店している。周りのシャッターは全て閉じている状況だと、覗いてみたくなる。ので暖簾をくぐって店に入ってみる。暖簾脇にある看板には『上神楽骨董店』の文字。中は看板通り、骨董品で一杯だ。電球の明かりの下アンティークからがらくたまで、所狭しと押し込まれている。据えた匂いが鼻を衝き、宙を漂う埃が空気の質を半透明に変えている。「いらっしゃいー」店の奥と繋がる通路から、あまりやる気を感じない女が現れた。若い。大学を卒業したくらいの年だろう。しかして、こんな若い子が――店主の親類だろうか? なんとなく、バイトではない感じがする。くつろいでいる感じ。「珍しいですね、こんなところで」挨拶代わりに、声を掛ける。「ああ、趣味でやってる店だからね。周りが店を畳んでも、そんな気になんないのよ」む? まるで彼女が店をやっているような言い草だ。「思っているんでしょ、こんな若い子が主のようなこと言って――って。その通り、実は私がこの店の主なのよ。よろしくねー」と、彼女はレジ周りをごそごそすると、俺に名刺を手渡した――片手で。雑な接客だ。俺は両手で名刺を受け取る。『上神楽骨董店主 上神楽陽子』ポケットに名刺を仕舞うと、「そんな若さで。ほんと、珍しいもんだな。いつから?」質問する。彼女に釣られて俺も雑な口調になる。「むかぁしからよ。こう見えても私、あんたより年上よ? 実はねえ、仙人なのよ、私」「ハッ、仙人か。そりゃいい。んじゃ、なんか霊験あらかたなもんは置いてあるかい?」ふざけて彼女の冗談に乗ってやる。すると彼女――『上神楽骨董店主 上神楽陽子』は、「そうねえ……」とひとりごちながら店内を回り始める。あれこれ引っ張り出しては置き直し。埃が舞う。「これなんかどう?」取り出したのは――  気付けば俺は商店街のド真ん中に立っていた。はて、骨董店にいたはずだが……? 記憶が断絶している。振り返る。行き交う人々が目に入る。あの場所への道は覚えていない。もう一度行くのは難しい。首を傾げながら帰路に着く。ポケットに手を突っ込む――カードのようなものが手に触れた。名刺だ。『上神楽骨董店主 上神楽陽子』そして――覚えのないレシート。お代頂戴しましたの旨が書かれている。覚えはないが、たいしたことない金額だから気にしない。記憶が抜け落ちていることも気にしない。そのうち思い出すだろう、ド忘れにしているだけに決まっている。  アパートに帰る。ドアを開ける。「お帰りなさいませ、ご主人様ー」全裸の猫耳少女が三つ指揃えて玄関で俺を出迎えた。尻尾がゆらゆらと揺れている。ドアを閉める。表札を見直す。凝視する。名前は書いていないが、確かにこの部屋番号は俺の部屋だ。二一五号室――間違いない。自分の部屋なのに、再びドアを開けるのに気が引ける。振り絞るほど大仰ではないが少なからずの勇気を出してドアを開ける。「どうなさいました、ご主人様ー?」猫耳少女が首を傾げる。「きみ、誰?」知らなくちゃいけないことを訊いてみる。「やだなあ、なに言っているんですか。陽子さんから私を買われたじゃないですかー」陽子――その名を思い出すのに手間取る。骨董店で、あの若い女から貰った名刺を取り出す。『上神楽骨董店主 上神楽陽子』そうだ、彼女の名だ。そしてレシートを再び見る。さっきは気付かなかったが、『猫(萌える)』の字が確かに記されている。なんだ、『萌える』って。「……猫?」「はい、猫ですよー」猫耳少女は笑っている。俺は困っている。どこかで魔女が嗤っている気がした。 ビジュツシツ  学校の七不思議を探索する私たちは、まず美術室の窓から校舎内に忍び込んだ。すでに二宮金次郎像は粉砕解体して回収している。果たして成分検査の結果が如何様に出るか――それは帰ってからのお楽しみで、今は美術室だ。『七不思議の謎を解体する!!』二つめは真夜中に勝手に絵を描くというキャンパス。自殺した生徒の怨念が筆を動かして、絵を見た生徒は呪われるという。具体的にどんな呪いかは不明、いい加減なものだ。どれだろうか? さすがに忍び込んでいる身分で教室のライトを点けるわけにはいかないからカーテンが閉まっていることを確認した上でペンライトで暗闇を照らす――あった。残念ながら幽霊の姿は見えず、筆が宙を泳いでいるだけ。とりあえず写真を撮っておく。カズコと私は手持ちのデジカメでパシパシとシャッターを切りまくる。カメラを持っていないフタバは手持ち無沙汰。当初彼女はビデオカメラを持って来る予定だったのだけど、生憎親から借り出せなくて手ぶらなのだ。残念、怪異が動画にどう映るか知りたかったのだけれど。ファインダー越しに私は白地に絵が描かれている行くさまを見守る。さすが幽霊と言うべきか、筆が速い。疲労する肉体を持たないからか、筆はトップスピードを維持したまま空中を動き続ける。みるみる出来上がって行くその絵は、「……あれ、これ、私?」傍観するフタバその人だ。「――って、ちょっと、あれっ? 私動けないよっ?」なんとフタバは絵の格好のまま動けないでいる。怪異はデッサンを描き終わり、いよいよ仕上げに掛かっている。ここから例えば、フタバの身体に血の噴出とか描かれてはマズい――幽霊が肉体を持っていれば胴体のあるだろう場所を蹴ってみる――空振り。ならば――私は筆のほうに手を掛ける。筆は中空で固定される。私と幽霊の間で筆の争奪戦が開催される。「ミコトがんばれーっ!」「早くっ、早くっ!」二人に応援されながら、私は筆を引っ張り上げる――唐突に抵抗がなくなり、私は筆を手に後方によろめく。勝ち取ったのだ。そこで私はちょっとしたイタズラを思い付く。「……ミコト、なにやってんの?」「んー、このまんまじゃ動けないんでしょ、フタバ」見た通り、フタバは動けないままでいる。「だから絵を完成させちゃおうと思って。絵を破いて、フタバの身体まで裂けちゃったら困るし」「だからってそんなもの描かないでよっ! ちょっ、やだっ! いやあ!」フタバの股間が盛り上がって行く、私の筆に合わせて。最終的に書き上げたところで、フタバの身体は自由を得る。彼女はスカートをまくし上げて、己の股間を見る。パンツからはみ出して、立派な一物が生えている。ちょっと皮被り気味。私はスカートの下から突き上げている絵しか描かなかったのに、どうしてこうなったんだろう……幽霊さんの趣味?「なんてもの描いてくれんのよっ! どーすんのよこれっ?」「いいじゃん、殺されるより。あのまま殺されたくはなかったでしょ?」幽霊の目的がフタバを殺すことだったかは定かじゃないけど、ツッコまれる前に私は言葉をたたみ掛ける。「それに死に対抗するには生を描かないと。ほら、エロスイコール生命力だし? ちんちん描くのは必然の流れ?」「ちんちん言うなっ! 女の子にちんちん描くなっ!」駄目だった。フタバは反論する。「どーすんのよこれっ!」私はしばし黙り、考えた末に結論を口にする。「とりあえず出しちゃおうか?」「……はい?」私は笑顔で答える。「出しちゃえば消えるかも知れないし。手伝ってあげるから。トイレでも行こうか?」「えっ、待って! 待って待って――!」待ったなし。私はフタバを引っ張って美術室を出る。カズコは絵を回収して付いてくる。カズコの手にどこからかピンクローターが握られている。さすが眼鏡っ子、用意周到だ。私たちは仲良く美術室横の女子トイレに消える。 ニノミヤキンジロウゾウ  どんな警備網だろうと必ず穴はある。たとえば狂人が世界最高峰の警備陣をくぐり抜けて大統領を暗殺する。それに比べれば、生徒が真夜中の学校に忍ぶ込むなんざ楽勝なのだ。あらかじめ昼のうちに鍵を開けっぱなしにしておいた窓から一人ずつ校舎に侵入――しようとしている私たちの背後から、足音。……誰? この時間、用務員のおじさんはテレビドラマに夢中になって、見回りはいないはず。足音の主は光源も持たず、暗闇を邁進して近づいてくる。重い足取り――ゆっくりなのではなく、重量感あるずんっ、ずんっ、という足音は着実にこちらに接近する。真夜中の学校に忍び込もうとしている連中とはいえ、仮にも私たちは女の子なのだ。怖い。カズコとフタバが先に上がり、あとは私だけ。取り残された状況で、いつの間にか謎の人物は月明かりでも視認可能な距離まで近づいていた。や、それを人物と言うのは語弊があるだろう。それは物体――二宮金次郎像だった。歩く二宮金次郎像だ。「――カズコ」「はい」窓の向こうからトンカチが手渡される。トンカチと言うより、その巨大さはハンマーと言ったほうが相応しい、獲物を粉砕する鉄の凶器が私の手中に収められる。「なあああんで銅像なのに動くのかなあああああああ、二宮ちゃんは? ちょっと中、見せてくれなあああいいいい?」ヒュンヒュンと手のひらでハンマーを回転させながら、お願いする。怪異でもなにか感じるところがあったのか、二宮金次郎像は足を止めて私と正対する。ヒュンヒュン、ヒュンヒュン――パシッ。回転を止め、ハンマーを逆手に握り締める。二宮金次郎像が再び動き出す――ただし、後方へ。だんだんと脚の回転は早くなり、歩く二宮金次郎像は走り出す。それを逃がす私じゃない、スカートをひるがえしながら(パンツを見られるわけじゃないから気にしない)私は猛然と追走する。銅像は悲鳴を上げない、ただ逃げるのみ――と一方的な追撃戦を予想していたら、二宮金次郎像は背負っていた銅製の薪をチャフよろしくバラ蒔いた。しかし私はミサイルではない、牙持つ走狗だ。そんなものでは止まらない。ハンマーで薪を撃墜しながら私はあっという間に二宮金次郎像に肉迫する。「一つ目の七不思議、解体開始」今月の文芸部誌特集『七不思議の謎を解体する!!』のレイアウトを考えながら、私はハンマーを振り下ろす。粉砕音が悲鳴のように夜空に響く。 ノロイノビデオ 「呪いのビデオ」を友達から借りた。怪談や都市伝説を聞いても怖がらない私に業を煮やしたサトミが「だったらこれ見てみなよっ! 絶対怖いんだから、絶対っ!」と押し付けて来たのだ。そんなに私を怖がらせたいか。ちなみにサトミ自身はビデオを見ていないらしい。そんなんで「絶対」と断言する自信はどこから来るのだ――なんて考えながらテープをデッキに入れ、テレビの電源を入れる。つまらないアニメが流れているが無視、ビデオの再生ボタンを押す。画面は暗転、やがて風景を映し始める。どこだか良く分からないけど中央に映っているのは井戸で間違いない。水を汲んだりする、あの井戸だ。苔が生えていて古臭い。ああ、あの映画のパクリか――私の心に失望が広がる。どうせ井戸の底から貞子が現れるんでしょ? 尻を掻きながらこれ以上はないって姿勢でリラックスしている私の眼前で井戸の底からやはり手が伸びて井戸の端を掴んでそこから髪の長い女性が登り出て、ずるずる、がくがくと、不自然にぎくしゃくした動きでテレビ画面の方ににじり寄って来た。そしてテレビ画面の枠に手を掛けると――テレビの画面をくぐって、貞子はこっち側に出て来た。「うっそ!」本物だったの!? 貞子はテレビから上半身をはみ出させ、ゆっくり、ゆっくりとはい出ようとしている。それを見た私は慌てて部屋から出て――粗縄を持って部屋に戻る。貞子は相変わらず画面から出るのにもたついている。その背後に回り込んで両腕を後ろ手に縛り上げてやる。「い?」私の行動が予想外だったのか、間抜けな貞子は状況を理解していない呆けた表情で私を見上げた。私はにかりと笑い返して見せる。「駄目だよー、余裕ぶっこいてないでさっさと仕事しないとー。悪い女の子に捕まっちゃうよー?」私の言葉に不安を覚えたらしい貞子はテレビの中に戻ろうとするけど判断が遅すぎる、私は彼女を一気に引きずり出す。「いやああああああああ!?」釣り上げられた魚みたいに彼女は激しく暴れるが、私は素早く全身縛り上げて動きを封じる。「さーだこちゃーん、あなた、確か、ふたなりだったよねー? 色々試させて欲しいなー、てか嫌がっても試させて貰うねー? んふふふ、大丈夫、慣れれば気持ちいいからー」彼女の目の前で尿道に挿入するために用意した極細アナルビーズを起動させる。ウインウイン。貞子は涙を浮かべながら拒絶の言葉を発しようとするが口にも粗縄を噛ませているから「う、あ、ああ――」と声は意味をなさない。私は有無を言わさず彼女の白いワンピースをたくし上げ――思わず舌舐めずりしてしまう。楽しめ、そう。  貞子が使いものにならなくなると私はしかるべき所に連絡する。すぐに黒服の男達がやって来て汁まみれの貞子を回収すると、私に代価を支払って彼等は速やかに去って行った。翌日私はビデオをサトミに返す。「どうだったっ!? なにが映っていた? 呪われた?」「んー、井戸が映っているだけ、だよ?」もう、そのテープの中に貞子はいないから。「うん、怖くもなんともなかったよ」楽しくって、気持ち良かったけどね。でも、そろそろ人外の相手も飽きて来た。ほかに、なにか――そうだっ。「ねえサトミ、今度一緒に――」 アリサ  道に迷った。慣れてはいるけど嫌になる。「初めて訪れる場所に胸がドキドキっ!」なんて余裕は私にない。急がないと遅刻する。登校途中に珍しい毛色の猫を追っ掛けた私の自業自得だけど、遅刻して教室に入った私を説教するだろう里山先生の顔を思い浮かべたら――だから私は急ぎ学校を目指す。頼りは勘だけ。朝早く、道を聞こうにも辺りは無人、ゴーストタウンのように静かで、どの店もシャッターが閉じたまま。私は勘を頼りに疾走する。だいたいこっちの方向に学校はあるはず――と斜めに、ジグザグに、あみだくじみたいに区画を走っていたら、なんだかさらに見知らぬ通りばかり現れる。「ここはどこ? 私は方向音痴」ふと浮かんだ言葉を口にしてみた。けど、ツッコんでくれる友人はここにいない。寂しい。私が迷子になるのは良くあることで、全ては方向音痴のせいである。東西南北の感覚を失い易いのだ。なにが言いたいのかと言うと――自分がどっちに向かっているのか分からなくなった。どっちに行けば学校? 私んち? 帰り道はどっち? どっちに行けばいい? なにも分からない。相変わらず周囲はゴーストタウン状態で、道を訊ける人は見当たらない。見ず知らずの他人の家のチャイムを押して道を尋ねようか迷っていたその時、曲がり角からこっち向かって走ってくる――バニーガールが視界に入った。バニーガールである。ウサギ耳にハイレグに網タイツ、どこからどう見てもバニーガールである。時計を気にしながら慌てて走っている彼女に声を掛けるのは色々な意味で気が引けたが、私は勇気を出して「あのー、すいません、ちょっと道を尋ねたいんですけど……」「ごめん、急いでいるのっ!」彼女はそのまま私の脇を走り去ろうと――逃がすものか! 私はアスファルトを蹴ると彼女を追い掛け追い付き並走する。「お願いです、実は道に迷っちゃって――」「急がなきゃ急がなきゃ」「あのお、路を――」「急がなきゃ急がなきゃ」「あのお――」「急がなきゃ急がなきゃ急がなきゃ急がなきゃ――」バニーガールさんは取り憑かれたように「急がなきゃ」を繰り返す。走りながら声を掛けるのは疲れるし、気味も悪かったので、私は諦めて脚を止める。彼女はあっという間に視界の外へ消える。さっき走った道を振り返る。時計を気にして急ぐウサギが行く先と来た先、どっちへ進むべきか? 落とし穴に落ちるのは嫌だから私は彼女と反対の道へ進んだ。すると良く見知った道、学校まで五分の所へ出た。これで遅刻しないで済む。通学路を歩み出したら、後ろで猫が鳴いた。見れば朝追い掛けた珍しい毛色の猫――チェシャ猫が笑っていた。睨んでやると猫は消えた。私の名前は亜梨沙。アリスじゃない。 スキマ  私を隙間から覗いている眼がある。そいつが誰なのか、なんなのか、分からない。物心付いた時から私を見ている。当たり前のように存在していたからすっかり慣れっこで気にしないでいたけど、なんらかの怪奇現象なのだろうか。少なくとも人間でないことは確かだ、身体の入り込むことの出来ない隙間から眼だけがこちらを覗いている。例えばカーテンの窪み。本棚の隙間。他人のポケットの中。壁と冷蔵庫の間。そういった所から眼だけがじっとこちらを見ているのだ。眼球だけが、ではない。瞼はある。瞬きする。けれども他のパーツは闇に紛れて見えない。眼球が光を反射するから、そこだけ見えるのだ。して、私は困っている。この眼をどうしたものか。私だって年頃の女の子だ。用を足している時に便器の底からこちらを覗いている眼があって、そこに私の小水が掛かって眼が辛そうに瞬くのを見ると変なプレイをしているようで気持ち悪いし、料理をしている時にそいつの眼に油が撥ねて痛そうにしているのを見ると申し訳ない。着替えや風呂を覗かれるのも当然嫌だ。あと、えちぃもの見たりえちぃことしている時に微妙な反応を示すのも止めて欲しい。そこで私は考えた。隙間を全部塞いでみよう。人間の生活する場所には必ず隙間がある。今まではめんどくさいし機会もなかったからやったことなかったけど、明日は彼が私の家に来る。まだ告白したり彼氏彼女の関係じゃないけど、期待しちゃうのだ、色々と。そんな場を覗かれたら困る。やっぱ二人っきりがいい。今日は親もいない。私は部屋を片付け始める。この際ついでに大掃除だ。あれこれ仕舞ったりなんだり。そして一通り作業が終わると隙間を埋めていく。大きな隙間には荷物を置いて、小さな隙間はテープで塞いで。一つずつ隙間を潰していく。まるで部屋に忍び込んだ蚊を探すような、数式を解いているような、隅から作業を進めていく。やがて隙間は全て塞がる。私の部屋は凄絶な模様替えとあちこちに貼られたテープで異様な雰囲気を醸し出し、はっきり行って隙間から覗く眼なんかより部屋その物が狂気じみて怖い。やったのは私だけど。そして私は部屋の中央、なにもない所に裸で突っ立って、待つ。服を来ているとそれだけで隙間が生じる。ますます自分が馬鹿っぽくてやめたくなるけどここまでの労力を無駄にしたくないからやめない。やめられない。ごとり、音が聞こえた。物音のした方を振り返ると、どこからか腕が伸びて荷物をどかして隙間を作っている。これを待っていた、本体が現れる時を。私はその腕を掴む。引きずり出す。猫耳尻尾付きの少女が出て来た。  ……私にどうしろと?  猫耳尻尾付き少女が「にゃん」と鳴いた。 アマイオモイデ  バレンタインデー当日だからと言ってなにが特別でもなく、僕は洋菓子店でアルバイトに勤しんでいる。チョコを貰うのではなく売り捌く側。店の目論見通りにチョコを買い漁って行く人達を見ていると可笑しみが込み上げてくるけど、僕もこの行事に参加したい――好きな子からチョコを貰いたかったというのが正直なところだ。もっともその好きな子には振られてしまった。 「新人、チョコは貰った? ねっ、どう?」  客が途絶えた頃を見計らってバイトの先輩に当たるミチカさんが聞いてくる。女の人なのに背が高い。けど胸は薄く、お店の、胸を強調する制服が似合っていない。バイトの休憩中「なんで背に栄養が行ったかなー。もーちっと胸欲しかったー」なんてぼやきながら煙草をすぱすぱ吸っていたこともある。きれいなんだけど妙にオヤジ臭い人だ。そんな彼女の口は煙草臭く、僕は女の人が迫っていることより煙草の匂いから逃れるように身を引きながら 「チョコなんて貰ってませんよ――あっ、そこのチョコちょっと取って下さい」  作業に入ることでそれ以上の追求を逃れた。ミチカさんはよく僕をからかう。年下の男の子は体のいい玩具なのだろう。にやにやと笑っているだろう彼女を背に僕は菓子に溶けたチョコレートを格子状に振り掛けトッピングを施す。お客さんが来る。 「いらっしゃいませーっ」  ミチカさんはレジの方に向かう。僕はふぅ、と溜め息を吐きながら次のトッピング作業に入る。まだ新人の僕は裏方作業のみで、レジは打たせて貰えない。今日はチョコレート系のトッピングが多い。ふぅ――もう一度、ため息が出た。  やがて店の商品も売れ尽くし閉店作業に入る。この場に残っているのは僕とミチカさんのみ。本当は店長もいるべきなんだけど、「あとのことは分かってるよね」とミチカさんに店の鍵を託すと早々に帰ってしまった。アバウトな人だ。残された僕達は適当なことを喋りながら床を掃いたり器材を拭いたり所定の位置に仕舞ったり。 「――そーいやさ。新人、好きな子いないの?」  ふと、そんなことを聞かれた。僕は包丁やらなにやらを水洗いしながら答える。 「いましたよ。でも、振られちゃいました」 「うっわ、マジ?」 「マジっすよー。他に好きな人がいるって。でも、まぁ、後悔はしてませんよ」 「……青春してるねえ、新人」 「ところで、いつまで僕のこと新人って呼ぶんです?」 「なに、名前で呼んで欲しいの?」 「いや、なんとなくです」 「そうねえ……そうだ、ちょっとこっち向いて?」  言われるままに後ろを振り向く。  ミチカさんの唇が僕の舌に触れた。突然のことに僕は驚いて、でもさっきまで水洗いしていた手はびしょ濡れでミチカさんを押し返すことは出来なくて、僕は為す術もなく唇を奪われる。なぜか煙草の臭いはせず、その代わり、甘さが僕の咥内に流れ込む――ミチカさんの唾液と一緒に。慌てながらエプロンで手を拭くと、ようやく彼女を引き剥がすことに成功する。 「なっ、なにをするんですか!?」 「ハッピーバレンタイン」  そう言う彼女の唇からは茶色いもの――チョコレートが垂れていた。口紅のように溶けたチョコレートを唇に塗っていたのだ。 「ねえ、名前で呼んであげるから。私のことも、名前で呼んでくれる――?」  ――これは、甘い思い出の話。 キジンヘンジンマジン  朝、教室に入ったら忍者がいた。黒い忍装束に身を包み、背には直刀、漫画に出て来そうな――そいつが教室の天井に張り付いていた。はっきり言って、気色悪い。ゴキブリを連想させる。実家の祖母の家で、どでかいゴキブリが洗面所の天井から降ってきたことがある。それ以来ゴキブリは苦手だ。 「よぉ」  ヨシタカが駆け寄って、肩を叩いて来た。 「そいつをなんとかしてくれ、不思議担当」 「なんだそれっ!? 不思議担当ってなんだよっ、朝からいきなり!!」 「お前以外にいるか不思議担当。お前変な友達多いじゃん」 「そん中にゃ当然お前も含まれているな」 「誰が。俺は真っ当な模範的学生だぞ?」  全然まったく欠片も説得力がない。悪名高い奇人変人魔人ヨシタカが。 「とにかく、お前行って来い。みんなお前に期待している」  忍者に眼を奪われていたが、見渡してみれば確かにみんな俺の方を見ていた。期待に満ちた眼で。その中には大勢の女子も含む。  ……行くか。 「しょうがない、行ってやるよ――どうなっても知らないけどな」  解決しても俺の地位向上は図れない気がするけど。  机に鞄を置くと掃除用具の入っているロッカーを開けてホウキを取り出す。天井に張り付いた忍者の斜め下までやって来ると――そのケツを思いっ切りホウキの柄で突いてやる。忍装束の黒い衣を巻き込んで、木製の棒が深く尻の谷間に捻り込まれる。 「きゃああ!?」  女の子のような悲鳴を上げて忍者が天井から落下する。てか女の子だな、あの声は。  ……しまった、男だと思ってホウキでやっちゃったよ。 「痛ぅ……」  落下した忍者は尻にホウキを刺したまま俯いている。ホウキに布地を巻き込まれて、尻の形が露わに。丸くて大きくて柔らかそう。刺さったホウキの柄がそこはかとなく色気を……いや、やっぱ単なる間抜けにしか見えない。女の子なら、このままにしておくのは可哀想だ――ホウキを引っこ抜いてやる。 「きゃうっ!?」  どうやら、口に出して言うのははばかれる穴にホウキが刺さっていたらしい、忍者は大袈裟な、可愛らしい声を上げて驚く。もう一度その声を聞くためにホウキを刺してやろうかという邪な考えが首をもたげるが、我慢してやる。そんなことをしたいんじゃない。 「大丈夫? 大丈夫だったら答えて欲しいんだけど、君、なに? そんな格好して」 「うぅ、くのいちですよぉ……」  尻の、特に一箇所を手で覆い隠しながら忍者――くのいちは答えた。頭部は頭巾に覆われているが眼の辺りは露出していて、その辺りもさっきの落下時にずれたようで、大きく顔が見える。気弱そうな女の子で、太い眉が泣きそうに八の字を描いているのがなかなかそそる……って、なにを考えているんだ、俺は。この子はいちいち俺の嗜虐心を刺激している気がする。 「で、そのくのいちが、俺の教室でなにを?」  くのいちという部分にはツッコまない、余計ややこしいことになりそうだ。適当に話を合わせて目的を聞き出すのがベスト。伊達に変な連中慣れしていないぜ。誇れないことだけど。 「探し人ですぅ……ある殿方を探して、確実に現れるだろうここで待ち構えていたんですけど……なんでばれたんですか? 他の人は私に気付かなかったのに」  気付かなかったと言うか関わりたくなかっただけんなんだけどな、他の連中は。 「それは秘密」 「はぁ、秘密ですか……」 「そう、秘密。世の中知らなくていいこともある。ところで、君の探し人って、なんて名前?」  とっととそれを聞き出して、この会話を終えたい。俺ではないことを祈る。 「えっと……ヨシタカってお名前のお方です」 「……」 「御存知なのですか、ヨシタカさまを?」  てめえの担当じゃねえか、ヨシタカ。人を不思議担当呼ばわりしやがって。俺は無言でくのいちの女の子から離れるとヨシタカに近付いて問答無用で側頭部にブーメランフックを叩き込んで倒れた込んだ所を女の子目掛けて放り投げてやった。 「うわっぷ!?」  ヨシタカの身体は女の子の上に降ったが当人は気絶していているから問題ない。扱いが乱暴なのはヨシタカだからだ。こいつはなにやっても大丈夫。人間ゴキブリとでも言うべき男なのだ。 「そいつがヨシタカ。好きにしていいよ」 「この人が、ですか……あのぉ、持ち帰ってもよろしいでしょうか?」 「全然よろしいです」 「ありがとうございます。では、これで失礼させて貰いますぅ」 「はいはい、ごくろーさまです」  女の子は立ち上がってぺこりとお辞儀すると、ヨシタカの身体を引き摺ってお持ち帰りして去っていた。奇人変人魔人ヨシタカのことだから誰もそれを止めようとせず、そのまま教室はホームルームへと流れた。その後先生に聞いたところ、なぜかヨシタカは公休扱いだった。  翌日何事もなかったかのように登校したヨシタカに昨日あの後なにがあったのか聞いてみたが、答えは得られなかった。 「それは秘密。世の中知らなくていいこともある」  そう語るヨシタカの顔は一人秘密の味を噛み締める男の笑顔だった。くそったれ、やっぱりこいつはなにがあっても得をするのだ。 オトコヲエラベ 「ごめんなさい、好きな人がいるんです」そうして俺は振られた。付け入る隙のない笑顔だった。その笑顔に惚れたていたから、「そっかー、ごめんな。ありがとう」俺は可能な限り爽やかにその場を去るだけだった。彼女から見えない所にまで来ると膝の力が抜けてその場にへたり込んで――「やっぱ駄目だったかー?」ヨシタカが俺の顔を覗き込んで来た、いきなり。「ぬわぁっ!?」「どうだった? どうだったよ? その顔だとやっぱ駄目だったんだな?」「その顔ってなどういう意味だっ!?」「んん? ならオッケーだったのかなー?」意地の悪い奴だ。それが当たって砕けた玉砕失恋ボーイに言う言葉か。「……駄目だった。他に好きな奴がいるんだとさ」だけど反論材料のない俺は正直に答えてやる。これ以上傷口を抉られてたまるか。「そうか。まぁ、気を落とすな。おまえの顔が悪いんじゃない。不細工は嫌いだと言われたよりマシだろ」「おまえ、俺を励ます気あるのか?」「いや、全然」そうだと思った。こいつには前科がある。以前にも失恋した直後の奴をおちょくって、そん時は殴り合いの喧嘩になった。失恋したそいつは結果的には落ち込んだりせずに元気になったと言えなくはないが、ヨシタカは調子に乗り過ぎた。仮に、遠回しにでも励ます気持ちがあったとして――最後の方ではそんなこと忘れていた可能性が高い。人の欠点をグサグサ言うな。「なに、女なんて沢山いるさ。また好きな子を探せ」「……そうそういるかよ」あんなにいい子が他に見付かるものか。いたとして、出会う確率を考えると絶望的だ。「あぁ、くそっ、女なんて」どうしてこうも男の心を掻き乱す?「なら、男を選べばいい」……はい? ヨシタカが不穏極まることを言った気がする。聞き間違いだと願いたい。「だったら男を選べ。なに、その気のある男は相手がなかなか見付からないからな、すぐにオッケーを出すさ。振られる心配はほとんどない……そうだな、なんなら俺が立候補するぞ?」寒気が走る。ヨシタカが熱っぽい視線を注いでいる。なぜか臀部に危機が迫っている気がする。これは、喩えるなら――殺気。無形の重圧が俺を襲う。「うあぁあああああああ!?」無我夢中になってヨシタカを突き飛ばす。そして弾けるように立ち上がり、拳を構える。背中を見せて逃走するのは非常に危険な気がする。「尻を奴に向けるな!」本能が叫んでいる。ならば立ち向かうのみ。ヨシタカが幽鬼の如く躙り寄る。「やらないかぁあああ?」「来るなぁあああああああ――っ!!」拳を振るう。が、ヨシタカは俺の拳をかいくぐり低空から俺を押し倒さんと胴へタックルを極めに迫撃する……そうはさせるか! 俺は膝を打ち上げ進路を妨害する。ヨシタカは横に大きく飛び膝蹴りを躱すと、そのまま転がって距離を取った。互いに機を窺う。緊張感が走る……失恋のことは忘れることが出来た。サンキューフレンド。今は殴りっこを続けよう。 ザンコク  男の子は乙女チックな女の子という幻想を未だに抱いているらしいけど、実際のところ最近の女の子は残酷だ。例えば、約束の時間に遅れたら。あれは雨の日のことだ。私は車の撥ねた水を浴びて服がびしょ濡れになってしまい、一旦家に引き返して着替え直してから待ち合わせ場所に向かった。当然、遅刻だ。眼鏡っ子は軒下で暇を持て余して突っ立っていた。「ごめん、遅れちゃった」「やってくれた喃……ッ!!」よほど待ちくたびれたらしく、眼鏡っ子はひどくご立腹で、「狂ほしく血のごとき月はのぼれり」持っていた傘を右手の人差し指と中指の二指のみで握り締め、胸の辺りで水平に構え、更に左手でも固定する。弓の如く引き絞られ、撓んだ傘が軋みを上げる。その構えは「虎眼流、星流れ!」思わず言葉が口を出る。やばい、本気で怒っている。あの構えより打ち出される斬戟は神速、こちらも本気を以て応えねば無様な醜態を晒すだろう。私は傘を閉じて、その切っ先を地に突き立てる。本来は足の指先で剣先を固定するんだけど、靴を履いているからそれは出来ない。代わりにアスファルトを穿ち、めり込ませ、大地に固定する。傘を逆手に握り締め、全身の捻りで傘に力を込める。これぞ無明逆流れの構え。二つの傘の軋みが雨を割って耳に届く。通行人は皆目蓋を閉じる。この戦いを見ることが許されるのは極一部の人間のみ。何も知らぬ子供の眼は母親が掌で覆い隠す。軒下にいるため雨に濡れることもなく、二人は彫刻かの如く固まりながら、その実呼吸、筋肉、意識、互いの隙を手繰り合っていた。傘と同時に空気も軋む錯覚が起こる。やがて軋みは亀裂と化し――その後どうなったかは、私の髪型を見て察して欲しい――伊達にされちゃった。最近の女の子は残酷だ。ちなみに男の子を誘う言葉は勿論、「種、種ぇ」これで堕ちない男の子はいないらしい。私は知らないけど。 クビカラシタ  僕の彼女には身体がない。首から下は幾本かの触手が伸びている。吸盤のない柔らかな肉製のそれは蛸や烏賊の物より植物の備える触手に近いイメージ。勿論首から上は普通の人間の女の子だ。大きな瞳でころころと笑って贔屓なしで可愛らしい。彼女は髪を伸ばしたがる。触手を隠したいのだろう。が、床に擦れたりすると髪が汚れるので、短く切らなきゃいけない。彼女は「いつか長く伸ばすんだー」と言う。食事は普通に箸を用いている。器用に触手を手繰り二本の箸で食べ物を使い口に運ぶ。食べた物がどうなっているのかは良く分からない。身体はないし、どう消化されているのか。どうやって生きているのか彼女自身も知らない。ただ、少量しか彼女は食べない。「昔からこうだよ? 私、そんな沢山食べないよ?」と言うが、果たしてどうか。元に戻ったらお楽しみだ。彼女が移動する様はまるで蜘蛛やなめくじ。触手が蠢いて、頭部が平行移動する。壁を登ることも可能だ。僕が家に帰ると高所から飛び付いてふざけたりもする。人目があるから外出出来ない彼女は頻繁に部屋の模様替えを求めるが、毎回飛び付くことを計算に入れた配置を要求していることに僕は気付いている。指摘したことはないが、言ったら彼女はどういう反応を見せるだろうか。赤面して慌てふためきそうだ。僕も彼女を抱くのは好きだからわざわざ言うことはないけど。抱くと言えば、当然僕達にも性欲はある。けど身体のない彼女に出来ることはキスだけだ。僕達は世界で一番キスの上手い彼氏彼女かも知れない。でも僕には身体もある。そんな時、彼女は口でしてくれる。彼女はそれも「キス」と言い張る。違う言い方は嫌いらしい。怒るとしてくれなから僕もその言い方に従う。行為が終わると二人でベッドに眠る。僕は彼女に腕枕してあげる。布団を被って、「これなら普通のカップルみたいだね」と彼女は嬉しそう。彼女は果たしていつ身体を取り戻せるのか。分からない。けど、こんなこと言えないけど、僕はこのままでも良いと思う。彼女を独占出来るから。これは歪な感情なのだろうか? 自分自身が不安になるけど、彼女の寝顔を見ている内に僕も眠くなって朝になれば自分がどこまで考えていたか忘れてしまう。目覚めた時、目の前に好きな女の子がいることを幸せに思うだけ。「おはよう」そして僕達はキスをする。ちゅっ。 ココロイキ  青空の下、屋上に男子四人が集って会話する。「もーすぐバレンタインだな」「そーだな」「……」「空しいな」誰も彼女はいない。俺もいない。青春を無駄使いしている気がする。チョコレートと縁がないのは誰もが同じ。だと思っていたのに「あ、俺、チョコ貰えるかも知れん。彼女から」先程沈黙していた奴が突如裏切りを口にした。「なにィいいい!? てかオマエ彼女ってなんだッ!!」「あぁ、ごめん、なんとなく黙っていたけど、先月から――」携帯電話を取り出し、画像を表示させる。そこには俺も知った顔の眼鏡っ子が写っていた。「――この子と付き合っている」次の瞬間、裏切り者は刑に処された――ボコボコに。一仕事終えた俺達は三人、円陣を組んで会話を再開する。「なんでこいつに彼女が……?」悲しい話だが、俺達はこれと言って特長のない普通の男子学生。これと言って武器はなく、誰もが無惨な戦績を誇る。なのに、なぜ、こいつだけが勝利者たり得る?「――心意気さ」死んだ筈の男が動いた。立ち上がる。俺達は後退る。勝てる気がしない。倒しても倒しても立ち上がりそうだ。いや、きっと立ち上がるだろう。そういうオーラを纏っている……気がする。「俺の心意気がっ、彼女にっ、通じたんだよっ!!」勝利者が力説する。その言葉は実績に裏付けられて俺達の心に重く響いた。言葉は魂まで到達し、俺達は叫びを以て呼応した。「心意気かっ!」「そうだ、心意気だっ!!」「心意気なんだなっ!?」「心意気次第だっ!!」「よっしゃ、俺は行くぞぉおおお!!」「行ったれやぁあああ!!」「心意気じゃぁあああああああ!!」青空に雄叫びが吸い込まれる。「で、誰を狙うんだ?」俺達に迷いはない。それぞれ想い人の名前を宣言にする――なんと全員一緒だった。顔を見合わす。俺達に迷いはない。障害は排除するのみ。俺は上体を反らしながら隣の奴に下段蹴りを叩き込む。俺の脚は強かに目標の臑の裏を打ち、激痛に一人目は崩れ落ちる。二人目の拳が先まで俺の頭があった位置を薙ぐ――遅い。その腕を掴み、動きを止めて、その隙に俺は膝蹴りを腹に叩き込んでやる――二発続けて。二人目も崩れ落ちる。偉大なる先人は一瞬の攻防を見守っていた。「勝ったな」「あぁ」「いいか、心意気だ」「分かってる――それじゃあ、行ってくる」俺は友の屍を乗り越えて彼女のいるだろう教室へ向かう。最後に声が聞こえた。「グッドラック」 ブタ  男達は私の身体を玩ぶ。弄る。戯れる。私はそれに応じる。私の上辺は男を愛してあげる。悦ばしてあげる。でも私の奥底は金勘定をしている。男がもう一度来るか否か。今度来るのはいつだろう。たくさん来てくれそうならサービスしてあげる。もう来ない気がしたら、適当にやっておく。私の勘は外れない。男達は正直すぎるのだ。身も心も裸になって、馬鹿みたい。私は違う。私は仮面を被っている。男達はそれが私の素顔だと思っている。行為が終わって征服感を満たされた男達は自分勝手、見当違いのことを言って帰って行く。私は心証を悪くしない程度にあしらって金を受け取る。そして汚れた身体を洗う。汚れを掻き出して洗い落とす。石鹸の泡と一緒に男達の色々な物が流れて吸い込まれて消えて行く。しかし私は自分の一部も一緒に刮ぎ落とされた気がして、スッキリし過ぎる。このまま私は削り消えるのかも知れない。仮面を被る肉の人形に成り果てるのかも知れない。その前にここから抜ける。やり直すんだ、全部。そのためには金がいる。私は自分の身体を、心を、誇りを売って稼ぐ。ここを抜けるまでの辛抱だ。それまでは耐えろ。次の男が来る。私は笑顔の形に仮面を被る。「こんばんは」お金を落としてさっさと部屋から出て行ってねブタ野郎。 ヨウセイノハナ  真っ暗の夜道を直走る。土の上、転ばないようにしっかりと踏み締めながら。舗装もされていない獣道、月明かりだけが頼りだ。生い茂る林を満月が照らす。影を掻き分けて私は走る。秘密の花園目指して。  この林を抜ければそこには天然の花園がある。多種多様な花々が咲き乱れる、誰も知らない秘密の場所。知っているのは私と――先生だけ。私は先生に教えて貰った。そこは先生の花園。私は花園を守る防人。大切な花が咲くのを見届けるのが私の役目。いつ咲くとも知れない花を待ち続けて早四年。今年で私は高校を卒業する。大学に進学したら、ここに来るのは難しくなるだろう。だから、お願い……咲いて。  先生と出会ったのは中学一年生の時。英語が苦手だった私は、家庭教師を付けて貰うことになった――それが先生との出会い。線の細い、眼鏡を掛けた青年。見た目通り優しい人だった。そして、冗談の好きな人だった。不思議な話をよく聞かせてくれた。いや、果たしてどこまでが冗談だったのか――全部、本当だったのかも知れない。少なくとも、最後の話を私は信じてる。 「最後に、一つお願いがあるんだ――」  ある日突然、先生は家庭教師を辞めることになった。中学二年生の頃だ。遠い所へ行くと言う。そして最後の授業、先生はポケットから小瓶を取り出して、それを私にくれた。透明なガラスビンの中には、小さな植物の種子が一粒だけ入っていた。 「――妖精の花と言ってね。一生に一度だけ、満月の夜に咲くんだ。とっても奇麗らしい――らしいと言うのは、僕もまだ咲いている所を見たことないんだ。これを君に預けたい。そして、どこでもいい、どこかに植えて、この花が咲くのを見届けて欲しい。僕は旅へ出るから、無理なんだ。頼まれてくれるかな?」  私は頷いた。そして花園に種子を埋め、今日までの間、満月の夜は必ず花園へ出向いている。もう、あと数ヶ月で私の高校生活は終わる。進学したら、独り暮らしの可能性もある。したらここへは来られない。今夜はいい月だ……咲いて欲しい。  妖精の花。嘘みたいな話だけど、私は信じてる。先生を、私は信じているから。  ……恋だったのかも知れない。  唐突に、その可能性に思い当たる。幼い私は気付かなかっただけで、淡い恋だったのかも知れない。だとしたら、私は妖精の花に何を期待しているんだろう――妖精の花が咲くまで分からないだろうことを考えている内に、私は林を抜けていた。花々が寝静まる秘密の園に脚を踏み入れる。  ……今日も咲いていない、か。  花園の中心、種子を植えた辺りは、土が露わになっている。妖精の花は、未だ芽も出ていない。見るのが怖いから、掘り返して調べたりもしていない。きっと最後までこのままだろう……私はこのまま大学へ行って、妖精の花なんて忘れるのだろう……  諦めと共に帰ろうと林の方に戻ろうとしたその瞬間――風が吹いた。雲が見る見る流れる。満月が露わになる。月明かりが鮮烈に花園を照らす。  そして私は妖精の花が咲くのを見た。  土が盛り上がる。芽が出る。茎が伸びる。葉が生える。花弁が開く。ビデオで早送り再生を見るように。信じられない速さで妖精の花は咲き始める。  やがて蕾が膨らみ、花弁が開き――その内から光が飛び出した。 「うわぁ……」  そんな声が自然と漏れる。目前で展開される光景を喩えるなら、そう――妖精だ。妖精が舞っている。風に乗って、光の粉が尾を引きながら妖精が飛び交っている。正体は月明かりを反射する、特殊な花粉だろうか――朧気な光の粉は散り散りに天に消えて行く。  見惚れている内に、私は自分がいつの間にか涙を流していることに気付いた。ぽろぽろと涙が零れ落ちる。  ……そうか、私、失恋しているんだ。  妖精の花は咲いた。その一生で一度しか咲かない花が咲いてしまった。妖精の花が再び咲くことはない。私と先生の繋がりは、ここで途絶えた。私は……先生に再び会えることを期待していたのだ、妖精の花に。いつか先生もここに現れるかも知れない……そんなことを思い描いて。その夢は今、タイムリミットを迎えた。私はここに独りいる。  静まり返った花園で妖精が踊っている。その光景は四年越しの失恋と共に、私の心に刻み込まれた。  ……さようなら、先生。 セツブン 「鬼はー、外ぉー」 「福はー、内ぃー」  スーパーで買った大豆を庭に撒き、部屋に撒く。妹と共に。馬鹿馬鹿しいとも思うけど、反面、意外と楽しんでいる。これが童心というものだろうか? 言い出したのは妹だった。「お姉ちゃーん、節分だし、豆撒きしよーよー」抵抗はあったけど、暇だったので付き合ってやることにした。しかし妹が、まだ幼いとは言え、自分からこんな行事をやりたがるとは……可愛いなぁ。そう年の離れていない妹だけど、私は自分の妹が可愛い。だから暇じゃなくても、例えば宿題放って一緒に豆撒きに興じることを選んだだろう。 「福はー、内ぃー」  ふざけて妹目掛けて大豆を投げてやる。 「うわっ、お姉ちゃん、やめてよー」  笑いながら妹が逃げ惑う。私はそれを追う。狭いリビングをぐるぐる、ぐるぐる。親は出掛けている。私達は存分におふざけに耽る。熱中する。やがて宙を飛ぶ豆粒は加速する。弧から直線へと軌道は変化する。妹も投げ返す。弾道は正確に正中線を狙って来る。あるいは豆を投げようとする手を狙撃して妨害する。豆霰をかいくぐり、私は妹に必殺の一投を命中させんとする。大きく、沈み込むように振り被る――ボクシングで言うロシアンフックのように――低空から妹目掛けて射撃する。沈み込んで位置を下げた私の身体は一瞬妹の焦点から逃れ、それが隙を作り出す。充分に私の体重を乗せた大豆は大気に螺旋を刻みながら直進する――が、突如進路に現れたクッションに阻まれ軌道を逸らされてしまう。回避出来ないと見た妹は、クッションで防御することを選んだのだ。クッションに反発した大豆はあらぬ方向へ――庭先へ飛び出した。勢いは強く、その一粒は我が家の小さい庭を越え――たまたま我が家の正面を通る歩道を歩いていた同級生の眼鏡っ子の側頭部に命中した。 「きゃっ!?」  威力は大したことなかったけど突然の攻撃に眼鏡っ子は狼狽え、慌ただしく周囲を見渡し――こちらを発見した。現在の位置関係はリビングの奥に私、ベランダ間際に妹、庭を挟んで歩道に眼鏡っ子。眼鏡っ子は私より妹に目線を定めた。 「あっ……ごめん、なさい……」  萎縮して妹が謝る。投げたのは私なのに……私が謝らなくちゃ。私は急ぎベランダの方に出ようとする。しかしそれよりも早く、眼鏡っ子が動いた。先程自分に命中した大豆を拾い上げ――人差し指で囲うように固定すると、同じ手の親指で思いっ切り弾いた。指弾と言われる技術だ。強烈なデコピンの要領で豆粒は強く、鋭く飛び――妹の顎先を掠めるように命中した。途端、妹の身体が崩れ落ちる。人を倒すのに力はいらない。要はポイントとタイミング。眼鏡っ子が飛ばした豆弾はその両方を捉えていた。 「――何てことすんのよ!?」 「返しただけよ、こっちに投げ付けられた物を」 「妹は謝っていたじゃない! それに――豆を投げたのは、本当は私よ!!」 「じゃあ、あなたが謝ってよ。紛らわしい」  ギリギリと歯を食い縛る。私は決意する。 「私が投げた豆がぶつかってごめんなさい――でも、妹の仇は取らせて貰うわ!!」 「へぇ……どうするつもり?」  私は倒れた妹の手から大豆の詰まった袋を抜き取り、それを眼鏡っ子に投げて寄越す。 「今日は節分――豆撒きで勝負よ!!」 「面白い……豆撒きで私に勝つつもり……?」  眼鏡っ子はやる気だ。すでに受け取った袋の中から幾粒か豆を取り出し、手にセットしている――指弾の構え。私は手の平いっぱいに豆粒を握る。古くから伝わる伝統的豆撒きの構えだ。  両者の準備が整う――そして合図。 「鬼はァアアアッ、外ォオオオオオオオオオオオオオオオ――!!」 「福はァアアアッ、内ィイイイイイイイイイイイイイイイ――!!」  二人に鬼が宿る。互いの鬼を駆逐せんと豆撒きが開始する。  今日は節分――鬼を払う日。 ヒミツノハナゾノ  あまり知られていないことだけど、この校舎の地下には空洞がある。古臭い板張りの床の下には暗闇の空間がある――怪談のネタに使われそうな話だけど、私に取っては逆だ。秘密の花園へ繋がる道。今日も私は暗闇へ潜る。  地下空洞への入り口は用務員室にある。地下を走る水道管やら何やらを管理するために存在するらしいが、そんなことはどうでもいい。私には私の目的がある。用務員室には無人の時間帯がある。それがタイムリミット。私はその時間内で秘密の花園を覗いて、何食わぬ顔で教室に戻らなくちゃいけない。  授業が終わる。チャイムが鳴る。私は誰よりも早く席を立ち、教室を出る。廊下を走る。セーラー服のスカートがひるがえるが気にしない。続いて飛ぶように階段を下りる――二段飛ばし、三段飛ばし、勢いを殺さず――落下。最後は四肢を突いて一階に着地する。床から立ち上がりながら腕時計を見遣る――二分十三秒。最短記録更新、とうとう二十秒の壁を破った。ダイエットの影響かも知れない。これからも夜食と買い食いは控えよう。  一階、階段の横にある用務員室を、扉の前を通り過ぎるフリをして偵察する……誰もいないようだ。人影は見当たらない。この時間帯、用務員のおじさんは保健室のおばさんと一緒にお茶をしている。私がそれを知ったのはたまたま保健室で寝込んでいた時。校舎の地下を走る空洞の存在を知ったのもその時。ベッドを囲うカーテン越しに「今日は水道管の修理があってな――」と用務員さんの声が聞こえてきたのだ。好奇心に駆られた私はこっそりと地下通路に潜入した。そして秘密の花園――男子更衣室の真下へと繋がる素敵な覗き穴を発見したのだ! そこでは憧れの先輩が汗を滴らせながら、一枚一枚着衣を脱いで――!! その日以降、私の冒険は習慣化した。  誰にも見られていないことを確認すると用務員室に侵入する。慣れた足取りで部屋の最奥、地下通路への入り口へ。扉に鍵は掛かっているけど簡単な物で、閉められても簡単にこじ開けられる。何も心配はない。私は振り返り、再び誰も見ていないことを確認すると、扉を開けた。素早く身体を潜り込ませると、静かに扉を閉める――暗闇。ポケットからペンライトを取り出し、通路を照らす。目の前には階段。静かに、しかし急いで降りる。急がないと、先輩の着替えが終わってしまう。それでは意味がない。急げ。  やがて一筋の光が差し込む聖域へと至る。それは秘密の花園へと繋がる聖痕とでも言うべき偶然の亀裂――覗き穴。壁を走る配管を足掛かりにしてよじ登り―― 「――何をしているのかしら?」 「きゃあああ!?」  突然の背後からの声に私は悲鳴と共に足掛かりを失って床に落ちた。 「痛ぅ……」  まだ登り始めたばかりだから高さはなかったけど、強かに腰を、と言うか尻を打ってしまった。痺れがじーんと突き上がる。 「だ、大丈夫? ごめんなさい、私、驚かすつもりはなくて……!」  声の主も、私の落下に驚いたらしい。声が焦っている。それにしても、聞いたことのある声だ――ペンライトを向けてみる。 「……先生? なにしているんですか……?」  そこにいたのは詠子先生だった。今年就任したばかりの、私のクラスの副担任。良く言えば若々しい、悪く言えば子供っぽい人だ――生徒とボーイズラブ漫画の話で盛り上がる教師なんて、そうそういるまい。 「それはこっちの台詞よ。あなたこそ何やってるの? 勝手に用務員室に入っちゃって」  ――バレてた!? どこで? 記憶を巻き戻す――そうだ、反対側の校舎から見えていたかも知れない! そこまで気が回らなかった。けど、今となっては後の祭り。どうしようもない。後悔しても遅い。 「ねぇ、今言っちゃえば秘密にしてあげるから、ね? 何してたのか、先生に教えてくれないかなぁ?」  ……どうしよう? しばしの逡巡の後、私は決断する。この先生なら、秘密は守るだろう。私は詠子先生を少なからず信用している。 「実は、ですね……」 「うんうん」 「あそこの穴から、男子更衣室が覗けるんです」 「……」 「……」  沈黙。ペンライトの淡い光では表情まで読み切れない。気まずい時間が流れる。上からざわめきが聞こえる。先輩達が着替えている。  ――先生が、動いた。 「この穴から、見えるのね?」 「えっ、ちょっ、先生っ!?」  詠子先生は先程の私を真似て、配管を伝って壁を登り出した。器用なもので、すぐに頂上に到達する。天井から差す光が消える――先生が穴を塞いだのだ。 「おお……ヴァルハラが……!!」  果たしてその向こうでは如何様な光景が展開されているのか。先生は意味不明の言葉で感動を表した――感動を。それは詠子先生が堕ちた瞬間だった。  あの日以来、私達は一緒に暗闇に潜っている。秘密の花園を覗きに。 ヤミナベ  春休みの思い出作りをしようと誰かが言った。闇鍋パーティーを開催することになった。そして今、四人で炬燵を囲っている。炬燵の上には鍋。まだ鍋は空。「――ルールを確認する!」「応ッ!!」「箸が触れた物は必ず食うこと!」「応ッ!!」「食材に文句は禁止!」「応ッ!!」「覚悟完了?」「応ッ!!」「それでは――闇鍋を開始する!!」「応ッ!!」電灯が消される。部屋は闇に包まれる。各々が食材を投下する。偶に他人の食材が手に掛かって小さな悲鳴が漏れる。が、滞りなく具材は鍋に投入され、後は静かに静かに鍋が煮えるのを待つ。闇の中、誰も口を開かない。やがてぐつぐつと聞こえてくる。ぼこぼこと水面に泡が浮かんでは消える音も聞こえる。沸騰――闇鍋はレディトゥイート。パン! 手の平が打ち合わされる。「いただきますッ!!」宣言と共に各自の手にある割り箸が解き放たれる。パキンパキンパキンと木の割れる音が響く。片手に箸、片手に皿を装備して、私達は闇鍋に突入する。箸がぶつかり合いせめぎ合う。電灯が再び点けられる。点滅しながら光が戻る。自分の箸が何を掴んでいるのか明らかになる。詠子と智美はお互いの箸が弾き合って交差して、互いの拳に箸が触れていた。ここは闇鍋パーティー、箸が触れた物は必ず食うこと。詠子と智美の拳が動く。見事なクロスカウンターを描いて互いに拳を喰らい合い、二人は床に沈んだ。私はと言えば、箸はまだ食材を掴んでいない。眼鏡っ子の箸を掴んでしまっていた。箸は絶対領域、箸を喰う訳には行かない。この箸を解放して、なにか別の食材を――鍋の中身を見る。イモ虫、羊の脳味噌、カラスの肉――まともなモンはないのか!? かく言う私もチーズケーキ入れたけど、それが一番マシな気がする!! どこだ、まともな食いモンは!? 鍋に意識を集中した時、箸が引っ張られる感覚が伝わった。本能的にそれが命の危機だと直感する。私は腕を、手首を、指の筋肉を硬直させ、箸を固定させる。鍋から箸に視線を移す。眼鏡っ子の箸が私の箸を危険な食材へ誘導しようとしていた。「どういうつもり?」私は更に力み、眼鏡っ子の箸を押し返しながら訊いてみる。鍋から立ち昇る蒸気にうっすらと眼鏡を曇らせながら眼鏡っ子が答える。「あなたも気付いたでしょう? この鍋にまともな食材はない。私は新しい食材を入れて、それを食べさせて貰う」「そんな――ずるい! 新しい食材を入れるなんて!!」「誰も見ていなければ問題ない。誰も――だから私はあなたを倒す!!」「やれるもんなら――!!」両者の箸が競り合い押し合い鎬を削る。相手の箸を一撃必殺の食材へと導くために。全力全開、私は箸に全ての意識を結集する。この瞬間、箸は身体の一部と化す。今なら箸で掴んだ糸を針に通すことも容易いだろう。箸が軋む。軋む。ギギギギ――バキン! 箸が、折れた。砕けた破片が中を舞う。砕けたのは眼鏡っ子の箸。彼女の顔に敗北感が浮かぶ。私は勝利を確信する。これがどんな勝負かよく分からないけど、とにかく勝利だ。しかし私は油断してしまった。敵を見失った箸は宙を泳ぎ、突き進み――眼鏡っ子の唇に触れた。「あ――」意味のない声が口から漏れる。最初の宣誓が再生される。「箸が触れた物は必ず食うこと!」「あああ――」どうしよう? 眼鏡っ子は私を見つめている。頬を赤らめながら。潤んだ目で。いつにも増して彼女の唇が色っぽく見えるのはどうしてだろうか?「私を、食べるの?」「いややや! 違う、これは、その――!!」言葉が続かない。空白を埋めるように眼鏡っ子の唇が近付いてくる。そして――  美味しかった、です。 ファイトクラブ  放課後、部活の時間。私は体育館へ向かう。更衣室で着替える。セーラー服を脱いで体操服に。拳をテーピングして固める。握る。開く。握る。開く。握り、締める――良し。テーピングは武器だ。僅かな油断も許されない部活動、見落としは命取り。ブルマを体操服に入れて、靴紐もしっかり締めて、用意は万全。体育室へ向かう。遅れてやって来た私は最後、みんなは揃って並んでいる。私も列に加わる。円陣を組む。「いーちっ、にーいっ、さーんっ」声を合わせて入念に準備体操をする。身体が温まる。マネージャーに今日の予定を聞く。「今日はこの人が相手です」見せられたファイルには一人の生徒の名前と写真。「来たら教えて」「――もう。来て、ます」怯え、畏れ、期待――感情が入り交じったマネージャーの声は震えている。私の身体も震える、突然人から獣へと化けた何者かの闘気に。背後に血に飢えた獣の視線を感じる。振り返る。そこにいたのは眼鏡っ子。私達と同じく体操服。彼女が今日の相手。「いつ、始める?」私も身中の荒ぶる獣の拘束を解除しながら、聞く。「もう、始まっている」言葉が届くより速く眼鏡っ子は飛び蹴りを放ってくる。私は身体を反らして旋脚を躱す。私達と同じく、体育室の各所で部活動は始まっている。マネージャーが新入生に部活動の説明をしている。「ファイトクラブへようこそ」 サイシュウヘイキメガネ  学校帰りに銭湯に寄る。部活で汗だくになった身体を清めるために。セーラー服が肌に張り付いて気持ち悪い。部活動終了後汗を拭いて着替えはしたけど、再び汗は吹き出す。早く湯船に浸かってさっぱりしたい。既に顔馴染みになった番頭のおばちゃんに予め用意しておいた小銭をポケットから出して手渡すと暖簾を潜って更衣室に入る。昔ながらの銭湯で(浴場の壁タイルには富士山の日本画が描かれているような所だ)余分な設備はない代わりに代金は安い。懐にはさほど響かない。学生の私でも気兼ねなく利用出来る。私の他にも幾人もの学生がここを利用している。  手早く裸になって替えの下着を用意してロッカーに押し込むとタオルで隠すべき箇所は隠して洗面用具を抱えて浴場への扉を開く。溢れ出る白い蒸気を抜けてタイルの敷き詰められた憩いの空間へと足を踏み入れる。空気が変わる。私を暖かく包む空気。家の風呂場では味わえないこの空気が好きというのも銭湯に通う理由の一つだ。リラックス。癒される。はふぅ。  そして私は湯船に浸かる(勿論その前に身体は洗っている)。今日は人が少ない。私はのびのびと脚を伸ばし、お湯の中で身体を浮かして遊ぶ。他人が見ていないをいいことに風呂の中で大開脚してストレッチして筋肉をほぐしたり。心地良い時間が流れる。  ふと周囲を見渡すと、視界の隅に見知ったシルエットがあった。眼を凝らす。同級生の眼鏡っ子だった。  ……彼女もここに来るんだ――って、ええ!?  声こそ上げないが私は大きく眼を見開いて驚いた。これでもかと最大倍率で眼鏡っ子を凝視しる。間違いない。見間違いなんかじゃない。  彼女は風呂場で眼鏡を掛けていた。しかも眼鏡が曇っている様子はない。透明なレンズを通して彼女の瞳が見える。  他の人は眼鏡っ子に気付いた様子はない。誰も彼女の方を見ることなく平然としている。気付いているのは私だけ。私は彼女に注目し続ける。眼鏡っ子は石鹸を泡立てている。そして眼鏡を付けたまま――顔を洗い始めた。  ……マジっすか!?  マジだった。彼女は眼鏡を付けたまま顔を洗っている。ごしごしと。眼鏡付けたまま。開いた口が塞がらない。きっと私は阿呆な顔をしている。でも眼を離せない。  私は自分の抱えている常識とか価値観とか物理法則とか生活する上で重要な認識の数々が白旗を上げているのを感じた。あるいは両手を挙げて万歳。降伏。色々なことがどうでもよくなってくる。  眼鏡っ子はごしごしと私の自我を崩壊に追い込むと顔と眼鏡に付いた泡を桶に溜めておいたお湯でばしゃばしゃと洗い落として身体を洗って用意が済むと湯船に近付いてきた。彼女の身体は出るとこ出ていてそれはそれで眼を奪う肢体だったが、二つしかない私の眼ん玉は彼女の眼鏡に釘付けだった。その後眼鏡っ子も湯船に浸かり身体を癒していたが最後まで私に気付くことはなく、また私も最後まで彼女の眼鏡を凝視していた。風呂から上がり形のいい尻を左右に振りながら去る眼鏡っ子を見て私の脳裏に浮かんだのは「最終兵器眼鏡」という謎のフレーズだった。最終兵器眼鏡、きっと強い。だって最終兵器だし。 マヨナカ  嵐が吹き荒れている。散弾の如き雨粒に打たれながらも私は真夜中の学校にやって来た、忘れ物を取りに。  用務員さんに用件を言うと脱いだ合羽を下駄箱に置いて自分の教室へと一人廊下を歩く。嵐に揺さ振られ窓が軋む。雨と風が唸り、時折倒壊音も聞こえる。合羽を着ていたのにセーラー服は湿っている。靴下はずぶ濡れ。じゅくじゅくとして気持ち悪い。  気のせいかもう一つ足音が聞こえる。廊下の反対側から忍び寄るような、微かな足音。嵐の音に紛れて聞き逃しそうになるけど、捉えれば確かに私に近付いて来ている。曲がり角の向こうから足音の主はもうすぐ現れる。  ――バチン。  弾ける音と共に真っ暗闇に閉ざされる。停電だ。嵐にやられたのだろう。点在する非常灯は道標となるだけで廊下を照らしはしない。月明かりも差さない。なにも見えない。けど教室の位置は分かる。自分の机の位置も分かる。机の中に忘れたノートの位置も覚えている。  ……行ける。  意を決すると、私は再び歩き出す。幽火にも似た非常灯に導かれながら、先までよりスローペース気味で、ゆっくりと床を踏み締めながら。濡れた靴下の感触がより敏感に伝わってくる。じゅくり。  私に遅れて、何者かの足音も動き出す。暗闇が聴覚を鋭敏化する。廊下に響く足音は曲がり角を抜けて、私と同じ直線上を進んでいる。このまま行けばぶつかるだろう。その前に教室に入れるだろうか。正体不明の何者かとぶつかるのはなんとなく避けたい。揺らめく影がひたひたと近付いて来る妄想に襲われる。有り得ない想像だ。足音の主は生徒か教師か用務員か、あるいはそれ以外の学校関係者に違いない。違いない。もう一度自分に言い聞かせる。違いない。  嵐が一層激しくなる。校舎が軋む。大音量の唸り声に近付く足音が掻き消される。聞こえない。どこ? どこに行った? 再び妄想が膨らむ。不安になる。けど立ち止まっている方が怖い。歩み続ける。教室の前までやって来る。引き戸に手を掛ける。  冷たい手の平が私の手の甲に重なる。 「いやぁあああああああああああああああ!?」  悲鳴を上げる。手を払うと同時、反射的に中段蹴りを打ち込む。が、空振り。私の身体は空転する。私の身体に隙が生まれる。暗くて相手の動向は見えない。けど想像は可能だ。相手の手を読め。この場所でこの環境でこの状況で相手はどう動く? 想像を頼りに後ろに飛び退きながら胴をガードする――肘の上から衝撃が伝わる。強烈な前蹴り。セーラー服には足形が残っているかも知れない。  短い浮遊から着地して構え直す。相手の構えは分からない。セオリーに従って下段蹴りで探ってみる――相手の太腿に命中する確かな手応え。だが次の瞬間、私の軸足を下段蹴りの衝撃が襲った。相手も同じく下段蹴りを放ったのだ。面白い、下段蹴りの我慢比べか――やってやる!  パンパンパンパンパンパンパンパン――!!  肉打つ音が重なり連なり廊下に響く。互いに足を止めて蹴り続ける。蹴って耐えて蹴って耐えて蹴って耐えて蹴り続ける耐え続ける。何発蹴ったか分からない。何発耐えたか分からない。勝負は精神力の競り合いと化している。どっちが先に音を上げるか――?  そして勝負は中断する。  ジ……ジジ、ジ……  小虫の羽音に似た音を立てながら蛍光灯が回復する。廊下に光が走る。勝負していた相手の正体が明らかになる。  目の前にいるのは同級生の眼鏡っ子だった。  とりあえず疑問を口にする。 「……なんでここにいるの?」 「……忘れ物を取りに」 「……そう。私も」  忘れ物を取ると私達は帰った。冷たい雨は熱く痺れる脚に心地良かった。 ワタシノヒミツ  体育の時間。一番早く更衣室に現れるのは私。私以外誰もいないことを確認すると、鞄に仕込んだ隠しカメラの電源を入れる。誰も同じく授業を受ける女子生徒が盗撮を企てるなんて思わないからバレやしない。私はにやけるのを抑えながら着替え始める。制服のボタンを外し終えた頃には他の女子もやって来る。私が色目で見ているとは知らず彼女達は無防備に脱いで行く。一枚一枚花弁が開くようにセーラー服に包まれていた肢体が露わになる。まだブラジャーを着けていない子もいて、私は彼女の胸から、桜色の乳首から目が離せなくなる。怪しまれると思いながら目が離せない。彼女が体操服に着替えると、ようやく自分も着替えることを思い出す。体操服姿は授業中にじっくり見られるから我慢する。汗で体操服が張り付いたり、ブルマが食い込んだり。授業が楽しみだ。私も体操服を着て授業を受ける女子だけど、私には秘密がある。その秘密が私の心に男の子な部分を作っている。私の中の男の子は女の子を欲しがる。だから私はカメラに撮る。家で何度でも楽しめるように。  乱暴にスカートをずり下ろして脱ごうとした時、なにかがスカートの生地に引っ掛かって脱ぐのを邪魔した。いけない、勃っている。私の中の男の子が硬くなっている。スカートに支柱を形成して不自然なテントを形作っている。急ぎスカートを元の位置に戻し、さらに前屈みになって、支柱を引っ込めてテントを消す。  ……静めないと。  このままじゃ授業に出られない。誰も私の股間から男の子が生えているなんて知らない。知られちゃいけない。知られたら、きっとイジメられる。肉奴隷にされちゃって犬と蔑まれ、みんなの前で――っと、危ない。垂れそうになった涎を慌てて吸い取る。スイッチの入ってしまった私の頭はおかしな妄想しか描けない。股間は熱いまま。どころか、益々熱くなっている。少し濡れちゃったかも。早く静めないと。  セーラー服を着直して、前屈みを維持したまま更衣室を後にする。同級生には「トイレ」と誤魔化す。いや、トイレに行くのは本当だ。けど同級生が思っているような理由ではない。生理じゃない。身体から吐き出すは赤じゃなくて白濁色。苦痛じゃなくて気持ちいいこと。誰にも知られちゃいけない私の秘密。 チコク  ――遅刻!  夜遅くまでラブレターを書いては破って書いては破ってを繰り返していたら(結局ラブレターは完成しなかった)目覚まし時計が鳴るのに気付かず寝坊してしまった。慌てるも完全に間に合わない時刻。遅刻。食パンを咥えて全力疾走する。  転校生と衝突することもなく辿り着いた校門では眼鏡っ子が待ち構えている。委員長たる彼女は多忙な教師に代わり遅刻者のチェックをする。 「おはようございます。遅刻ですよ? 生徒手帳をお願いしますねー」  にこやかに生徒手帳の差し出しを求める眼鏡っ子。けど差し出す訳には行かない。無遅刻無欠席の皆勤賞が懸かっている。 「……嫌と言ったら?」  空気が凍て付く。風に代わって殺気が流れる。意思持たぬ木々が怯えてざわめく。眼鏡っ子の表情が変わる。眼鏡のレンズが光を反射して表情は見えない。しかし確かに表情が変わったのを感じる。気配がまるで違う。見えない包丁を突き付けられているよう。 「だったら――」  表情に続き眼鏡っ子の構えも変わる。お淑やかに揃えられた両足は肩幅に開かれ、腰と共に重心が落とされる。手に持った違反者ノートは脇に捨てられ、両手は自由になる。その手が私をくいと招いて挑発する。 「――この私を倒して行きなさい!!」 「言ったなッ!!」  一声吠え、眼鏡っ子向かって突進する。戦闘は開始する。  全ては皆勤賞のために。 ホウキ  一日の授業が終わる。教室の窓から夕陽が差し込む。それぞれが任された掃除場所へ向かう。教室では机椅子が黒板側へまとめられ、掃除の準備が進められている。掃除器具の入ったロッカーが解放され、少年少女が思い思いの清掃用具を手に取る。私は出遅れて残り物を取りに行く。残っていたのはホウキが二つとチリトリ一つ。その内片方のホウキは予備で、私と、私の後ろに控えている眼鏡っ子は、ホウキとチリトリを奪い合うことになる。暫しの逡巡の後「早い者勝ち」という解答を導き出すと、私はホウキを――眼鏡っ子と同時に掴んだ。それぞれの手に一本ずつのホウキ。横を見る。そこにはいつの間にか移動していた眼鏡っ子。目が合う。見つめ合う。口を開く。 「ごめん、チリトリお願い出来る?」  絶対に譲らぬ思いを籠めた『お願い』。しかし眼鏡っ子は、 「私はホウキがやりたいなー」  と笑顔で『お願い』を断った。見つめ合いは睨み合いに変化する。チリトリなんて嫌。床に這い蹲って塵を掬う役なんてやりたくない。このホウキは手放さない。眼鏡っ子も眼鏡の奥で私と同じことを語っている。ならばすることは一つ。  ――勝負。  その言葉に思い至った瞬間から勝負は開始、先に仕掛けて来たのは眼鏡っ子の方だった。近い距離から抱え込むようにホウキの柄で私の脇腹を突きに来る。私は身体ごと回転しながら手にしたホウキで眼鏡っ子の攻撃を受け流し、回転は止めず、一回転してフルスイングの一打を振るう。眼鏡っ子はホウキを盾に受け止めるも衝撃に後退する。そこに隙を見出し私は飛び込みつつ追撃を掛ける。が、眼鏡っ子は予想以上のスピードで体勢を立て直すと私の打に併せて斬り返してきた。私も反撃に反撃を重ねる。斬り結ぶホウキとホウキ。カカカカカカカカン! 小気味良い木音が教室に響く。他の生徒は私達の周りを取り囲み、どちらが勝つか賭けを始めている。勝つのは当然私だ! 戦いに終止符を打つべく私は打撃を加速させる。クライマックスに向けて木突音は高く高く鳴り響く。  そして唐突に限界は訪れる。  ――ペキン。  呆気ない音と共に、二つのホウキは折れて砕けて真っ二つになった。私達の手にあるのはもはやホウキではない。木片だ。カランカランと木片の片割れが床に落ちる。観客は賭を取り止め掃除に戻る。私と眼鏡っ子は再び見つめ合う。これは睨み合いではない、アイコンタクトだ。意思が疎通する。解答を導き出す。  私達は素知らぬ顔で砕けた木片をゴミ箱に放ると(勿論先生には報告しない)、なにか別の仕事はないか探すことにする。チリトリ以外の仕事を。 プリン  給食のデザートが余った。プリン。その数一個。七人の猛者が立ち上がった。当然私も立ち上がる。プリンを見逃せるほど私は寛容ではない。黒板前の台の上に七人が並ぶ(この台の正式名称はなんと言うんだろう?)。ここが決戦の場。こいつらをただの子供と思うな。騙されるな、子供の皮を被った、プリンに飢えた獣達だ。死力を尽くしてプリンを獲りに行く。勿論私も。  人数が多いから四人と三人に別れる。私は三人側。当面の敵は二人。負けるものか。円陣を組む。構える。三人声を揃えて叫ぶ。 「じゃぁあああん、けぇえええええええええええん――っ!!」  裂帛の気合い。拳が突き出される。見極める、相手の技を。読むべきは手ではなく心、感情、思考。そこから手を逆算するのだ。そして私は一つの結論に辿り着く。その結論を信じて迷わない、私は自分を信じて―― 「――ほいッ!!」  ――チョキの手を出す。敵は二人ともパー。私のチョキは二人の夢を切り裂いた。崩れ落ちる敗者、教室に響く二つの慟哭。少し心が痛む。けど、しょうがない。ここは戦場なのだ。プリンを賭けた死闘に情け容赦の入る余地はない。  振り返る。そこには三つの屍の上に立つ勝者がいる。勝者は眼鏡っ子だった。知性の光を放ち輝く眼鏡は強敵の証。常に私の前に立ちはだかる彼女は強敵。今まで幾多の戦いを繰り広げてきたことか。しかし今日は勝たせて貰う。獲物はプリン。負けられない。  余分な言葉は不要。頷き合う。それが開戦の合図。 「じゃん、けん――!!」  スピードを重視したシャウト。相手に手を読ませる隙を与えぬために。私と彼女の戦いは高速戦。知識と経験と勘と運がぶつかり合う。 「――ほいッ!!」  二つのグーが宙空で対峙する。これはほんの前戯だ。ここからが本番。 「あいこで――!!」  戦闘は加速する。 ダイニボタン  体育館裏でその時を待つ少女達。私もその内一人。周囲に目を遣る。誰が味方で誰が敵か分からない。目的が違う子は応援しよう。けど、目的が同じ子。同じモノを狙っている子。それは敵だ。敵は可能な限り排除したい。周囲一体を緊張が包む。一触即発。火花一つで引火しそうな危うさ。その時は刻々と迫る。  体育館のスピーカーから名曲「旅立ちの日に」が流れ始めた。それが合図だった。私達はお互いに潰し合う。敵を排除する。歌と共に少女達が一人また一人倒れる。私は倒れない。倒し続ける。女の子だから拳は握らない、平手打ちだ。私は両隣の少女を倒した後、無防備に背中を見せる一人の少女に狙いを定める。「油断大敵」と呟きつつその背中に手の平を撃ち込む。私の手の平から少女の背中へと勁は流れ込み、彼女の意識を断ち切る。三人目を倒した刹那、私は背後に気配を感じた。「旅立ちの日に」はもう終盤まで流れている。ここで倒れては、全てが無駄になる。倒れる訳には行かない。私は反転しつつ勘だけで防御姿勢、鞄を盾にする。炸裂する衝撃。後ろの正面にいた見ず知らずの少女は強烈な回転の力を以て手の平を私に撃ち込もうとしていた。喰らっていたら、やられていた。身代わりになった鞄の中で弁当箱と筆箱がまとめてひしゃげる。強敵だ。見れば彼女は眼鏡を掛けていた。恐るべし眼鏡っ子。気付けばこの場に残っているのは私と彼女、二人だけ。残りは地に伏している。私はぼろぼろになった鞄を投げ捨てると、反撃、双掌を併せ打つ。しかし眼鏡っ子は知的に眼鏡を光らせながら、闘牛士のように私の攻撃を避けた。空振った双掌は体育館に叩き付けられる。体育館の壁が罅割れ、少しだけ、揺れた。構え直してもう一打、私はドリルのように右手を突き出す。奇しくも、眼鏡っ子も同じ構えから右手を打ち出してきた。交差する意志。しかし命中する直前で私達は攻撃を止める。寸止めの手の平が私の頬に触れそうな所で止まる。私の手も同じような位置に。あと一歩踏み込めば倒すか倒されるか相打ちか。その前に訊かなきゃいけないことがある。 「あなたの狙いは?」 「あなたこそ、誰を?」  潰し合うのが目的ではない。私達には目的がある。目的が同じ子なら敵だ。けど、目的が違う子は、応援したい。それは味方だ。訊かなきゃいけない。相手の目的を。アイコンタクトで意思が疎通する。私達は同時に目的の名を口にする。それは異なる名前だった。私達は手を下ろす。この瞬間、私達は異なる戦場で戦う戦友になった。私達は笑み合う。  体育館のスピーカーが「旅立ちの日に」を流れ終える。扉が開放され、卒業生達が体育館から出て来る。行こう。私達は別々の目標の所へ駆け寄る。最後に眼鏡っ子と目が合った。頷き合う。戦友に言葉は要らない。それでも意思は通じる。「頑張って」あなたも、頑張って。  私は愛しの先輩の所まで駆け寄ると、意を決して口を開いた。 「先輩っ! 先輩、の……先輩の第二ボタン、下さい!!」  胸に手を合わせて答えを待つ。先輩は応えてくれるだろうか? しかし出て来たのは意外な言葉。 「ボタンだけでいいの?」 「えっ!? あの、その、えーと――」  先輩の言葉に動揺する。これは、言っても、いいのだろうか? 見上げれば先輩は微笑んでいる。言ってもいい、ということだろうか? 迷う私の脳裏を体育館裏の激戦の光景が走る。そうだ、私は沢山の屍の上に立って(死んでないけど)、ここにいるのだ。倒した彼女達のためにも、私は無様な戦い振りは出来ない。怖じ気付くな。言え。言ってしまえ。 「――先輩も、下さいっ!!」  まだ季節は早いけど、桜が咲いた。 KILL THE TARGET  物陰に潜んで彼が来るのを待つ。悟られるな。気付かれるな。目立たず、自然に。注目されてもいけない。私は偶々なんかの用事があってここにいるだけ。決して彼に会うのが目的ではない。そう思わせろ。通行人の視線を止めるな。  頬が上気する。心臓が早鐘を打つ。手の平が汗ばむ。落ち着け。深呼吸しよう。「すぅー」息を吸って、「はぁー」吐く。繰り返す。鞄の中に忍ばせた得物に手を遣る。今日はこいつの出番だ。頼りにしてるよ? チャンスは一回っ切り。経験のない、初めての強行。私から、攻める。その時は、こいつの出番だ。鞄の中の相棒の手触りを確かめる。ちゃんと、仕留めて? 彼を、射抜いてよ? 祈る。願う。念じる。  いつまでも現れない彼に、ほんとは気付かれて、避けられているのではないか? という最悪の事態が懸念された。不安の黒雲が私の心を覆う。その場から逃げ出したくなった刹那、彼は現れた。  ――来た!! 「今だ、出ろ!」心は叫ぶ。でも、身体は動かない。足は床に張り付いて前進しない。胸に武器を抱いて、私は突っ立ったまま。あぁ、私には無理だったのか。初めての実戦は失敗に終わるのか。このまま彼は私の手の届かない所へ行ってしまうのか。泣きそうになる。  しかし天は私に味方した。こんな時ばかりは都合良く、神様を信じてしまう。彼の方から、こっちにやって来た。しかも一人で。囲んで阻む者はいない。絶好の機会。「今だ、出ろ!」再び心が叫ぶ。今度は叫びに応じて、私の身体は前進する。ほんの数歩の動き。それで用は足りた。彼の前に出る。 「あのぅ……これっ!」  私は白い封筒を差し出す。届け、私の想い。 開かずの間  学校の七不思議を、物語以外で聞いたことがない。本当に実在するのだろうか。七つも、不思議が。私の学校には一つしか不思議はない。由上学園唯一の不思議。『開かずの間』。それは保健室の隣にある。誰もその扉が開いているのを見たことがない。勿論、入った人もいない。大掃除でもノータッチ。先輩、先生、誰に訊いても「さぁ、なんのための部屋なんだろうね?」疑問符が返ってくる。誰に訊いても駄目。無駄。徒労。それが返って興味を沸かせる。知りたい。見たい。入りたい。だから私は誰もいない時を見計らって、そっと、『開かずの間』を開けてみることにした。こんなこともあろうかと、通信教育で憶えたピッキングを駆使して鍵を――開けようとした時、私より早く、内側から鍵が開いて、扉が滑って、白い手が私を掴むと、『開かずの間』の中へ引き摺り込んだ。 「――先輩、『開かずの間』の中って、どうなっているんですか?」  ある日、私に尋ねる下級生がいた。私は「さぁ、なんのための部屋なんだろうね?」と答える。下級生はがっくりする。しかしその顔を、表情を、私は知っている。かつての私と同じ。いつか彼女も『開かずの間』の前に立つだろう。その時は私が招き入れよう。  スカートの下、下腹部が熱くなる。とろり。 アローン・ウィズ・デッド  振り被ったチェーンソーは真っ直ぐに腐乱した屍体に食い込み切り刻まれた肉片が飛び散った。が、骨に当たって慣性は阻害され途中で刃は止まる。動く屍体はチェーンソーを体内に埋め込んだまま手を伸ばして来る。私はその手を躱さない。躱さず、身体全体を屍体に傾け体重を乗せて踏み込む。無理矢理チェーンソーを振り切る。刃は骨と噛み合う状態から解放され、再び回転を再開する。骨に刻まれた溝に沿って、今度は噛み合うことなくチェ−ンソーは最後まで斬り届く。屍体は真っ二つになる。両断された屍体は蹴っ飛ばし、次の屍体に標的を探す。斬る。斬る。斬ってやる。  ある日突然亡者共が墓の下から甦った。昨日のことだ。なぜか死者は生者を襲った。恋しいのか憎らしいのか感情以外の要因か。分からない。知らないままでいい。私は全てを斬り殺すだけだから。一度死んだ身だ、もう一度おとなしく殺されやがれ。  過疎化が進行した村。若者は帰省していた私一人。残りは鈍重な年寄り連中、今は死んで、動く屍体の仲間入り。私の敵。土葬する習慣が災いした。火葬死体は動き出さなかった。と言うより、火葬死体には動く身がなかった。土葬は駄目だな、やはり火葬だな。陸の孤島で屍体に囲まれて、私は独り生きている。生き戦っている。あと何人だ。何人斬ればいい。全ての屍体を斬り殺せば、とりあえずは、助かる。休める。他の地域がどうなっているかは知らないけど、こいつらを全部斬ればここは安心だ。  両断され蹴り飛ばされた屍体片が藻掻いているのが視界の隅に移った。醜い。ああはなりたくないな。死んで、殺されて、馬鹿みたいに藻掻くだけの存在になるのは。壊れた玩具みたいだ。だから、ごめん、おばあちゃん。私はあなたを斬ります。いつか火葬してあげるから。今はおとなしく斬られて。  チェーンソーを突き刺す。貫通したチェーンソーを更に振り回して斜めにおばあちゃんを両断する。血煙が舞う。血塗れになりながら私は笑う。歯を剥き出しにして。それ以外の表情が出て来ない。脳内麻薬が出過ぎなんだ、きっと。だって、ほら。  ――こんなにも楽しい。 布団がテントで枕。  朝、目が覚めたら。なんか生えてた。勃ってた。布団にテントを作ってた。思いっ切り。「うぁあああああああああああああああ!?」慌てて枕で押さえる。ぎりぎりぎりと軋むそれに、思わず「いぃいいいいいいい!?」と声を荒げてしまう。枕を手放す。テントは再び勃った……ちょっと気持ち良かったかも。いやいやいや、そうじゃなくて。なんで、なんか、生えていますか?あたし佐伯可南子、女の子。朝からいきり勃つようなものは持ち合わせていません。でも、生えています。感覚あります。「ばっちり朝勃ちしてるぜ!」と自己主張していやがります、生意気にも。なに、これ?布団を覗く。パジャマの裾を下ろす。視認。認識。識別。パジャマを正す。布団も下ろす。見なかったことにして、あたしは二度寝した。 お兄ちゃんどいて!そいつころせない!  放課後の夕暮れ時。校門の前で先輩を待つ。待つ。待つ。  来た。  あたしは前傾ダッシュで先輩の手前まで駆け寄る。 「先輩、好きです!付き合って下さい!」 「だめー!!」  聞こえたのは返事ではなく主張。感じたのは衝撃。あたしの身体は真横に吹っ飛んだ。アスファルトの上を無様に転がる。  凶行の主は幼女。小学生。彼女はドロップキックから華麗に着地して、ビシッ!とあたしを指差すと、「お兄ちゃんをたぶらかすばいため!せいばいしてやるー!」「うああ、朋美!?こら、駄目だろ!!」指差した姿勢のまま先輩に羽交い絞めにされていた。 「お兄ちゃんどいて!そいつころせない!」  先輩の腕の中でもがく幼女。お兄ちゃん――先輩の、妹? 「ごめん、遠藤さん!明日、ちゃんと謝るから!じゃ!」  先輩は妹さんを抱きかかえるとあたしの視界からフェードアウトした。取り残されたあたし。捨てられた人形のように。  翌日同時刻。  放課後の夕暮れ時。校門の前で再び先輩を待つ。あたしは諦めていない。  先輩が来た。 「先輩、好きです!付き合って下さい!」 「だめー!!」 「甘い!」  あたしは両の手で丸めるようにして妹さん――朋美ちゃんのドロップキックをいなす。軸の向きを変えられた朋美ちゃんは見当違いの方向へ――関係のない第三者、帰宅途中の男子学生の背中にドロップキックは命中した。倒れる男子学生。その上に着地する朋美ちゃん。「ぐえ!?」と悲痛な呻き声が聞こえた。 「ふふふ、同じ手は二度と通用しないよ!見様見真似中国拳法!」 「おのれー!」  地団駄を踏む朋美ちゃん。つまり男子学生を踏んでいる。「がは!」「げはァ!?」「ぐああ!!」と苦しそうな声が聞こえるけどごめんなさいあたしは見ているだけ。助けようとして隙を見せるわけにはいかないんです。ごめんなさい。心の中で謝る。 「見様見真似って……遠藤さん、凄いね」  先輩に褒められた。嬉しい。頬が赤く染まるのが自分でも分かる。照れを隠すために大声と共に「さぁ、返り討ちにしてあげるから、かかって来なさい!」ゆらり、と構える。酔拳の構え。 「こなくそー!」  突進してくる朋美ちゃん。拳を避けて肘を打ち込み蹴りを喰らって頭突きで仕返し戦いは加速して行く。なんだか友情が芽生えそうな気がした。 エンド・オブ・クレイジーズ  僕の町には塔がある。どこまでも高くそびえ立つ象牙の塔――ではない。ドでかい電波塔。黒い東京タワー。なんなら黒い京都タワーでもいい。重要なのはこいつは人々を操る電波を発しているってことだ。人間の感情を論理を行動を思い通りに操る電波、24時間体制で発信中。一般人はそんなこと知らない。この塔をテレビ塔だと思っている。傍目には分からないけどこの町には生活にリズムというものがない。ずーっと平穏。波の振れない電圧計みたいに。この町は犯罪抑止政策のモデルケース。計画は目論見通り、僕の町では事故さえ減少の傾向を見せている。来年には全国の主要都市に片っ端からこの塔が立つ予定。この塔、では言い辛い。仮に毒電波塔としよう。毒電波塔。ほんとは正式な名称があるけど誰もそんなもん憶えてない。僕はあの塔が嫌いだ。だから毒電波塔。初めて真相を知った時から僕の頭には毒電波塔という言葉が浮かんだ。初めて知ったのは半年前、中古店で安く買ったパソコンに残っていたデータを見た時。店も前の所有者も消し忘れていた、らしい。とにかく偶然にも僕は知った。知ってしまった。さらに偶然は重なる。僕に電波は効かない。僕の頭にはドリルが刺さっている。ドリルホール・イン・マイ・ブレイン。ドリル本体は取り除かれたけど、杭は頭の中に残っている。串刺し。動かしたら危険だから、と。脳まで貫通してる。ちょっとしたフランケンシュタイン。僕の頭の中のドリルは磁力を放っている。そいつの影響で僕には電波が効けない。自由。万引きもセクハラも選挙ポスターに画鋲を刺すのもしようと思えば出来る。そんなことしないけど。僕がしたいことは毒電波塔の破壊。爆破してやる、こんなもの。気に入らない。最近人と話すのがつまらないと思ったらこいつのせいか。どいつもこいつも幸せ顔で正論ばかり。ふざけろ。悪態を吐け。悪戯しろ。怒れ。恨め。他の感情を見せろ。そうだ、こんなもの、ブッ壊すのが正しいんだ。僕の手にはスイッチがある。爆弾遠隔操作スイッチ。爆弾の位置は勿論毒電波塔。こいつを押せば、ドン!時報と共に押してやる。カウントダウン。10、9、8、7、6、5、4、3、2、1――0。カチ。  遠くで音が聞こえた。  授業に割り込んで校内放送が流れた。テレビ塔が爆破された、らしい。教室がざわつく。テロじゃないの?誰かが言った。違う。そんなもんじゃない。けど、知らないのもしょうがないか。みんなは普通の人。特別な人しか真実を知らない――たとえば、あたし。あれは合図だ。もうすぐアンゴルモアの大王が目覚める。ちゃんと1999年に降って来ていたのだ、恐怖の大王は。ただ、今日までは力を蓄えるために大人しく地下に潜伏していたのだ。静かに、静かに――今日まで、は。合図があった。アンゴルモアの大王は近い内目覚める。あたしは世界を護るムーの戦士。転生して前世より受け継いだ記憶が全てを教えてくれる。記憶は確実だ、自分の記憶を信じれなかったら何を信じると言うのだ。我思う故に我あり。確かなのは自分だけ。この世界は脆く儚いまやかしだ。アンゴルモアの大王が目覚めれば、その影響だけで全ては変質してしまう。前世の記憶が教えてくれる。あたしは世界を護るムーの戦士。死ぬことは許されない。アンゴルモアの大王を倒すまでは死ねない。殺される前に殺せ。今はまだ変質していないけど、もう間もなくみんな変わってしまう。化物に。あたしの敵になってしまう。その前に殺せ。殺される前に殺せ。悲しいけど、これは現実。やるしかない。あたしは鞄の中から聖剣エクスカリバー――が転生した姿である大型ナイフを取り出す。大丈夫、まだみんな気付いていない。敵前逃亡は許されない。皆殺しにするんだ。あたしは機を窺う。横に座る悦子ちゃんがエクスカリバーに気付いた。もう、やるしかない――何か聞くより早くエクスカリバーを悦子ちゃんの喉に突き刺した。血が噴く。飛び散る。悲鳴。絶叫。混乱。ここは戦場。あたしはムーの戦士の務めを全うする。  パトカーのサイレンが聞こえる。  きっと私を捕まえに来たんだ。警察が。私の足元には死体がある。小さな子供。さっちゃん。死ぬとは思わなかった。さっちゃんは私の天使だから。御飯を食べなくても死なないはずなのに。死んでしまった。それとも、他に何か原因があるのだろうか。物言わぬ死体は何も教えてくれない。公園で見付けた時は、あんなに輝いていたのに。もう、駄目だ。サイレンが聞こえる。警察がやって来る。護身のために購入したリボルバー拳銃を机の引き出しから取り出す。買った時はこんなことに使う羽目になるとは思わなかった。弾を込めて、こめかみに銃口を当てる。ブタ箱行きはごめんだ。迷わずに引き金を引いた。  もう、何も聞こえない。 Jet Knight  あたしは空を飛びたかった。高い、高い空を。どこまでも高くて、深くて、遠くて……どこまで行けば届くのか。見えているのに、見上げればそこにあるのに。ほら、窓の外。教室から見ても変わらず青い空が。くそ。くそ、くそ、くそ!くそったれ!耐え切れない堪えら切れない抑え切れない!行くぞ行くぞ行くぞ、飛ぶぞ飛ぶぞ飛ぶぞ!――ガタン!「どうした桐谷ァ、急に席立って?」「先生、あたし、空飛びます!」「……は?」「うりゃァアアアアアアアアアアアアアアアア!!」椅子を、机を、鞄を、級友を蹴散らして窓へと走る。人は飛べない。そんなことは分かっている。だからあたしは人をやめる。ビキビキビキと音を立ててあたしの身体が変形する。窓を蹴破って、硝子片と一緒に外へ出る。まだだ、まだここは『空』じゃない。『外』に、『宙』にいるけど『空』じゃあない。あたしは翼を拡げる。鳥のように滑空して、充分な勢いと浮力を得て上昇する。高く、高く、高く。風を切って雲を突き破って空気の壁を抜けてうォオオオオオオオオ、宇宙だァ!!『宇宙』と書いて『そら』と読むのは浪漫!『空』じゃあないけどこっちでもいいや!空気がないから星がよく見える。太陽の反射を受けているのは知っているけど、やっぱり星そのものが輝いているように見える。そして――地球。振り返れば青い球体が見える。白い雲のほうが占有する面積は大きいけど、青い生命力のほうが目を惹き付ける――そうだ、あたしが惹かれたのはあの青だ。あたしは再び地球に戻る。重力に実を任せて自由落下だ、赤い尾を引いてあたしは大気圏に再突入する。速い速い、気持ちいい。「あはははははははは――!!」笑ってしまう。そうだ空なんて飛ぶ必要はないんだ、あたしが欲した青は海の青さなんだ。校庭にクレーターを作って降り立ったあたしは人に戻ると駆け足で教室に向かう。ちょうど昼休みだった。「ただいまー!」「お土産は?」「デブリ」「いらない、ゴミじゃん」「地球外生命体が寄生しているデブリ」「えェエエエエエエエエ!?」驚く級友を尻目にあたしは鞄からスクール水着(股間部にポケットのある旧型)を引っ張り出す。――スクール水着にも浪漫はあるのだ。  スクール水着は最高だ。 魔法少女ケイ  屋根瓦が宙を舞った。  瓦礫が地に降り注ぐ。  人々の悲鳴が木霊する。  粉塵が晴れたとき、そこには一直線の道が出来ていた。破壊の痕だ。  放たれた光弾は、建物を軒並み蹴散らして破壊していた。 「ウォオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」  破壊者の雄叫びが上がる。  それは人外の者だった。  仁王立ちする巨大な体躯から伸びるは四本の腕。  身体を覆うは黒光りするボンテージのような黒革。  その貌はアメコミのように奇怪な表情に変形した骸骨。  これが先の破壊を行ったのだ。 「――そこまでよ!」  突如、鋭い声が聞こえた。  声の主を探して、破壊者は上を見る。  破壊から逃れた電信柱の上に、人影。逆光で姿はよく見えない。 「とォッ!」  掛け声と共に人影が舞い降りる。 「変・身!」  太陽の逆光に逆らって、空を舞う影が光に包まれた。  光は収束して、着地と同時に収まって――そこには一人の少女の姿があった。  セーラー服に似た、ピンクを主色としたドレス。  幼い体躯。細い手足は人形のよう。  髪は二つに括ったツインテール。  猫に似た眼が、破壊者を力強く睨んでいる。 「魔法少女ケイ、推参!」  少女は高らかに宣言する。  それは戦闘の合図でもあった。  説明しよう。  この少女の正体は、彼女自身が宣言した通り『魔法少女』である。  その目的は悪霊の退治。  人は死んだら霊になる。霊は一日だけ、この世に帰って未練を断つことが許される。  己の葬儀を見届けるなり、想い人の姿を最後に見納めるなり、未練を絶つために黄泉帰るのだ。  だが稀に、黄泉帰った霊が悪魔と契約することがある。悪魔と契約した霊は、力と実体を得て――暴走する。  悪魔の目的は人間の堕落にある。堕ちた魂は欲望に任せて暴走する。悪魔と契約して正気を保てる霊はいないのだ。  暴走する悪霊を退治する――それが魔法少女の使命。 「グォオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」  悪霊が四つ手を合わせて構える。魔力が四つの掌に集中する。  これだ。これが先の大破壊を行ったのだ。が、魔法少女は臆することなく、 「遅い!」  魔法陣を右手のそばに召喚する。  魔法陣から出現したのはチェーンガン。  ウィイイイイイイイイイイイイイイイイ――――  銃身が回転を始める。 「――――ッ!?」  悪霊に戦慄が走る。  この世の物でもあの世の者に干渉出来る。突き詰めれば魔力もエネルギーの一種――魔力で構築された悪霊の身体は、この世の物と等号なのだ。ぶつかるエネルギーの量が大きければ、魔力障壁を破って悪霊の身体にダメージを与えられる。  そして――チェーンガンより放たれる銃弾は、悪霊の魔力障壁を突き破るに十二分の威力を備えている。 「銃弾のが魔法より速い!」  魔法少女は躊躇うことなく、巨大なチェーンガンを手に取った。  魔法少女の変身は、姿を変えるためではない。記憶操作によって魔法少女や悪霊のことは人々の記憶から削除、改変される。  魔力障壁、魔法陣短縮呼び出しの魔術式の走査、身体機能の強化こそが変身の効果だ。  身体機能を強化した少女の細腕は軽々とチェーンガンを悪霊に向け、 「喰らえェエエエエエエエエエ!!」  引き金を引いた。  悪霊の身体は、粉々になった。  これは、一人の魔法少女の闘争の物語――  嘘序章。 アンパンマン 「アンパンマン、顔を取り替えれば、全ての力を取り戻す……だが、失うものが多すぎる」 「なにを失うと言うんだい、ジャムさん?」 「……記憶だよ」  アンパンマンの顔は上半分が欠け、視覚情報を得ることは出来ない。それでもジャムさんの表情は、声から想像できた。 「君は生まれ変わる。顔を取り替える度に生まれ変わる。だけどそれは、一度死ぬと言うことなんだよ。一度死んで、全てを失って……それでもいいのか?」 「いいさ、それでも。僕はアンパンマンなんだから」  即答だった。 「僕はアンパンマンだ。何度でも死んで何度でも甦って何度でもバイキンマンと闘おう。僕は、ね……みんなの笑顔が見たいんだよ」 「記憶がなくても、か?」 「記憶がなくても、笑顔は嬉しいし、涙は悲しいさ」 「それで、君は幸せになれるのか?君の記憶にはなにも残らない。君は……顔を取り替える限り、友達のことも忘れてしまう」 「そうだな、それは少し寂しいかも知れない……だけど、記憶がなければ、それにも気づかないだろう?それに、愛と勇気が友達さ」  そう言ってアンパンマンは微笑んだ。 「やってくれ、ジャムさん……僕に、新しい顔を。もう、バイキンマンが来ている。行かなくちゃ」  遠くで爆音が聞こえる。それはだんだん近づいてくる。 「バタコ……新しい顔を」 「でも……いえ、分かりました」  足音が近づいてくる。 「アンパンマン、新しい顔よ」  ――死んで。  ――生き返った。  再起動。  状況確認。 「この音は……バイキンマン?」 「そうだ、バイキンマンが近づいてくる。頼んだぞ、アンパンマン」 「任せてください。僕はそのためにいるんです」  立ち上がる。  なぜかジャムさんとバタコさんは、悲痛な表情をしている。 「……なにか、あったんですか?」  その言葉にバタコさんは、顔を伏せて――笑った。 「いいえ、なんでもないわ。なんでも、ないわ」 「……そうですか」  聞き出すのは無理そうだった。きっとバタコさんは、ジャムおじさんも、「なんでもない」を繰り返すだろう。そんな気がした。  爆音が近づいてくる。バイキンマンだ。  僕はアンパンマンだ。  さぁ、行こう。  それ行け、アンパンマン。 獏  ふと、目が覚めた。  夜。六畳間の自室、布団の中。  身体が動かない。起き上がろうにも、首を巡らそうにも、指先まで、びくとはするが、そこまでだ。動かない。  これが金縛りというやつか。  そして、身体が動かなくても、なぜか分かった――脚のほうになにかいる。なにかがなんなのかは分からない、そこにいることが分かるだけだ。そいつはだんだんと近づいてくる。逃れようと、正体を見極めようと身体を動かそうとするが、びく、びく、と、軋むばかりで動きやしない。  なにかが近づいてくる。足のあたりまで迫ると、そいつは――なぜか分かるのだ――口を大きく開いた。  俺は必死でもがく。食われるような気がしたのだ。だけど身体は動かない。  俺がそうこうしていると、やはりと言うべきか、そいつは俺を喰い始めた。ばく、ばく、ばく。足のほうから俺が食われて行く。  が、俺が感じたのは安堵だった。不思議な感覚があるような気はするものの、痛くも痒くもない。そうか、これは夢か。不思議な感覚にしても、気のせいで、冷静になれば、そんな感覚はありゃあしない。夢が痛くないのは、これは考えてみれば当然のことで、痛ければ夢から醒めてしまうからである。それでは夢の意味がない。だから夢は痛みの代わりに、不思議な感覚があると錯覚させようとするわけだが、気づいてしまえばそれは霧散してしまう。今、俺はなんにも感じない。  そうと分かれば、俺は、なにかの正体を見極めようと、懸命に身体を動かそうとする。俺のどんな心理状態がこんな夢を見せるのか、是非とも知りたい。だんだんと俺が無くなって行く。もう、胴体まで喰われている。ええい、首だけでも動け、見るんだ、見るんだ――!!  不思議な夢だった。夢の中でこれほどはっきりと意識を保てるとは。ならばそれは現実で、痛みを感じないのは身体が麻痺しているからだと言うかも知れないが、そんなことはない。俺は心臓まで齧られたのに生きている。  ばく、ばく、ばく。口がすぐそこまで迫って来る。身体は動かない。俺は覚悟を決める。頭を食われるその瞬間に、このなにかの正体を見極めるのだ。なにかが大口を空けて、最後の一齧りにしようとしている。そこで俺が見たのは――  朝。目覚まし時計が鳴る一分前に起きる。すでに習慣としてこの時間に起きることが定着しているから目覚まし時計の必要はないかも知れないが、それでも念のためにセットしてある。  俺は目覚まし時計の上のほうにあるつまみを捻って、アラーム機能をオフにする。このアラーム機能が最後に働いたのは半年前、悪酒で酔った時だ。  やれやれ、それにしてもおかしな夢だった。  俺が最後に見たのは、夜の暗がり。そうだよなぁ、なんも明かりがなけりゃあ見えやしないよなぁ。  結局、俺を喰ったなにかの正体は分からず終い。なにがあんな夢を見せたのかね。獏でも枕元にいたか。獏とは人の夢を喰う妖怪。ひょっとすると、あれは悪夢の残滓で、本当の悪夢は獏が喰ってしまったのかもな。だからあんなヘンな夢になってしまったのかも。はは、まさかね。  ――なんてくだらないことを考えながら、俺は布団から脱け出す。今度はちゃんと身体は動く。  夢のことなんて後回し。俺には現実の問題があるのだ。  だから俺は枕元の足跡に気づかなかった。小さな足跡は布団にはたかれて消えた。 マリオ 「じゃあ、行ってくる」 「ええ、あなた、気をつけて」  今、一人の男が戦場に赴こうとしている。男の名は、これは本人もそう望んでいるから、本名ではなく記号として『マリオ』と呼ぼう。男の名はマリオ。あまたのマリオたちの一人だ。  玄関、赤いツナギに身を包み、赤い帽子を目深く被る。マリオは悩んでいた。愛する妻をもう一度、目にするべきか。 「お父さん、お母さんのことが嫌いになったの?」  いつの間にか、娘が玄関にやって来た。娘を起こさぬよう、深夜に発とうとしたのに。家の外は真っ暗だ。いつもなら娘は寝ている時間。やれやれ、失敗したな。しかも、俺がマリオだと気付いているよう。いや、この格好を見れば当然か。 「いいや、違うよ。お父さんはお母さんのこと、大好きだよ」  そして、妻と目を交わす。お互いに微笑む。 「じゃあ、なんで行っちゃうの?」 「男だから、さ」 「でも、もう帰ってこないんでしょ?先生が言っていたもん、マリオは帰ってこないって。みんな死んじゃうって。ねぇ、行かないでよ!お父さん、行っちゃやだ!行っちゃやだよぉ……!」  娘はうつむいて、今にも泣きそうだ。でも、泣かない。分かっているのだ、泣いたら俺を説得出来ない。泣いて、感情的になって、上手くものを言うことは出来ない。分かっているのだ。娘は賢い子だ。そんな娘が愛しくて、俺はしゃがんで、娘と目線を合わせる。 「いいかい、よく聞いておくれ。お父さんは、おまえのことも、お母さんのことも、大好きだ。愛している。でも、な。お父さんは男なんだ。困っている人がいたら、放っておけないんだ。なぁ、お父さんは、強いかい?」 「お父さんは、世界で一番強いよ!」 「そう、だったら、お父さんは行かなくちゃいけない。強い男は、他人を守らなくちゃあいけないんだ」 「でも、でも、でも……!でも……!」  娘の頬を、一筋の涙が伝う。娘は必死で言葉を探している。俺を止めるための言葉を。でも、そんな言葉なんてありはしない。娘は、俺の娘だ。俺と、妻の、自慢の娘だ。ちゃんと分かってはいるのだ、俺を止めることは出来ないと。それでも、言葉を探している。俺は娘の涙を止めないといけない。涙の別れにしてはいけない。それでは悲しすぎる。 「なぁ、泣かないでおくれ」 「泣いてないもん!」 「そうか、いい子だ」  俺は娘を抱きしめる。娘は俺の胸に顔をうずめる。涙はもう見えない。 「泣いてないもん!泣いてないもん!泣いてないもん!」  娘は泣きながらそう言う。俺は娘を抱きしめながら、頭を撫でてやる。そして妻を見上げる。 「すまんな、こんな男で。これじゃあお父さん失格だな」 「しょうがないわよ、わたしだって、そういう男だって知っていて結婚したんだから」  妻はさびしげに微笑む。俺も微笑み返す。ここは、笑みを浮かべるべき場面なのだ。涙を見せてはいけない、俺は、マリオなのだから。  娘が泣き止むまで、しばらく無言が続く。ああ、俺は馬鹿な男だ。こんな幸せを手放してまで、マリオになるのだから。こんなにも、俺を愛してくれる家族を捨てて、俺は行こうというのか。ああ、そうだ、行くのだ。俺がこんな男だから家族は愛してくれて、俺はこんな男だから行かなくちゃいけない。行かなかったら、俺は俺でなくなる。俺は俺であるために、マリオになるのだ。  娘が徐々に泣き止む。 「お父さん、行っちゃやだよぅ……」  娘の力は、もう、だいぶ、弱まった。俺は娘をゆっくりと引き離す。そして立ち上がる。 「いいかい、お父さんは、行く。帰ってこないかも知れない。でも、その時は、誰か、他のマリオがおまえを助けに来てくれる。マリオはいい子を助けに行くんだ。お姫さまはいい子にしているから、マリオが助けに行くんだ。いいかい、いい子にしているんだよ?」 「……はい」 「返事が弱いぞ?」 「……はい!」 「よーし、いい子だ」  娘はもう泣いていない。俺は最後にもう一度だけ、娘の頭を撫でてやる。 「じゃあ、行ってくる」 「ええ、あなた、気をつけて」  俺は妻と娘に背を向けて、ドアノブに手を掛ける。娘の言葉は、ない。寂しいし、悲しいが、しょうがない。もう、これ以上俺には言葉がない。俺は家を出て、家の前に停まっていたバスに乗り込む。バスの中にはたくさんのマリオたちがいる。多少の違いはあれど、みんなマリオだ。みんな、悲しみを背負った男たちなのだ。  バスが震える。エンジンが掛かって、ゆっくりと前進を始める。涙が溢れそうになる。 「――お父さん、頑張ってー!」  声が、聞こえた。  「お父さん、頑張って!頑張ってー!」  娘の声が聞こえた。  他のマリオたちをかき分け窓に近づく。みんなが道を空けてくれる。バスのスピードも、止まりこそしないが緩やかになる。急ぎ窓を開け、身を乗り出し、叫ぶ。 「お父さんは頑張るぞー!頑張るぞー!だから、だから、いい子にしてろよー!愛している、愛しているぞー!愛しているぞー!」  果たして俺の声は間に合ったのだろうか。夜の向こうはなにも見えなくて分からない。それでも俺は届いたと信じる。  窓を閉めた俺に、そばにいたマリオが語りかける。 「いい娘さんだな」 「ああ、自慢の娘だ。なんたってマリオの娘だぜ?」 「くくく、そりゃあそうだ。マリオの娘だもんな」 「そうだ、マリオの娘だ」  バスは再び加速して、戦場へと俺たちを運ぶ。  戦場には熱い風が吹く。 蜜柑  秋になると蜜柑が出回る。   分かっている、蜜柑は冬の果物だ。でも、残暑が長く続くから、夏まで長く続いているような気がして、季節の感覚がずれてしまうのだ。  わたしはあまり蜜柑が好きじゃない。種はあるし、白いヘタは気に入らない。それでも蜜柑を見ると買ってしまう。そしていえに帰るとコタツを出して、蜜柑をコタツの中央に置くのだ。コタツを出すのは蜜柑が出たら――いつの頃からかわたしの中ではそんな取り決めがされていた。蜜柑が市場から消えればコタツもわたしの部屋から消える。コタツと蜜柑はふたつでひとつ。 「やっぱ、冬はコタツと蜜柑だろ。蜜柑忘れちゃあいけないよな、蜜柑」  あのひとはいつもそう言っていた。わたしには、蜜柑よりもあのひとのほうがコタツに似合って見えた。  だって、コタツに入ってぬくぬくとしているあのひとはとても幸せそうだったから。  あのひとは綺麗に蜜柑を剥いて、わたしに手渡してくれた。あのひとが剥くと、わたしの嫌いな白いヘタは、ほとんどなくなっている。あのひとは蜜柑を剥くのがとても早かった。一度コツを聞いてみたが、あのひとは笑って「気合と根性」と言うだけだった。それでできたら苦労はないのに。  今日、実家からダンボールに入った蜜柑が送ってきた。土地柄だろうか、向こうではこちらより、蜜柑が出回るのが早いようだ。こちらの市場ではまだ、蜜柑は出回っていない。まだコタツが必要な寒さではないけど、わたしはコタツを出す。そうしてコタツの中央を置いて、わたしは電源を入れずにコタツに入る。ああ、とてもぬくい。  蜜柑を取って、いざ皮を剥かんとするときになってティッシュが手許にないことに気付いた。どうしよう、剥いた皮をどうしようか。剥いた皮は、いつも、ティッシュに包んで捨てるのに。コタツから出ないとティッシュ箱にもゴミ箱にも届かない。それはなんとなく面倒なので、わたしは剥いた皮はそのままにしておくことにした。あとで掻き集めればいい。  気を取り直して、蜜柑を剥き始める。最初は大雑把に皮を剥いて、次に丁寧に白いヘタを取る。爪が果実に刺さらないよう注意しないといけない。  綺麗に剥けた。  一口、食べてみた。 「やっぱ、冬はコタツと蜜柑だろ。蜜柑忘れちゃあいけないよな、蜜柑」  あのひとの言葉が、鮮明に蘇る。情景を伴って蘇る。あのひとの顔、あのときの部屋、あの日のわたし――  涙が出てきた。  ――この蜜柑、すっぱいなぁ。  涙が出てくるのは蜜柑のせい。だって、むかしのことを思い出して泣くなんて、かっこ悪すぎる。  毎年、最初に食べる蜜柑は、いつも、すっぱい。