アタッシュケース
ジョン・ドゥの朝は早い。
リッチランド・シティの照明が暗い内から目を覚ますと、仕事着に着替え、実弾を込めたハンド・ガンをホルダーに収納し、レシプロマシンのキーを握って、携行食を銜えながら階段へ向かう。階段へ向かう途中、ジェーン・ドゥの寝室を振り返る。
「………………」
ジェーン・ドゥの部屋のドアは開けっ放しになったままだ。そういえば昨夜部屋に運んだときドアを閉め忘れていた――と、ジョン・ドゥは思い出した。
ジェーン・ドゥは、まだベッドで眠っている。
ベッドの上で寝転けている姿は、寝相が悪いせいで右足の義足が外れていることを除けば、どこにでもいる普通の少女だ。お世辞を言えば、そこいらの少女より美しい。
ただ、それだけだ。
高級娼婦なんて仕事は似付かわしくない。
「ン」
携行食を飲み切って、ダストシュートに放り捨てる。
ジョン・ドゥの仕事は体力勝負だ。
仕事の依頼は二四時間、プールバック・グループが受け付けている。早朝から深夜まで走り通しだ。しかもレシプロマシンの腕前を見込まれて、リニアマシンの倍の速さで仕事をこなすことが求められる。
それでも、ジェーン・ドゥの仕事のほうが酷だ――と、ジョン・ドゥは思っている。
ジョン・ドゥの仕事は体力がありさえすれば耐えられる。ジェーン・ドゥの仕事は心も磨り減らす。今日の彼女の仕事は昼過ぎから。それまで良い夢を見て欲しい――と、ジョン・ドゥは思う。自由な夢を。
「…………おやすみ、お姫様」
しかし、残念ながら、ジェーン・ドゥを夢から叩き落とし、サンシャイン・タワーに送り届けるのもジョン・ドゥの仕事だ。ジェーン・ドゥはプールバック・グループの人気商品なのだ。二人の関係は、あくまでも運び屋と高級娼婦だった。
階段を下りて、一階=ガレージへ。
ヘルメットを被り、キーを差し込んで、チョークを引き、セルを回す。
レシプロエンジンがガソリンを吸い込んで奮い始める。
「……仕事だ」
生きるために、生き残るために、ジョン・ドゥはアクセルを開いた。
ジョン・ドゥを乗せたレシプロマシンは、ジョン・ドゥとジェーン・ドゥの住処の工場街を抜け、住宅街へ、さらに抜けて繁華街へ進入する。
運び屋の仕事は、まずは集荷だ。
プールバック・グループの運び屋という職業の性質上、依頼主の正体も荷物の内容も知らされないし、何も知ってはいけない。
余計な詮索は命取りだ。
時間通りに集荷して、時間通りに配達すること。それだけがジョン・ドゥに求められる仕事であり、そこから外れることをすればプールバック・グループのバトル・サイボーグが殺しにくる――きっと、サウラが率先して殺しにくる。
“オレに勝てたら、おまえの記憶を取り戻してやるよ”
サウラは、なにかを知っている。
知っている振りかもしれない。しかし、もしも本当になにかを知っているなら、もしかしたらサウラに挑むべきなのかもしれない――と、ジョン・ドゥは時折考える。
もっともそれは死の危機が差し迫ったり、にっちもさっちもいかなくなったときに決断するべきことで、いまは運び屋の仕事をこなしていれば当面命の保証はされている。プールバック・グループの運び屋だからと狙われることもあるが……
とにかく、いまは仕事だ。集荷だ――と、ジョン・ドゥはその考えを振り払う。
繁華街の北側を占めるチャイナタウン。
風俗街でもため、ケバケバしいポップアップが踊っている。
「生身の女の子、揃っています/Fresh girl, ready for you」
道路交通法を無視して道路上に浮かび上がる違法ポップアップ=乳首と股間の上に布切れを貼り付けた、ほとんど裸の少女の立体映像をレシプロマシンで貫通する。初めて訪れた人間は人を轢いたと思って慌てる……ある意味、名物だ。
シャッターの降りた建物=集荷場所の前でレシプロマシンを駐める。
依頼主の正体も荷物の内容も知らない。指定の場所・指定の時間・指定の人物から集荷して、指定の時間・場所・人物に配達するということしか知らされていない。荷物を受け渡すのは決まって会社や組織の下っ端だから依頼主の正体は最後まで分からない。
それでいい――と、ジョン・ドゥは思っている。余計なことを知ってしまったせいで命を落としたやつらを知っている。なにも知らないほうが安全だ。ただでさえなにかに巻き込まれているかもしれないのに、これ以上、変なことに巻き込まれたくない。
「時間通りだな、運び屋」
シャッターが開いて、目当ての人物=黒服の男が現れる。
一見すると、生身か万能型のサイボーグっぽいが、不自然な骨格の歪みから特化型のサイボーグだと判別できる――そういう判別の仕方をジョン・ドゥは身に着けている。腕部に道具を呑んでいるタイプだった。
「時間に遅れるとおれの寿命が縮まるんだ」
「真面目なのは良いことだ。この業界も結局、真面目なやつが生き残る」
黒服の男が、アタッシュケースを差し出した。
「中身は知らん。絶対に開けるなよ。お前が開けたら、俺が死ぬ」
「おれも死ぬ。おれだって死にたかないさ」
アタッシュケースを受け取り、ベルトを使って、後部座席に固定する。
「頼んだぜ、運び屋」
別れの挨拶代わりに頭を下げ、レシプロマシンを発進させる。
ここから目的地まで飛ばさないといけない。
ギアを上げる――
――ズゥォォォン!
地響きにも似た爆音は、しかしレシプロエンジンの発したものではない。
バックミラーで背後を確認すると、さっき荷物を受け取った建物が灰燼と化していた。
「チッ!」
反射的にもう一段、ギアを上げる。
レシプロマシンが負けじと爆音/加速する。
襲撃者を警戒しながら、PDを叩き、プールバック・グループに連絡する。
「ジョン・ドゥだ! 現在地はチャイナタウ――」
しかし、喋ってる途中で気付いた。
PDは、プールバック・グループに繋がっていない。
ザザザザ――と、ノイズが聞こえてる。
PDの故障は考えにくい。ネットワークが偶然不調というのも有り得ない。このタイミングでそんな偶然に見舞うほど運は悪くないつもりだ――ということは通信妨害の可能性が高く、襲撃者は、都市機能を麻痺させることができるということだ。
都市機能を麻痺させるなんて並大抵ではできない。しかもネットワークはリニアコイルと一体化しているので都市機能の中でも最重要かつ最堅牢なのだ。それを突破するということは襲撃者は余程の能力と覚悟の持ち主であるということだ。
「エィメンッ」
厄介な事態だった。
ジョン・ドゥを狙ったのか、あの建物を狙ったのか、それともアタッシュケースが狙いなのかはわからない。いずれにせよ、いまはとにかく逃げるしかない。
安全装置が作動して低速走行中のリニアマシンをすり抜けていく。
爆発の影響か、それとも通信妨害の影響か、ポップアップは少なくなって、立体映像にノイズが走っているものも多い。リニアマシンから降りて、わざわざ見物に行こうとする馬鹿もいる。危機感が足りないのだ、普通の人々は。
ジョン・ドゥが駆るレシプロマシンとすれ違う度、「わっ」とか「きゃっ」とか驚いたり「馬鹿野郎!」とか「エィメン!」とか怒鳴るやつもいるが、そんなのは全部置き去りにして――
――ドドドドドドド!
またも、爆音。正面から。それは聞き慣れた音。
レシプロエンジンの爆音が高速で近付いてくる。
「――――――ッ!」
ハンドルを切る/別車線に移る。
レシプロエンジンの主と車線越しにすれ違う。
それは――レシプロマシンと言えなくはなかったが、もっと適切な言葉があった。
リニアマシンを串刺しにできそうな巨大な槍を付けたモノサイクルというだけで異様も異様だが、なによりそれは上半身は人体、下半身はモノサイクルという人間と機械の融合体であった。
バトル・サイボーグだ。しかも、リニアではなく、レシプロマシンを積んでいる。
リニアコイルの外=リッチランド・シティの外で戦うことを想定している。
――軍用サイボーグだ。
「――――掘ってやるよ! 掘ってやるよ! キャハハハ!」
モノライダーの声が遠ざかる。
女の声だった。上半身は黒いライダースーツ、顔は、ヘルメットを被っていたから分からなかった――そんな外っ面より問題は敵意を剥き出しにしていたことだ。軍用サイボーグがジョン・ドゥを轢き殺そうとした。
――軍が敵に回った。
それなら通信妨害も納得だ。軍なら、それくらいできる。
さっきの爆発も軍の仕業だろうか。それとも、これは三竦みの事態で、どこか別組織が絡んでいるのか。それに、どうして軍が敵に回るのか――なにも知らないジョン・ドゥには検討も付かない。依頼主の正体も荷物の内容も、なにも知らない。
「なんなんだ、何が起こって、何に巻き込まれたんだ……」
後部座席に固定されたアタッシュケースはもちろん、なにも喋らない。
ジェーン・ドゥは無事だろうか――と、不安が過ぎる。しかし、祈ることしかできない。
ジョン・ドゥの額を嫌な汗が伝う。
レシプロマシンは動揺せず、三〇〇〇回転で走り続ける。
軍は、都市分権の時代に唯一生き残った国家機関と言っていい。
行政・立法・司法機関は形骸化し都市に全権が委ねられたが、軍だけは、解体を免れた。
他国の侵略から守るために“大きな軍”は必要不可欠であるからだ。ただし、都市固有技術の譲渡の義務を負う代わり、都市は軍に対して強権を行使できる――等々。
都市分権と軍は複雑な関係にあるが、そんな政治の話は枝葉末節。
重要なのは、最大最強の戦闘組織が敵に回ったということだ。
プールバック・グループといえども所詮、リッチランド・シティという一都市に君臨しているに過ぎない暴力組織だ。しかも、あくまでも都市管理機構とは別組織であり、軍に対して強権を行使できない民間組織だ。
軍と比較すれば、小さくて、弱い。
プールバック・グループに勝ち目はあるのか。
このまま荷物を運んで、それで自分は見逃してもらえるのか――と、ジョン・ドゥは疑う。そんな生易しい相手とは思えなかった、あのモノライダーを見る限りでは。
ジェーン・ドゥを迎えにいくべきか、それとも、このまま荷物を運ぶべきか、はたまた一人だけ逃げちまうか――などと選択肢を決めかねていたが、それらは全部、レシプロエンジンの唸り声が背後から近付いてきたことによって吹き飛んだ。
「……まずは目先の敵だわな」
「――掘ってやるよ! 掘ってやるよ! 掘ってやるよ!」
モノライダーがUターンして舞い戻ってきた。
モノサイクルの先端の槍は、どう見てもジョン・ドゥを殺す気だ。
アクセルを開き、加速する。
リニアマシンが止まって見える危険な速度。
モノライダーの方が速い。
障害物を蹴散らせる槍があるせいか。
街中では、ジョン・ドゥでも、これが精一杯の速度だというのに。
だがしかし無策に走っていたわけではないのだ。
ジャンクションに突入/高架高速道路=リニアラインに進入する。
「リニ――」
リニアラインのポップアップは健在=途端に喧しい景色になった。ポップアップがなにか言いかけていたが、ろくに音声再生が始まる前に突っ切る。
リニアマシンも爆発した建物から離れているせいか、リニアラインに相応しい速度で運転している。道路幅も広い。ここなら――と、さらにジョン・ドゥは加速する。
バックミラーで背後を確認/モノライダーも後を追ってくる。
「掘ってやるよ掘ってやるよ掘ってやるよ掘ってやるよ掘ってやるよ掘ってやるよぉぉ!」
レシプロエンジンが二発、競い合うように爆音を撒き散らす。
アクセルは開きっぱなしで加速、加速、加速。
背後に貼り付いたモノライダーを振り払うべく、右へ左へ。
リニアマシンの隙間を縫って、ポップアップを蹴散らしながら、速度は上がり続ける。
「しつこい……ッ!」
だが、一向にチギれない。
モノライダーの姿は、バックミラーから消えない。
敵を見誤ったかもしれない――と、ジョン・ドゥは焦る。あれは人機一体の怪物。ジョン・ドゥはレシプロマシンを手足のように操るが、モノライダーにとってレシプロマシンは自分の手足そのものなのだ。
おまけに、ドでかい槍付き。どんだけ際疾いラインを取っても障害物=リニアマシンなんて、あのドでかい槍で弾き飛ばして着実に距離を詰めてくる――このままではチギるどころか追い付かれる。
理不尽な条件のチキンレース/回転数は上がり続ける。
ジョン・ドゥの精神力が、路面で削られるように、ガリガリと減っていく。
「しつこい女は嫌われるって知らねぇのか……ッ!」
集中力の低下は死を招く。そのまえに勝負を決めるべきだ――と、ジョン・ドゥは腹を括る。こんな仕事だから悪事に手を染めてしまったことも一度や二度ではない。
文句があるなら助けてみろ――と、ジョン・ドゥは心の内で叫ぶ。
左手で、ガン・ホルダーからハンドガンを抜き取る。
この体勢から背後は撃てない。小口径ならともかく、このハンドガンでは脱臼する。
片手撃ちではろくな狙いをつけられず、銃身を支えるだけで精一杯だ。
だが、撃つのはモノライダーではない。撃つのは――
「エィメンッ!」
――真横を走るリニアマシン。無辜の市民が乗っている。それを、撃った。
車体を撃ち抜かれたリニアマシンが急停止する。
後続車両も車列を歪に変えながら続々急停止する。
ガンガンガン――と、右に左に乱射する。右に三発、左に三発、全弾撃ち尽くす。玉突き事故を起こしている車両もある。直接狙ったわけではないが、運が悪ければ、跳弾によって撃ち殺してしまった人もいるかもしれない。しかし、これによって――
「これで、どうだ……!」
――リニアマシンの壁が出来上がった。
高速運転していたリニアマシンが急停止したのだ。モノライダーには、リニアマシンが急にバックして、自分目掛けて迫ってくるように見えることだろう。
リニアマシンの津波が、モノライダーに襲い掛かる。
リニアラインを走る物全て呑み込む圧倒的質量の鋼鉄の津波だ。
ブレーキを掛ければ、なにも危険はない。その代わりジョン・ドゥを取り逃がす。自慢の槍も役に立つまい。よしんば道をこじ開けられたとしても、その分時間を食って、やはりジョン・ドゥを取り逃がす。
「――キャハハハハハハ! 掘ってやるよ掘ってやるよ掘ってやるよ!」
――ヴォン!
と、リニアマシンを踏み台にして、モノライダーが上空に現れた。
モノサイクルの機動性の高さを最大限引き出した、サイボーグならではの神業。
地上に道はない、ならば空――合理的解決だが、事前に綿密な打ち合わせを交わす大道芸ならともかく、リニアマシンを踏み台にして跳ぶなど、ぶっつけ本番で出来ることではない、普通は。普通以上でも。生身の人間では無理だ。サイボーグだからこそ出来た。
「やっぱ、そうきたか」
だがしかし、ジョン・ドゥは、それを読んでいた。
モノライダーならそれくらいやってのけると。
レシプロマシンを急停止させ/ハンドガンの弾倉を入れ替えて/両手で構える。
「おまえ、女だろ?」
ヘルメット越しに視線が合った――と、ジョン・ドゥは感じた。ジョン・ドゥはモノライダーを見ている。モノライダーもジョン・ドゥを見ている。お互い、ヘルメットを被っているから顔は見えないが、それでも視線がぶつかったと確信した。
「掘る掘るウルセェんだよ! おとなしく突っ込まれとけ、全弾ッ!」
――ガンッ!
一発目=モノライダーのヘルメットに叩き込む。
――ガンガンガンガンガンッ!
二発目、三発目、四発目、五発目、六発目=モノサイクルに叩き込む。
軍用サイボーグの装甲を破れるとは思っていない。だが、衝撃を与えることはできる。
衝撃が、モノライダーを押し出す――リニアラインの外へ。
モノライダーは、為す術もなく、高架下へ落下していく――
「キャハハ、キャハハハハハハ! 掘ってやるよ、掘ってやるよぉぉぉ――――――!」
最後まで、モノライダーは、ジョン・ドゥを見ていた。
フェイスガードが砕け散ったヘルメットの下には、血走った眼があった。
――そうしてモノライダーは高架下に消えた。さすがに這い上がってくる様子はない。
「あいつ、荷物じゃなくて、おれを狙っていた……?」
ジョン・ドゥは、ハンドガンの弾倉を交換し、ホルダーに戻すしながら、呟いた。
まだ、火の粉を払っただけだ。
事態は何も進展していないし何も分かっていない。それどころか謎が深まった。
モノライダーは、ジョン・ドゥを狙っていた。あの眼=殺意=本物だ。
アタッシュケースを奪取するつもりだったのか、それははわからない。
ジョン・ドゥを轢き殺せば、アタッシュケースも諸共潰れてしまうように思えるが、モノライダーが重火器を使わず、轢き殺すという手段に固執したのは、ジョン・ドゥだけ上手く轢くつもりだったからなのかもしれない。
アタッシュケースを奪取するつもりだった――という可能性は残る。
しかし、それだけが目的なら、あの殺意は無用だ。プールバック・グループの運び屋という理由で狙われたことはあるが、あのようにジョン・ドゥの殺害を最優先とする輩は初めてだった。だからこそ、あの殺意が本物だったとわかる。
アタッシュケースを奪取するつもりだったのか、それはわからないが――あの眼はジョン・ドゥを殺すつもりだったのだ、間違いなく。
「軍に狙われるような過去でもあるのかよ……」
自分の過去について、あれこそ想像を巡らせたことはあるが、ここまでスケールの大きなことは想像したことがない。なにをどうすれば軍に狙われるのか検討も付かない。
情報が必要だった。
サウラなら、なにか知っているかもしれない――と、ジョン・ドゥは思い当たった。
“オレに勝てたら、おまえの記憶を取り戻してやるよ”
「サウラ……おまえは何を知っている?」
ジョン・ドゥは、レシプロマシンを発進させた。
サウラは、サンシャイン・タワーにいるはずだ。
ジャンクションを降りて、一般道へ入る。
ジャンクションの入り口では、ポップアップが交通情報を展開していた。
「大規模な事故の影響で渋滞が発生しています、ご注意下さい/Due to a accident ――」
サンシャイン・タワー周辺は上層の領土=富裕層であることから摩天楼が建ち並んでいる。オフィスビルも多いが、マンションも多い。それ以外はホテルや高級志向の百貨店だが、どれもこれもジョン・ドゥと関わり合いのない風景だ。
関わり合いのない風景だが、ジョン・ドゥが抱くとすれば、嫌悪や憎悪のような感情だろう。どれもこれも下層の弱者から金を巻き上げて作られた理不尽と不平等の象徴のような建物だ。そのなかでも一番反吐が出るのはサンシャイン・タワーだが。
ブゥゥン――と、PDが着信を告げた。通信障害を抜けたらしい。
「――ジョン・ドゥ、おまえ、とうとうやったな」
サウラの嬉しそうな声が、PDから響いた。
ジョン・ドゥは耳をPDに傾けながら、それ以外の四感を周囲に広げた。
いつもと変わらない風景。レシプロマシンの邪魔をするものはない。しかしサウラの嬉しそうな声は、あの暴力至上主義のサウラの嬉しそうな声は――ひどく、不安になる。なにがそんなに嬉しいのか……
「どういうことだ? なにがどうなっている?」
「おまえ、荷物を持ち逃げしたんだって?」
「そういうことになっているのか――」
ジョン・ドゥは辟易した。
ジョン・ドゥを追い詰めるためには効果的な手だ。どうやって情報操作しているのかわからないが、運び屋が荷物を持ち逃げしたとあっては、プールバック・グループの威信に関わる。裏切り者は殺す。サウラは、ジョン・ドゥと戦う大義名分を得たわけだ。
「ふたつ、重要な情報がある」
運び屋=ジョン・ドゥが荷物を持ち逃げした――その話を崩す必要がある。
そのためには客観的な事実を告げることが重要だ。
感情的にならないように注意しながら、ジョン・ドゥは、話を切り出した。
「ひとつ、チャイナタウンで大規模な通信障害が発生した。調べればわかるはずだ。そして、もうひとつ、軍用サイボーグに襲撃された。これもリニアラインの監視カメラに映像が残っているはずだ」
「軍用サイボーグだと?」
「通信障害も生半可な力じゃ無理だ。こっちも軍の仕業だと、おれは思っている」
「裏で軍が糸引いてる――と、言いたいのか?」
「プールバックか、おれか、軍に狙われるような心当たりはあるか?」
「めんどくせぇ……」
サウラのテンションが途端に下がった。
ジョン・ドゥが荷物を持ち逃げしたわけではない――と、納得したからだろう。どんだけおれと戦いたいんだ――と、ジョン・ドゥからすれば複雑な心境だが。
「とりあえず、おまえを殺さないように命令撤回させるよ。それから軍に要注意と」
「助かる」
「それで、肝心の荷物は? 中身は何だった?」
「持っている。中身は知らん。持ち逃げしたって話はどこから出た?」
「上からそういう報告を受けた、出所までは聞いていない」
「クラッキングの可能性は?」
「まさか……と言いたいところだが、軍なら有り得るな、情報戦だ……ったく、どうして軍がジョン・ドゥを……って待てよ、これは、そういうことか?」
――と、サウラは、なにか合点が行ったらしい。
「そうか、そうなんだな? こいつァいい! 好都合だ! 願ったり叶ったりだ! ジョン・ドゥ、やったな! やってくれたな! 始まるぞ! おまえが始めた戦争が始まるぞ! おまえが始めたんだ! クククッ、クハハハハハハハハハハハハ――――ッ!」
今度は一人で勝手に盛り上がっている。
しかも、おまえが始めただと――と、ジョン・ドゥは困惑する。自分の立ち位置がわからない。いままでずっと、だれかの描いた絵に巻き込まれた側の人間のつもりだった。けど、それではまるで、この厄介な事態を引き起こした張本人かの言い草だ。
「サウラ、わかるように話せ。おれには記憶がないんだ」
「あぁ――そうだった。おまえの記憶を奪ったのは軍だと言ったら、どうだ?」
軍、軍、軍。
過去も現在も軍が絡んでいる。
記憶を奪ったのは軍――ということは、借金も嘘なのだろう。これで借金がチャラになったと喜べるほど陽気な性格の持ち主ではない。逆だ。軍と浅からぬ因縁があるなんて最低の出目もいいところだ。
これでモノライダーの殺意も納得できた。なにかしら過去の自分が軍に狙われるようなことをしでかしたのだろう。もっとも、過去の記憶がないのだから、過去の自分なんて赤の他人同然。赤の他人のせいで命を狙われているような最悪の気分だった。
「お――――」
おれはだれなんだ?
おれはなにをした?
そんなようなことを言おうとした、その瞬間。
――ドォォンッ!
路面が揺れる/爆風で煽れる。
斜め後を走っていたリニアマシンが爆発炎上していた。
砲撃された――と、直感。狙いは精密ではない――ということは、敵は遠距離。
アクセルを開く/ギアを上げる/レシプロマシンがケツを蹴られたように加速する。
「サウラァッ! 狙撃されたッ! 止めさせろッ!」
PDに向かって怒鳴る。
遠距離砲撃なんて大雑把な攻撃は軍らしくない――と、ジョン・ドゥは思う。思うだけで知らないが。それに周囲の被害を気にも留めないなんて、いかにもプールバック・グループのバトル・サイボーグらしいやり口だ。
サウラの話が行っていない連中か――と、ジョン・ドゥは疑ったが、
「ジョン・ドゥ! 軍だ! まだこっちは一人も出撃してねぇッ!」
「――エィメンッ!」
吐き捨てる。
後方からドォン、ドォン――という音が追ってくる。振り返れば、きっとスクラップと化したリニアマシンがゴロゴロと転がっていることだろう。そこらの高層建築にも流れ弾がいっているに違いない。
軍のやり方がわからない。こんな非効率なやり方で、なにをしようというのか。
プールバック・グループが“周囲の被害を気にも留めない”のには恐怖を与えるという意味がある。プールバック・グループは血も涙もない暴力集団だぞ――と、知らしめる意味がある。だがしかし、軍は……
まさか本当に気に留めていないのか――と、ジョン・ドゥは戦慄する。この街がどうなろうとも、なによりジョン・ドゥを仕留めることが優先されるのか――いや、そんなことは有り得ない。非合理的だ。なにか、なにかあるはずだ。
「サウラ、ジェーン・ドゥはどうしたッ!」
「確保済みだ。お姫様、見捨てられたと思い込んで泣いていたぜ」
「馬鹿なこと――――」
――ドォン!
砲撃が台詞を遮る。余計なことを喋っている余裕はない。
「サンシャイン・タワーにいるぜ、お姫様も。こっちに連れてこい、そいつ」
「言われなくたって――――――ッ!」
PDを切る。いまは逃げ切ることに集中するべきだ。
結局、肝心の話は聞き出せなかった――それも全部後回しだ。
ドォンドォン――という音が近付いてくる。巨人の足音のように。