猫のいる生活
〈猫招亭〉
街の片隅にある、戦前から建つ古い長屋の一画を借りる古物商店だ。
扱っているのはアンティークなんて洒落たモノではなくガラクタ。見たこともないガラクタが所狭しと押し込まれ、風もないのに埃が舞っている。
所々隙間を埋めるように、キャンパスの裏から紐で吊るされているだけの絵が飾られている。稀に間違える客がいるが売り物ではない、飾り物だ。
どれも風景画だ。特定の場所を描いていないが、共通点がある。
少女だ。どの絵も一人の少女が主役に描かれている。分類するなら「印象派」の絵だろう。暗い風景でも、少女を中心に明るく描かれている。
十五、六歳だろうか。細く、しなやかな肢体。撥ねっ返りの強い髪。大きな瞳。あどけない表情。どの絵も違う服装で、落ち着きがない。
それよりなにより目を引くのは、彼女には『猫耳』と『尻尾』があるということ。
少女の名は神楽。〈猫招亭〉の店名の由来は彼女だ。
神楽の正体は『猫又』だ。
噛み砕いて言うと『長い年月を経てパワーアップした猫』。語弊はあるが、とりあえずこれでいい。
神楽は今でこそ看板娘だが、かつては〈猫招亭〉の看板猫だった。
人に化けるようになったのは最近。先代が急逝して、町蔵切郎が二十六歳の若さで〈猫招亭〉主人の座に就いてからのことだ。神楽の正体を知る者は、町蔵切郎を含めて数名のみ。
神楽は写真に写らない。理外の存在たる『猫又』は写真に写らない――写れない。
だから絵に頼る。
〈猫招亭〉に飾られている絵は、神楽の存在の証だ。
神楽は今日も生きている。
台風一過、青空澄み渡る夏のある日。
「切ちゃーんっ、お祭り行こうお祭りっ!」
〈猫招亭〉に神楽の元気いっぱい!≠ネ声が響いた。
僕――町蔵切郎――は箒で商品に積もった埃を叩く作業を中断して、置時計に目をやった。
午後二時過ぎ。
……早過ぎですよ。
小さく溜め息を吐いた。
今日は〈夏祭り〉。
川沿いの河川敷には出店が並び、午後九時からは名物『創作打ち上げ花火百八連発!』が夜空を彩る。テーマは『煩悩昇華』。
大勢の観光客が押し寄せる、静かな田舎町が最も騒がしくなる日だ。
「まだ早いですよ神楽?」
「善は急げっ!」
「六時に行くと言っ――」
言葉は途中で遮られた。神楽の五指からナイフに似た爪が伸びている。今にも掴み掛かりそうな――
神楽は本気で爪を立てる。感情のままに生きている。彼女は猫≠ネのだ。
「――たけど、まぁ、早めに行くのもいいですね」
「やった!」
「それじゃあ今日はもう店を閉めますから。シャッターを降ろすの、お願い出来ますか?」
「うんっ!」
大きく頷くと神楽はシャッターの方へ走って行った。狭い店内をすり抜けて、猫そのままに。後ろ姿に『尻尾』が揺れている。
〈猫招亭〉に明確な営業時間はない。従業員は僕一人。『雨が降ったらお休み』ではないけど、気ままにやっている。前々から楽しみにしていた祭りだ、店を休むもいいだろう。
僕が出掛けるのに準備することは少ない。店名の刺繍された前掛けを脱いで、財布を持つだけ。
神楽は違う。
神楽は己を精一杯着飾る。<猫招亭>は古着も扱っているから、衣装には困らない。今日は何を選ぶのか――やはり浴衣かな?見るまでは分からない。玄関に腰を下ろして、靴を履いて、いつでも出られる状態で、待つ。
神楽は僕に着替えるところを見られたくない。恥ずかしいからではない(風呂上がりは平気で裸で歩き回ったりしている)、神楽にとって着替えるのは、ちょっとした変身だ。着替えると自分の姿が変わる、その当然が神楽にとって楽しくて仕方がないらしい。だから変身の途中を見られるのは「つまらない」そうだ。
女の子らしいこだわり。それを邪魔するつもりはない。
背後から「切ちゃーんっ、用意出来たよーっ!」と声だけが大きく、足音は静かに聞こえた。猫だけあって体重の運びが上手く、神楽は無駄な足音を立てない。
ぱん、と膝を叩きながら立ち上がる。埃っぽい所で仕事する故の商売癖だ。
玄関の鍵をポケットから取り出しながら、神楽の方を振り返る。
「それじゃあ、行きま――」
言葉を最後まで続けることが出来なかった。唖然として。神楽の姿を視界に納めた時、僕の口は『唖』の形で固まった。
神楽はフンドシを締めていた。
フンドシだ。どこからどう見てもフンドシだ。
生身の脚に白い布を腰で回して股間で締めて――結び目は尻側だろう――それはフンドシだった。上には法被を羽織って、胸元からさらしが覗いている。
正装、ではある。例えば、この格好をしていない者は練り≠ノ参加出来ない。しかしそれは男の話だ。(実年齢はともかく)少女≠フ神楽には相応しくない。
相応しくないけど……似合っていた。尻尾があるからだろうか。ゆらゆらと揺れる『尻尾』と相まって、自由奔放で楽しげな、猫らしい雰囲気だ。
しかし……あぁ、弱ったなぁ。こんな格好、人に見せたくないなぁ……
「あのー、神楽さん?」
「ねぇ、切ちゃん、似合う?」
にこにこと神楽は笑う。
「ねぇ、どう、切ちゃん?」
「神楽さん……?」
「うん?」
にこにこと、神楽。
なんと言うべきか。神楽に迷いを悟られないよう、逡巡は一瞬。決断する。
「よく似合ってますよ」
町蔵切郎は愛猫の笑顔と引き換えに、今日も誤解と偏見の只中に立つ覚悟を決めた。
「よォ若旦那、今日もイイ趣味してンなァ!」
「神楽ちゃん、かわいい格好ねぇ?町蔵さんに着せてもらったの?」
「ママぁ、あれ――」「駄目!指差しちゃ駄目!目を合わせるのも駄目よ!?」
「まったく、最近の若い者は……」
「さすがだ町蔵切郎、一般人に出来ないこと平気でやってのける……そこにシビれる!憧れるゥ!」
神楽に袖を引っ張られながら〈商店街〉を歩く。勿論、神楽はフンドシのまま。
フンドシに締められた丸いお尻を振りながら、右へ左へ。身体の動きに合わせて『尻尾』が揺れて、興味に反応して『猫耳』がヒクヒク動く。
〈夏祭り〉にはまだ早い。すぐ行っても花火の打ち上げまで時間を持て余すだろう。それまで〈商店街〉で暇を潰す運びになったのだが――
すれ違う人々の生暖かい声は僕の心に諦観をもたらした。あるいは開放感を。自然に口が笑みの形になった――自嘲。
この街にはとある噂がある。曰く、
『町蔵切郎は幼な子にコスプレさせているロリコンだ』
神楽の格好はコスプレだと思われている。『猫耳』と『尻尾』も良く出来たオモチャだ。それはいい。
問題は僕がロリコンで、神楽にコスプレさせているという誤解だ。
しかし、もう誤解はもう覆せそうにない。どんなに努力、奔走しても、返ってくるのは生暖かい理解。「オマエさんの趣味は理解している。私達は干渉しないよ。でも、法に触れない程度にしときな?」が共通見解。
彼等の説得を諦めるのは、一つの解放には違いなかった――開き直り≠ニも言えるけど、それは考えない。考えないようにしている。
考えると、なぜか泣きそうになるから。
「お、切郎じゃん。元気ィ?」
知っている声が聞こえた。前方から。僕と声との間には人垣があったけど、僕も声の主も比較的長身だから早い段階で互いの姿を確認出来た。
真っ赤な髪の、若い女。Tシャツにジーパンというラフな出で立ちで、煙草をくわえている。相良千寿子。僕の大学時代からの友人で、今はフリーター。
神楽の正体を知る数少ない人物の一人だ。
神楽の手を引いて、相良さんの方へ。相良さんも僕等の方へ。通行人を避けて、道の脇に集まる。
「どうも、相良さん。相良さんも祭り?」
「や、アタシは違うよ。これからバイト。祭りは稼ぎ時ってね。――あれ、神楽ちゃん、今日は……フンドシ?」
「うんっ!どう?」
「……かあいいよ、とっても」
「やった!ありがとう千寿子さんっ!」
「どういたしまして、と――」
僕と相良さんの視線が交差した。偶然ではなく、意識的に。
フンドシを止めることは出来なかったの?
……出来ませんでした
……情けないねぇ
うぅ、すいません……
アイコンタクトによる意思疎通で、そんなやり取りが一瞬で交わされた。相良さんの顔に気疲れの色が浮かんだのは気のせいか。
「……なんだか意外と噂が真実を言い当てている気がしてきたよ」
「アハハハハ――、まさか」
乾いた笑いで誤魔化すのが精一杯だった。
しばらく他愛のないことを話し込んで。相良さんは携帯電話に表示されている時刻を確認すると、「それじゃあ、あたしはそろそろ行くよ」と話を終った。
僕も時計を見る。アンティークの腕時計は規則正しくチクタクと鳴っている。時計の針は五時半を指していた。
「来年はアタシも誘ってよ?」
苦笑する。いつもは誘う側≠フ人なのに。「誘ってよ?」とは珍しい。
「覚えときます」
「忘れないでよ?――じゃあね。神楽ちゃんも、バイバイ」
「バイバーイ、千寿子さんっ!」
「行ってらっしゃーい」
神楽は手を大きく掲げて、手を振った。釣られて僕も手を振る。小さく、胸の前で手を振った。
「じゃあ、またねー」
神楽さんも僕と同じように小さく手を振ると、颯爽と去っていった。赤い髪は人混みに紛れても目立ったが、それもやがて見えなくなった。
「さて、と――僕達も行きますか?」
「うん、行こっ!」
神楽の顔に満面の笑みが浮かんだ。瞳もキラキラと嬉しい!楽しみ!≠アピール。実に分かり易い。
――そろそろ屋台も出揃って、いい頃合いだろう。
僕達は〈商店街〉を抜けて、河川敷に出る道を歩き出した。
陽は傾き、空は仄かに暗くなっていた。夕焼け空は紫掛かっている。
しかし〈夏祭り〉を演出する提灯風の装飾が成された電灯が暗がりを照らしているお陰で、神楽のフンドシ姿が闇に隠れることはなかった。どころか増す増す注目を集めている。
血色が良いからだろうか――神楽の脚や尻は艶やかな陰影を作って、白い布地も映えて、妙な色気を醸し出している。
もっとも神楽自身は色気とは程遠く食い意地張って、綿飴と焼きイカを両手にご満悦だ。ちなみに化けた後の『猫又』の身体は人体に準じているのか、イカやネギを食っても平気らしい。
「美味しいですか?」
「んむっ、おいひいよー」
モフモフと口一杯に頬張ってるせいで発音が不明瞭だ。
モグモグ、モグモグ――ごっくん。
「ねぇねぇ、あれ、金魚は食べちゃ駄目?」
神楽が顎で指した方向には(両手は食い物で塞がっている)『金魚すくい』があった。
「さすがに、それは駄目ですねぇ」
「躍り食いとか面白いよー?ピチピチーって」
「……絶対にやめて下さいね?」
猫の頃に味を覚えたのか、神楽はゲテモノ食いを好む。どんな食生活を送っていたのかは怖くて聞けない(芋虫を生で食っていたこともあった)。
不満そうに神楽は頬を膨らませて「むぅー」と唸った。けど、駄目だと言われることを予測していたのだろう、あっさりと引き下がった――学習≠オているのだ。
「あ、切ちゃん切ちゃんっ――」
また新しく興味の対象を見つけたようだ。不満そうな色は一掃され、再び表情が輝き出す。慌てながら残りの綿飴と焼きイカを口に詰め込むと、空いた手で僕の手を引っ張って――
祭りの中、猫は踊っていた。
あれから、しばらく。
帰り道を歩く。ゆっくりと、ゆっくりと。
ドン――!ドドド、ドン、ドン――!
腹に響く重音が連なって、花火が打ち上げられている。
いつもなら。神楽が横ではしゃいでいるのだろう。でも今神楽は眠っている。僕の背中で。花火の音にも目を覚まさないくらいぐっすりと。
すぅすぅと穏やかな寝息が聞こえる。熟睡だ。しょうがない、〈夏祭り〉を遊び尽くしたんだから――花火以外。疲れ果てて当然だ。
……ペース配分を教えないといけないなぁ。
僕は起きた時の神楽の反応を想像して、どう対処しようか困った。
そうだ、こう言えばいい――
また来年も行こう。
〈猫招亭〉に帰ると神楽を布団に寝かせ、僕は二階のアトリエに上がった。アトリエと言っても大したものではない、絵を描く際に汚してもいい≠ニいうだけの小さな部屋だ。
イーゼルにキャンパスを立て掛けると画材道具一式を木棚から引っ張り出し、今日の絵を描き始める。
記憶を頼りに筆を刻む。今日の思い出を強く、詳細に思い返す。鮮明なイメージを構築する。
なんで絵を描くのか。写真に写らなくてもいいじゃないか。生活で困ることはない。たまに不審がられるけど、問題ない。だけど――
寂しい。
振り返るものがないのは寂しいことだ。過去を想うから明日を夢見る。写真だけが過去の記録ではない。文章という手段もある。でも、それじゃあ駄目なんだ。
一番最初に絵を描いた時。神楽は、それはそれは嬉しそうに笑った。初めて見る己の姿に。『猫又』は写真に写らない。賢明な人なら分かるだろう、写真に写らないなら、鏡にも水溜まりにも写らない筈で実にその通りなのだ。つまり、己の姿を見られないということ。
神楽が己の姿を振り返るには、絵を描くしかない。絵があるから、神楽は着替えることを楽しめる。過去の服装を思い出して、今日着る服を考えることが出来る。それは生活を楽しむ上ではとても重要なこと。幸い、僕には絵を描くことが出来る。だったら、描こう。
絵がなくても過去はある。でも、この絵があれば過去をより鮮明に思い出せる。だから、描く。
〈猫招亭〉に飾られている絵は、神楽の存在の証だ。
この絵が今日の神楽。この絵を見て思い出すだろう――
今日はこんな一日だった≠ニ。