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狗神六郎の孤独な闘い



          0



 狗神六郎の話をしよう。



          1



 孤独な空間だった。
 なにもない。一切合切なにもない。
 無限に広がる宇宙的空間。星の輝きもなければ漆黒のみ。
 蝋燭などを点しても暗闇が塗り潰すだろう。
 一人の少年が漂っていた。
 上下左右の概念さえ失われた空間で、穏やかに眠るように。
 押し潰されそうな孤独感を抱かないはずないのに、少年は虚空に身を任せている。
 十代後半だろうに表情から甘さが見て取れないのは、余分な脂肪が付いていないからだろう。
 ナイフで削りだしたような顔立ち。痩せているのではない。絞り込まれた筋肉質なのだ。
 黒いタンクトップ、黒いズボン、黒い靴。ベルトのバックルのみ銀色。
 ドレッドヘアーを後ろで結っている。
 その重たそうな髪が揺れた。

          †

 風が吹いた。

          †

 少年が眼を見開いた。
 彼の正面から風は吹いている。
 超常的な視覚を有していれば、空間の歪んでいるのが見えるだろう。
 ここではないどこか別の空間と繋がろうとしている。
 気圧差が風を起こすように、空間のズレが風を起こしているのだ。
 そして風が止むと同時、異形の怪物が産み落とされた。
 無から有へ出現は突然だった。
 肉塊と呼ぶほかない形状。ありとあらゆる動物の内蔵を捏ね回して血と反吐をぶっかけてやれば、似たようなものが作れるかも知れない。軽自動車ほどの大きさの、醜悪な肉塊だった。
 その体のどこに発声器官があるのか、
「グルルル……」
 怪物が唸りを上げた。
 獲物を前にした肉食獣の唸り。
 当然、この場に獲物たりえる者は一人しかない。
 少年の足元が爆ぜた。
 否、少年が虚空を蹴ったのだ。
 この空間での移動を心得ているらしかった。
 足場のない空間を猛然と駆け抜ける。最短距離で怪物に迫る。
 それにしても、こんな暗闇で、どうやって怪物の位置を捉らえているのか。
 怪物の体が震えたかと思えば、その体内から肉槍が射出された。
 まるでカメレオンの舌。高速で射ち出される肉槍は、岩盤をも穿つ威力を秘めている。
 しかし怪物の肉槍が貫いたのは虚空だった。
 少年が頼っているのは視覚ではない。彼の爛々とした瞳には漆黒しか映っていない。
 彼が怪物の存在を感じているのは五感以外の、殺気とでも言うべきものを察知する第六感。
 少年の肌を逆撫でする攻撃的な気が、却って怪物の位置と行動を教えているのだ。
 怪物が次の攻撃を繰り出すより早く、少年の拳が間合いに突入した。
 ぎりり。
 握り締められた拳が硬質化した。
 比喩ではない。肘の先まで、肌が黒光りする攻殻に変容している。
「グギャオオオオオオオ――!」
 怪物の悲鳴。
 その身を抉る攻殻。
 異形の拳は、打撃以上の威力を発揮した。
 怪物の体が塵と化したのだ。拳の衝撃が伝わった箇所が微粒子へと分解される。
 巨大なクレーターは、欠けた月のように怪物の体積の三分の一以上を喪失せしめた。
 だのに怪物は恐るべきタフネスを発揮して、潰れた体を引きずって、さらなる唸りを上げた。
「グルオオオ……ッ!」
 しかし少年は怯えず、平然と二発目を振り下ろした。

          †

 少年には記憶がなかった。
 ここに至るすべての記憶が失われていた。
 自分が何者か、この空間の正体は、どうして自分はこんなところにいるのか。
 なにも覚えていない。いつの間にかここにいた。
 だが彼はパニックに陥らなかった。
『闘え』
 不思議な囁きが聞こえるのだ。
 その囁きは怪物と対面した時、強烈な叫びと化す。
『闘え、闘え、闘え!』
 異形の怪物は次々と現れた。
 その時々で怪物の姿は異なる。巨大な食人花、鉄屑の集合体、キメラ、肉塊、等々。
 謎の囁き、異形の拳、怪物の正体、分からないことだらけ。けれども少年は闘い続けた。
 総じて怪物は凶暴、攻撃的だった。自分の身を守るためにも少年は闘い続けた。
 闘い終えた少年は、再び瞼を閉じる。
 そうして怪物を待つのだ。
 少年は眠りを必要としなかった。
 瞼を閉じながらも、少年の意識は覚醒していた。
 睡眠ではなく瞑想状態である。
 己の正体を考える。
 そして辿り着いた結論は、
(――俺は死んでいる)
 睡眠や食事、排便といった生命活動を行っていないこと。
 呼吸さえ必要ない。その気になれば何分、何時間だって息を止められる。
 こうして胸が上下しているのはフリだけ。
 心臓の鼓動も聞こえない。
 血も流れない。
(――俺は幽霊なんだ)
 だが己の死を悟っても、少年のなにか変わることはなかった。
 成仏したり記憶が戻ったりすることはない。なにも変わらない。
 相変わらず闘って、待って、闘って、待って、ルーチンワークの繰り返し。
 変化が訪れたのは、なんの前触れもなくだった。

          †

 風が吹いた。

          †

 怪物が産まれようとしている。
 空間が歪む。異なる次元から異形の怪物が召喚される。
 空間の断裂から吹く風は異形の産声だ。
 風が止んだ。
 暗闇の向こうから怪物の気配を感じる。
 だが……いつもと気の質が違った。
 鏡に映った自分を眺めているような、しかも鏡像はニヤニヤと嘲りを浮かべているような、不安と苛立ちのない交ぜになった生理的嫌悪感を覚える。
「手前、何者だ」
 いつもは問答無用なのに、つい、声を上げてしまった。
「俺かい?」
 返事があった。
「俺は手前で、手前は俺だよ」
「なに?」
 言葉の内容、声、発音、喋り方。
 少年の意識はそっちに持って行かれてしまった。
 相手の言葉だけに集中して、相手の位置、殺気、危険を察知できない。
 ゆっくりと声は近付いている。すぐそばまで。
「俺は狗神六郎。手前も狗神六郎。二人とも狗神六郎。けどなァ、ひとつだけ――」
 明らかに声音が変わった。
 ――敵意である。
 正気を取り戻した少年は、ハッと身構える。呑まれていた。後悔。
「手前は魂の残りカスだァ――ッ」
 打撃。
 突きか蹴りか、なにを喰らったのか分からない。
 とにかく強烈な打撃だった。勘だけでガード。吹っ飛ぶ。
 衝撃はガード越しに伝わって、ないはずの心臓が止まる。息が詰まる。
 己を叱咤、気のせいだ、痛いのも苦しいのも気のせいだ――
「ククク、咄嗟にガードしやがったか」
 敵の嘲弄。
「チャンスをくれてやる」
「……ッ」
「見逃してやる。俺の邪魔すんじゃねえ、永遠にここにいろ、そしたら見逃してやるよ」
 そう言って、敵は少年から遠ざかっていく。
 見下されている。
 怒り。
「待ち、やがれ……ッ」
「待たねえよ。クク、クカカ、クカカカカカカカ!」
 高嗤い。
 そして風が吹き始めた。
 風の吹く一点から光が漏れだした。
 闇を照らす光。それは光あるところに空間が繋がっている証拠だ。
「サヨナラだ、もう一人の俺!」
 その光に飲みこまれる直前、敵の姿が見えた。
 黒いタンクトップ、黒いズボン、黒い靴。ベルトのバックルのみ銀色。
 ドレッドヘアーを後ろで結っている。
 ――少年と瓜二つの姿。
 もう一人の自分は、光の中に消えた。
「……上等だぜ」
 これからどうするべきか、考えるまでもない。
 囁きが聞こえる。言われるまでもない。
「喧嘩、上等ォ……!」
 彼の足取りは、迷いなく、まっすぐ。
 もう一人の自分を追って。
 少年は光の中へ。

          †

 少年の名は狗神六郎。
 その名を忘れるな。
 君は忘れるな。



          2



 空の上だった。
 そこが辿り着いた場所。
 狗神六郎は宙に浮いていた。
「学校か」
 足元の光景を見て、六郎は呟いた。
 足元には校庭が広がっていて、学生がちらほら見えた。
 学ランにセーラー服、ジャージ、体操服。そしてスーツを着た教師。
 振り返れば、背後には校舎がそびえ立っている。六郎は大時計の真上に浮いていた。
 時計の針は四時四十四分。ちょうど放課後の時間帯だ。
 向こう側への門は、いつの間にか消えていた。戻りたくても戻れない。
 戻るつもりはさらさらないが。少なくとも、もう一人の自分を見つけるまで。
 その肝心の探しものはといえば……
 全然、見当たらない。気配もない。ここにはいない。ここではないどこか。
 となると、お手上げだった。どこをどう探せばいいのか。
 六郎が立ち往生していると、
「あれ」
 女の声。
「きみ、死にたて?」
 校舎の屋上に、少女がいた。
 セーラー服を着ている。他の生徒が着ているものとはデザインが異なる。
 冬服のようだ。
 少女以外の生徒は夏服だった。
 夏服は白地のセーラー服、冬服は黒地のセーラー服。
 屋上に風が吹いても、彼女の腰まで届くストレートヘアーは揺れなかった。
 六郎のドレッドヘアーも、また風に揺れなかった。
 現世の風に揺れないのは霊体の証左だ。
「なんだ」
 六郎は理解した。
「手前も幽霊か」
「そうよ、死んだのは随分と前だけどね。きみは? 見ない顔だけど、死にたて?」
「さあな、記憶がないんだ」
 六郎は正直に言った。
 もう一人の自分を探す手がかりを得られれば。
 そんな打算的な考えがなくとも、嘘をつきたくないという気持ちがあった。
 どうやら自分はそういう性格らしい。
 新しい発見だった。
「自分の名前も覚えちゃいない。奴のことを信じるなら、俺の名前は狗神六郎らしいけどな」
 しかし六郎には、その名を聞いても、自分が狗神六郎だという実感がなかった。
 他人の名前を聞いている気分だ。
 本当に自分の名前だろうか。
 それを聞いて、少女は興味を示した。
 屋上を囲う金網に指を乗せて――実体がないから、フリだけだが――
「なに、ワケアリ?」
 好奇心を隠そうともせず、瞳を輝かせている。
「とりあえず、こっちおいでよ。そんなところにいないでさ」
 言われて、六郎は、再び足元を見下ろした。
 落ちる心配はないとはいえ、落ち着いて話すには向いていない場所だ。
「オッケイ」
 了解。
 空中を歩いて、屋上に降り立つ。
 六郎が歩み寄ってくれて、少女は嬉しそうに笑った。
「それじゃあ、下に行こう。――あ、その前に」
 大事なことを言い忘れていた。
「挨拶が遅れたね――私の名前は白雪姫乃。よろしくね!」

          †

 白雪姫乃が案内したのは、使われていない教室だった。
 少子化の影響で生徒数が減少して以来、一部の教室は不要として封鎖された。
 施錠されている戸をすり抜けて侵入する。
「適当に座って」
 言われた通り、狗神六郎は、手近にあった机の上に座った。
 机の上には埃が積もっていた。
「それで」
 姫乃も適当な机の上に座って、
「記憶がないんだって?」
「ああ、ない」
「名前は? 狗神六郎って? 奴のことを信じるなら、とか言ってたけど……」
「……ややこしい話になる」

          †

 そして狗神六郎は全てを話した。
 異空間。異形の怪物。もう一人の自分。
 ただ一つだけ、不思議な囁きのことだけは黙っていた。
 嫌な想像になるが、あの囁きは、記憶喪失による混乱を避けるため無意識的に創造してしまった妄想の可能性もある。そんな不確かなことを話すのは気が引けた。
 話しながら、六郎は、自分の話に耳を傾ける少女を観察していた。
 白雪姫乃。
 彼女は六郎より、頭ひとつぶん背が低かった。
 華奢な体だ。
 未成熟というより不健康。例えば病弱な文学少女。
 しかし死んだのは随分と前と言った。見た目通りの少女だと思わない方がいいかも知れない。
「うーん……」
 六郎の話を聞き終えた姫乃は、小さく唸ると、
「……さっぱり分からない」
「そうか」
「一番有り得るのは嘘の可能性だけど」
 少女は六郎の瞳を覗き込んだ。
「きみが嘘をついていないことくらい、見れば分かるよ」
「大した自信だな」
「死んでから長いですから」
 そう言って、姫乃は自嘲気味に笑った。

          †

「しょうがない、あいつに相談しよっか――」
 白雪姫乃が腰を上げた、その時だ。
「――チッ」
「え?」
 突然、不機嫌そうな舌打ち。
 狗神六郎が立ち上がっていた。
 壁を睨んでいる。いや、壁の向こう、まだ見えないなにかを。
「オイ、姫乃、こっから逃げろ」
「なに、なにを言って――」
 姫乃には分からない。
 だが六郎は感じていた。
 空間の歪む気配を。

          †

 風が吹いた。

          †

 狗神六郎のドレッドヘアーが揺れる。白雪姫乃のストレートヘアーがたなびく。
 霊体に干渉する、それは、この世ならざる風。
「来るぞ!」
「ギュオオオオオオオオオオオオオオオオ」
 六郎の警告と咆哮は同時。
 壁をすり抜けて異形の怪物は現れた。
 高速で回転しながら突き進む、それは巨大な弾丸。
 故意か偶然か、怪物の進路上に姫乃はいた。
 姫乃は動揺して動けない。当たる。
 姫乃と回転する怪物の間に、六郎が飛び込んだ。
「――ゥオラア!」
 横から叩きつけるフックの軌道で硬質化した拳を放つ。
 衝撃で怪物の暴走は進路をずらされた。
「ギュオオオアアアアッ!」
 姫乃の髪を掠めて、怪物は、廊下側の壁をすり抜けて、中庭へと飛び去った。
 間髪置かず怪物を追おうとする六郎を、姫乃の声が制止する。
「待って!」
 信じられないものを見た。彼女の表情は、驚愕を物語っていた。
「まさか、あれと闘っていたの? 悪鬼と?」
「悪鬼がなんだか知らないが、そうだ、ずっと闘っていた」
 肯定。
 そして少女に背を向けて、闘いに赴く。
「そうだ、ずっと闘っていたんだ……俺にあるのは闘いの記憶だけだ……」

          †

 壁を抜ける。
 廊下。
 まだ居残っている生徒に混じって――
 雰囲気の異なる者。
 制服以外の服を着ている者。
 白雪姫乃のように冬服を着ている者。
 廊下は死者と生者で一杯だった。
 死者は一様に取り乱している。
 生者は気付いていない。
「悪鬼だ! 悪鬼が出たぞ!」
「学校に出るなんて!」
「きゃあああ!」
「信助先生に連絡するんだ!」
 信助。
 知らない名前。
 だが、その名前を追及するより、
『闘え』
 そうだ、今は闘いに集中しよう。
 廊下もすり抜けて中庭に踊り出る。
 中庭には花壇があるだけで誰もいない。
 周囲を索敵――気配は斜め上から。
 ブーメランのように大きく弧を描いて飛来する影。
 徐々に大きくなるシルエットは、よく見ると不自然に歪んでいる。
 拳の命中した箇所が消失しているのだ。
 が、ダメージにも係わらず弾丸は依然、高速を保っている。
「……遅ェ」
 吐き捨てるように呟く。
 左の拳を握り締め、右の拳でリズムを取る。
 硬質化した拳は用意万端。
 撃ち落とすつもりだ。
 怪物が迫る。迫る。迫る。
「――少年、どいてろ!」
 男の声。
 自身が姫乃を庇った場面の再現。
 狗神六郎と怪物の間に、一人の男が割り込む。
 背の高い男だった。
 自分の身長を六郎は知らないが、六郎よりは背が高い。
 灰色のロングコートを着ている。
 後ろ姿だから顔は見えない。
 怪物を受け止めるように両腕を広げて、
「縛ッ!」
 男の指先から十条の鋼線が伸びて、怪物を縛り上げた。
 怪物の動きが止まる。
 男がトドメを刺そうとする、それより早く、六郎が跳んでいた。
 虚空を蹴って、男を飛び越え、
「心配無用だ、オッサン」
 六郎は真下の怪物に拳を振り下ろした。
 硬質化した拳は怪物を塵芥に帰した。
 空中に留まる二人――睨み合う。
 男は若くなかった。かと言って老いてるとも言い難い。
 三十代から四十代だろうか。五十代かも知れない。
 痩せているから分かりにくい。
 そもそも享年を知ってどうするというのだ。
 灰色のロングコートの下に着ているのは灰色のスーツ。
 六郎は、ロングコートが元は白かったことに気が付いた。年期の入ったロングコート。
 髪は七三に分けている。目立たないヘアスタイル。
 地味な格好だった。
 地味な男――ではない。
 鋭い眼光――六郎自身も知らない、六郎の正体を探ろうとする視線。
「オッサンじゃねえ、斬魔信助ってんだ」
「そうかい、俺は――」
 言い淀む。
 だけど名乗る名を、ほかに持ち合わせていない。
「俺は――狗神六郎だ」



          3



 萌内学園。
 それが校舎に冠せられた名だった。
 校舎内の閉鎖された教室は、幽霊たちによって使用されていた。
 擬似的な学級コミュニティ――斬魔信助は、その教師役を務めていた。
「静かに」
 狗神六郎と白雪姫乃は、彼を廊下で待っていた。
 教室から、信助と、騒がしい生徒たちの声が聞こえる。
 無論、生者には聞こえない、たまに廊下を通り過ぎる彼らには聞こえない死者の声。
「静かにしろ。質問のある奴は手を上げてから」
「せんせーい、あのドレッドヘアー、何者なんですか?」
「俺も知らん。今から話を聞いてくる、それまで待っていろ」
「あの悪鬼は?」
「きっちり倒したから安心しろ」
「ドレッドヘアーと先生、どっちが強い?」
「当然、俺だ」
「アノヤロウ」
 会話を聞いていた当のドレッドヘアー、六郎は、不機嫌そうに顔をしかめた。
「俺の方が強い」
「まあまあ、先生なんだから勘弁してやって。先生が生徒に弱いところ見せられないでしょ?」
 姫乃が窘めても、
「フン」
 納得の行かない様子だ。
「大体どうしてオママゴトの必要がある? 死んだら学校もクソもねえだろ?」
「ひどい言い方だね」
 苦笑。
 オママゴトであるのは、彼女も承知しているから。
「それでも学校が懐かしいの。未練ってやつ。幽霊なんてみんな未練ったらしいんだから」
「未練か」
 六郎は、自分の場合を考えた。
「俺には未練がない。生前の記憶がないんだ」
「そう、だから不思議なんだ」
「不思議?」
「そう、不思議。だって幽霊が現世に留まれるのは未練の力によるところだよ? 記憶がないなんて――有り得ない。本当になにも覚えていない?」
「……覚えていない」
 わずかに六郎が逡巡したのは、囁きのことを言い出すべきか迷ったからだ。
 六郎を闘いへと衝き動かす不思議な囁き。
「ふーん」
 曖昧に頷く。
 六郎の口ぶりから隠し事があると察した。
 だけど問い質さないのは、聞いても無駄だと分かっているからだ。
 自ら言い出すのを待つしかない。六郎の問題なんだから。
 自分は好奇心から首を突っ込んでいるだけだ。
「待たせたな」
 その時、信助が教室から出てきた。幽霊らしく壁をすり抜けて。
「おそーい」
「スマンな。――それじゃあ、行くぞ。事情聴取だ」
 その探るような瞳で六郎を睨む。
 六郎も負けじと睨み返す。
 二人の相性は……なぜか……悪かった。

          †

 カーテンの隙間から夕陽が差し込む。
 仄暗い教室に三人。
 狗神六郎と白雪姫乃は机の上に座って、斬魔信助は黒板に背を預けている。
「事情聴取ってよ」
 六郎が口を開いた。
「先生ってより、警察みたいな物言いだな」
「惜しい」
「ン?」
「警察じゃない――探偵だ」
「それも霊能探偵!」
「余計なこと言うんじゃない。胡散臭いから嫌いなんだ、霊能探偵って言い方は」
「それは胡散臭いな。壷とか買わされそうだ」
「売らねえよ」
 険のある口調と、射るような視線。
「俺のことはいい。お前だ。お前は何者だ? 答えてもらうぜ?」
「嫌だと言ったら?」
 挑発。
 ゆらり、信助の体が、黒板から離れた。
 ――一触即発。
「力ずくだ」
「おもしれえ、やってみろ」
「――二人とも、止めなさい!」
 姫乃が怒鳴った。
「馬鹿? 二人とも馬鹿? 犬猿の仲でも気取るつもり? 仲良くしろとは言わないけど、ねえ、馬鹿みたいにいがみ合うのはやめてくれないかなあ……?」
 姫乃は笑っている。
 満面の笑みを浮かべている。
 だけど心で怒っているのは誰の目にも明らかだ。
「す、すまん」
「すまねえ」
 二人とも、その勢いに呑まれてしまった。
 緊張感は霧散している。
 気まずい雰囲気。
「コホン」
 と信助が咳ばらい。
 幽霊だから呼吸しないのに。
 だけど誰もツッコミを入れない。
「話を戻そう」
 今度は六郎も、素直な態度を取った。

          †

 狗神六郎は自分の知っている限りのことを話した。
 白雪姫乃に話したのと同様の内容だ。
 そして話し終えると、
「――で、狗神六郎という名前に心当たりはないか? 悪鬼とはなんなんだ?」
「悪鬼とは」
 斬魔信助が答える。
「悪霊や怨霊とも呼ばれる存在だ。便宜上、悪鬼で統一している」
「ふむ?」
「幽霊と異なるのは、悪鬼は妬み、恨み、嫉み、他者に仇なすために現世に留まっている点だ。幽霊は未練を果たすために生前の姿を形作る。悪鬼は怨みを果たすために凶暴な姿を形作る」
 掌を広げる。
 信助の指先から鋼線が伸びる。
 それは絡み合い、茎と化し、花を咲かせた――鋼鉄の花だ。
「幽霊と悪鬼、そう大して違わない。気を付けろよ? 下手すりゃ俺やお前だって――」
 花から刺が生え、歪に形を変え、不気味なオブジェへと変わり果てる。
「――こうなる」
「それは? 俺のこれと似たようなもんか?」
 六郎、拳を握り締める。硬質化。
 黒い攻殻が肘の先までを覆う。
 それを見た信助、頷いて、
「幽霊には筋肉も関節もない。霊体だ。霊体を変化させている――とはいえ人間以外に変化させんのは難しい。人間は人間だからな。当たり前のことだがひとつの壁だ」
 ソフトとハードの問題――霊体という万能のハードでも人間という限定されたソフトでは、人間にできることというプログラムしか実行できないわけだ。
「その壁を突破しうる強靱な意志や信念、理想の具現化を、俺は顕我能力と名付けた」
「ねえ、六郎の能力、私が名前をつけてもいい?」
 姫乃が話に割り込んだ。
「私なんの能力もないから寂しいんだ」
「いいぜ」
 あっさり承諾。
 あまりにもあっさりしたもんだから、却って姫乃は驚いてしまった。
「ほんと?」
「ああ」
「ほんとにいいの?」
「名前なんて飾りみたいなもんだ」
 大事なのは中身。
 名前より記憶。
 六郎の中身。
「それじゃあ――」
 思案。
 だけどすでに考えていたのだろう、すぐに決まる。
「絶対魔拳、なんてどう?」
「仰々しいな。略して魔拳でいいよな」
「えー、略さないでよ」
 駄々をこねる姫乃、茶化す六郎。
 コホン、と再び信助が咳払い。
「さて、次は、狗神六郎という名前だが――」

          †

 風が吹いた。

          †

「――聞いたことがあるかも知れない。確か、この学園の生徒で――」
「待て」
 斬魔信助が喋るのを、狗神六郎が遮った。
「悪鬼が出るぞ」
「なに?」
 直後。
 犬の遠吠えに似た、だけど犬とは決定的に異なる咆哮。
「アゥオオオオオオオ――ン!」
 悪鬼の出現を知って、そして焦燥する信助。
「早過ぎる……!」
 悪鬼の出現するペースた。
 悪鬼の出現は一定しないが、数日、数週間、数ヵ月のブランクを置いて現れるのが通常。
 同時とも言えるハイペースは異常だ。
 偶然だろうか。
「行くぜッ」
 六郎が飛び出して行った。
 信助は、謎多き少年の後ろ姿を見つめた。
 偶然かも知れない。偶然、悪鬼が二回続けて出たのかも知れない。
 だけど三回目、もしも三回目が起きたら、偶然より必然の可能性が疑わしい。
 ――その時、少年は容疑者だ。

          †

 悪鬼。
 妬み、恨み、嫉み。
 幽霊と悪鬼、そう大して違わない。
 いざ飛び出したものの、狗神六郎は迷っていた。
 やるのか。やれるのか。
 迷いながらも脚は動いている。
 校舎を抜けて空中、足元には校庭、宵闇の迫る空。
 部活動終了時刻を過ぎて誰もいなくなった校庭に異形の怪物はいた。
 六郎はケルベロスを想像した。三つ首の地獄の番犬。
 犬の首の集合体の悪鬼だった。こんぺいとうみたいに沢山の犬の首が集まっている。
 何十、いや何百だろうか。それぞれの首は唸り、吠え、声を荒げている。
(――なにを想って、こんな姿に成り果てた?)
 それを考えてしまうと、六郎は拳を握るのを躊躇ってしまった。
 だけど少年の葛藤など悪鬼が知るよしもない。
 四肢なき悪鬼が飛んだ。
「クソッタレ!」
 こんな曖昧な気持ちでは、闘うことなんてままならない。
 拳ではなく掌で悪鬼を受け止める。
 だけど止まらない。
 六郎ごと校舎に突っ込む。
 斬魔信助とすれ違い、彼が顕我能力を使おうとしているのが見えた。
「手を出すな!」
 攻撃の手を止める信助。
 その間も悪鬼は突進を続け、あっという間に二人は互いを視認できなくなった。
 標的を見失って、信助、毒突く。
「手を出すな、だと? なにを考えている?」
 実際のところ、六郎はなにも考えていなかった。反射的に出た台詞だ。
『闘え、闘え、闘え!』
「ウ、ル、セエエエエエエエ――ッ!」
 絶叫。
 止まない囁き。
 力任せに悪鬼を押し上げる――軌道修正。
 一人と一鬼は校舎を突き抜けて空に出る。
 六郎の体は悪鬼から離れて、両者、宵闇に対峙する。
「オイ、手前、それでいいのかよ! 死んで最後に遺すのがそんなんでいいのかよ!」
 まるで悲鳴。
 だけど悪鬼は答えない。
「ウォオオオオオオオオオオオオオオオ――ン!」
 その咆哮には知性の欠片ない。
 無駄だ。
 いくら悪鬼に問い掛けようと無駄なのだ。
 再び突進する悪鬼――その顎で六郎に噛み付こうとする。
「チクショオ……ッ!」
 それでも六郎は拳を握らない。
 掌で犬の鼻を押さえつけて、悪鬼の攻撃を凌ごうとする。
 だけど犬の首は二つではない。
 無数の顎――両手でも凌ぎ切れない。
 迫る顎、刺さる牙、切り裂かれる六郎の腕、肩、頬。
 血は出ない。
 痛みはあるが、気のせいだ。
 幽霊が痛がるはずないんだから。
 ――だけど心が痛かった。
「チクショウ……ッ!」
 分かっている。
 頭では分かっているのだ。
「ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――ッ!」
 慟哭――心が痛かった。。
「――六郎!」
 その時だ。
 白雪姫乃が屋上に現れた。
 六郎を心配してだろう。
 ……しかしタイミングが悪かった。
「アゥオオオオオオオオ――ン!」
 悪鬼は六郎を開放して、眼下の姫乃へと標的を変えた。まっすぐ少女向かって落下する。
 無数の顎は、ピラニアのように、あっという間に少女を食い尽くすだろう。

          †

『闘え』
 と囁き。
 闘うのは簡単だ。
 だけど、それで悪鬼は救われるのか。ほかにもっとないのか。
 狗神六郎が聞きたかったのは、死者の遺言だったのかも知れない。
 せめて、せめて言葉が遺されていれば――
 だけど白雪姫乃の危機に直面した時、苦悩も葛藤もすべて吹っ飛んだ。
「姫乃――ッ!」

          †

 白雪姫乃は星を見ているのかと思った。
 否――それは爛々と輝く悪鬼の瞳。無数の首、無数の瞳、無数の星。
 星々が吠えた。
「オォオオオオオオオ――ン!」
 無数の顎が牙開く。
「……ッ!」
 悲鳴を上げる暇さえなかった。
 瞬きだけ可能だった。
 瞼を閉じて、開く――視界は黒く染まっていた。
 姫乃は、自分が、頭から丸噛りされてしまったのかと思った。
 否――それは黒いタンクトップを着た、狗神六郎の背中。
 蛇のように躍動する背筋群。
 振りかぶられた左腕。
 肘先まで覆う攻殻。
「――光にィイイなれェエエエエエエエ!」
 そして絶対魔拳が放たれた。

          †

 狗神六郎の顕我能力――絶対魔拳から放たれる必殺のインパクト。
 その一撃は、ただの一撃で悪鬼を跡形もなく消滅せしめた。
「六郎、泣いてるの?」
 少年の背中に、優しく言葉を投げかける。
 狗神六郎の叫びは、白雪姫乃まで聞こえていた。
「泣いてねえよ」
 そう言いながら六郎は振り向かなかった。
 しかし実際、泣いてなかったのだ。
 六郎は消えた悪鬼を睨むように、虚空を見据えていた。
 遠く、はるか遠く、まだ見ぬ闘い、来るべき闘い、己を待ち受ける闘いを。
 覚悟は決まった。
 これからも悪鬼と闘うことがあるだろう。
 その時、一瞬の迷いが命取りだ。
 自分だけではない、他人まで危機に晒される。
 一瞬でも遅れていたら姫乃を守れなかったかも知れない。
「……もう、迷わない」

          †

 斬魔信助は遠くから二人、というより狗神六郎を観察していた。
「やれやれ、ヒヤッとしたぜ……」
 溜息。
「……それにしても、あの様子、六郎が悪鬼を喚んでるわけじゃないのか? やはり偶然なのか? それとも六郎の意思に係わらず? クソ、ややこしいぜ、狗神六郎、お前は何者だ?」



          4



 その日、結局、悪鬼は四度現れた。
 四度だ。
 犬の首の悪鬼を倒してから、さらに二鬼を迎撃した。
 もはや偶然では済まされない。
 なんらかの必然性によって悪鬼は召喚されている。
 その仕組みのどこかに関わっているはずだと、探偵は、少年を疑い始めた。

          †

 空が白み始めた。
 狗神六郎と斬魔信助は並んで屋上に立っていた。
 六郎の受けたダメージは戦闘後みるみる回復を示し、今や跡形もない。
「速いな、速過ぎる」
 信助が言った。
「なにが?」
「お前の回復だよ」
「回復? そんなの手前だって回復してるだろ?」
「だが速度が違う。二度目の悪鬼、お前はけっこうなダメージを受けたはずだ」
 無数の顎に切り刻まれた腕、肩、頬は元通り回復している。
「大したもんだ。なに喰ったらンな怪物的な霊圧に育つ?」
「知るか、俺が教えて欲しい」
「だよな」
 肩を竦める信助。
「なにか手がかりになるようなこと覚えてねえかな、と思って言ってみただけだ。つまんねえことを聞いちまったな。本題は別にある。昨日の話の続きだ。――言ったよな? 狗神六郎という名前、聞いたことがあるかも知れない」

          †

「確か、この学園の生徒で――」
 昨夜は遮られた、その言葉の続きは、
「――一年前、変死体で発見された生徒の名前が狗神六郎だ」

          †

 死体が発見された当初は飛び降り自殺かと思われた。
 だが検死の結果、死因は心臓麻痺――屋上から落下してアスファルトに叩きつけられたのは死後の出来事と判明した。
 死の直前、少年の身になにが起こったのか……
 捜査は難航――事件は迷宮入りした。
 目撃者はいなかった。
 ――だが、それは生者に限った話だ。

          †

「――というわけで、誰か、狗神六郎の死因に心当たりはないか?」
 斬魔信助は教壇に立っていた。
 正面には生徒たち。
 陽が昇れば幽霊たちの疑似学級コミュニティも活動を開始する。
 幽霊は夜という取り決めなどない。
 壁を隔てて隣の教室から生きている生徒たちの声が聞こえるように、死んでいる生徒たちも同様のサイクルで――生前と同じサイクルで生活している。
「おまえ、知ってる?」
「ドレッドヘアーと関係あるのかな」
「飛び降り自殺?」
「あれ自殺じゃないって」
 教室がざわめく。
 期待通りの反応。
「先生」
 一人の少女が手を上げた。
「私が――私が、狗神六郎を殺したんです!」
 ――予想外の発言。

          †

 斬魔信助は少女を連れて、狗神六郎の待つ教室へと移動した。
「六郎、彼女に見覚えはあるか?」
「……いや、ない」
 六郎は首を横に振った。
「誰なんだ?」
「本当に記憶喪失なんだ……」
 愕然――少女の目に涙。
「……ごめんなさい、私のせいで」
 六郎は気付いた。
 その口振りは、まるで、
「俺のこと知っているのか?」
 頷く少女。
「――ッ」
 動揺。
 初めて現れた。
 生前の自分を知っている人間。
「梅香、頼む」
 信助に促されて、少女が口を開く。
「私の名前は松竹梅香――あの日のことを、お話しします」

          †

「私、引っ越したんです」
 松竹梅香が言葉を紡ぐ。
「小学校を卒業する直前でした」
 狗神六郎は耳を傾ける。
「引っ越してから、小学校の友達とは疎遠になってしまいました」
 一字一句も聞き漏らすまいと。
「だから十子ちゃんは覚えていないと思います、私のこと」
「十子?」
 早速、知らない名前。
 いや――覚えていない名前か。
 梅香は悲しそうに、
「六郎さんの妹です、小学校まで、仲良かったんです」
 と言った。
「だから、私、六郎さんとも何度か会っているんですよ」
 ハンマーで殴られたような衝撃だった。
 それも側頭部を不意討ちでガーンとやられた気分だ。
 なにかを思い出したわけでじゃない。逆だ、思い出せないことがショックなのだ。
「……話を続けてくれ」
 と言うのが精一杯だった。
「はい」
 頷く梅香。
「引っ越してから、私は、通り魔に刺されて死にました」
「通り魔だと?」
「はい」
 あっさりと肯定。
「修学旅行に行く前日でした」
 梅香は気にしてないように言う。
 自分の死を受け入れていた。
 だけど、六郎は――
 そう珍しいことではない。
 理不尽な暴力はそこかしこに溢れている――そういう常識は覚えている。
 だけど通り魔に殺されたと聞いてなんの感想も抱かないほど六郎は失っちゃいない。
「落ち着け」
 斬魔信助が、六郎の肩を叩いた。
「梅香を睨んでどうする」
 そんなつもりはなかったが、険しい表情になってしまっていた。
「死んだら終わりだ――終わったんだ」
「……チッ」
 舌打ち。
 信助の手を払う。
 そうやって割り切ることは難しい。
 理屈では分かっていても、感情が残っている。
「気にしないで、私は平気だから」
 そう言って、梅香が笑う――殺された本人が。
 そこで気付いた――この話題を蒸し返すことは、梅香の過去を掘り返すことでもあった。
 信助が言ったことは残酷に聞こえるが、その実、梅香への配慮だったのだ。
「すまない」
「いえ」
 梅香の笑顔。
 仕切り直して再開。
「私が死んだところまで話したんですよね。死んでから……死んでから、私は、この町に戻ってきました。小学校の頃が懐かしくなって」
 話は核心に近付こうとしている。
 ごくり、六郎が唾を飲んだ。

          †

 すぐに十子ちゃんだと分かりました。
 背は伸びて、髪型も変わっていたけど――すぐに分かりました。
 二人一緒の登校でした……六郎さんと、一緒……
 なにも喋ってなかったけど、とても仲が良さそうでした――私の知ってる昔みたいに。
 それを見るだけで満足でした。
 十子ちゃんが幸せそうなのを確認するだけで。
 だから私はその場を去って、なんとなく屋上に行きました。
 これからどうしよう、と考えながら、校庭をぼーっと眺めて。
 もしも転校しなかったら、なんて益体もないことを考えたり。
 急にチャイムが鳴ってびっくりしたのを覚えています。
 いつの間にか昼休みでした。
 すると、六郎さんがやって来ました。一人でした。
 ……ごめんなさい、六郎さんのケータイ覗いてしまいました。
『委員会で遅れる〜!』
 短い文面。
 差出人は狗神十子。
 件名は『今日の弁当はハンバーグ』
 笑い出しそうになった――その時です。
 風が吹きました。
 振り返ると、そこには悪鬼がいました。
 沢山の髑髏が集まって人型になった、がしゃどくろ――古い妖怪――のような悪鬼。
 骸骨はそれぞれ妬み、恨み、嫉み、おぞましい表情を浮かべていました。
 私が初めて見る悪鬼でした。
「クカカカカカカカカカカカカカカカ」
 私を見て、悪鬼が嗤いました。
「いやぁ……」
 直感的に、この悪鬼は私を喰うつもりなのだと分かって、
「……いやぁあああああああああああああああ!」
 悲鳴を上げてしまいました。
 その時、信じられないことが起こりました。
 六郎さんが悪鬼の前に立ちはだかったんです。私の声が聞こえるはずないのに。
 そのまま悪鬼は六郎さんに喰らいつきました。
 沢山の髑髏が、それぞれ六郎さんに喰らいついて。
 ……死んだ、殺された、と思いました。
 だけど六郎さんは私に向かって――見えるはずないのに――ニヤリと笑って。
 そう、笑ったんです。六郎さんは笑ったんです。
 自分が死にそうって時に――笑ったんです。
「クカカカカカカカカカカカカカカカ」
 再び悪鬼が嗤うと、六郎さんの体がよろけました。
 ……もう駄目だと思いました。
 だけど六郎さんは、
「うるせえ、手前も道連れだ」
 悪鬼を押し倒すように金網に体当たりして、突き破って、そのまま――

          †

「――だから、六郎さんを殺したのは私なんです!」
 そう叫んで、松竹梅香は話を締め括った。
「それが一年前のことか……」
 斬魔信助が呟く。
 狗神六郎は無言だった。
 話を聞き終えても、なにも思い出せない。
(手前は魂の残りカスだァ――ッ)
 もう一人の自分が言っていたこと。
 記憶のない自分は本当に魂の残りカスなのだろうか。
 校庭から体育の授業に励む、生きている生徒たちの声が聞こえる。
「う、うう……」
 無言でいると、梅香は泣き出してしまった。
「ごめんなさい、私のせいで、ごめんなさい……っ!」
「泣くな、あと謝らなくてもいい」
「でも、だって、私のせいで」
「手前のせいじゃない、記憶は戻っていないが、俺の意志でやったことだろう」
 梅香を宥める役は六郎に任せて、信助は思索に没頭していた。
「悪鬼が、生きている人間を殺しただと……?」
 信じ難いが、不可能ではない――ひとつの条件をクリアすれば。
 肉体を失った霊体はひどく不安定な存在だ。生きている人間に干渉しようとしても当たって砕けるのがオチ、ダイヤモンドを殴ろうとすれば殴った手のほうが痛くなる道理。
 不可能を可能にする条件――それは絶対的な霊圧。
 要するに物量作戦だ。
 大容量の霊力を蓄えれば良い。
 不安定もクソもない、拳をダイアモンドより硬くする。
「梅香、その悪鬼、それからどうなった? どこへ行った?」
「ごめんなさい、分からないです。ただ……」
「ただ?」
 梅香は言うべきか言わざるべきか迷っているようだった。
 だが意を決して、
「……六郎さんが屋上から飛び下りた時、プレッシャーの消えたような気がしたんです」
「消えた、だと……?」
「ごめんなさい、そんな気がしただけです、その時は」
「いや、参考になった、ありがとう」
 消えたという単語を聞いて、六郎はふと思い出した。
「――そういや姫乃はどこに消えたんだ?」

          †

 その頃――
 白雪姫乃は繁華街の一角にいた。
 潰れたゲームセンター。
 遺棄された筐体、パイプ椅子、クレーンゲームの景品。
 埃の舞う中に、街に住まう幽霊たち。
 その中央に姫乃の姿はあった。
「黒いズボン、タンクトップ、ドレッドヘアーが目印」
 ヤンキー。ホームレス。かつてこのゲームセンターにたむろしていた面子。
「もう一人の狗神六郎――こいつを捕まえて欲しいの」
 ゲームセンターに集まっていた全員が頷いた。
 狩りの始まりだった。



          5



 夕方――
 一同は狗神十子の住処へ行くことになった。
 案内人は松竹梅香が請け負った。
 萌内学園の外へ出るのは狗神六郎は初めてだった。萌内学園は住宅地に囲まれた小高い丘の上にある。校門を出ると坂を下り、住宅地を抜け、駅前には繁華街が広がっている。
 六郎は自分に注がれる視線に気付いた。
「なんだ? なんか見られてるぞ?」
「新顔だからな」
 斬魔信助が答えた。
 まさか白雪姫乃の指示でもう一人の狗神六郎を探しているとは思いもよらない。
 十子が住んでいるのは萌内駅近くの九階建てのマンションだった。
 マンションまで、もうすぐ。灰色の外観が見えてきた。
 帰宅部の学生たちの間を縫うように歩く。
 飛んだ方が早いが、六郎の記憶を刺激するための選択だった。
「知ってる? あいつら付き合ってるらしいよ」
「やっべ、ケータイ忘れた!」
「きゃははははははは」
「なんか面白いことないかなあ」
 大声で話しているのは六郎と同年代の少年少女だ。
 他愛もない――毒にも薬にもならない――明日になれば忘れてしまうような会話だ。
「う……」
 六郎は、足を止め、うずくまってしまった。
 死者と生者の間には、絶対に超えられない一線がある。生きているか否か。
 明日が来るのは生きている者だけだ。死んでしまった六郎に明日は来ない。
 同じ世界に立っているようで、彼らは遠くに生きている。あまりにも遠い。
「大丈夫ですか?」
 梅香が気付いた。
「酔ったか」
 信助が容態を察した。
「ほら、肩を貸してやる。行くぞ。マンションまでもうすぐだ」
「すまねえ」
「なに、よくあることだ」
 そう言う信助も、そして梅香も学生たちを直視できなかった。

          †

 マンションに着く頃には、狗神六郎の状態は回復していた。
 小綺麗なマンションだ。新築ではないが、状態の良い。
 狗神十子は四階の四〇四号室に住んでいるという。
「おじゃましまーす」
 松竹梅香だけが礼儀正しく、他は無言でドアをすり抜けた。室内は静かだった。
「この家、十子ちゃんしか住んでいないんです」
 と梅香が言った。
「両親は外国を飛び回っていて。仕事で」
「なんの仕事だ?」
 と、六郎。
「バイクの部品を作る会社らしいです。両親とも同じ会社に勤めていて、工場が海外にある関係で出張が多いそうです」
 廊下の壁に写真が掛かっていた。
 桜をバックに、誇らしげに笑っている中年の男女――両親。
 学ランを着ている六郎――その隣にセーラー服の少女。
(……これが妹か)
 写真の彼女をまじまじと見た。
 ドクン、と胸が高鳴った。心臓なんてないのに。
「ここです」
 と梅香が示したのは、ネームプレートの掛かった二つの部屋。
『トオコ』
『ロクロウ』
 まだ六郎の部屋は残っていた。
 十子の部屋から物音。
 信助と梅香が頷く。
 六郎は一人、部屋に入った。

          †

 さっぱりした部屋だった。とはいえ年頃の少女らしく、整理整頓された部屋の隙間からぬいぐるみが顔を覗かせている。狗神十子は机に向かって勉強していた。
 ノート、教科書、そして六郎の写真。
 それだけで充分だった。
 六郎は部屋を出た。

          †

 部屋を出ると、斬魔信助と松竹梅香が無言で待ってくれていた。
「なあ、俺、どんな兄だった?」
 梅香が答える。
「良いお兄さんでしたよ」
「聞かなくても分かるだろ」
 信助が付け加える。
「この家には心地良い風が吹いている」
「そうか、俺は……俺は……」
 狗神六郎は泣きそうだった。
 自分は生きていた……狗神十子の兄として、生きていた……

          †

「貴様――ッ!」
 街の外れの廃工場。
 生きている人間は誰もいない。
 静けさを求める幽霊たちの密かな人気スポットだ。
 ……だが今、廃工場は穏やかならぬ雰囲気だった。
 黒いズボン、タンクトップ、ドレッドヘアー。
 もう一人の狗神六郎。
 彼は集団に囲まれていた。
 ゲームセンターで白雪姫乃から指示を受けた連中だ。
「どういうつもりだッ! この人数に勝てると思ってんのかッ!」
 声を荒げているのは顎鬚を生やした男――片腕が根元からもがれている。
 男の片腕はもう一人の狗神六郎が喰っていた。
 フライドチキンでも食べるように、ボリボリと。
「そう怒鳴るな」
 嘲りたっぷりに言い放つ。
 ぞわり――男の背に冷たいものが走った。
 その場にいる誰もが恐怖を覚えた。暴走するトラックの正面に立たされたような気分だ。
 太刀打ちできる相手ではない。一方的に潰される――
「どうもこうもない――全員、喰ってやる」
 立場は逆転していた。
 男たちが獲物だ。
「貴様、俺たちが何人いるのか分かっているのかッ!」
 だが立場を明確に自覚しているのは狩人のみ。
 集団ゆえの虚勢が、男たちから逃げるという選択肢を奪っていた。
「喰えるものなら喰ってみろッ! 返り討ちにしてやるッ!」
「面白い、やってみろ、クカカカカカカカ!」
 男たちが顕我能力を発動した――もう一人の狗神六郎は舌なめずりした。



          6



 狗神六郎、斬魔信助、松竹梅香の三人がマンションから出ると、
「信助さん!」
 ホームレスだった男の霊が、信助の元へ駆けて来た――ホームレスは有用な情報源である。
「って、ひい、なんでそいつがいるんですか!」
「なんだ? 落ち着いて話せ」
「は、はい! けど、その、そいつ、襲ってきませんよね?」
 彼が指しているのは六郎だ。
 ――ピンと来た。
「俺か? もう一人の俺が出たのか?」
「もう一人の……? べ、別人?」
「さっさと言え!」
 つい怒鳴ってしまう。
「ひい! む、向こうの廃工場です! 姫乃さんに頼まれて、狗神六郎って奴を探していて、廃工場で見つけたんですけど、そいつ、でたらめに強くて、何人かやられて、み、みんな散り散りに逃げて――」
「姫乃め、余計なことを」
 歯噛みする信助。
 もう一人の狗神六郎――その正体は明らかになりつつある。
 信助の想像通りであれば、迂闊に手を出すべきではない相手だ。
「先に行ってるぞ!」
 ホームレスの示した方角へ駆け出す六郎。
 その後を追いながら考える――もう一人の狗神六郎の正体は――

          †

「ほら逃げろ! みっともなく逃げろ! クカカカカカカカカカカカカカカカ」
 高嗤い。
 ビルの上を狩人と獲物が走る。
「ひいいいいいいい――っ!」
 もはや闘う気概さえ失って、悲鳴。
 必死で逃げるもビルからビルへ移るたびに距離は縮まる。
 あわや狩人の爪が獲物を捕らえようという時――
「そこまでだ! 手前の相手は俺だ!」
 狗神六郎だ。
 もう一人の自分と対峙する。
「へえ? 追ってきたのか、手前」
「当たり前だ。手前をブン殴るために追ってきたぜ」
「記憶もないくせに威勢だけはいいな」
「喧嘩に記憶はいらねえ。手前がムカつく、だからブン殴る――それだけだ」
「そうか、ムカつくか! 記憶はなくても俺がムカつくか! さすが俺、勘はいいな!」
「手前と一緒にすんじゃねえよ、偽者め」
「偽者だとしたら、俺は何者だ?」
「――悪鬼だろ」
 別の声が割り込んだ。
 斬魔信助だ。
 挟撃の位置に回り込んでいる。
「狗神六郎を殺した悪鬼、それが手前の正体だろ」

          †

 にたり。
 悪鬼が嗤った。
「よく分かったな?」
「探偵だからな」
 と斬魔信助、対称的に冷めた表情。
「行方不明の悪鬼。正体不明の偽者。こいつらを等号で結んでしまえば辻褄が合う」
 信助の顕我能力が発動。
 音もなく鋼線が展開。
 ――臨戦体勢。
「証拠は?」
「勘だ」
 幽霊に足場は関係ない。空も飛べる。地も潜れる。
 ビルの上でも――どこでも闘える。
「だけど俺の勘は、よく当たるんでな」
 両者の緊張が高まる。
 導火線に火が点いたように、じりじりと……
「――待て」
 本物の狗神六郎が、信助を静止した。
「俺の仇だ。俺にやらせてくれ」
「いいだろう、やっちまいな」
 信助は意外なことにあっさりと承諾した。
「ほら、やるんだったら、さっさとやっちまえ」
「いいのか?」
「なんだ、お前の言い出したことだろう」
「いや、一人で突っ走るな、とか言うかと思った」
「フン」
 信助が鼻で笑った。
「なに言ってやがる。お前の喧嘩だろう。お前がケリをつけるのは当然の権利だ」
「そうか。恩に着る」
 信助は傍観する位置まで下がった。
 あとは二人だけの決闘。
「――さあ、待たせたな、おっぱじめようぜ」
「――わざわざ喰われたいか、せっかく見逃してやったのに」
 ふてぶてしい嗤い。

          †

 もう一人の自分の正体は、自分を殺した悪鬼。
 狗神六郎には実感がなかった。
 なにせ記憶がないのだ。
『闘え』
 この囁きはなんなのだろう。
 己を闘いへと衝き動かす囁きは、復讐のためか。
 分からない。分かるのは、目の前の敵がムカつくってことだけだ。
「闘う前に聞いておく。手前はどうして俺の姿をパクッてる?」
「姿だけじゃねえぜ」
「なに?」
「手前の知識、記憶、経験、すべて俺がもらった」
「――まさか、魄を喰ったのか!」
 斬魔信助が叫んだ。
「魄? なんだ、それは?」
 六郎の知らない言葉。ただ信助の様子から、重要なものだと窺い知れる。
 だが、
「余所見してんじゃねえぜェ――!」
 答えを聞くより早く、悪鬼が襲い掛かってきた。
「――ッ!」
 ガード。
 悪鬼の拳を、肘で受け止める。
 ガードの上から矢継ぎ早に叩き込まれる拳、拳、拳。
 ジリ貧で押し負ける前に顕我能力を発動、相討ち覚悟で硬質化した拳を撃ち返す。
 クロスカウンターで悪鬼の頬に食い込む絶対魔拳。
 頬から剥がれる表皮。白骨が見え隠れする。
 追撃を試みるも悪鬼はすぐに体勢を立て直して反撃。拳と拳の激突。
 激突した拳は互いを弾く。両者、すぐさま次を撃つ。弾く。撃つ。弾く。撃つ。弾く。
 激突と反発を繰り返す二人は、螺旋を描いて街中を飛び交う。
 二人はランダムな軌道を描いて飛んでいると思われた……六郎はそのつもりだった。
「――グハァ!」
 六郎の拳が悪鬼の腹を捉えた。
 大きく吹き飛ばされる悪鬼。
 その行く手には萌内学園。
「手前――ッ!」
 誘導されていた――気付くのが遅かった。
「クカカ、誰が真面目に喧嘩すると言った!」
 悪鬼が校舎に降り立とうとする。
 ――が、脚に絡んだ鋼線が着地を阻んだ。
「行かせねえよ」
 信助である。
 思惑を察して先回りしていたのだ。
 萌内学園にいる幽霊の多くは無力だ。
 行かせれば人質、あるいは蹂躙されてしまう。
(行かせるものかよ)
 六郎が信助の横に並んだ。
「真面目に喧嘩しないんだな? だったら二対一だ!」

          †

 二対一。
 しかも鋼線で悪鬼を捕らえている。
 有利な状況だった――が、思いもよらないことが起こった。

          †

 風が吹いた。

          †

 空間の断裂が引き起こす突風。
 悪鬼が――出る。
「マジかよ!」
 狗神六郎が叫んだ。
 叫ばずにはいられない最悪のタイミングだ。
「六郎!」
「分かってる!」
 くるり、六郎は反転して、悪鬼を迎撃するために飛び立った。
 二人のうち、どちらが悪鬼の迎撃に行くべきか。
 残間信助は悪鬼を捕らえている。開放するわけにはいかない。
 口惜しいが、六郎が行くしかない。
 素早い判断だった。
 六郎の姿は消え、信助と悪鬼が残された。
「一対一になったな?」
 悪鬼の嘲り。
 六郎がいなくなった。
 信助は一人で……学園を守りながら……悪鬼と闘わなければならない。
 ――だが。
「ナメるなよ」
 信助は、にやり、笑った。
「斬魔流、行くぜ――ッ!」
 この男、六郎に負けず劣らず好戦的なのだ。

          †

 悪鬼はプールの中から現れた。
 濁った水面に波紋も立てずに、異形の怪物。
 大蛇のような形状は、ともすれば男根にも見える。
 さらに水泳部の少年少女たちはなにも知らずにプールを泳いでいる。
 それが殊更に悪鬼の醜さを際立たせた。
「気持ち悪いナリしやがって」
 速攻で片付けてしまえば斬魔信助に加勢できる。
 狗神六郎は拳を握り締めた。硬質化――絶対魔拳が顕我する。
 悪鬼が鞭のように体をしならせて、攻撃。
 ギリギリで見切って躱す。
 一撃で仕留めるために……まだ拳は使わない。
 加速。
 弾丸のように接近。
 再び悪鬼が攻撃するも、変化球みたいに軌道を変えてスムーズに回避――懐に潜り込む。
 今だ。六郎は拳を振り上げた。だが拳を振り下ろすつもりだった箇所が、急に盛り上がると、そこから腕が生えてきた。人間の腕だ――ただし桁違いのサイズの。
 六郎は鷲掴みにされてしまった。
「ぐう!」
 ぎりぎりと締め付けられる。
「コ、ノ、ヤロォ……ッ!」
 イメージ。
 振らないで拳を撃つ――零距離からインパクト。
 強靱な意志や信念、理想の具現化、それが顕我能力である。
 ゆえに確かなイメージさえ実像を結べば――
 六郎を握り締めていた悪鬼の腕が、消し飛んだ。
 ――零距離・絶対魔拳。
 しかし慣れぬことをしたせいで、大量に霊力を消耗してしまった。
「ハア、ハア、ハア! 余計な力、使わせやがって……!」
 悪鬼は腕一本、失っただけ。本体はダメージを負っていない。
 六郎の方が消耗は激しい。
 闘いはこれからだ。

          †

「ウオオオオオオオオオオオオオオオ!」
 斬魔信助は、叫びながら、鋼線ごと悪鬼を振り回した。
 信助の顕我能力は霊的に悪鬼を捕らえているため、そう簡単には抜け出せない。
 大きく弧を描いて、悪鬼の体は校舎から離れ、校庭の方へと飛んでいく。
 ここにも部活動に励む生徒の姿が見える――陸上部が校庭を走っている。
 地面に叩きつけても無駄だ、幽霊だからすり抜けてしまう。
 さらに回転――遮蔽物のない上空へ。
 鋼線を縮めて急接近。
「裂ッ!」
 もう片方の掌からも鋼線を放つ――
 捕らえるためでなく引き裂くための鋼線。
 だが鋼線はむなしく空を切った。
 悪鬼六郎の姿は消えていた。
 鋼線で捕らえられていたのに。
 答えは獲物を失った鋼線の先端にあった。
 ――切断された、悪鬼の脚。
「切り離しただと――!」
 迂闊だった。
 六郎を殺した悪鬼。
 その霊力の桁を考えれば――トカゲの尻尾切りくらい平気の沙汰。
「――クカカカカカカカカカカカカカカ!」
 背後から高嗤い。
 振り返るよりも早く、強力な打撃が背中を捉えた。

          †

 焦ったのがいけなかった……狗神六郎は反省した。
 力に驕るな。一撃で倒せると自惚れるな。自分のスタイルを思い出せ。
「――ハアァアアアア!」
 六郎の拳が、悪鬼の末端を削った。
 巨大な悪鬼の末端が、少し――削れただけ。
 それでいい。
 六郎は次の拳を撃ちこんだ。
 再び悪鬼の体が削れる。末端から少しずつ。大根おろしのように。
 少しずつ――だが確実に、悪鬼の体は削られていく。
「キュイイイイイイイイイイイイイイイ――ッ!」
 悪鬼が甲高い悲鳴を上げた。
 撃って、撃って、撃ちまくる。
 撃ち滅ぼすまで。
 何撃でも。
 悪鬼の胴体から、再び腕が伸びてくる。
 今度は沢山、無数の腕が、地獄の亡者のように迫りくる――それらを片っ端から撃ち砕く。
 一撃必殺ではない――多撃必滅こそ六郎のスタイル。

          †

 悪鬼の打撃が背中を捉えた。
 蹴りだ――突き刺すような蹴りが、したたかに背中を打つ。
 爪先がロングコートにめり込む――めり込む――どこまでもめり込む。
 ――斬魔信助の本体は消えていた。ロングコートだけを残して。
「なにィ――ッ」
 驚愕。
 信助はどこに消えた。
 自分がやったように後ろに回りこんだのかと、悪鬼は背後を振り返った――いない。
 ここは空中だ。隠れるところなんて、遮蔽物なんて――どこにもないのに。
「こっちだ!」
 信助の声。
 ロングコートの中から。
 遮蔽物が――あった。ロングコートだ。
 ロングコートを囮にしたと思わせ、裏をかいて、そこに留まっていたのだ。
「射ッ!」
 ロングコートを貫いて鋼線が射出――悪鬼の腕を絡め取る。
「無駄だァ!」
 悪鬼が吠えた。
 また切断して逃げるつもりだ。
「そいつァどうかな?」
 信助が不敵に笑った。
 鋼線の霊圧が高まる――限界を超えるほどに。
「しまっ――!」
 切断を急ぐも、遅い。
「――爆ッ!」
 信助の顕我能力は変幻自在。性質さえも、そう、爆発することだって。

          †

 一片も残さず削り尽くした。跡形もない。
 狗神六郎は斬魔信助に加勢するべく、二人の気配を探った。
 見つけた――気配は二つ。
 ……いや、三つ。
「誰だ!」
 恐れていた事態。
 この闘いに関係のない第三者……

          †

 ――閃光。
 残間信助の顕我能力は、悪鬼の左半身を消し飛ばした。
 衝撃で吹き飛ばされる悪鬼。
 後方へと。
「クク、クカカ、クカカカカカカカ!」
 ダメージを被ったのに悪鬼は嗤っていた。
「人質ゲーット!」
 後方には校舎。
 生者に混じって死者。
 窓辺には、外の様子を窺う松竹梅香がいた。
「――なにをしている! 逃げろォ!」
 運の悪い……
 繁華街で悪鬼が暴れていたから萌内学園に逃げた――通常なら正しい選択。
 だけど今、戦場は萌内学園に移ってしまっていた。
 信助の位置からでは間に合わない。
(しくじった……)
 万事休すかと思われた、その時。
「こっち!」
 梅香の腕を引いて、咄嗟に彼女を庇ったのは白雪姫乃だ。姫乃も校舎に戻っていた。
 校舎に侵入した悪鬼だったが、その腕は空振り。人質は得られず。
「……あのアマ」
 怒り。
 邪魔をされた。
 姫乃を八つ裂きにしてやろうかと思った。
 が、そこへ六郎が到着した。信助もまだまだ闘える。
 二人同時に相手するのは億劫だと判断――悪鬼は二人に背中を向けた。
「覚えていろ! いずれ手前のすべてを奪ってやる! 記憶だけじゃない! すべてだ!」
 捨て台詞を残して、その場から飛び去る。
 学園の敷地の外へと見えなくなる。
「手前、待ちやがれ!」
 六郎が追おうとするも、
「待て、深追いはするな」
 信助が静止した。
「チッ」
 舌打ち。
 仕方なく首肯。
 握っていた拳を緩めた。
 それにしても……すべてを奪うとは、どういう意味なのか……
 捨て台詞にしては気になった。
 命も、記憶も失って、他になにを失うというのだ。
 ――ドクン。
 ないはずの心臓が止まりそうに、嫌な予感。
 残っているもの。
 狗神十子。



          7



 そも悪鬼の目的とは。
 妬み、恨み、嫉み――他人に仇なす怨みごと。
 もう一人の狗神六郎も、やはり悪鬼――その目的は前例に則るものと考えて然るべきだ。
 斬魔信助は、それを知る手掛かりを白雪姫乃から入手した。
「――霊を喰う、だと?」
 宵闇の空き教室。
 松竹梅香は帰らせて、面子は六郎、信助、姫乃。
「そう、もう一人の狗神六郎は幽霊を喰う。私が確認しただけで十九人も喰われている。これは繁華街を中心に調べた数字だから、本当は三十人、四十人、それとも……」
「喰う、と言ったな? わざわざンな言葉を選んだってことは、それは――」
 と六郎。姫乃は肯定する。
「そう――比喩でなく、そのまんまの意味で喰っている。パックン、ムシャムシャ、ゴックンってね」
「相手の霊力を取り込んでいるんだ」
 信助が言う。
「これで悪鬼の目的が見えてきたな」
「なんだってんだ?」
「奴は生者を襲うつもりだ」
 六郎を指さした。
「考えてもみろ。奴がお前を殺したのを偶然と思うか? 梅香を庇ったからか? だったらどうして梅香を再び狙おうとしない? 仕留め損ねた獲物だぜ?」
「……」
「答えは、奴の狙いは初めからお前だったんだ。初めから生者を襲おうとしていた。死者が生者を妬む、恨む、嫉む――よくある話だ。それを実行に移すのは稀だけどな」
「それと幽霊を喰うのとどう繋がる?」
 信助のアイデアを即座に受け入れる――記憶がないから自らの死を客観視できる。
「奴は力が弱まっている。今でも強いことには違いないが、生者を殺すには足りない。俺が思うに、六郎――お前が奴の力を奪ったんだ」
「俺が? どうやって?」
「知らん。憶測だ。互いに奪い合ったんなら辻褄が合うと思っただけだ」
 六郎の尋常ならざる霊力は、確かに、悪鬼に通じるものがある。
「まあ、とにかく、奴は元の力を取り戻すために幽霊を喰っているわけだ。霊力が回復したら――きっと生者を襲い始めるぞ」
 その最初の標的は狗神十子……
 こういう嫌な予感に限って当たるもんだ。

          †

「ところで」
 もうひとつの本題。
「魄ってのは、なんなんだ?」
「その話か」
 残間信助は言いたくない様子だ。
「どうしても聞きたいか」
「どうしても聞きたいな」
「魄って、なに、まさか――」
 白雪姫乃の顔が青ざめる。
「そのまさかだ、こいつは魄を奪われた」

          †

「魂魄という概念がある。霊体には魂だけでなく、魄という要素もあるという考え方だ」
 斬魔信助の講義が始まった。
「魂は精神を支える気、魄は肉体を支える気と言われている」
「ふむ?」
 怪訝そうな顔の狗神六郎。信助は苦笑する。
「分かりにくいよな――魄とは知識や経験、記憶に関係するものだと思ってくれ」
 六郎の失ったものだ。
 ならば、気になるのは、
「魂にはなにが残っている?」
「魂は――より根源的なものだ。先天的なものだ。本能的なものだ」
「よく分からないな」
「こういう話は得てして分からないものだ。俺だって分からん。わけの分からないことが羅列して書いてあってなんとなく分かった気になるのが宗教や哲学ってもんだ。肝心なのは、だ――記憶を奪うことは、魄を奪うことで可能だってことだ」
「魂は天に帰り、魄は地に帰ると言われているの」
 と白雪姫乃。
「つまり魄が幽霊を大地に縛り付けている。だけど魄を奪われたのに現世に留まっているなんて……きみは、なんなの?」
 六郎を見る彼女の眼には、怯えの色が窺えた。
「そんなの俺が聞きたいさ」
 六郎は肩をすくめた。
 幽霊、悪鬼、それ以外のなにか。
 魂の残りカスと悪鬼は言った――魂の残りカス。



          8



「便宜上、他の悪鬼と区別するため、奴を悪鬼六郎と名付ける」
 と斬魔信助は宣言した。
「悪鬼六郎を見つけ出せ――」
 萌内市の幽霊たちに号令が下った。
「――ただし手は出すな、見つけたら連絡しろ。事件を解決するのは探偵の仕事だ」

          †

 悪鬼六郎探しが開始された。
 とはいえ悪鬼六郎が萌内学園を襲撃する可能性を考慮して、狗神六郎は学園に残された。
 地理に疎い彼は探索には向いていない。適材適所だった。
 特にすることはない。
 悪鬼が接近、あるいは出現したら気配で分かる。
 六郎は一人、屋上から校庭を眺めていた。
 階下からは教師が授業する声が聞こえる。
 校庭には体育の授業に汗を流す生徒たち。
 六郎が一人の時を見計らってか、松竹梅香が屋上にやって来た。
「こんにちは」
「おう」
 六郎の返事はぞんざいだ。
 梅香は気にすることなく、六郎の隣に並んだ。
 六郎がぶっきらぼうなのは昔から――梅香はそれを知っている。
 というより、昔しか知らない。だから昔のままの六郎がむしろ嬉しかった。
「授業は?」
「サボっちゃいました」
「不良だな、オイ」
「出席なんて取ってませんから」
 あくまでも擬似的な学級――進級がなければ出席日数も関係ない。
 卒業するとすれば……それは成仏した時。
「どんな授業を受けてんだ? 例えば信助はどんな授業を?」
 ふと鎌首をもたげた好奇心。梅香がクスリと笑う。
「気になります?」
「だって、信助、子供嫌いそうじゃねえか」
「そんなことないですよ、信助さん、優しいですよ」
「そうかあ?」
「ぶっきらぼうだけど優しいですよ……六郎さんみたいに」
「……その認識は間違ってる、色々な意味で」
「えへへ」
 そっぽを向く六郎、微笑む梅香。
「信助さんは探偵だった頃の話を聞かせてくれます。色々なひとが話を聞かせてくれます。それが授業です。サラリーマンだったひともいるし、八百屋だったひともいるし、風俗嬢だったひともいるし、先生をやってくれるひとには色々いますよ」
「へえ、面白そうだな」
「今度、授業、受けてみたらどうです?」
「そうだな、それも考えてみるか」
「それがいいですよ。一緒に授業、受けましょうよ」
 だけど六郎は、自分が授業を受けている光景を想像できなかった。
 想像できないことは実現できない。想像を、実現を阻むなにかがあるからだ。
 六郎は、自分が異空間に帰る光景なら想像できた。
 帰る。
 自然とその言葉が浮かんだ。

          †

 斬魔信助と白雪姫乃は、潰れたゲームセンターにいた。
 テーブルの上には地図が広げられていた。
 信助の顕我能力――鋼線を編んで作成された地図だ。
 パトロールの報告を受けると、地図の上に×印を追加していく。
 包囲網を徐々に狭めていく作戦だった。
「ねえ、信助」
 報告を終えた幽霊がパトロールに戻る。二人きりになった時、姫乃が口を開いた。
「六郎って、なんだと思う?」
 幽霊、悪鬼、それ以外のなにか。
「ますます分からなくなってきちゃった。式神かも――なんて突拍子もないことまで考えているよ、私は」
「俺だって分からん。分からないから探してるんだろ? 捜査の基本は足だ。カードが揃わないうちから下手な憶測はやめとけ――ただ確実に言えるのは、あいつはムカツクヤロウってことだ」
「あはっ」
 それを聞いた姫乃は思わず笑ってしまった。
 信助が自分を気遣っていることがバレバレだからだ。わざわざムカツクヤロウなんて言うのは、これからも狗神六郎と仲悪く付き合っていこうと――暗に言っていることなのだ。
 信助は、耳まで赤くなっていた。
「信助ってさ、六郎と似てるよね」
「……その認識は間違ってる、色々な意味で」
 奇しくも六郎が言ったのと同じ台詞だった。もちろん、信助がそれを知るはずない。

          †

 風が吹いた。
 吹いたと思った。
 だが、
「……ン?」
 その気配は霧散してしまった。
 狗神六郎は首を傾げた。
「どうかしました?」
「いや、なんでもない」
 わざわざ怯えさせる必要はない――六郎は誤魔化すことにした。

          †

 悪鬼の気配を感じた気がした。
 だが、
「……なんだ?」
 すぐに消えてしまった。
 元からなかったかのように。
 気のせいだったのかも知れない。
 神経質になっているのかも知れない。
 斬魔信助は自分にリラックスしろと言い聞かせた。
 白雪姫乃がパトロールから戻ってきた幽霊から報告を受けていた。
 地図には×印ばかり増えている。

          †

 風は吹いた。
 悪鬼は出た。
 それは気のせいではなかった。
 二人が気付くべきだったのは、それを即座に喰ってしまう存在だった。
 そいつは、
「ククク」
 と忍び笑いを漏らした。
「馬鹿が、あっさり引っかかりやがって」
 一度だけ、わざと幽霊を襲った――それはフェイクだった。
 注意を逸らすための――本命は悪鬼。
「いくら探しても無駄だ、そもそもの着眼点が間違っている」
 霊力を蓄えたいのなら、幽霊より、もっと効率の良い獲物がいる。
 狗神六郎の出現と同時、頻出していた悪鬼の襲来が途絶えている。
 それらヒントに気付くべきだったが――幽霊を守ることに気を取られてしまっていた。
 悪鬼六郎が潜んでいる場所、それは幽霊の集まる場所ではない――悪鬼の出現に備えて萌内町全域をカバーできる場所――萌内町の遙か上空である。
「もうすぐだ……もうすぐ……クク、クカカカ、カカカカカカカカカカカカ!」



          9



 数日が経過した。
 悪鬼六郎は行方知れず。
 だが、犠牲者も出ていない――平穏な日々が続いた。
 それが嵐の前の静けさだと……狗神六郎は覚悟していた。

          †

「――ッ!」
 弾かれたように月を見た。
 狗神六郎の視線の先、遙か上空から、
「悪鬼六郎――ッ!」
 流れ星のように悪鬼六郎が降ってくる。
 降下地点にはマンション。
 狙いは狗神十子。

          †

 ぞくり。
 悪寒が斬魔信助の背筋を走り抜けた。
 以前より格段に強くなった霊力。
 遙か上空から最短距離で悪鬼六郎がやって来る。
 信助は、悪鬼六郎が悪鬼を喰らっていたことを知らない。
 だが悪鬼六郎の用意が整ってしまったことは分かった。
 ぐずぐずしていたら狗神十子の身が危ない。
「クソッタレ!」
 こうなる前に悪鬼六郎を捕らえたかったのに後手に回ってしまった。
「姫乃、お前は学校だ! 皆を避難させるんだ!」
「信助は!」
「俺は闘うさ」
「――六郎を、守ってあげて」
 フン、と信助は笑った。
「全部、守るさ――んじゃ行ってくるぜ!」

          †

 四○四号室。
 狗神十子は健やかに眠っていた。
 呼吸に合わせて胸が上下する。
 十子の眠るベッドの横に人影が降り立った。
 悪鬼六郎である。
「そのまま、ぐっすり、永眠しな――」
 悪鬼六郎が拳を振り上げた。
 拳に霊力が集まる。
 因果を超えて死者が生者を殺せるほど強大な霊圧、それが振り下ろされる瞬間――
 悪鬼六郎の姿が、十子の横から――消えた。自動車に撥ねられたように。
 狗神六郎が悪鬼六郎に体当たりを喰らわせたのだ。
「クカカ、やっぱ来やがったか! やっぱ手前は俺に殺されたいらしいな!」
「抜かせ、二度も殺されるかよ! 今度はこっちの番だ!」
 二人は組み合ったまま壁を抜けて、外に出ると、さらに加速して突き進む。
 萌内学園の方向だった。
 悪鬼六郎が軌道を調節しているのだ。
 六郎が軌道を変えようにも、霊力の差がそれを許さなかった。
 萌内学園の上空まで来たところで、悪鬼六郎は六郎を振り払った。
 幽霊たちが避難しているのが見える。
 彼らを気にしながらも、六郎は悪鬼六郎から目が離せなかった。
 格段に強くなっている……油断していたら瞬殺されてしまう。
「オイ、残りカス」
 悪鬼六郎が言う。
「俺はさっさと狗神十子を喰いたいんだ。残りカスに用はない。めんどくせえから――さっさと終わらせるぜ?」
 言葉と同時、悪鬼六郎の拳が迫る。
 攻撃が来るのは分かっていた――ガードを固める。
 ガードの上からラッシュ――そうして上に意識を集中させて、下。
 鳩尾にボディブローが突き刺さる。
 六郎の体が浮く。
 さらに蹴り上げる。
 六郎の体がくの字になる。
 無防備な背中――背骨をへし折るような肘鉄が振り落とされる。
 呻き声も上げられない――だが、堪えた。
 隙を見せたら、まだ避難を終えていない幽霊が人質に取られるかも知れない。
 六郎はダメージをものともせず、猛然と反撃に出た。
「効いてないぜェ!」
 うずくまった姿勢から悪鬼六郎の胴にタックル――すると見せかけ、背後に回る。
 がら空きの背中。さっきのお返しとばかりに正拳突き。
 だが悪鬼六郎は体を逸らすだけで避けた。
 素早く悪鬼六郎は、六郎の腕をわきに挟んだ――引っ張っても抜けない。
 その状態から悪鬼六郎は、六郎の腕を捻り、回し――投げた。
 六郎の体が回転する。空中だから、それに幽霊だから地面や建物に激突することはないが、視界は混乱した。隙だ。悪鬼六郎が腰溜めに拳を構えていた。霊圧が上昇している……やばい、あれを喰らったら、消……
「撃ッ!」
 雨滴のように、無数の鋼線が降り注いだ。悪鬼六郎は六郎の側から離れた。
「俺の生徒をイジメてんじゃねえぜ?」
 斬魔信助が戦線に到着した。
 面子が揃った。
 闘いは始まったばかりだ。

          †

「オイ、ひとつ、言いたいことがある」
「なんだ、助けてもらった礼か?」
「違う。誰も助けてくれなんて言ってねえ――いつ誰が手前の生徒になった?」
「そんなもん、今でいいだろ。今、お前は俺の生徒になったんだ」
「そうかい。なら最初の授業はなんだい、信助先生?」
「授業の前に掃除だ――目の前のゴミを片付けるぞ!」
「応よ!」
 狗神六郎。
 斬魔信助。
 二人のタッグが悪鬼六郎に闘いを挑む。
 二人分でも霊力の差は埋まらない。
 それほど悪鬼六郎は強大になっているのだ。
 だが霊力差すなわち戦力差にあらず。勝敗を決するのは……
 六郎が虚空を駆け出すのに合わせて、信助の顕我能力が射出された。
 鋼線は囮――本命は六郎。
 そういう作戦だと悪鬼六郎は思った。
 信助よりも六郎のほうが攻撃力は高い。
 それは思い違いだった――六郎は、悪鬼六郎をすり抜けて、そのまま背後へ抜けていった。
 六郎に気を取られて動きの止まってしまった悪鬼六郎――
 その周囲を飛び交う鋼線が絡み合い、閉じて、悪鬼六郎を格子状に切り刻もうとする。
「――小賢しいッ!」
 吠える。
 霊気を放出。
 鋼線の一部を消し飛ばし、包囲網の中から脱出する。
 が、右足の膝から下を持って行かれた。
 数瞬、遅れてしまったのだ。
 悪鬼六郎の強大な霊力は、すぐさま欠損を再生した。大したダメージではない。
 けれども格下と思っていた相手に傷付けられたのは、無性に苛立った。
「手前ら! よくも!」
「ハッ」
 猛る悪鬼六郎を、信助が笑う。
「まだまだ、こんなもんじゃねえぜ。これから霊子の塵まで切り刻むんだからなッ!」
「ほざけ――ッ!」
 怒りに身を任せた悪鬼六郎の突撃。
 信助は顕我能力を展開して幾重にも防護網を張り巡らすもことごとく突破される。
 時間稼ぎにしかならない――もっとも時間稼ぎこそが目的だった。
 横合いから六郎が、悪鬼六郎を横っ腹を殴りつける。
 怒りのあまり悪鬼六郎は視野狭窄に陥っていた。
 急接近する六郎に気付かず、その結果――まともに一撃を食らってしまった。
 脇腹が消し飛んで胴体が千切れそうになる。
 すぐさま再生するも霊力は削られている――苛立ち。
「だったら手前から!」
 標的変更――六郎を殴り返す。
 六郎は避けない。拳を合わせる。
 激突する拳と拳――瞬間的には拮抗するも、すぐに六郎は押し負けてしまう。
 霊力の差だ。
 六郎は拳ごと肩から先を吹き飛ばされる。
 失ったのは右腕だった。
 その時、鋼線が悪鬼六郎の右腕に絡みついた。
「しまっ――」
 時すでに遅し。
 悪鬼六郎も右腕を切り落とされた。
 腕を斬らせて腕を絶つ――だが相討ち狙いではない。
 二対一という有利を活かして、総ダメージは悪鬼六郎のほうが大きい。
 霊力の差をコンビネーションでカバーしている。
 この勝負、霊力が上だからと簡単に勝てるものではない。
 ようやく悪鬼六郎は思い知った。
 この二人、強い。

          †

 悪鬼六郎の決断は早かった。
 相手が強いと認めるや、それ相応の手段を採る。
「ゲハァアアア」
 嘔吐。
 狗神六郎と斬魔信助は狼狽えた。
 悪鬼風情がなにを吐くというのか……
 エクトプラズムのようなものが悪鬼六郎の口から溢れ出した。
 それは空気に触れると急速に凝結――十三体の個体に分裂した。
 ――十三体の悪鬼であった。
「イッツ・ショウ・タイム!」
 悪鬼六郎の叫びに呼応して、十三体の悪鬼が動き出した。
 吐くという動作は、食ったものを戻すイメージ。
 食ったもの――悪鬼。
 これも顕我能力の一種であった。
 食った悪鬼を再生しているのではない。模倣しているだけだ。
 だから十三体の悪鬼は、悪鬼六郎の分身であり、悪鬼六郎の意のままに動く。
 九体は信助を、四体は六郎に襲い掛かった。
 悪鬼の群体がコンビネーションを――アイコンタクトすら阻む。
 二人の連携は阻止された。
 これが悪鬼六郎の選択した手段だった。
「クソ、うぜえ!」
 喚く六郎。
 六郎の周囲を鬱陶しく四体の悪鬼が飛び回る。
 鷹と戦闘機を足して二で割ったような悪鬼。
 空飛ぶ脳味噌の悪鬼。
 巨大な歯車の悪鬼。
 人型をした透明なクリスタルの悪鬼。
 付かず離れずヒット・アンド・アウェイ戦法。
 やりにくいことこの上ない。
 それも繰り返されれば慣れてくる。
 六郎が反撃を試みようとした、その時だ。
 悪鬼六郎が、脳味噌の悪鬼を左右に割って現れた。
 姿が見えないと思ったら、悪鬼の中に隠れていたのだ。
 六郎も、悪鬼六郎も、失った右腕をすでに再生させている。
 悪鬼六郎が拳を振り下ろすと同時、六郎が拳を振り上げる。
 悪鬼六郎は十三体の悪鬼を分離させているため弱体化している。
 打ち負けることはない――そう、六郎は思った。
「ギュィイイイイイイイ――ン!」
 巨大な歯車の悪鬼が、六郎の背中に体当たりをぶちかました。
 六郎の体が揺れる。
 そこを悪鬼六郎が叩いた。
 体勢の崩れた六郎は、容易く側頭部を撃ち抜かれてた。
 悪鬼六郎は対等に打ち合うつもりなどない――一方的に袋叩きにするつもりだ。
 六郎は無我夢中で拳を振り回した。拳はかすりもしなかった。
 悪鬼六郎は、あえて追撃することなく、余裕の表情で距離を取っている。
 ……じわじわといたぶるつもりなのだ。
 四体の悪鬼が悪鬼六郎を守るように飛び回っている。
 六郎は痛感した――形勢が逆転している。
 九体もの悪鬼と闘っている、信助は無事だろうか。

          †

 斬魔信助は、九体の悪鬼と闘いつつ、背後の校舎をも守っていた。
 まだ全員の避難は終わっていない。校舎に残っている霊もいる。悪鬼はそれを狙った。
 悪鬼六郎の選択した対信助用の手段。それは彼の弱みを突くことだった。
 信助は苦戦を強いられた。
 守りながら、闘う。
 そのために顕我能力を駆使した。
 悪鬼を絡め、吊り上げ、ここから先は行かせない。
 それにしても限度がある。
 九体だ。同時に九体の動きを封じ込めているのだ。
 ままならない闘い方は決定打に欠き、徐々にダメージは蓄積していく。
「このままでは詰まれてしまう……!」
 弱音が出てしまう。
 起死回生の手段は思い付かない。

          †

 だったら、これでどうだ。
 狗神六郎は逃げようとした。格好良く言えば戦術的撤退。
 悪鬼六郎と、その他の四体とではスピードが異なる。
 霊力というより意志の問題だ。
 木偶の坊より、強烈な意志で動く悪鬼六郎のほうが速いのは自明の理。
 逃げる六郎を悪鬼六郎が追えば、邪魔な四体を引き離せる。
 けれども目論見は見透かされていた。
「おっと逃げるなよ? こいつらが、あっちへ行ってもいいのかい?」
 悪鬼六郎は、六郎を追おうとせず、代わりに校舎を示した。
 斬魔信助の姿は見えないが、気配なら感じられる……信助と、九体の悪鬼と……
「手前が逃げればこいつらをけしかけるぜ? 闘えよ?」
「コノヤロ……ッ!」
「安心しろ。人質の代わりに死ねなんて言わねえ。最後まで闘わせてやる。闘って――闘って――絶望しろ! 手前に勝ち目はない! どう足掻いても勝てやしない! 霊子を撒き散らしてくたばりやがれ! クカカカカカカカカカカカカカカカ――!」
 六郎には愚直な闘い方しか残されていなかった。
 どうしようもない。
 拳を握り直す。
 六郎の周りを悪鬼が取り囲んだ。

          †

 狗神六郎と斬魔信助が窮地に陥っている――その時。
 白雪姫乃は、萌内学園の校舎の中を駆け回っていた。逃げ遅れた幽霊を避難させるためだ。
 大方の避難は終えたが、腰を抜かして動けない奴もいたりする。
 幽霊だからこそ恐怖がダイレクトに表れるものだ。
 窓から悪鬼が見えた――それも複数だ。姫乃でなくても恐ろしい光景。
 だが、姿は見えないが、六郎や信助が闘っているのを知っている。
 悪鬼が校舎を襲わないのは彼らが闘っているおかげだろう。
 ……ここで怯えていては二人に顔向けできない。
 姫乃は自分の役目を果たすために、校舎内の探索を続けた。
 最後の教室。
 そこには松竹梅香がいた。
「なにしてんの! 逃げるよ!」
 窓辺に立って、祈るように空を見上げている。
「でも、六郎さんが!」
 梅香の双眸は六郎の姿を捉えていた。
 四体の悪鬼と、もう一人の狗神六郎――その邪悪な佇まい、それが偽者だと分かる――が六郎を取り囲んでいた。一目で劣勢と分かる光景だった。
 姫乃も同じ光景を見たが――彼女は現実も見ていた。
「だからって、なんにもできないでしょう!」
 そう、彼女たちは非力だ。闘うことなどできやしない。
「逃げるの!」
「で、でも!」
 梅香も分かってはいる。
 それでも目を離せない。
「ああ――!」
 そして少女は見てしまった。
 最も見たくない光景を。

          †

 四鬼の攻撃が、同時に狗神六郎を捉えた。
 これが将棋なら、間違いなく詰みだった。
 王手には至っていない。霊体が分解しそうになるも、辛うじてこらえている。
 けれども、それも次の一手で粉々に砕かれる。五感は喪失してしまったが、見えなくても分かる、このタイミングで来ないほうがおかしい――悪鬼六郎がトドメを刺しに来る。
 ふと斬魔信助の顔が脳裏に浮かんだ。彼なら、上手く捌けただろうか。
 白雪姫乃はどうしているだろうか。あの不思議な少女は……
 走馬燈のように出会った人々の顔が浮かんでは消える。
「クカカカカカカカカカカカカカカカ」
 耳障りなBGM。
 死ぬ間際に走馬燈が見えるのは、生き残る手段を過去の記憶から模索するためという。
 死後の記憶しか持ち合わせていない六郎の走馬燈は、ひどく短かった。
 この場面を切り抜ける手は見当たらない。
 ……万事休すか。
 諦めが頭を過ぎった。

          †

 風が吹いた。

          †

 それは一瞬の出来事だった。
 狗神六郎の眼の前に、松竹梅香が忽然と現れた。
 ――瞬間移動。
 それは土壇場で発現した顕我能力であった。
 六郎を救わんとする意志が、少女を神風の如く瞬間移動せしめたのだ。
 と同時、彼女の胸を、悪鬼六郎の拳が貫通していた。六郎の身代わりになって。
 奇しくも走馬燈の最後に見えたのは、梅香の微笑みだった。
 いつか屋上で見た微笑み。
「あ――?」
 彼女と眼が合った。
 最後まで、彼女は微笑んでいた。
 そして――消えた。



          10



「うぁあああああああああああああああ――!」
 絶叫。
 霊子が宙に消えていく。
 かつて松竹梅香だったものが消えていく。
 抱き止めようとしても、きらめきは腕をすり抜けていく。
「クカカカ! こいつァ愉快だ! 傑作だ! もうひとつ絶望が増えた!」
 悪鬼六郎は、梅香を貫いた腕で――腹を抱えて嗤っている。
「手前は俺に勝てない! そればかりか誰も守れない!  巻き込んで殺してしまう! クク、クカカ、クカカカカカカカ! ああ、笑いが止まらない――!」
 教室から空を見上げていた白雪姫乃は、悪夢的な光景に、呆然と立ち尽くしていた。
 すべては悪鬼の思うがまま……
 神は死んだか、それとも足元など見ていないのか、いずれにせよここに神の加護はなかった。
 ……呪わしいほどに。

          †

 ――灰は灰に、塵は塵に。
 そんなことは知っている。
 ――死者が逝くのは自然の摂理。
 そんなことは知っている。
 だが――そんなこと知ったこっちゃねえ。復讐だ。自分を許せない。悪鬼六郎を許せない。この世のすべてを許せない。全部、全部、ブッ壊さないと気が済まない。なにもかも破壊し尽くしてやる。壊して、壊して、壊して……
 狗神六郎の皮膚が硬質化する。
 拳が攻殻に覆われ、それは腕から肩へ、全身を侵していく。
(幽霊と悪鬼、そう大して違わない。気を付けろよ? 下手すりゃ俺やお前だって)
 黒い攻殻が額を這い、まるで哭いている髑髏のような容貌になる。
 顕我能力が精神の具現化なら、見境のない破壊衝動に囚われた者の行き着く先は――
(こうなる)
 ――悪鬼。
 それ以外の何物でもなかった。
 無理もない。
 命を失い、記憶を奪われ、苛烈な闘いに身を投じて――
 その果てに待ち受けていたのは、無関係な少女の死。二度目の死。魂の死。
 通り魔に殺された少女は、今度は自分の身代わりになって死んだ。
 松竹梅香は、安らかな成仏さえ叶わなかった。
 呪わずにいられるか、この理不尽な世界。
「六郎、正気を取り戻して!」
 白雪姫乃が叫んだ。
「六郎! 六郎!」
 けれども、その叫びは届かない。
 この世のすべてを破壊せんとする悪鬼が、そんな叫びを聞き入れるはずがない。
「ほほう、これはこれは――手前が悪鬼になったか! 手前は悪鬼になった、俺は手前になった、帳尻は取れたなァ! クカカカカカカカカカカカカカカカ!」

          †

 悪鬼が――かつて狗神六郎だった悪鬼が拳を握ろうとした。
 一度その拳を握り締めてしまえば、あとはどこまでも破壊の限りを尽くすだろう。
 本当の意味で悪鬼と化してしまう、その直前で、
「泣かないでください、私は平気だから」
 松竹梅香の声が聞こえた。
 消えてしまったはずの梅香の声が。
 六郎の動きが止まった。
「これでも嬉しいんです――私の死には意味があった。六郎さんを助けることができた。死んだから――助けることができた」
「……」
「ずっと考えていたんです。私の死んだ意味はあるのか。生きている時は、生きる意味なんてそのうち見つかるだろうと思っていたら……見つける前に死んじゃって……だから、死んだ意味を考えるようになっていたんです。最後に死んだ意味を見つけることができた私は幸せです」
 それは遺言だった。
 幽かな霊子に託された、梅香の遺言。
 奇跡的な――しかし奇跡ではない――儚くも尊い梅香の遺志。
「六郎さんの死んだ意味はなんですか? 悪鬼になって、すべてを壊すため?」
 哭き髑髏は表情を映さない、暗い眼窩の底に光はない、だが――
「今、六郎さんになにができますか? 六郎さんの死んだ意味はなんですか? 見せてください、六郎さんの死の意味を。私、見ています。きっと、必ず、あの世から見ています。だから六郎さんの死の意味を、私に、見せてください――!」
 拳が解かれる。
 掌を持ち上げ、髑髏の上顎に指を引っ掛けた。
「六郎……!」
 みしり。
 髑髏が軋む。亀裂が入る。罅割れる。
「なんだと……!」
 そして力任せに――引き千切った。
 髑髏の下から六郎の素顔が現れる。
 ドレッド・ヘアーが弾けて揺れる。
「見せてやる! 見せてやるとも!」
 叫ぶ。
 力強く。
 空に向かって。
「俺は」
 囁きが聞こえる。
 言われるまでもない。
「闘う! 俺は闘うぞ! 守るために闘うぞ!」
 拳を握る。
 守るために。
「この……! 残りカスが! いい気になるなよ!」
「もう誰も失わない! 誰も! 決着を付けようぜェ――ッ!」



          11



 斬魔信助は限界に達しようとしていた。
 集中力も途切れてきた。攻撃が我知らず雑になっている。良くない兆候だ。
 かといって妙案は浮かばない。
 ジリ貧だった。
「……六郎」
 ふと少年の名前を口に出した。彼は無事だろうか。
 いざとなったら九体の悪鬼を道連れに、この場で果てるつもりだった。
 その時だ――突然、九体の悪鬼が吸いこまれるように消えた。
「なんだ? なにが起こった?」
 答える者はいない。
 可能性は――向こうのの戦況が変わった。
 けれども信助は、それを知っても手遅れな気がした。
 もはや自分の出る幕ではない。狗神六郎と悪鬼六郎の、二人だけの決着が付こうとしている。
 ……そんな予感がした。
 夜空に流れ星。
 消えゆく光。
 闇の果て。
 なにかを暗示するように。

          †

「ウォオオオオオオオオオオオオオオオ――ッ!」
 咆哮。
 狗神六郎は一発の弾丸と化した。
 何者も止められない――悪鬼六郎でさえも。
 ガードの上から悪鬼六郎を押し潰そうとする重圧。
 悪鬼六郎の顔が、苦痛に歪む。
「チィ――!」
 霊力を分散している状態では保たない。
 悪鬼六郎は、分身を呼び戻した。
 十三体の悪鬼が主に吸いこまれて融合する。
 本来の霊力を取り戻すも、それでも六郎は止まらない。止められない。
 悪鬼六郎を圧倒して、夜空を翔ていく。
 屋上。
 六郎が死んだ場所。
 死んだ六郎が、初めて降り立った場所。
「開けえええええええ――ッ!」
 六郎の叫びに呼応して、空間が歪んだ。
 異空間へ繋がる門が開く。
 二人はその中に飛び込んでいった。
 二人の姿が見えなくなると、門は閉じた。

          †

 孤独な空間だった。
 なにもない。一切合切なにもない。
 狗神六郎と悪鬼六郎の闘いを阻むものは、なにもない。
「ようやく分かってきたぜ……ここがどういう場所なのか」
 暗闇から声が聞こえる。
「ここは本来、存在しないはずの場所だ。存在しないはずの生と死の境界領域――それを仮定するのが俺の顕我能力だったんだ。本来、存在しないものだから、その力の及ぶ範囲には限りがある。萌内市一帯といったところか」
 己の宿命を悟ると同時、自分の顕我能力を理解した。
 高威力は特別な能力ではない、単純に高霊圧の所業。
 境界領域の仮定――それこそが絶対魔拳の真の能力。
「萌内市で人が死ぬ――死んだ者は、あの世へ逝くにせよ、この世に留まるにせよ、この境界領域へ召喚される。さしずめ俺は地獄の門番だ。あの世へ逝くなら問題ねえ、やり残したことがあるなら留まればいい。だが――他者に仇なす悪鬼だったら――こっから一歩も通さねえ」
「……ッ」
「手前のことだ悪鬼六郎ッ! こっから逃しはしねえッ!」
 以前と異なり脱出は不可能。六郎の意志が境界領域の突破を阻んでいる。
 ここから出るには六郎を倒すほかない。
 悪鬼六郎が吼える。
「できるものならやってみやがれッ! ここを手前の墓場にしてやるッ!」
 それが開始の合図。
 二人だけの決闘が始まったのだ。
 どちらかがくたばるまで終わらない、決闘が。

          †

 白雪姫乃は、狗神六郎の消えて行った先を見つめていた。
 初めて六郎と出会った場所。その向こう側で決着がつこうとしている。
「……頑張れ、六郎」
 ここではないどこかへ、祈る。
 祈ればなにか変わると思っていない。
 祈りは無力だ。なにも変えられない。
 だけど、それが今の彼女にできる唯一のことなのだ。
 馬鹿馬鹿しい行為と分かっていても、祈らずにはいられなかった。

          †

 漆黒の世界。
 打撃音を燐光が彩る。
 それは霊子の火花である。
 狗神六郎と悪鬼六郎が激突する度、霊子が散っているのだ。
 六郎の全身を覆う攻殻は、六郎自身によって頭蓋部分を引き千切られているが、かといって頭部が弱点とは限らない。悪鬼六郎が顔面狙って拳を放てば、頭突きで拳を撃ち落とす。すでに全身が攻撃力なのだ。微塵の隙もありやしない。
「グガァアアアアアアア――ッ!」
 燃えているかのように見える悪鬼六郎。しかし炎ではない。表皮が剥がれているに過ぎない。
 メラメラと剥がれ落ちる底から怨嗟の表情が、正体が見え隠れてしている。
 瓜二つだった両者は、もはや区別は一目瞭然。
 黒い鎧に身を包みながらも正気の光を瞳に灯しているのが本物。
 化けの皮が剥がれ落ちている、妬み、恨み、嫉みの化身が悪鬼。
 六郎の――本物の六郎の肘鉄が、悪鬼六郎の背中を打つ。肘先を覆う鋭い攻殻は悪鬼六郎の霊体を消し飛ばし、穴を穿ち、霊子を撒き散らす。さらに零距離・絶対魔拳が放たれる。悪鬼六郎の胴から下が、その衝撃で化けの皮を吹き飛ばされ、醜い骸骨模様が現れる。
「なぜだ……ッ!」
 傷跡は直ちに再生されるも、ダメージは、なにより憤りは治まらない。
「なぜ、手前如きが俺と同等に渡り合える……ッ!」
「分からないのかッ!」
 悪鬼六郎の蹴りが脇腹に決まる。けれども六郎は止まらない。
 ダメージをものともせずに迫撃する。
 鬼神の如き闘いぶりだ。
 それは六郎の意志。守るために闘う覚悟。
 自身の存在意義を見出した彼を止めることなどできやしない。
「魂だッ! 魂の力だァアアアアアアア!」
 拳と拳が激突する――六郎の拳が砕かれる。
 悪鬼六郎は笑みを浮かべようとするが、すぐに表情が強張る。
 確かに砕いた拳が瞬時に再生――撃ち返し――悪鬼六郎の拳を砕き返す。
「ふざけるな、魂だとォ! 残りカスの分際でェ!」
「残りカスじゃねえ! 愛! 勇気! 狗神六郎の根源!」
「記憶を持たずに狗神六郎を騙るかァ!」
「闘っているのは今この瞬間だ――ッ!」
 ここにいるのは記憶喪失の迷い子ではない。
 そう、言うなれば――

          †

 狗神十子は夢を見ていた。
 兄は笑っていた。いつだって笑っていた。
 どんな時も、辛い時も、苦しい時も、痛みを堪えてニヤリと笑う。
 それは、まるで、テレビで見た――

          †

 ――正義の味方。

          †

「グルァアアアアアアア――ッ!」
 悪鬼六郎の貫手が、狗神六郎の左胸を貫いた。
 生きていれば致命傷。
 そうでなくても霊体が崩壊するには充分な威力だった――そのはずだった。
 六郎の貫手が、悪鬼六郎の左胸を貫き返した。
「グ、ガァ……ッ! 手前、不死身か……ッ!」
「手前で殺しといて不死身はないだろう。――さあ、いくぜ、我慢比べだ!」
「こォの残りカスがァアアアアアアアアアアアアアアア――ッ!」
 零距離を超えた、内部からの絶対魔拳。
 悪鬼六郎も同時に霊力を解放する。
 荒れ狂う霊子。奔流する霊気。
 そして彼我の境界が曖昧に犯され――



          12



 ――繋がった。

          †

 青い空、白い雲、心地良い風。
 屋上が好きだった。
 誰にも邪魔されない場所。
 本来、屋上へ出る扉は施錠されている。
 俺が自由に出入りしているのは、悪知恵の働く友達のおかげだ。
 複製された合い鍵は、なかなかどうして役に立つ。
 人目を避けたい時――妹と会う時など。
 携帯電話を開いてメールを確認する。
『委員会で遅れる〜!』
 短い文面。
 差出人は狗神十子。
 件名は『今日の弁当はハンバーグ』
 いつの間にか十子と昼食を一緒するのが習慣になってしまっている。
 恥ずかしいがメリットは大きい。
 味良し、ボリューム良し、食券買う必要もないから安いどころかタダ。
 お節介な妹は「どうしても一緒に食べてくれないと嫌!」と言って譲らないが――
 それも屋上に逃げてしまえばどうってことない。
 しかし、分からない……どうして一緒に食べる必要があるんだ。
 件の悪知恵の働く友達いわく、
「ブラコンじゃねえのか?」
 そのせいで俺までシスコン呼ばわりされるんだが……それを思うと、いつも溜め息が出た。

          †

 風が吹いた。

          †

 風が吹いたと思ったのだ。
 馴染みの風とは異なる、障気を含んだ嫌ァな風が。
 実際には風なんて吹いてなくて、代わりに悲鳴が聞こえたのだった。
「……いやぁあああああああああああああああ!」
 考えるより早く体が動いていた。
 なにが俺をそうさせたのか、たかが悲鳴ひとつで俺の体は動いて、透けてるような透けていないような、ここいるのにここにいないような――どこか不思議な――いつの間にそこにいたのか分からない、その悲鳴を上げた女の子を庇う位置に走っていた。反射的な行動だった。
 目の前には異形の怪物。
 妬み、恨み、嫉み、おぞましい表情を浮かべた髑髏の集合体。
 がしゃどくろ――古い妖怪の名前を思い出さざるを得ない形相だった。
 そいつらは女の子を喰おうとしていた。それを確認する以外の暇はてなかった。
 そもそも考えるより早く体が動いてしまっていたんだ。
 それからどうしようかなんて頭になかった……
 その結果、当たり前のことだが、怪物の直線上に出た俺は、女の子の身代わりになって異形の牙をその身に浴びることになった。肉よりも深く、魂まで喰われる激痛――
 これは死ぬなと分かった。
 知らず知らずのうちに命を懸けてしまったようだ。
「――」
 女の子が泣いていた。
 命を懸けたというのに女の子に泣かれては釣り合いが取れない。
 だから、笑った。
 すると女の子は泣きやんだ。
 そうだ、それでいい、それでこそ命の懸け甲斐があるってもんだ。
「クカカカカカカカカカカカカカカカ」
 怪物が嗤った。
 体がよろめいてしまった。
 だけど、まだだ、まだ終わらないぜ。
「うるせえ、手前も道連れだ」
 最後の仕事――俺は、悪鬼ごと金網に体当たりして、突き破って、そのまま――

          †

 狗神六郎の肉体が地面に落下するまでの出来事。
 ぞぶりと悪鬼の牙が、六郎の魂の片割れを喰い千切った。
 六郎の知識、記憶、経験――それらを取り込むことで悪鬼は言葉を得た。
(なんなんだ、こいつは?)
 命を失い、記憶を失い、すべてを失って、それでもなお闘い続けていたのだ。
「ウォオオオオオオオオオオオオオオオ――ッ!」
 窮鼠猫を噛む――手負いの魂は、それゆえに力強く――逆に悪鬼を喰らい返した。
「グッ、ガァアアアアアアア!」
 六郎の魄を奪った代償――悪鬼は、力を奪われた。

          †

 因果に逆らってまで死者が現世に留まるのは、未練を残しているからだ。
 狗神六郎の未練、それは記憶を奪われようが関係ない、誰しもが胸に秘める正義――
 目の前に脅威がいる。悪意がいる。打ち倒すべき対象がいる。
 内なる魂は、記憶に代わって囁き続けた。
『闘え』と。
 人に仇なす悪鬼と闘えと。
 あの囁きは、六郎の内なる声だったのだ。

          †

 そして――過去は現在へ繋がる。
 傷を癒した悪鬼が活動を再開して、境界領域を抜け出して――そして今。

          †

「取り戻したぜェエエエエエエエ――ッ!」
 欠けたるものを取り戻した狗神六郎の表情に変化が起きた。
「ハッ」
 ニヤリと不敵な笑み。
 狗神十子の知っている六郎の笑み。
「そいつが手前の正体か! いい面構えじゃねえか!」
「狗神六郎めェエエエ! グガガガ! グガァアアアアアアア――ッ!」
 六郎の魄を失ったことで、悪鬼は化けの皮を剥がされた。
 沢山の髑髏が集合して人型になった、がしゃどくろ。
 化けの皮だけでなく言葉も失っていた。
 耳障りな咆哮。
「グガガガガガガガガガガガガガガガ」
 互いに本当の自分を取り戻した。これ以上ない舞台が整った。
 ここからが本当の闘いにして最後の闘い。
「ウォオオオオオオオオオオオオオオオ――ッ!」
 六郎の絶叫が響いた。



          13



 東の空が白み始めた。
 狗神六郎は戻って来なかった。
「六郎……」
 白雪姫乃と斬魔信助は屋上から朝日を眺めていた。
 境界領域の様子を外部から窺い知ることはできない。
 勝ったのか負けたのか、優勢なのか劣勢なのか、勝負はまだ続いているのか……
 なにも分からないのだ。
「勝敗ってな、闘う前から決しているもんだ」
 信助が言った。
「強いほうが勝つ。当たり前のことだ――で、どっちが強いかって話になるわけだが、喧嘩ってのはゲンコツ振り回すだけじゃねえ。ゲンコツは振り回されているだけだ。ゲンコツを振り回す中心にはハートがある。どっちのハートが強いか――それが勝敗を分ける」
「……」
「なあ、どっちのハートが強いと思う?」
「そんなの……絶対、六郎だよ……!」
「俺もそう思う。だから――安心しろ。肩の力抜けや。幽霊つっても疲れるもんは疲れるんだ。そんなんじゃ笑顔でおかえり言えないだろ? おかえり、言うんだろ?」
「うん……そうだね……」
 そう言いながら、姫乃は不安だった。
 六郎は勝つ、帰ってくる――それとは別に不安がある。
 言い知れぬ不安、あるいは、この時すでに気付いていたのかも知れない。

          †

 風が吹いた。

          †

 空間が歪んでいる。
 次元の裂け目から風邪が吹く。
 ねじれ、うねり、ここではないどこかと繋がる。
 ――境界領域。
 とうとう決着が付いたのだ。
 そこから誰が出てくるのか、二人は固唾を飲んで見守った。
 片腕が出てくる。続いて片足。そして全身が現れる。
 狗神六郎――だが、本物なのか悪鬼なのか。
「よォ」
 彼は片手を振り上げて、不敵な笑いを見せた。
 それは初めて見る笑顔だった。思えば六郎の笑ったところを見たことはなかった。
 だというのに不思議と分かった。
 本物だ。
 この笑い方は本物だ。
 白雪姫乃の胸に喜びが満ち溢れた。
「六郎!」
 屋上を飛んで、空に浮かぶ六郎に抱きつく。
 霊体だ。暖かいはずがない。
 だけど、暖かい。
 心の生む矛盾。
「おかえり……六郎、おかえり……!」
「ただいま、と言いたいところだが――すまねえ、すぐにさよならだ」
 六郎は後ろを指した。
 境界領域は閉じていない。
 主の帰りを待って、虚ろな門は開いたまま。

          †

「え……?」
 呆然。
 さよなら。
 簡潔な言葉は、都合の良い解釈を許しはしない。
 さよならと言ったらさよならだ。別れ以外に意味しない。
「どういうことだ、六郎、まだ決着は付いていないのか?」
 言葉の出ない白雪姫乃に代わって斬魔信助が問うた。
 狗神六郎は首を横に振る。
「決着は付いた。悪鬼六郎は倒した。だけど悪鬼はあれ一鬼で終わりじゃない」
 当たり前だ。
 人が死ぬ限り悪鬼は現れ続ける。
「俺は、これからも悪鬼と闘うつもりだ」
「なに?」
「悪鬼が立て続けに召喚されたろ? あれァ俺のせいなんだ。俺がいないと結界領域は簡単に破られちまう。所詮、仮定するだけの能力だからな、観測者不在だと機能を十二分に果たせない。すまねえな、迷惑かけて」
「結界領域? それは――」
「ああ、そうだったな、説明するよ」
 六郎の説明を、信助はすぐに飲み込んだ。
「大した能力だな……それで、これからも悪鬼と闘うとは、どういう意味で言ったんだ? まさか境界領域にヒキコモって闘う気じゃねえだろうなあ?」
「さすが、いい勘してる」
「無理だッ!」
 怒鳴った。
 怒鳴らずにはいられなかった。
「無理じゃねえ。できるさ。そのための能力だ」
「自分がなに言ってんのか分かってんのか? お前は強い。どんな悪鬼にも勝てるだろう。だけどいつまで闘い続けるつもりだ? 人が死ぬ限り悪鬼は現れ続ける。人類が絶滅するまで闘うというのか? それでどうなる? 孤独に闘い、その果てに待っているのは孤独だぞ!」
「分かってる」
「分かってねえ! 無理だ! 心が保たない! 行くな、六郎。こっちへ来い。なにも一人で闘う必要はない。俺も一緒に闘う。二人で闘えば敵なしだ、だから――」
「もう誰も失わないと決めたんだ」
 信助の説得を、六郎はやんわりと遮った。
 穏やかな微笑みを浮かべながら。
 それが偽りの笑みだと、姫乃には分かった。
 抱きついてるから分かった。六郎は震えていた。
 震えを抑えようとしているのが伝わってきた。
「正直言うとな、孤独に闘い続けるってのは怖い」
 泣きそうに震えている。
 だけど勇気を振り絞って、
「けど後悔したくないんだ。ここで保身を選んじまったら俺は俺を許せない」
「それくらい、いいじゃない……っ!」
 六郎を抱き締める腕が強くなる。
「自分のこと考えてもいいじゃない……っ!」
「駄目だ。それじゃあなんのために死んだのか分からなくなる」
 そっと姫乃の腕が振り解かれた。
 少女は非力だった。少年には力があった。
「俺は確かに殺された。死んでしまったのは自分の意志じゃない。だけど死んだあとのことくらい自分で決めたい。幸いにも俺には力がある。他人を守れる力だ。上等な死だと思わないか? なあ――信助?」
「――そうだな、ああ、文句ない死だ」
「信助ッ!」
「諦めろ、姫乃、こりゃあ駄目だ。どうしようもなく馬鹿だ――そして、かっこいい馬鹿だ。俺には止められない。俺だって男だ。同じ立場だったら俺だってそうしたい、そう気付いてしまったからには止められない」
 結局――二人は似たもの同士だった――
「なーに、心配すんな」
 と六郎は笑う。穏やかに笑う。
「俺は幸せだよ」
 それが最後の言葉だった。
 六郎は闇に消えた。
「六郎――っ!」
 そして少女の悲痛な叫び。



          14



 孤独な空間だった。
 なにもない。一切合切なにもない。
 無限に広がる宇宙的空間。星の輝きもなければ漆黒のみ。
 蝋燭などを点しても暗闇が塗り潰すだろう。
 一人の少年が漂っていた。
 上下左右の概念さえ失われた空間で、穏やかに眠るように。
 押し潰されそうな孤独感を抱かないはずないのに、少年は虚空に身を任せている。
 十代後半だろうに表情から甘さが見て取れないのは、余分な脂肪が付いていないからだろう。
 ナイフで削りだしたような顔立ち。痩せているのではない。絞り込まれた筋肉質なのだ。
 黒いタンクトップ、黒いズボン、黒い靴。ベルトのバックルのみ銀色。
 ドレッドヘアーを後ろで結っている。
 その重たそうな髪が揺れた。

          †

 風が吹いた。

          †

 少年が眼を見開いた。
「――来い、悪鬼ッ!」
 少年は記憶を取り戻した。

          †

 少年の名は狗神六郎。
 その名を忘れるな。
 君は忘れるな。
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