レッスン1
わたしは、るか。
借金の片に売り飛ばされ、ここに流れ着いた。なんというか人生を転げ落ちるのは思っていたより簡単だということだ。
アンダーグラウンドな世界ってのも、なんのことはない、わたしたちが普段生きている日常と地続きのところに存在して、ちょっとしたきっかけさえあれば、たとえば借金の片で身売りに出されれば、簡単に足を踏み入れることになる。その線引きは難しい。どこまでが日常で、どこからが非日常なのか。
ドロップアウトの直中に身を置いているわたしだけど、借金なんて、ローンでも組めばだれだって背負うもんだし、身売りだって、法的なことを言えば、ただの長期雇用契約。個々の要素だけ抜き出せば日常にありふれていることばかりで、どこから非日常なのか、さっぱり分からない。
あ。
地下闘技場は明らかに非日常的な要素かも。だからってどうもしないけど。というか行き着く果てだから非日常的で当たり前なのか。
ていうか自分で言ってなんだけど、わたしってば行き着くとこまで行き着いちゃったんだよなあ。うわー。
で、まあ、そんなわたしがいまどうしているかというと、選手控え室で監督者を待っていたりする。
監督者ってのは試合が始まるまでの三日間、選手を管理するひと。らしい。
けど実際には選手を監視する、なんだろうなあ。それくらい予想できる。
選手控え室は狭くて、埃っぽくて、暗い部屋だった。内側から鍵を開けることはできない仕組みで、控え室とは名ばかりの、試合が始まるまでの間、選手を閉じ込めるための部屋なんだな、と容易に知れた。
時計なんて洒落たものは置いていないから、どれくらい時間が経ったのか分からない。ただ、わたしは、ずっと待っていた。
この状況を理解はしている。けど実感がなかった。だから他人事のように呆然と待っていた。あまりにも巨大な波に飲みこまれたせいで、もがくことさえ忘れ、流されるがままというのが実状。
そのうち潰されそうになったら、ようやく泣くのだろうけど、いまのわたしは、まだ。
がちゃり。
重々しい音が、ぐるぐると渦巻く思考を断ち切った。鍵が開いた。そして悲鳴のような軋みを上げながら扉が開くと、真っ暗だった部屋に、光が射した。
男が立っていた。
逆光のせいでシルエットしか判別できないが、それは間違いなく男の体格だった。
高い背。広い肩。逞しい腕。
シャツにジーンズというぞんざいな服装だが、その下に見え隠れする暴力的な肉体は、地下闘技場という暴力が支配する場所にあっては、黒服などよりよっぽど似合って、よっぽど威圧感を放っている。
黒服の姿は、ない。
ということは、このひとが、監督者。
「出な」
監督者が言った。それが地なのか、それとも苛立っているのか、怒っているような、ぶっきらぼうな口調。
「ほら、さっさと出るんだよ。いつまでもンな辛気くせえところにひきこもってるつもりか?」
わたしは立ち上がることができなかった。
足が痺れたから、ではない。ふつうの三角座りだ。
この男が恐ろしかった。
黒服にも恐怖は抱いたけど、それは力関係に起因する恐怖だ。理論的な恐怖だ。黒服の男の一存がわたしの行く末を左右する、そう考えればこその恐怖だった。
だけど、この男、監督者には、感情的な恐怖を覚えた。もっと根元的に。いや。
違う。
わたしは男自体が恐ろしくなっているんだ。
あの光景を見たことで、どうやらわたしは男性恐怖症に陥ってしまったらしい。ようやく実感が湧いてきたということか。監督者だけじゃなくて、男ならだれでも、いまのわたしには恐怖の対象なんだ。
と。
冷静ぶってはみても、実際にわたしがしていることは、膝の間に頭を埋めてひたすら現実逃避だった。自己分析は自分という殻の中に逃げこむための口実。監督者の顔を直視したら、あの女の子のように、みっともなく泣き出しそうだった。
色々な感情が溢れ出しそうになる。これまで溜めこんできたもの、全部。自分で自分がどうしたいのか分からない。
単純に一言でいえばパニクっていた。
「ったく」
溜息が聞こえた。
足音。近付く気配。男性の存在感。
「面倒は嫌いだ。ここで決めろ。諦めるか、それとも闘うか」
諦める。
闘う。
なんのことか分からなかった。
ちょっと待って。
それって、つまり、わたしに聞いてるんだよね。地下闘技場に出て、わたしがどうしたいか、聞いてるんだよね。
諦めるのは、分かる。
諦めて、おとなしく姦られるってこと。
でも。
闘うって。
闘うからには。
「勝てるの?」
「おまえがその気になれば、な」
穴を見つけた。
行き場を失って荒れ狂う感情が、たったひとつの穴を見つけて、そこに集まってくる。
確かに勝てば自由。姦られずに済む。それでも契約違反にはならないから借金は返せる。
借金の片に売り飛ばされた身とはいえ、法的には、ただの長期雇用契約。地下闘技場の試合に選手として出場する、という契約内容の、どこにも負けて姦られるべしなんて書いていない。
闘って自由を勝ち取る。
自分がどうしたいのか決まった。
その選択肢に、わたしの感情、全部、全賭け。
「勝ちたいよ、もちろん」
顔を持ち上げる。
と、そこには掌が差し出されていた。
その掌を掴むと、力強い腕で、わたしの体は引き上げられた。距離が縮まったことで監督者の顔が見えた。
真っ先にタトゥーが目を惹く。蛇のようなタトゥーが胸元から首、頬まで走っている。燃え上がる炎のようでもあった。
前髪が目元まで隠している。明るい場所なら見えるのだろうが、この暗がりでは、どういう目でわたしを見ているのか分からなかった。
ただ、
「だったら」
その声は。
以後、三日間、監督者の口から、そんな声を聞くことはなかった。ひょっとしたら聞き間違えたんじゃないか、とさえ思う。だけど、とにかく、このときばかりは、その声は。
「俺は味方だ」
ひどくやさしい声だったのだ。
廊下はところどころ照明が切れていたり明滅していたりで白と黒と灰色のまだらに彩られていた。さらにあちこち赤茶色や黄色の染み、解読不能な落書き、剥がれかけたステッカー、等々。
当初は純白の廊下だったのだろうが、いまやその面影は残されていない。
と、いうか。
廊下掃除にこだわるヤクザなんているわけないよなー。
「ところでよ」
監督者が言った。
背中をほとんど上下させずに歩いているせいで距離感が掴みにくい。ぼーっとしてるとぶつかりそうになる。どういう歩き方なんだか。その背中越しに監督者は言ったのだった。
「るかでいいか?」
「え?」
「名前だよ。呼び方。名字のほうがいいか?」
「ああ。ううん。るかでいいよ」
「そっか。んじゃ俺のことはお兄ちゃんと呼んでくれ」
「はい?」
「お兄ちゃんだ」
「えーと」
言葉に迷う。いや疑問はひとつ。
「なんで?」
「それで喜ぶ馬鹿がいるのさ」
「馬鹿が喜ぶ?」
「そう。馬鹿とはさみは使いようってな」
「よく分からないけど、どうしても、お兄ちゃん?」
「どうしてもだ。それともほかに馬鹿の喜びそうな呼び方を考えてくれたら、それでもいいぜ。なにかいい案あるか?」
「いや。ううん。いいよ。うん。お兄ちゃんでいいよ」
正直、監督者がなにを言ってるのか分からない。しかしお兄ちゃんと呼ぶくらい、ちょっと恥ずかしいだけで、どうしても嫌ってわけでもないから、思考放棄して肯いた。
「おっしゃ。よろしくな、るか」
「うん。お、お兄ちゃん」
と。
そこでお兄ちゃんが立ち止まった。
うーん、でも恥ずかしいなあ。お兄ちゃんは。
「ここだ。ここがるかの部屋だ」
そこには先は、いくつか扉が並んでいた。なんだかホテルみたい。
その一室の、お兄ちゃんが懐から鍵を取り出して、がちゃりと扉を開いた。
お兄ちゃんが部屋の壁をまさぐると、スイッチを入れたのだろう、照明が点灯した。
「ほら。いいぞ。入ってこい」
「うん」
わたしは自分に期待しちゃだめだ、期待しちゃだめだと言い聞かせながら、室内に足を踏み入れた。ここまでろくなものを見てこなかったから、期待しちゃいけないのは分かってるのだけど、自分の部屋と聞くと、どうしても期待してしまうのが女の子というもの。
「わあ」
意外なことにまともな部屋だった。いや、というか、けっこういい部屋だ。
ベッドと化粧台、机、椅子。最低限のものしか置いてない殺伐とした部屋だけど、よく掃除が行き届いて、壁一枚隔てた廊下側とは雲泥の差だった。
「いいの? こんな部屋?」
「ああ。ここいらの部屋は来客者用も兼ねているからな。遠慮なく使ってくれ。鍵は渡せないが、そこは勘弁してくれ。食事は運んでやるからよ」
「いいよ、それくらい。あと、お手洗いは?」
「そこにあるぜ。ユニットバス。風呂も好きに使っていい。カメラとか無粋なもんはないから安心しな」
お兄ちゃんの指した先に、それらしき小室があった。そういえば久しく風呂に入っていない。まるで売り飛ばされた子牛のような生活をしばらく強いられていた。
「ねえ、いまから入っていい?」
「いいぜ。入ったら、そこの服に着替えてくれ」
今度は壁を指した。そこには一着のドレスが掛かっていた。
なんだろう、これ。なんていうんだっけ。
ゴスロリ?
「これ? このドレス?」
「そう。それだ。本番でもこういう服を着なくちゃいけない。汚したり破いたりしてもいい。スペアはいくらでもある。毎日着て、とにかく慣れろ」
そう言うと、お兄ちゃんは部屋の外へ出ていった。ひとりきりになると部屋はしんと静まり返った。
わたしは服を脱ぎ捨てた。
ゴシック・アンド・ロリータ。
こういうドレスは見るのも着るのも初めてだから、ちょっともたついてしまった。ボリュームのあるシルエットの割に密着するデザインで、スカートと肩が膨らんでいるのに対して胴が細く、すぼまっているせいだ。
正直、あまり好きなデザインではない。可愛らしすぎる。なんだか男に媚びているような気がしてくるのだ。地下闘技場に出場する服装だから、という悪印象も手伝っているのだろうけど。
部屋を出るために扉を開けようとした。硬い音を立てて扉は施錠されていることを告げるのみだった。
どうしたものか、と思案していると。
がちゃん。
外から鍵が開けられた。
扉が開く。お兄ちゃんだった。
「着替えは終わったか?」
「うん」
「そいじゃ、ついてきな」
ぶっきらぼうに言い放つと、お兄ちゃんは先に歩き始めた。そりゃあ気に入らない服だけど、お世辞でもいいから似合ってるよ、くらい言って欲しかったなあ、と思わなくもない。そんな不満はさておき、わたしは黙ってあとをついていく。
「るか、どこまで自分の状況を理解している?」
「借金の片に身売りされて地下闘技場の選手。出場は三日後。負ければやられる。やるかやられるか、はっきり言って、このままだとやられる可能性、大」
「そうだな。風呂に沈められるのと大差ない。よくある話だ。ただし風俗と違うのは勝てばいいってことだ。勝ち続ければ自由。負け続けるとな、脅かすようだが、おまえのせいで賭けが成立しないじゃないかとかなんとか難癖つけられて出場期間が延びる羽目になる」
「うそ。そんなの聞いてないよ」
「そりゃあ聞かせる必要のないことだからな、やつらからすれば。まあ、つまるところ勝たなきゃ自由は掴み取れないってことだ。そして、るかのような、かよわい少女に、いまのままでは大の男に勝てる公算は、ない。いまのままでは、な。もう一度確認するぜ」
「勝ちたい。そのためなら、なんだってするよ」
「そうだ。ふふん。分かってるじゃないか。だったら俺が鍛えてやる。言ったろう。俺は味方だ」
廊下を抜けると地下闘技場に辿り着いた。もう試合は終わって、観客も帰ってしまったが、リングの上に、なにか、置いてある。
「三日間。三日間で喧嘩を叩き込んでやる。格闘技じゃない。喧嘩だ。弱いやつが強いやつに勝つための闘い方だ。えげつない、えげつない闘い方だ。そのためにはレッスン1。まずァ顔面にフルスイングを覚えてもらうぜ」
近付くにつれリングの上に置かれているものの正体が見えてきた。いや、ものではない。あれは。
ひとだ。
パイプ椅子に座らされたひとだった。しかも髪は金色に染め上げられて、ピアスなんかもしちゃって、どう見てもヤンキー。
どうしてヤンキーなんかがおとなしく椅子に座ってるのかと思ったら、よくよく見ればマフィア映画みたいに手足を縛り付けられた上、猿ぐつわを噛ませられている。
身動きできない彼はわたしたちの姿を認めるなりがたがたと暴れ出した。ふうふうと鼻息が荒くなる。もごもごと猿ぐつわの下で叫んでいるらしかった。
「えーと、さ」
「どうした」
「まさかとは思うけど人間サンドバッグ?」
どうしても浮かんでしまう最悪のシチュエーションを、まずは否定して欲しかった。
が。
「察しがよくて助かるぜ」
お兄ちゃんは肯定したのだった。
「ちょっと待って。むり。それはむり」
「なにが?」
「人間サンドバッグって、どうして」
「その疑問が答えだ。まずは、とにかく疑問を抱かずに殴れるようになってもらう。それができなきゃ闘い方もくそもない」
「いや、いやいや、ちょっと待ってよ。いざというとき全力で殴れるようにってことだよね。でも、なんの恨みもないひとを殴るなんて、しかも身動きの取れない、無防備な、それは違うでしょ。ありえないでしょ」
「違わないさ。たとえば無防備な後頭部に躊躇なく肘鉄を振り下ろせるか、手加減しちまって、せっかくのチャンスを不意にするか。そういうことだってありえる。いいか。いざというとき相手は無防備なんだ。虫けらのように弱くてちっぽけに見えて、ああ、ここを打てば勝てるな、けど全力で打ったら怪我させちゃうかな、ちょっと手加減しとこうかな、と良心がしゃしゃり出てくる。その良心を殺せ。これは、そういうレッスンだ」
「でも、でも」
わたしはなんとか反論の材料を探す。お兄ちゃんの言いたいことはわかる。でも、だからと素直に、見知らぬ他人を殴れるほど、わたしは肝が据わっていない。甘かった。まさか、こんなことになるなんて。もっと違うことを想像していた。たとえばパンチやキックの練習とかを想像していた。ここは戦場だ。引き金を引く覚悟が必要だったんだ。
だとしたら、わたしは、まだ覚悟が決まっていない。
「でも、このひとは、なんなの」
でも、いまさら覚悟が決まってないとも言えず、なんとか絞り出した一言はこれだった。
お兄ちゃんはつまらなさそうに言い捨てた。
「こいつはドラッグの売人だよ。ここの組の縄張りを荒らしてたもんだから、お灸を据えてやってくれ、と俺に回ってきた」
ドラッグ。
予想だにしてなかった言葉に、からだがよろけてしまった。
「監督者だけが俺の仕事じゃない。こういう荒っぽい仕事も俺に回ってる。ちょっとした用心棒だ。いや、それよりも、どうして俺がるかの味方につくか分かるか。るかを勝たせて、ここの興業をおじゃんにしてやろうという、その理由」
わたしは首を横に振った。分からない。そして愕然とする。わたしは無条件でお兄ちゃんを信用しきっていた。なんて愚かなのだろう。そこまでわたしは追い詰めれていたということだ。
お兄ちゃんは現実を告げた。
「おれはスパイなんだよ。ここの組にも派閥があって地下闘技場の運用を巡って揉めている。いまでこそレイプショーだが、なんとかしてリアルファイトを売り物にしたいって考えてる派閥もある。そっちの派閥に送り込まれて、選手を鍛えてあげて、勝たせて、リアルファイトを実現しろってのが俺の仕事だ」
「スパイ」
呆然と呟く。なんだか感情が追いつかない。けれどもわたしの頭の中では与えられた情報をもとにそれぞれの関係が明確化されていった。
「女が男に勝つようになったらレイプショーは成り立たない。そうなったらいちゃもんつけてリアルファイトに鞍替えさせてやる。そう息巻いてる連中の手先なのさ。これで分かったか? 俺の事情。こいつの事情。るかの事情」
頷くしかなかった。反論できる隙など、どこにもない。むしろ隙だらけなのはわたしのほうで、ここにいるのが、まるで場違い。なにも分かっていなかったんだ。
地下闘技場の試合に勝つということ。それは巨大な組織に闘いを挑むという、なんとも無謀なことだったのだ。
「分かったら始めるぞ」
もう引き返せないところまで来てしまった。やるしかない。わたしはリングの上によじ登った。
モーター音とともに金網がせり上がってくる。
逃げ道は、ない。
お兄ちゃんは腕組みして、じっとわたしを睨みつけている。やるしかない。やるしかないんだ。
オクタゴン。八角形のリングを取り囲む金網は、ひどく強迫的で、否応なく逃げ道がないことを思い知らせる。ここから出るには、レッスン1。顔面にフルスイング。
「言っておくが殴るだけじゃだめだからな。そいつが意識を失うまで、だ」
いざ踏み出そうとしたわたしを、お兄ちゃんの言葉が制した。読まれていた。とりあえずかたちだけ殴って、それで許してもらおう。まだ、そんなふうに考えていた。
本当に、やるしかないんだ。
気持ちが暗く沈みこむ。
本当に、わたしが殴らなくちゃいけないんだ。
身動きの取れないひとを気絶するまで殴らなくちゃいけないんだ。
パイプ椅子に縛り付けられているヤンキーは、もう暴れていなかった。ただ静かに殺意のこもった目でわたしを見据えていた。
怖い。
身動きの取れないのに怖いと思ってしまった。目は口ほどにものを言う。その目こそ、わたしに足りない覚悟の決まった目だと理解した。
拘束から解き放たれれば、ためらうことなく引き金を引く。引くことができる、という可能性の話ではない。このヤンキーにとって、わたしを殴り殺すことは、すでに決まっている確定事項なのだ。
蛇に睨まれた蛙は、こんな心境なのかも知れない。なにをどうしても食われてしまう。たとえパイプ椅子に縛り付けられていようとも。たとえわたしが空を飛ぶことができても、地の果てまでも追ってきて、わたしを殴り殺すだろう。そんな予感に支配されてしまうのだ。
「どうした。さっさとやれ」
お兄ちゃんの叱咤がとぶ。
びくりと体が震えて、なすべきことを思い出したわたしは、なるべくヤンキーの目を見ないように、ヤンキーの胸元に目線を下ろして歩き始めた。
手を伸ばせば届く距離まで近付いた。気負うな。止まったらだめだ。左手をうしろに引いて。拳を握り締める。そして殴るべき対象を直視する必要性に気がついた。
直視。
目を合わせることになる。
気絶させなきゃいけないんだから、ちゃんと見ないといけない。あてずっぽうで殴って、ちゃんと当てる自信は、ない。
止まったらだめだ。それだけは理解していた。ここで止まってしまったら、それっきり固まって、もう動けなくなる。
勢いだ。勢いに乗せるんだ。
左手をサイドスイング、と同時。視線を持ち上げる。頬だ。頬を狙おう。大雑把な位置なら長々と見なくても分かってるんだ。顔を見るのは一瞬でいい。頬の位置を確認するくらいなら一瞬で十二分。
見た。
目が合う。
まっすぐに射抜かれた。まるで物理的に貫かれたかのようだった。止まる。止まるな。ここで止まったら、もうだめだ。慣性が失われてしまったような腕を、なんとか振り回して。しかし拳から力は失われ、これはだめだな、と自分自身思ってしまった。
果たして拳は当たった。だけど当たった瞬間、手首が曲がってしまった。握りがゆるんでしまったせいで衝撃に耐えきれなかったのだ。
手の甲が頬を引っかくように滑り、その拍子、猿ぐつわが外れた。
「ククク」
ヤンキーが笑った。嘲笑だった。
「なんだ、おまえ。ビビってんじゃねえか」
わたしはなにも言い返せない。その通りだ。わたしはビビってしまった。ヤンキーの目つきが変わった。嗜虐的な色を帯びる。自由になったのは口だけで、相変わらずパイプ椅子に縛り付けられているのに、ヤンキーが優位に立った瞬間だった。
「そんなの何発もらっても効かないぞ。気絶するまで殴ると言ったな。そんなんじゃいつまで絶ってもオレは気絶しないぞ。どうするんだ。オレが気絶しなかったら、どうするんだ?」
「そうだな」
お兄ちゃんが口を挟んだ。
「三十分でどうだ?」
「え?」
「三十分耐えきったら、その女を好きにしていいぞ」
「お兄ちゃん! それ、どういう意味!」
「そのまんまの意味だ。姦られるって意味だよ。負けたら姦られる。それがここのルールだろうが。もう忘れちまったのか」
忘れるわけがない。あの光景を。だけど、まだ練習なのに。
「これはるかにとっても良い意味でプレッシャーになるはずだ。なんの恨みもないやつを殴るわけじゃなくなったんだ。敵だ。やるかやられるかの状況だ」
「話は終わったか。ちゃんと時間は計るんだろうな」
「安心しろ。時間は正確に三十分計ってやる。そうでなければ意味がない」
「じゃあ、さっさと始めてくれ。ここに連れてこられたときはボッコボコにされるんじゃないかと冷や冷やしたが、どうやらオレは運が良いらしい。こんな猫みたいなパンチを三十分耐えるだけで女と姦れるなんてな。おい。女。諦めちまえよ。どうせおまえにはむりだ」
どうせおまえにはむりだ。その言葉が胸に刺さる。殴られた本人が言っているから説得力があった。
カーン。
呆然としているわたしに構うことなくゴングが鳴った。
「いまから三十分だ」
「ほら、どうした。かかってこいよ。ビビってンならやめちまえ。ギブアップしろ。さっさと姦らせろよ。そのほうがお互い楽でいい。そうしてだんまりを続けて、なんの得があるんだ。なんとか言えよ。おまえは人形か。ひらひらした服ゥ着やがって」
ヤンキーがまくし立てる。わたしはうつむいて、なにも言い返さず、ただ時が過ぎることを願っていた。三十分なにもせずに時が過ぎてしまえば、そのとき負けは決定して、姦られるということは分かっているんだけど、なにか奇跡的な変化が起きて、この状況から解放されることも期待していた。いや。
その後のことなんて考えちゃいなかった。この三十分さえ終わってほしいと、それだけを考えていた。
けれども、
「るか。いつまでそうしている気だ。俺の事情は教えたはずだ。仕事だ。この俺の仕事の役に立つかどうか。やる気がねえのなら、るかがどうなろうが知ったこっちゃねえんだぜ」
唯一の頼み、わたしの味方と言ってくれた、お兄ちゃんは、その味方たる所以を再認識させ、助けてくれるような口振りではなかった。わたしはますます悲しくなって、とうとう目をつむってしまった。涙が溢れそうだ。
「チッ」
舌打ち。
「しょうがねえ。このままだと、なにもせずに終わっちまう。そんなの俺も不本意だ。いいか。言うことを聞け。言う通りにしろよ。これでだめだったら、そんときは本当に見捨てるからな」
「見捨てないで!」
反射的に叫んでいた。お兄ちゃんに見捨てられたくなかった。お兄ちゃんに見捨てられたら、わたしは。
「だったら言う通りにしろ。返事は?」
「は、はい」
「ふん。お優しいことで」
ヤンキーが笑った。わたしはなにも言い返せず、お兄ちゃんはあえて無視していた。
「よし。それじゃあ、まずは拳の握りが甘い。そのままだと手を怪我する。いっそ握るな」
とお兄ちゃんは自分の手を示した。
「手のひらで打つ。ここだ。この部分で打つんだ」
お兄ちゃんはぺしぺしと親指の付け根を叩いた。
「掌底ってんだ。思いっきり打ち抜け、と言っても分からないだろうから、押し潰すつもりでいけ。力任せでいい。狙うは顔面。正面から。おっと。そいつの顔を見るなよ。目に殺されるんだったら、そもそも見なけりゃいいんだ。見えなくてもだいたいの位置は分かるだろ。勘で打て」
ついヤンキーのほうを見そうだった目線を慌てて下げた。ヤンキーの足下を見る。これでだいたいの位置は分かる。位置は分かった。だけど、まだ。
「準備はできたな。それじゃあ叫べ」
「叫ぶ?」
「そうだ。叫んで、がむしゃらに腕を振り回せ。目をつむってもいい。緊張を解き放て。と、こんなところだな。ここまで教えたんだ。できないとは言わせねえ」
「でも、まだ」
わたしは言い訳しようとした。なにか言葉を探そうとした。
が。
「カウントダウン。スリー、ツー、ワン」
「え、あ、でも」
「ゼロ。さあ、どうした。叫ぶんだよ」
「わたし、まだ」
「叫べってんだよ!」
「う、あ、あああ、ああああああああああああああああ!」
叫んだ。言われた通りにしなくちゃ、その一心だけで。
ぎゅっと目をつむった。
それは、もはや悲鳴だった。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
悲鳴と共に腕を振り回した。なにも考えずに、ただ振り回した。そして、わたしの内心が如実に顕れた掌底は。
否。平手打ちは弱々しく。
ぱちん、と手のひらが頬を掠める音が、それはそれは弱々しく響いたのだった。心の折れていることを示す音だった。
「チッ」
お兄ちゃんの舌打ちのほうが大きく聞こえたくらいで。
「クハハハハハハハハハハハハハハ!」
ヤンキーが、それはそれは楽しそうに笑った。絶対的優位を確信した声だった。
ああ。
お兄ちゃんは、もう助けてくれない。
わたしは、もうだめだ。
他力本願の気も失せた。頼るものをなくしてしまった。お兄ちゃんは、もうわたしを助けてくれない。これが最後のチャンスだったのに。せめて、これだけでもまともに殴ることができていればよかったのに。あの舌打ちは、こいつはだめだな、と諦めたときの舌打ちだ。教えようがない、と諦めたときの舌打ちだ。
しょうがないじゃない。できっこないよ、こんなこと。
呆然と立ち尽くす。ヤンキーと目が合った。ヤンキーは鼻血を流していた。あんな平手打ちでも、当たれば血を流すんだ。
「おまえにはむりだ」
ヤンキーが言った。さっきまで口を閉じていないのは、口の中を切らないようにするためか。そして、わたしの心が折れていると確信するや、ふたたび口を開いたというところか。わたしは他人事のように思った。心は体から分離していた。
「悲鳴を上げるのは敗者の仕事だ。おまえは負けたんだ。心が負けた。そんなんじゃなにをしたって勝てやしない。そんなのガキでも分かる。ガキでも知ってることだ。喧嘩は根性だ。おまえにはその根性がない。むりだ。諦めろ。諦めて、さっさと股ァ開け。それが負け犬にはお似合いだ。おまえのような女にはお似合いの仕事だ」
わたしは。
その通りだと思った。絶望が心を覆い尽くしていた。いや、この感情は失望だ。絶望ではない。希望はある。このレッスンをやり遂げることができれば、このヤンキーの顔面にフルスイングできれば。その希望を目の前にして、わたしはなにもできなかった。失望だった。
「るか」
お兄ちゃんが口を挟んだ。
「そいつの言うことは無視しろ」
わたしは答えない。答えたくない。自分がみじめで、なにも喋りたくなかった。
「これはるかの勝負だ。るかが決めるんだ。まだ時間は残っている。まだ戦う意志が残っていれば、まだ」
まだ、という言葉が連呼された。それがわたしには「もうだめだ」という言葉に聞こえて、
「もういい。むりだったんだよ、わたしには」
と言ってしまった。
しん、と静まり返る。
「そうか。むりか」
お兄ちゃんが吐き捨てると同時、機械音が聞こえて、金網が下がり始めた。これからお兄ちゃんがヤンキーを解放して、そしたらわたしは姦られちゃうんだ。しょうがないよね。むりだったんだから。これでよかったんだ。結局、全力で殴ることができなかったのも、きっとよかったんだ。たとえば、もしも歯なんて折っていたら、きっとわたしはただ姦られるよりもひどい目に遭わされた。けど鼻血は出ちゃったな。それくらい許してくれないかな。だめかな。ああ。なにも考えたくない。というか、まともな思考が働いていない。なんだか眠たいような、ぼーっとして。
「それじゃあ姦られるわけだが」
お兄ちゃんの声が背後から、そして、
「それは、つまり、こういうことされるんだぜェ?」
背後から抱きしめられた。心暖まる抱擁ではない。左手は胸に、右手は、スカートをまくり上げて股間に。
首筋に熱く湿った感触。
舌だ。無遠慮な舌が、わたしの首をねぶっている。それを知覚したとき、わたしのなかで、なにかが弾けた。
フラッシュバック。
あの光景が吹き抜ける。思い出したくもない光景が嵐と化して意識を吹き荒らす。暴風に吹き飛ばされ、わたしの意識は剥き出しになり、なにも考えることができなくなった。そこに残されたのは純粋な生命力。本能的な行動。精神を越えた肉体反応。
「いやぁぁぁ!」
それも悲鳴だったのだろうか。それとも内なる獣の雄叫びか。
肘を後ろに打ってお兄ちゃんを突き飛ばすと、体を反転させ、その勢いを止めることなく平手打ちを叩き込んでいた。ぱぁんと快音が鳴り響く。その音に、わたしは驚いた。
わたしはいま、なにをした? お兄ちゃんを、叩いた?
「やればできるじゃねえか」
頬を叩かれたことを意に介さず、お兄ちゃんは言った。唇が吊り上がっている。それが笑っているのだとすぐには気付かなかった。
「もう分かったな? もう戦えるな?」
「うん。分かった。ありがとう」
わたしは理解した。お兄ちゃんはわざとやったんだ。わたしの反応を促すために、わざといやらしいことをしたんだ。
「おいおい、なにが分かったんだよ。おまえにはむりだって言ってんだろ。諦めろ。さっさと縄を解け。おとなしく姦られとけばいいんだよ!」
ヤンキーが唾を飛ばす。わたしはお兄ちゃんに目で合図する。お兄ちゃんはそっとオクタゴンから降りた。リングの上はわたしとヤンキーの二人きりに戻った。さっきまでと違うのは金網が取り囲んでいないことだけど、もうわたしに逃げる気はないから、いまさら金網は必要ない。お兄ちゃんがわたしに目で合図した。さっさと終わらせろ。うん。
「むりじゃない」
「あん?」
「さっきまでならむりだったけど、いまはもう、もうむりじゃない。あなたが敵だと分かった。打ち倒すしか道はないって分かった。逃げ道なんてどこにもないって。負けたら、姦られちゃったら、そうしたら根こそぎ奪われて、壊されるんだって、心を殺されるんだって。勝つか負けるか、やるかやられるかなんて選択肢はなくて、勝つしかないんだって。やるしかないんだって。分かった。ま、よーするに逆切れだけどね」
そう。
結局逆切れなのだ。ぎりぎりまで追い込まれて、最後の最後、わたしは切れた。本能的な恐怖を越えるためには言葉だけでは足りない。言葉は感情に火を点けるための起爆剤。爆発的な感情こそ求められ、そしてわたしは、あの悪夢的な光景という生々しいトラウマを刺激され、感情が暴発して、切れた、というわけだ。切れてしまえば恐怖さえガソリン。エンジンは回り続ける。心臓は早鐘を打ち脳味噌はアドレナリンを迸らせている。
荒療法が過ぎると思うけど、たったの三日間でわたしをやる気にさせるには、なるほど、ここまで追い詰めないといけないのかもしれない。現に、ここまで追い詰められないかぎり、こうしてやる気を出すことはなかっただろう、と自分自身思っている。
「ま、そういうわけで」
腕をうしろに引くと同時、腰を落とす。そうすると椅子に縛り付けられているヤンキーと同じ目の高さになる。
いま、きっときっとも覚悟の目してる。
わたしに選択肢なんてない。やるしかない。
やるかやられるかは、殺るか姦られるかではない。姦られるということは心を殺されるということ。殺るか殺られるかなんだ。
「南無三」
そしてわたしは掌底を叩き込んだ。
顔面にフルスイング。