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レッスン2
 まだ腕が熱と痺れを帯びている。
 掌から肘先まで駆け抜けた衝撃。その瞬間、相手の意識が飛んだことが分かった。なんとも言いようのない手応えがあった。たとえば弓道は、弦から手を離した瞬間、矢が的を射る前に当たったかどうか分かるという。それと似ているのかもしれない。
 不可視の手応えとでも言えばいいのだろうか。とにかく、その一撃を叩き込まれたヤンキーの首は力を失い、だらりとうなだれている。おびただしい量の鼻血にも驚かされたけど、そういえば頭部には血管が集中しているから実際の怪我の程度より多量に出血するという話を思い出した。けど、それよりも目を引くのは、不自然にひしゃげた鼻だ。軟骨が折れたのだろうか。押し潰すというほど力を込めたつもりはなかったのだけど。
「さて、これでレッスン1は完了だ」
 いつの間にか横に立っていたお兄ちゃんが言った。気が抜けていたらしい。気付かなかった。
「まだ体力は残ってるかい?」
「疲れてるけど、大丈夫」
「それじゃあ今度はレッスン2」
 とお兄ちゃんが言いかけたのを電子音が遮った。お兄ちゃんが懐から携帯電話を抜き出した。
「俺だ。おう。もう来たのか。ちょうどいい。いや、こっちの話。オクタゴンまで誘導してくれ。そう。客席通路。防火シャッターを下ろして閉じこめる。ああ。分かってる。あとは任せてくれ。大丈夫。殺さねえよ」
 なにやら物騒な雰囲気。というかオクタゴンって、ここのことじゃん。
 携帯電話の通話を切ると、お兄ちゃんが振り返った。
「レッスン2だが予定変更だ。実戦だ。さっきのやつの仲間が押し掛けてきやがった。もうちょっと遅くなると思っていたんだけどな。こうなったらるかも手伝え、なァに、組み手よりいい経験になるぜ?」
「えーと? ごめん、よく分からない」
「いまからここにあいつの仲間がやってくる。ドラッグの売人と言ったろう。その仲間だ。全部で七人。そいつらをオクタゴンの客席通路に閉じこめて、俺たちで始末するって話だ」
「わたしも?」
「そうだ。もちろん。百聞は一見にしかず、や、ちょっと違うな。まあいい。組み手よりも実戦のほうがためになるってことだ」
 うっわー。
 なんだかテンションが下がってしまう。七人って。そんな大人数と戦うなんて。できっこないと言って逃げ出したくなるけど、それはできないから、せいぜいがんばろう。なんだか諦めがついてきた。前向きな諦め。覚悟。
 唯一の期待は「俺たち」という言葉。お兄ちゃんも一緒に戦ってくれる。

 客席通路。
 造り自体はほかの通路となんら変わらない。比較的掃除が行き届いていて、蛍光灯が消えていたり消えかかっていたりしていいない、ふつうの、きれいな廊下。
「これをかぶっとけ」
 とお兄ちゃんが黒い塊を投げて寄越した。ガスマスクだった。
「なに、これ?」
「見ての通りガスマスクだ」
「や、そうじゃなくて、どうしてガスマスク?」
「すぐわかる」
 そう言ってお兄ちゃんもガスマスクをかぶった。すると表情は隠れてしまう。これ以上説明は期待できそうにない。すぐわかるって言ってるんだし、しかたなく、わたしもガスマスクをかぶった。
 やがて通路の向こうから人影が現れた。あれが例の七人。
「始めてくれ」
 お兄ちゃんが言った。携帯電話を持っていた。わたしではなく携帯電話の向こう側の人物に言ったようだ。
 突然、がしゃんと勢いよく、わたしたちの背後と、向こうの七人の背後の防火シャッターが落ちた。下りたではなく落ちた。元々、防火用だけではなく、こうして侵入者を閉じこめるための用途も兼ね合わせたシャッターなのかもしれない。もしも間違って挟まれたりしたら、ただじゃ済まない。ぞっとする。まるでギロチンのようだと思い浮かんだのだ。
 さらに天井から白い煙が吹き始めた。ガスだ。
「なんだ! くそ!」
「ちくしょう、やる気か!」
「根岸を返せぇぇぇ!」
「これ、毒ガスじゃないだろうな?」
 あ、わたしと同じこと考えてるひとがいた。
 これ、毒ガスじゃないよね? でも、だったら戦う必要ないよね? わたしの疑問に答えるようにお兄ちゃんが叫んだ。
「てめえら、これは可燃性のガスだ! 拳銃なんて使ったらドカンだ! 刃物も、壁に擦れば、やっぱりドカンだ!」
 なるほど。って、ちょっと待って。それじゃあ、もしものとき、わたしたちも道連れ?
「ただの煙幕だ」
 お兄ちゃんがそっと囁いた。
「可燃性のガスってのは、うそだ。巻き添えは喰らいたくないからな。直接吸っても害はない。けど、ガスマスクは、なるべく外すなよ。ガスマスクをかぶっていたほうが、あいつらは信じる。ガスマスクが銃弾から守ってくれる。そう覚えとけ」
 うっわ。とんでもないハッタリをかましてるよ、このひと。
 でも、納得したので、わたしはこくりと頷いた。
「仲間を返して欲しければ、素手でかかってこい! 俺たちに勝てたら返してやる! 俺たちに勝てたらなァ!」
「なにィ! 調子に乗りやがって!」
「こっちは七人もいるんだぞ!」
「ぶっ殺してやる!」
 お兄ちゃんの挑発にあっけないほど乗ってきた。白煙の向こうから七人が近付いてくる。敵が近付いてくる。
「レッスン2。間合いを奪え」
 七人の敵を待ち構えている間に、お兄ちゃんが、
「まずは飛び込んでみろ。それができなきゃ話にならない。俺が守ってやる。臆するな。とにかく踏み込め。間合いを奪うためには、まずは間合いに飛び込まなくちゃいけないんだ」
「守ってくれるの?」
「ある程度は自分の身は自分で守ってくれよ、バンザイアタックなんてされたら、さすがにかなわねえ」
「それはないよ。それじゃあ、わたしは、さっきのレッスン1のつもりでいけばいいってことね」
「随分素直じゃないか。吹っ切れたか」
「そりゃあ、こんなことになれば、だれだって切れもするって」
「ところがそうでもないんだな、これが。男でも泣き寝入りするご時世だ。切れてもなんでも戦えるのは、格別褒めることじゃなくても、悪くないことだぜ」
 ん?
 格別褒めることじゃないって言ってるけど、これって褒められてる?
「えへ。ありがとう」
「礼を言うのは、まだ早い。来るぞ」
 白煙を潜り抜けて一人目が現れた。あのヤンキーと似たような金髪。根岸って言ってたっけ。あいつ、根岸って名前だったんだ。
「根岸の仇ぃぃぃ!」
 いや死んでないって。ちょっと鼻潰れちゃったけど。
 と、ツッコミは置いといて。
「おおおおおおおおおおおおおおおおッ!」
 わたしも叫ぶ。叫んだほうが乗っていきやすい。勢いに乗って走り出す。
 レッスン1のつもりで打ち込むことだけ考えろ。打ち込むことだけ。打ち込む。
 って、あれ。
 なんか相手のほうが拳が早い? 打ち込めない?
「いきなりバンザイアタックしてんじゃねえええ!」
 そのとき、かかとが一人目のあごを上に弾いた。お兄ちゃんだ。
 強引な飛び後ろ回し蹴りが一人目の機先を制した。当たりが浅かったらしく倒れるには至らない。どうするか迷って、とりあえず打ち込んでおくことにした。
 顔面ではなくあご先に掌底を打ち込む。衝撃がまっすぐ通った感触。確信。
「げふっ」
 変な声を出して、一人目は床に崩れ落ちた。
 一応、倒した。倒したけど。
「間合いを奪うどころか奪われてんじゃねえよ。いまので一回死んだぞ。ちったァ頭使え。ばーか」
 お兄ちゃんにぼろくそに言われた。
 うう。ばーかまで言わなくっていいじゃん。

 最初の一人は先走って行動していたらしい。あとの六人は、まだ白煙を潜り抜けてくる気配はなかった。
「間合いとは距離、速度、タイミング。複合的に要素が組み合わさった概念を指す」
 それを警戒しながら、お兄ちゃんが言う。
「さっきのは間合いを奪われていた。距離とタイミング。相手のほうがリーチが長い。リーチが長ければ先に仕掛けられる。速度で勝っていないかぎり、相手に打ち込むことは、できない」
「うん。全然打ち込めなかった。それじゃあスピードアップしろってこと?」
「それができたら苦労はねえよ。リーチと速度は本人の能力だ。るかが戦うべきはタイミングだ。タイミングだけは技術の問題だ」
「でも、速度で勝っていないかぎり、相手に打ち込むことはできないって」
「それは同じタイミングで打ち合った場合だ。そして、さっきは、そのタイミングが、相手のタイミングだったから打ち込めなかった。頭を使え。考えろ。どうしたら自分のタイミングで打ち込むことができるのか」
 考える。
 リーチと速度では及ばない相手。自分のタイミングで打ち込むためには。
「相手より早く打ち込み始める?」
「惜しいな。どうしたら相手より早く打ち込み始めることができるか、そこまで考えて欲しかったが、時間がない。もうすぐ来るぞ」
 と、お兄ちゃんが言った。わたしには分からなかった。
 白煙の向こうから六人が現れる気配は、わたしには見受けられない。影さえも見えないのに、なにを根拠に、お兄ちゃんは判断しているのだろうか。
「自分のタイミングをコントロールしろ。相手はるかの距離と速度を見て、そこからタイミングを予想する。予想に合わせて打ってくる。その予想を裏切れ」
「でも、どうやって。わたしのリーチとスピードは」
「戦いを構成するのは、それだけじゃない。レッスン2の最初、俺はなんと言った?」
「飛び込め?」
「そうだ。おもいきりよく飛び込め。さっきみたいにまっすぐ走るな」
「それじゃあ、どうすれば?」
「三段跳びの要領で連続して踏み込んでみろ。そうすりゃ違う景色が見えるはずだ」
 会話はそこで打ち切られた。
 白煙を切って、とうとう六人が姿を現したのだ。
「なんだい、片方は女かよ」
 嘲るように、そのうちの一人が言った。それをきっかけに、
「祟一はどこだ。あいつ先に行っていたよな」
「お嬢ちゃん、オレたちと楽しいことして遊ばないかい?」
「あれ、なんかここ濡れてるぞ」
「おいおい、そんな足手まとい抱えて、オレたちと戦えるのか? ヒャハハハハハハハ!」
 かれらは一様にお兄ちゃんに注目していた。お兄ちゃんが口を開こうもんなら一斉に嘲笑ってやろう。そんな底意地の悪さが窺えた。
 かくいうわたしもお兄ちゃんに注目していた。どうやってこいつらを一喝するのかと。
 そしたら、
「よく見てろよ」
 わたしに。
 お兄ちゃんはわたしに言った。
 次の瞬間、わたしはお兄ちゃんの背中を見ていた。
 お兄ちゃんは二人目の獲物の眼前まで一足飛びで肉迫していた。かれが死に体であるのは一目瞭然だった。わざと、わざとお兄ちゃんは一呼吸入れて、
「俺の間合いだ」
 二人目に囁く。そしてゆっくりと拳を腰溜めに構えて。
 打った。打ったのだろう。うしろからだから、よく見えなかった。それとも拳が速すぎたから、よく見えなかったのか。
 なにか声を発することもなく二人目の体が崩れ落ちた。それを見て、ようやくわたしは、お兄ちゃんが打ち込んだのだと確信した。
「祟一とか言ったか。そいつなら、そのへんに転がってるはずだぜ。これで二人目瞬殺だ、瞬殺。楽勝だな」
「なっ!」
「よく見ろ、これ血だ!」
「祟一! しっかりしろ、祟一!」
「調子に乗りやがって。半殺しじゃ済まさなねえ。全殺しだ。どうせヤクザの手先だ、死んだって構いやしねえだろ」
 血気盛る五人。一斉に襲いかかるつもりなのか、じりじりと距離を詰めてくる。そんなかれらを前に、お兄ちゃんはバックステップで後退して、ぽん、とわたしの背中を叩いた。
「次、るかの番」
「いや、そんな気安く言われても」
「右端のやつ。あいつを狙え。残りは俺が引きつける」
「あ、なんだ。よかった。てっきりわたし、あの中に飛び込めと言われるのかと」
「さすがにそれは、まだ早い。袋叩きだ。間合いを奪うことを覚えれば、それもできるようになるけどな。よし。いくぞ。カウントダウンは任せた」
「わかった。それじゃあ」
 深呼吸。
 カウントダウン、開始。
「ごー、よん、さん、にぃ、いーち」
「ゼロ!」

 走る。
 背後にお兄ちゃんの気配を感じる。何十人もの軍勢を率いてるかのような心強さ。残り五人。囲まれたらやばいなあとは思うけど、それだけ。お兄ちゃんがいるおかげで実際以上の恐怖を覚えずに済んでいた。
 五人は二、一、二のフォーメーションで並んでいる。先頭に二人、中央に一人、後方に二人。
 先頭の二人のうち、右側のやつ。それがわたしの獲物。
 わたしの番だと言われたときは、てっきり中央の一人を狙うものかと思って、ちょっと焦ったけど、そうはならなかった。飛び込むという言葉のイメージから、ど真ん中に飛び込むのかと思ってしまったのだ。真っ先に浮かんだのはプールの飛び込み。プールに飛び込むみたいに五人のなかに飛び込めと言われるのかと。
 と、お兄ちゃんの姿が横に抜けた。壁を蹴る。三角飛び。
「オラァァァ!」
 壁を蹴ったお兄ちゃんは、斜めからドロップキック。先頭の二人のうち、左側のやつを、押し倒す。蹴り倒すというより押し倒す。強引な露払い。ど派手に吹き飛んだ左側のやつは、うしろの三人を巻き込み、まともに立っているのは、わたしの獲物一人だけとなった。
 獲物、三人目。
 この隙、この流れを、逃すわけにはいかない。
 三段跳びの要領。地を這うように、わたしも跳んだ。三段跳び独特の滑空感の後、三人目の目の前に着地する。
「クッ! 女がァ!」
 三人目は、お兄ちゃんに気を取られていたせいで反応が遅れていた。わたしのほうが早い。そして不完全な状態から打たざるをえなかった拳と、自分のタイミングで打つことができた掌底。
 わたしのほうが速い。
 さらに幸運、三人目にとっては不運。このタイミングがそうなるのは客観視すれば当然の帰結なのだけど、わたしはそれを狙ったわけじゃないので、幸運と呼んでも差し支えはない。わたしの掌底は相手の出鼻を叩き潰すタイミングだった。相手の出掛かりにかぶさって。
 つまりカウンター。三人目自身の突進力とわたしの掌底、二人分の威力が顔面をしたたかに打ち抜いた。二人分の不可視の手応えは腕が痺れるほどだった。やりすぎた、と反射的に思ってしまったほどだ。
 三人目は膝から崩れ落ちた。
「やるじゃねえか。間合いをかぶせたな。その調子。残り四人。練習台は、まだまだ残ってるぜ」
 再度、後退したお兄ちゃんが、わたしの隣に並んだ。どうやらこのパターンが続きそうだ。お兄ちゃんが露払い。わたしが一騎打ち。
 それにしても、やはり簡単には行かない。間合いを奪うには至らない。なにが違う。お兄ちゃんがやってみせた例、相手は打ちたくても打てない状態だった。
 どうして打ちたくても打てないのか。それはわたしも経験している。この状態から打ってもだめだと思ったのだ。この状態。
 どんな状態?
 ここにヒントが隠されていそうだ。
 あれがいわゆる間合いを奪われている状態だとして。
 間合いとは距離、速度、タイミング。相手の距離、速度、タイミングを予測して、わたし自身の距離、速度、タイミングと比較して、そしてわたしはだめだと思った。
「あ、そっか」
 なんとなく分かってきた。
 キーワードは、予測。予測を裏切るんだ。
「男だ! 男のほうから片づけろ!」
 残り四人。
 四人のうちだれかが言った。お兄ちゃんがわたしを見る。その視線の言わんとしていること。お兄ちゃんを襲ってきたやつを、わたしに流すから、そいつを打て。わたしはうなずいた。
 二人同時にお兄ちゃんに襲いかかる。わたしはうしろに大きく跳んで、いつ四人目を回されてもいいように空間を用意する。
 一人は頭を狙ったハイキック。もう一人は下半身を狙ったローキックを打ち込んだ。
 上下同時攻撃を、お兄ちゃんは一歩踏み込むことによって受け止めた。ただし手を使わずに、だ。
 ハイキックは頭に当たらず、すねの部分が肩に激突していた。お兄ちゃんは揺らぎもしない。かえってハイキックを打ち込んだ本人が尻餅をつきそうになっていた。
 ローキックは、すねというより、もうほとんどひざの部分がお兄ちゃんの足に激突していた。さっきから激突という表現を繰り返しているのは、お兄ちゃんの様子が、まるで大型トラックが障害物を蹴散らすようだからだ。
 ローキックを打ち込まれても、お兄ちゃんは微塵も動じなかった。ローキックを打ち込んだやつが痛そうにうめいた。そのとき、お兄ちゃんがちらっとこちらを振り向いた。合図だ。
 お兄ちゃんは、そこからさらに一歩踏み込んだ。ハイキックを蹴ったやつを体当たりで弾き飛ばす。そしてローキックを打ったやつの背後に回り込み、前蹴り。わたしのほうに蹴飛ばした。
「うおお、っと!」
 四人目は間抜けな声を上げながらけっつまずいたが、わたしに気付くと、なにやら目を輝かせた。
 ったく。
 もう慣れてきたけど、こいつらわたしのことなめまくってんだよなあ。そりゃあ弱いけど。弱いけど。けど、だからって、反撃さえしないものと思っているかのような、わたしを、女の子を、従順な人形と勘違いしているような態度は。さすがに、さ。
 顔面潰してやる。

 手のひらに、あの感触がよみがえる。
 イメージする。あの不可視の手応えを、この四人目に叩きつける光景を。それはひどくたやすいことに思えた。
 四人目はつまづいた状態から持ち直すと、わたしめがけて走ってくる。たぶん、わたしを押し倒すつもり。
 相手が攻撃を仕掛けようとしている距離、速度、タイミング。考えるべきは自分の間合いではない。相手の間合い。それがさっきの間違い。
 さっきは自分の間合いのことばかり考えて、早く、速く打つことだけ考えていた。それは違ったんだ。それではただの早撃ち勝負だ。
 お兄ちゃんは間合いをかぶせたと言った。その意味が分かった。わたしは相手の間合いに自分の間合いをかぶせて、同じ間合いのなかで速さ比べをしただけだったのだ。不意打ちみたいな感じになったから、たまたまうまくいったものの、ちょっとでもなにかが違えば。ちょっとでも。そうしたら、いまこの瞬間鼻血の海に沈んでるのがわたしでも不思議じゃない。
 で、それを踏まえて、どうするかというと。
 相手の予測を裏切る。距離も速度もタイミングもすべて的外れのところに持っていく。
 見当違いの方向に飛んでいく銃弾は怖くはないということだ。
 ま、言うはやすしなんだけど。
 最初にわたしがタイミングを奪われていたのは、速度を変えずに走っていたのが一番の原因だった。そんなの相手からすれば予測しやすいに決まってる。そしてわたしは用意万全で待ち構えている相手を前にして、打ちたくても打てない状態になってしまった、というわけだ。
 で、この四人目の場合。
 わたしを押し倒すつもり。その距離、速度、タイミングをずらすには。わたしは四人目が飛びかかろうとする寸前、一歩前だけ出た。たったの一歩だけ。それだけで四人目に躊躇いが生じた。間合いを奪った。
 かに思えたが。
 次の瞬間。
「うおおおッ!」
 うっそ。やばっ。
 四人目は跳んだ。押し倒そうとするのではなく、肩からぶつかりにくる、体当たり。戦術の切り換え。わたしも予測を裏切られた。
 どうする? 打つ? 打たない? 打っても重量差で押し負ける。かといって避けるのは間に合わない。
 迷いが遅れを生んだ。迷いは一瞬だったが、そのときすでに相手の肩が、打つこともままらない位置まで迫っていた。
「きゃあ!」
 両手を突き出したが、そんなので受け止められるはずなく、わたしは後方に吹っ飛ばされた。男の力、女の体。生まれもったハンディキャップだった。
「ふう。まったく手間ァかけせやがって」
 体当たりから立ち上がった四人目が迫りくる。わたしはまだひざが床についている。いま襲われたら、なすすべもない。
「こ、こないでよっ」
「うへへ」
「こないでっていってるでしょ! いやぁ!」
「いいねえ。そういう反応。女はやっぱそうじゃないと」
「な、なによ。なに考えてんのよ! 最低!」
「がたがたうるせえ。そんなの決まってんだろ。もちろん」
「頭からっぽだから、なンも考えてないに決まってるじゃねえか」
 最後の声はわたしでも四人目でもない。それがだれか分かるより早く、二本の腕が四人目の胴体に絡みついた。
「投げっぱなしで勘弁してやらァ!」
「なっ! てめえ、やめっ!」
 そして四人目の上体が引っこ抜かれて、そのままむこうへ投げ飛ばされた。
 投げっぱなしジャーマン。プロレス技だ。
「うぉぉぉ」
 人間の体って、あんなに飛ぶんだ。うひゃー。
 もちろん、それをやったのはお兄ちゃんだった。わたしの味方はお兄ちゃんしかいないわけだから、驚くようなことじゃないんだろうけど、それでも驚いてしまう。
「お兄ちゃん!」
「惜しかったな、るか。いい線いっていた。けど、間合いを奪うことに囚われすぎだ。これは喧嘩だ。試験じゃねえんだから、間合いを奪えなくても、だれも怒りやしねえよ。その代わり、勝たなきゃ全部意味がない。どんだけ無様でも、汚い手を使っても、なにがなんでも勝たなきゃいけないんだ」
「うん」
「だから、間合いを奪えなくても、なんとか手を出すようにしろ。そこから突破口が開くかもしれない。あと敵を待つな。飛び込め。勢いをつけていけ。流れに乗れば、ほら、さっきのあいつ、間合いを奪われても無理矢理攻めてきたろ」
「うん。びっくりした」
「ああいうふうに、いざってときに体が動いてくれる。さあ。もっかいやってみろ」

「一人も倒さなかったんだ?」
 四人とも残っていた。つまりお兄ちゃんは一人も倒さなかったということだ。
「ああ、ジャイアントスイングしていた」
「なにやってんの」
「俺が倒すわけにいかねえだろ」
「でも、だからって、ジャイアントスイングって」
「そういってくれるな。あれでなかなか効果的なんだぞ」
「そりゃそうなんだろうけどさー。でもさー」
 わたしがやるかやられるかのときに、なにやってんの、という感想を、やっぱり抱いてしまうわけで。こんなところでジャイアントスイングされたら、そりゃあ近寄れないから、確かに効果的なんだろうけど。
「次も同じようにやるからな」
「わかった。うしろでスタンバってればいい?」
「俺が捌くから、そいつを倒せ」
 倒せ、という言葉を強調してお兄ちゃんは言った。間合いを奪うことに囚われず、とにかく勝つこと、倒すこと。
「わかってるよ」
「なら、いい」
 殺気立った四人が徐々に近付いてくる。
「このやろう、おちょくりやがって」
「殺す。ぜってえ殺す」
「女は後回しだ。まずは男だ」
 うっわー。
 みなさん相当怒ってらっしゃる。なにやったのお兄ちゃん。ってジャイアントスイングやったんだよね。
 わたしはお兄ちゃんの後方で獲物が放り込まれるのを待ち構える。お兄ちゃんは散歩みたいに気楽な調子で、ずんずん間合いを詰める。
「おうおう、吠えるな吠えるな、犬っころ。そんなに吠えなくてもてめえらが弱いのは先刻承知よ」
「なんだと、もっぺん言ってみろ!」
 先頭に立っていたやつが殴りかかった。お兄ちゃんはひょいとかわすと、背後に回り込み、そいつの背中を突き飛ばした。
「うおっ」
 と、わたしと目が合う。わたしに体当たりして、お兄ちゃんに投げ飛ばされたやつだった。かれは一瞬、背後を気にしたが、お兄ちゃんが背後から襲ってくる様子はなく、残りの三人と対峙しているようだと理解してから、わたしに向き直った。こいつが再度、獲物、四人目。
「男の前で犯すってのもありだな」
 四人目は言った。お兄ちゃんのほうに戻らず、わたしと戦ってくれるのは、こちらの思惑通りなんだけど、それにしても邪悪な思考だ。
「さっきの続きだ、観念しろ、女」
 あっそ、やってみな。
 わたしは口の中で呟いた。こいつと言葉を交わす気はない。お兄ちゃんは流れと言った。
 このまま喋らせても、こいつの流れだ。わたしの流れに持ち込むために。
 問答無用で駆け出した。
「クッ! ひとの話聞けよ!」
 四人目が身構えた。その直後、三段跳びの要領で飛び込む。
 予測の内側に飛び込んだ、と実感。四人目は打ちたくても打てない。けど、まだ時間に猶予がある。一秒に満たない時間も、戦いにおいては、行動を起こすには事足りる。
 四人目は構えを変えた。さっきと同じだ。体当たりをぶちかます気だ。
 けど、まだ。まだ流れはこちらにある。もう一度、間合いを奪い返せ。
 三段跳びの要領だ。あと二段残っている。
 もういっかいわたしは跳んだ。
「ッ!」
 強引な飛び込み。斜めに跳んだから、わたしと四人目は、すれ違いそうになる。けれど、ここはわたしの間合い。わたしなら打てる。打てる。打てる。
 打ち込む距離を確保するために上体をうしろに回す。背筋は反り気味になる。足幅は狭くなる。
 足払いされたら、すっ転ぶ。でたらめな体勢だと分かる。けど、こうでもしなきゃ打てそうにない。
 窮屈な体勢で手のひらが射線上に目標を捉える。もっと。もう一押し。このままじゃ当たるだけ。倒すためには、もっと。もっと。もう一歩。最後の三段目。
 ずだん、と足を地に打ち込んだ。まるで杭を打ち込んだかのように。わたしの体が根を張る。
 安定。回転。射出。
 三段目を踏み込んだ瞬間、掌が、肩が、体が、一個の打撃装置と化した。わたしの意志を受け継いで、体は自動的に掌底を打ち出していた。
 目に見えないレールの上を、まっすぐに掌が走る。
 当たる。止まらない。さらに打ち抜いて。
 不可視の手応えが腕を抜けた。
 スローモーションの世界で、四人目は倒れようとしていた。体当たりはこなかった。打ちたくても打てない状態だったんだ。
 どさり、四人目の体が落下した。
「ぷはぁ!」
 荒く息を吸う。息を止めていた。できた。倒した。間合いを奪った。
 けれども。
 嬉しいとは思わなかった。達成感や興奮を感じても、やりきれなさが残っていた。こんなことをしても意味はない。わたしは生き残っただけ。
 降り懸かる火の粉を払っても、嬉しいと思うひとはいないだろう。そういうことだ。わたしは必要なことをやり遂げただけなんだ。しかも。
「次いくぜェ!」
 お兄ちゃんが五人目を寄越した。
 残り三人。
 まだ終わっちゃいないんだ、レッスン2は。
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