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レッスン3
 全員倒し終えたとき、煙は晴れきっていた。
 ガスマスクを外して、お兄ちゃんが言った。
「レッスン2、完了だ」
「次」
「ん?」
「次は、なに?」
「レッスン3は明日だ」
「今日は、あと、どうするの?」
「今日はもう休みだ」
「休み?」
「疲れただろ」
 どうなんだろう。疲れていると思うけど、おなかは空いてないし、よく分からない。
 ガスマスクを外しながら、わたしは言った。
「まだ体は動くけど」
「痛いところは」
 五人目以降、何度か突きや蹴りを喰らったりした。地面を転がされた。背中を打った。
 そのどれも特に痛みは残っていなかった。
 時間が経っていないせいなのかな。よくわからないけど。
 とりあえずいまのところ、痛みは、
「ないよ」
「自覚はねえんだな」
「なに、自覚?」
「疲れきった顔して、ぼーっとしてる」
「そう? わたし、ぼーっとしてる?」
「よくやったよ、るかは」
 そんな会話を交わしていると、シャッターが駆動音と共にせり上がり始めた。
 わたし、ぼーっとしてるのかな。
 シャッターが上がりきると、あの黒服たちがやってきた。わたしは反射的にお兄ちゃんの背後に隠れた。
 黒服たちは一人一人倒れているヤンキーを袋の中に詰めて連れ去っていく。その光景をわたしは、ひとさらいのようだと思った。
 黒服たちはがやがやとなにか喋りながら七人を運んでいく。その会話は、よく聞こえないし、聞きたくもなかった。ただ、かれらは共通して、わたしたちの横を通り過ぎるとき、好色そうな目でわたしを見ていた。
「こんなところまで連れ込んで、お楽しみの最中だったのかい、監督者」
「ククク、役得だァな?」
 最後の二人組が、そんなことを言った。
 お兄ちゃんはすました顔で、
「そんなところだ」
 と答えた。どういうことだろう。
 そして客席通路に残されたのが二人だけになると、
「すまねえな」
 お兄ちゃんは、なぜか謝った。さっきの黒服たちの態度のことだろうか。
「監督者ってのは、選手を管理するのが仕事だが、俺の前の代までは、監督者は選手を喰っていたんだ」
「喰っていたって、それって、やっぱり」
「姦っていたってことだよ」
 苦々しくお兄ちゃんは言う。
「俺は、そのイメージを利用して、るかと二人きりになれるように仕組んでいる。おおっぴらに戦い方を教えることはできないからな。お兄ちゃんと呼ばせているのも、あいつらに勘違いさせるためだ」
「あ、そうだったんだ」
 納得。
 どうしてお兄ちゃんが、お兄ちゃんなんて変な呼び方にこだわるのか分からなかったけど、これで疑問が氷解した。あいつらになにか変なプレイをしていると思わせるためだったんだ。
「これからも、あいつらはるかのことをいやらしい目で見ると思う。気持ち悪いだろうが、なんとか耐えてくれ。すまん」
「ううん。いいよ、そんな。もう慣れたから」
「ありがとな」
 それはわたしの本心だった。本当にもう慣れた。けど、お兄ちゃんは寂しげだった。違和感を覚えた。らしくない。これまで見てきたお兄ちゃんなら、もっと力強く、強引に、あいつらを騙せ、騙されるほうが悪い、勝つために利用できるもんは、なんだって利用しろ、くらい言い放ちそうなもんだ。
 謝るなんて、らしくない。なにか事情が。いや。
 事情は、ない。お兄ちゃんの素の感情が出ているんだ、と直感した。
「ねえ、なんで、こんな仕事しているの?」
 勘と推測。確信なんてありやしない。けれども、もしわたしの直感が当たっているのだとしたら、お兄ちゃんは、どうして自分の嫌なものを見なくちゃいけない、こんな仕事を選んだのだろうか。そこにこそ、なにか事情がありそうな気がした。
「腕っ節だけが取り柄だからな」
「そうじゃなくて、真剣に」
「真剣に、なんだ?」
 わたしは、お兄ちゃんの目をまっすぐに見た。お兄ちゃんの目は揺れていた。それを悟られまいとするかのように、お兄ちゃんは顔を背けると、
「復讐だ」
 一言だけ言って、客席通路の出口へと歩きだした。それ以上、なにか聞き出せそうな気配ではない。わたしも無言でお兄ちゃんのあとをついていった。

 シャワーを浴びて、お兄ちゃんが運んできた食事を食べ終わったら、電池が切れたように布団の上で意識を失った。ちょっと横になろうと思っただけなのに。
 なにか夢を見たような気がする。見なかったような気もする。いずれにせよ眠りの中まで続いた熱さがすべてを塗り潰した。
 疲れと痛みの混ぜ合わさった熱気は、わたしのからだとこころのなかで燃え続けた。からだとこころの芯を炙り続けた。
 戦いが好きでも嫌いでも、この熱さが、わたしの生き残ったあかし。それを眠りのなかでも感じていた。わたしは、わたしの命を感じていた。
 そして朝。

 朝食と一緒にお兄ちゃんは新しいドレスを持ってきてくれた。相変わらずのゴスロリだけど、デザインが違った。
「昨日のは破けているだろう。そっちに着替えとけ。それくらい、なんとかなる」
「ありがとう」
「体の調子はどうだ?」
「打たれたところが痛くなってきた。あと筋肉痛も」
「ま、安心しとけ。昨日ほどハードなこたァしないからよ」
 どうだかなー。
 昨日ほどハードなことはしないと言っていたけど、そういう言葉は信用できない。お兄ちゃんの基準は信用できない。
 お兄ちゃんの復讐について、あれ以降、聞き出すチャンスがない。聞き出せる雰囲気でもない。あれ以上、無理に問いつめても、頑として口を割らないだろう。でも、きっと、いつか、そのうち、もっとお兄ちゃんと仲良くなることができたら。
 いまは、わたしの戦いのことを考えなくちゃ。
 まずは戦いありきの関係なんだから。
 新しい服は、昨日よりは手早く着替えることができた。昨日とは違うデザインだから、ちょっと戸惑ったけど、ゴシック・アンド・ロリータという服の着方が、ちょっとだけ分かってきた。
 着替え終えて、ドアをノックする。部屋の内側からノックするのは奇妙な感じだけど、それでお兄ちゃんは鍵を開けてくれて、わたしは廊下に出た。
「今日はるかに、いくつかの技を教える」
 技、教えてくれるんだ。
 意外だった。お兄ちゃんの教え方はスパルタだから、ひたすらに実戦で、習うより慣れろという方針かと思っていた。
 驚いたわたしが目を丸くしているのに無頓着に、お兄ちゃんは先に歩きだした。そのあとをついていく。こっとは地下闘技場のはず。どうやら今日も、あそこでレッスンという運びのようだ。
「昨日は、まずは覚悟を決めてもらった。どんな技を教えても、それを扱える精神力がないと、くその役にも立たない。たまにプロの格闘家が、ずぶの素人に喧嘩で負けるって話、聞いたことないか」
「ううん、ない」
「女の子はそういう話には興味はないか。まあ、そういうことは、たいていの場合、覚悟の差に起因している。たとえばヘッドギアをつけている人間じゃないとおもいきり殴れないとか、グローブをつけていないと、とか、なにより、どんな卑怯な手を使ってでも勝つという、きったねえ覚悟がないと、その差で負ける」
 なんとなく想像できる。
 相手の顔面にフルスイングなんて、あんなことがなければ、できなかった。やるかやられるか、だからできたことだ。
 そこで迷っていたら、間合いを奪われて、どんな技を持っていても、打ちたくても打てなくなる、というのも想像できる。
 まずは覚悟を決めないと、どうしようもない。引き金を引く覚悟がないと。わたしは昨日、引き金を引くことを覚えた。
「ようやっと、るかは技を覚える段階になったということだ。はっきりいって顔面にフルスイングなんて正気の沙汰じゃねえ。狂ってる。だがな、こんな狂った場所では、そういう狂気を持ち合わせてねえと生き残れねえんだ」
「ひどい話だね」
 わたしは他人事のように言っていた。戦っているときのわたしは、わたしであってわたしでない、別のわたしのような気がする。だからかもしれない。
「そうだな。ひどい話だ。さらに、そのひどい話を、当事者たちが忘れちまっている。狂気の矛先が自分たちに向かうとは考えちゃいねえ。るか。あいつらに目にもの見せてやれよ」
「うん。わかってる。わたしだってむかついてるんだから」
 あの光景を思い出しても、恐怖以外の感情もわき起こるようになってきた。あいつら、わたしを、女を、なんだと思っているんだ。
 一方的にやることしか考えていない。あんなやつらにやらせはしない。やってやる。やっつけてやるんだから。
 地下闘技場に着いた。
 それでもわたしは、そこに椅子に縛り付けられたひとがいないことに安堵してしまうのだった。やっぱいやなものはいやだって。

 お兄ちゃんはオクタゴンのうえに上がると、わたしを手招いた。お兄ちゃんが相手をする、ということか。ほっとするような、かえって痛めつけられる羽目になりそうな。
「来い。レッスン3。防御技を教えてやる」
 頷いて、わたしもオクタゴンのうえに上がる。
「どうして攻撃より防御を優先して教えるか分かるか?」
「えーと」
 なんのための防御か。
 そんなの、ひとつしか思いつかない。
「倒されないため?」
「そうだ。最後まで立ち続けた者が勝者だ。攻撃なんてどうにでもなるもんだ。女子供の腕力でも顔面にフルスイングがヒットすれば大の男でもノックアウト、肝心なのは、その攻撃を当てるまで立ち続けることができるかどうかだ」
 なるほど。
 体験していることだから、すぐに納得できる。
「で、まずは基礎の基礎、受け身から教える。受け身は知っているか?」
「柔道の受け身?」
「そうだ。投げられたり、タックルされたり、オクタゴンのような場所だと金網に叩きつけられたりしたときにも役に立つ。ふつうは前回り受け身から教えるが、まどろっこしいから体で覚えろ」
 え、なんか嫌な予感。
 と思う間もなく、お兄ちゃんに袖と襟を掴まれるや、世界がぐるんと回り、上下左右、水平感覚が喪失して、わたしは背中からマットのうえに叩きつけられていた。
「がはッ」
 衝撃が背中を、肺を、横隔膜を殴打して、残されていた空気が押し出されると、それっきり呼吸ができなくなる。
 陸に上がった魚のように口をパクパクして、痺れが治まって、ようやく呼吸ができるようになった。
 息を吸い、酸素を肺に送り込んで、よろよろと立ち上がる。
「いまのが背負い投げだ」
「ちょ、いきなりやらないでよ」
「体で覚えろと言ったろう。もう一度味わいたくなければ必死で覚えろ。ポイントは衝撃の分散。腕と足を同時に地面に叩きつける。ただし頭だけは持ち上げておけ。こうやるんだ」
 と、お兄ちゃんはマットのうえで実演してみせた。腕と足の振りが強く、体が浮き上がりそうな勢いだった。
「わかったか?」
「う、うん」
「それじゃあ、やるぞ」
 わたしは溜息をついた。わかってもできるとは限らない。あと何度投げられる羽目になるのか考えると逃げ出したくなった。

 背負い投げに始まりさまざまな投げ技で受け身を取らされた。幸いにも背負い投げでこつを掴んだようで、たいてい一度か二度で受け身を取れた。しかし投げられすぎて、なんだか気持ちが悪い。これ以上投げられたら吐いてしまいそうだった。
「それじゃあ次は打撃の受け払いを教える」
 とお兄ちゃんが言ったときは、やっと投げから解放できると内心喜んだが、次の発言でそれも台無しになった。
「俺の上段突き、中段突き、下段突き、ハイキック、ミドルキック、ローキックを受けてもらう」
「それ死ぬって!」
「寸止めだから安心しろ」
「ほんとに?」
「受け損なって骨ェ折れたらまずいからな」
 そんなこと言われたらますます怖くなるんですけど。
「いくぜ」
 と。
 またもやわたしの心の準備が整うより早く。ぶわあ、と風が顔を襲った。目の前に拳があった。
 拳圧だけで、風が。
 まともに喰らっていたら。
 頭蓋骨を粉砕される場面を想像してしまった。
「見えたか?」
「全然」
「拳そのものを見ようとするな。そんなの俺だって見えやない。動いているものを目で追おうとしても無理だ。止まっているものが動き出す、その瞬間。拳の出がかりを見るんだ」
 わたしの恐怖が薄れるよりも早く、お兄ちゃんは次を放った。次は中段突きだった。胸に触れるか否かのところで拳は停止していた。
 見えなかった。またもや想像してしまった。この拳が胸骨を粉砕して内蔵まで傷つけてしまう場面を。
「びびってんじゃねえよ」
 お兄ちゃんが言った。
「当たったら痛い。怖い。それは当然の感情だ。俺だって痛いのは嫌だ。何百、何千、何万回と殴られても慣れやしねえ。だからこそ防御を覚えて、ちっとでも痛い目ェ遭わないようにするんだ」
 そこでお兄ちゃんはなにか思いついたように、
「そうだな。寸止めってのがいけないかもしれないな」
「え?」
「次は当てる。そのほうが必死になるだろ」
「え? ええっ?」
「チョップするみたいに相手の腕を払うんだ。拳ではなく腕を狙え。こうやって、な」
 と、お兄ちゃんは実演してみせたが、
「いきなりなんてむり! ぜったいむり!」
「むりならげろ吐いて、できるまで続けるだけだ」
 ずん、とお兄ちゃんは深く身構えた。お兄ちゃんの目が違う。覚悟の目だ。わたしを殴ることに決めた目だ。
 なんとかしなくちゃ。わたしがなにもしなくても、お兄ちゃんは本当に殴って、わたしは本当にゲロを吐くことになる。
 やるしかない。スイッチを入れる。わたしもお兄ちゃんを殴る。実際には殴らないけど、そんな心づもりで臨むんだ。
 お兄ちゃんの拳を払う。違った。腕を払うんだ。お兄ちゃんの突きの軌道を逸らす場面をイメージする。
 見えない拳をどうやって払うのか。
 うまくイメージできない。銃弾を素手で受け止めるような心境だ。でも、とにかく手を出すしかない。やるかやられるかだ。
「覚悟は決まったようだな。いくぜ」
 お兄ちゃんの体が動いた。動いたことが分かっただけで、拳がどういう軌道でくるのか、肝心のそこが分からない。それでも下段突きだとは分かっているから、その前情報を頼りに、腕を振った。お兄ちゃんの腕のくると思うところに、チョップ。
 肘。肘の内側に当たった。軌道は変わらない。遅かった、チョップを出すのが遅かったんだ、と気づくと同時、みぞおちに拳がめり込んでいた。
「ゲハァ!」
 げろは吐かなかった。代わりにありったけの空気を吐いていた。投げられたときの非じゃない。苦しいとか、痛いとか、そういうレベルじゃなくて、自分のおなかがどうなったのか、なにがなんだか分からなくなる。体が前のめりになって、くの字になって、ばたんとマットのうえに倒れ込んだ。
 陸で溺れる。本気でそう思った。まったく酸素が吸えなかった。わたしの肺は壊されて、このまま酸素を吸えなくて死んじゃうんじゃないか、と本気で思った。投げられたときも酸素が吸えなかったけど、あのときは一時的なものだとわかっていた。
 みずおちに喰らうと、こんなに苦しいんだ。これやばいって。みぞおちなんて殴っちゃいけないって。
 わたしも今度使おう。
 攻撃的な意志が灯った。歯を食いしばる。全身に力を込める。ばらばらになっていたからだの統率が戻ってくる感じ。よし。
 くぱぁと口を開いて、大きく呼吸。無理矢理酸素を肺に送り込む。
「ハァーッ! ハァーッ!」
 こんなに吸っているのに、肺まで届いているのは、その何分の一の酸素量か。それでも酸素を吸えたことで闘志は復活した。酸素を吸えた。まだ生きてる。もっと吸え。そして立ち上がれ。
 手を床につく。四つん這いの姿勢から徐々に体を起こす。ゆっくり、ゆっくり体は回復していく。そしてわたしは立ち上がった。
「ほんとに当てるなんて」
 息も絶え絶えにわたしは言った。
「わたし、今日から魚に優しくできると思う。陸に打ち上げられた魚限定で。あれって苦しいんだね。びちびち跳ねるの納得した。わたしも跳ねなきゃやってらんない気分」
「そうか。そいつァいい経験だな」
「ねえ、次さ、わたしも打ち返していい?」
「ほう?」
「勢い余って打ち返しちゃいそう」
「威勢がいいじゃねえか。いいだろう。やってみろ。というか、最初からそのつもりだったんだ。最終的には反撃まで教え込もうと思っていたんだが、ふふん、弟子がやる気を出したからには、師匠も張り切らないといけねえなァ?」
 あれ、なんか余計な火に油を注いだ雰囲気。牽制のつもりだったなんていまさら言えない。

「ところで、格ゲーはやったことあるか?」
「ちょっとくらいなら」
「格ゲーみたいなガードを真似すんなよ。あんなの嘘だから。せめてグローブでもつけてなきゃ、あんなガードの仕方、腕が折れる」
「そうなの?」
「やっぱそんなことも知らなかったか」
 お兄ちゃんは頭を掻いて、
「受け払いってのは、受けて払う、ふたつでひとつだ。受けて、打撃を捕らえて、払う、軌道を逸らす。さっきるかがしくじったのは、受ける動作が不完全だったからだ。こうやるんだよ」
 と、お兄ちゃんが半円を描くように腕を下ろした。チョップというより腕を差し込む感じだ。あれなら逸らすこともできる、と思った。
「るかがさっきやろうとしたのは弾くって感じだったな。それはそれでありだが、それには力が必要だ。押し負けないだけの力が。やりようによってはるかにもできなくもないが」
「どうやって?」
「それはあとで教える。いまは逸らすほうに集中しろ。受け払いのほうが難易度低いんだ。さっきみたいに倒されたら、格闘技の試合だったらテンカウント、地下闘技場ならレイプショーの始まりだぞ」
「分かった」
「で、ハイキックの受け払いだが、ハイキックは上に逸らす。空いてるほうの手は相手を小突く。力を込めなくてもいい。相手は片足立ちだからバランスが悪い。ちょっと突くだけでよろけてくれるから、そこを思いきり、打つ」
 お兄ちゃんがハイキックを受け払うと同時、相手の懐に潜り込み、小さな掌底から大きく踏み込んだ掌底に繋げるモーションを実演した。なんだか演舞を見ているみたいだ。
「それじゃあ、いくぜ」
「うん」
 お兄ちゃんと対峙。構える。
 ハイキックがくるのは分かっている。腕を差し込め。軌道を逸らせ。受けて払って飛び込んで掌底。相手がよろけたら、もう一回掌底。頭のなかでイメージする。さっきの下段突きのときよりも鮮明にイメージできた。
 間違っても力比べを挑むような受け方をしないこと。お兄ちゃんに勝てる気がしないし、下手すりゃ腕が折れる、らしい。それも鮮明にイメージできたが、こっちは実現させちゃいけないイメージだ。
 さーて。
 お兄ちゃんは、いつくる。いつくる。
 出がかりを見逃すな。止まっているものが動き出す、その瞬間を見逃さなければ、ハイキックがくることはわかってるんだから、なんとか受け払うことはできるはずなんだ。
 オクタゴンを静寂が満たす。時間が止まる。止まる。止まる。
 かちり。
 時計の針が動き出すように、ほんのわずかに、でも確かにお兄ちゃんの足が動いた。その足を軸にして、反対の足が跳ね上がる。
 ハイキックだ。わたしの頭を狙ってくるんだから、と軌道を予測して、そこに肘を差し込む。蹴り足が上にずれる。そこに飛び込む。
 蹴りが頭上を薙いでいく。これが当たっていたら首の骨折れるんじゃないかとびびりながらも、掌底。ハイキックを振り終えたお兄ちゃんは背中を晒して無防備な姿勢だ。
 ぱしん。
 後頭部を狙った掌底は、頭蓋骨よりひとまわり小さいものによって進行を遮られた。お兄ちゃんの拳だった。
「俺がいうのもなんだが、ふつーいきなり後頭部狙いにいくか?」
「勢い余っちゃって」
 事実だ。
「これ練習だぞ、練習。俺を本気で倒しにくるとはなあ」
「でも当たらなかったじゃん」
「俺、こういう姿勢だっただろ」
 と、ハイキックを振り終えた姿勢を再演するお兄ちゃん。ハイキックの慣性によって前かがみになっているせいで、無防備にも背中は丸出しになっているが、後頭部の位置は遠くなっている。遠くなっていると、いま気づいた。さっきは後頭部しか見えていなかった。
「横目に見たら、めっちゃ大振りでるかが迫ってきてるじゃねえか。さすがに焦ったぞ」
「ごめんなさい」
「なに、積極性なのは褒めこそすれ、叱るようなことじゃないさ。ただし最初は小さくと言っただろう。大きく打つのは二発目だ。ワン・ツーだ」
「最初はそのつもりだったんだけど、つい」
「ふん。意外と怖いタイプなのかもな」
 そして再び距離を取る。
「次はミドルキックいってみようか」

 ミドルキックはバックステップでかわしてから、通り過ぎる蹴り足を加速させるように払い、と同時に横に回り込んで、まずは防御させないように腕か肩か胴を打ってバランスを徹底的に崩してやる。そこへとどめの一発。
 ローキックは受け払い、できない。やりようによってはミドルキックのように蹴り足を払って相手の体勢を崩すこともできるそうだが、それは難しいからとお兄ちゃんは説明を省略した。
「蹴りのほうが難しい?」
 一通りやり終えての感想だ。なんだか蹴りのほうが受け払いしにくい。ローキックにいたっては避けるか受け止めるかするしかない。だからこそローキックのもてはやされている所以だ、とお兄ちゃんは言った。
「そうだな。蹴りのほうが間合いが遠いしパワーもある。一般的に突きの三倍の威力と言われている。その代わり、懐に飛び込んでしまえば威力を発揮できないから、実際には防ぎやすいんだ」
「どういうこと?」
「間合いを外すと言ったろう。間合いってのは実際には点なんだ」
「点?」
「支点と力点ってやつだ。威力が最大になる一点さえ外してしまえば、るかの体格でも男の蹴りを、俺の蹴りだって受け止められる」
 なんだか信じられない。お兄ちゃんの蹴りを受け止めようものなら枯れ木のように粉々に砕け散りそうだ。
「ただし、それなりの威力を受け止めることになるから、ちゃんとした体勢でないと力負けてして吹き飛ばされることになる」
 あ、やっぱり。そっちのほうがイメージしやすい。
「説明はこんなところで、それじゃ、やってみるか」
「受け止めるの?」
「安心しろ、まずは感覚を掴んでもらうだけだ。さすがにいきなり受け止めろとは言わないさ。こっちきな。もっと近く。そう。それくらいでいい」
 言われるがまま、お兄ちゃんの近くへ。キスでもするのかってくらい近く。
「手を貸してみな」
 言われるがまま手を差し出す。その手をお兄ちゃんは、自分の肩の上あたりに持っていった。
「いまからパンチを打つけど、いいか。動くなよ。ちゃんと受け止めろよ。下手に動いて指に当たったりしたら危ないからよ」
「う、うん」
 不安でいっぱいだった。これでどうなるのだろうか。
 お兄ちゃんが拳を振りかぶった。パンチの軌道の上にある手のひらが、反射的にぴくりと反応した。けど、なんとか思いとどまって。
 ぱしん。
 衝撃で手のひらがしびれた。けど、それだけだ。わたしの手のひらはお兄ちゃんの拳を受け止めていた。
 実際、手のひらに感じた衝撃は、キャッチボール程度のものだったのだ。
「え、なに、手加減してくれたの?」
「いいや、全然」
「でも、だって」
 お兄ちゃんのパンチが、こんな威力のはずがない。
「映画で見たことないか? 悪党が殴りかかろうとして、それを受け止める主人公とか。そして主人公がにやりと笑って、ふふん、遅いぜ、とか言うんだ」
「ごめん、そういう映画、見たことない」
「むう、そうか。やっぱ見ないか。ま、よーするに、拳が加速するまえに、体重が乗るまえに止めちまうんだ。拳の威力が最大になるのは」
 と、お兄ちゃんがパンチを打つふり。
 打ち終わった姿勢で止まる。
「ここ。この一点だけ。これより近ければ体重が乗りきらない。これより遠ければ体が泳いでしまう。もっと遠ければ、そもそも当たらない。で、近くで受け止めることを推奨するのは反撃を考えてのことだ」
「避けたあとで反撃するのは?」
「遠くへ逃げては、こっちの攻撃も当たらないだろう」
 なるほど、道理。
「受け止めるコツは、なるべく近くで受け止めろ、だ。一番いいのは出がかりを潰すこと。相手がみえみえのパンチを打とうとしたら、振りかぶったところで止めてしまえばいい」
 イメージする。パンチがくることが分かっている状況。振りかぶった拳を、加速するまえに、出がかりで止めてしまう。
 なんとなくお兄ちゃんがやった、ふふん、遅いぜ、の意味がわかった。相手が打ち始めるより早く潰してしまうんだ。
「わかったか?」
「うん、大体」
「それじゃあ、練習に入ろうか」
 ぐっとお兄ちゃんが腰を下ろした。
「パンチを打つ。上中下段どれがくるかは自分で想像しろ。とにかくなんでもいいからパンチの出がかりを潰して、そして反撃だ」
 しん、と空気が静まり返る。この緊張感にも馴染んできた。この空気になったら、やるっきゃない。そういうふうに自然と覚悟を決められるようになってきた。
 パンチを打つと言った。
 上中下段どれがくるかは自分で想像しろとも。
 どれがくる。どれが。上段、中段、下段。教えてくれないなんてずるい、と思う。実戦では、わざわざ宣言してから殴りかかるおばかさんはいないから、こっちのほうが実戦的な練習だとは理解しているけど。
 出がかりを潰す。上段だったら、さっきみたいに受け止めればいいのだろうか。
 いや、できない。お兄ちゃんの拳は、やすやすとタイミングを合わせられるほど遅くはない。なるべく近い位置で受け止めることを考えるべきだ。お兄ちゃんはどうやって受け止めろと言わなかった。それは自分で考えろという意味ではないか。たとえば、やり方は簡単だけど、勇気のいる方法。
 手のひらで受け止めるのがむりなら。お兄ちゃんより早く動くことがむりだったら。どうすれば、お兄ちゃんのパンチの威力が最大になる一点より近くで受け止められるのか。
 近くで、近くで。近くで受け止めるためには。
 お兄ちゃんの拳が動いた。まっすぐ。いや、ちょっと下。
 どうやって受け止めればいいのかわからない。でも痛いのはいやだから、とっさに受け払いで下段突きをさばいた。
「ふむ。それじゃあ、もう一発だな」
 だけどお兄ちゃんは間髪入れずに次を打ってきた。この一発で終わりと思っていたわたしは中段突きをもろに喰らってしまった。
「がっ」
 肋骨。心臓が。
 苦しいというより痛い。はすぐに立ち上がることができたけど、いまにも痛みで泣きそうだった。
 心臓のリズムがおかしい。動悸が激しいのは当然だけど、でたらめに鐘を鳴らしまくっている。気持ち悪さがこみあげてくる。
「できるまで続けるぞ」
 そんなわたしにお構いなしに、お兄ちゃんは冷徹に言い放ったのだった。

「頭を使え、るか。どうしたら俺のパンチを受け止めることができるか」
 お兄ちゃんが言う。
「決してできないことではない。なるべく近くで受け止める。そのためにできる一番単純なことをすればいいんだ」
「わからない。教えてよ」
「考えろ。ちょっと考えれば小学生でもわかることだ」
 なによ、それ。すぐにわかればこんな痛い思いしてないって。ちょっとどころかむちゃくちゃ考えてるってのに。
「なるべく近くで、だぜ?」 
 そう言ってお兄ちゃんは再び構えた。まだわからないってのに、なんてスパルタ。
 なるべく近く、なるべく近く。お兄ちゃんの初動を警戒しながら、えんえんと考え続ける。なるべく近くで受け止めるためには。ちょっと考えれば小学生でもわかるくらい単純なこと。
 近くで受け止めるためには。
 あ。
 まさか。
 いやいやいや、それはない。それはない。それは危険すぎる。もし間違っていたらえらいことになる。
 そのとき、わたしの脳裏に、レッスン2で体当たりを喰らったときのことがよぎった。
 ひょっとすると、これで合っているのかもしれない。もしもわたしがあのまま打っていたら、どうなった。その答えが、この答えだ。
「やるかやられるか」
 呪文のように呟いた。
 お兄ちゃんの体が動いた。まっすぐ、一直線。中段突き。やはり速い。とてもじゃないけど手のひらなんかで器用に受け止められない。
 だから、わたしは大きく、できるだけ前に、お兄ちゃんに接近するために飛び出した。さすがに胸で受け止めるのは怖い。ちょっと体を横向きにして、肩。体当たりのように。
 肩に拳が突き刺さる。しかし勢いが足りない。加速しきっていない拳と、わたしの全体重の競り合いは、わたしの勝ちだった。勝った。お兄ちゃんの拳を肩で受け止めた。
 肩が痛い。青あざくらいになっているだろう。けど、それよりいまは、このチャンスを逃さないことだけを。
 お兄ちゃんの腕が泳いでいる。弾き飛ばされてコントロールを失った腕は、もはや脅威ではない。
 反撃のチャンス。
「しゅッ」
 掌底を打ちざま、口から蛇のような息が漏れた。
 狙うはお兄ちゃんの、腕。
 コントロールを失った腕を、さらに叩いて、だめ押し。
 ばしんと腕を打つ。
 胴体ががら空きになる。
 ここで本気の一発を叩き込む。ワン・ツーだ。
「フン!」
 肺の空気をすべて押し出すような呼気。ツーを放つ。
 そのとき、お兄ちゃんの体が動いた。
 前へ。
 間合いをずらされた、と理解した。このまま打っても通らない。わたしは腕の力を抜いた。そして掌底はお兄ちゃんの胴体に到達する寸前で止まった。
「できたじゃねえか」
 お兄ちゃんが言った。わたしは、でも、
「反撃、打てなかった」
「それでいい。むりして打つよりは次の手に移ったほうが利口ってもんだ。さて、これでレッスン3は大体完了だ。あとは間接技や投げ技の外し方まで教えれば完璧だが、そんなのまで仕掛けてくるやつはいないだろうから、これで充分。受け身、受け払い、受け止めて反撃。打撃対策はばっちりだな」
「受けるだけなの? 避けちゃだめなの?」
「避けるなんて教えなくてもできるだろ」
「あー、うん。そうだね」
 正直、避け方にもこつがあったりすれば教えて欲しかった。だって受けると痛いし。
「それじゃ、もーちょい受け止めて反撃する練習したらレッスン4に移ろうか」
「うん」
 素直に頷く。
 痛いのはいやだけど、いやだからと避けて通れない。わたしがからだで覚えたこと。
 やるかやられるか。
 青あざだろうが、なんだろうが、それで強くなれるのなら。やってやろうじゃないの。
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