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レッスン4
 受け止めて反撃。受け止めて反撃。受け止めて反撃。
 レッスン3は最後が一番辛かった。うまく受け止めることができても痛いものは痛い。もう体中、牛のたたきにでもされた気分で、くたくたで、ぼろぼろ。
「ねえ」
「ん?」
「レッスン4の前に休憩しちゃだめ?」
「だめだ」
「うー」
「疲れているからこそいいのさ」
「なんでよー」
「力が抜けた状態のほうがきれいに打てるもんだ。いまから攻撃を教えるから、そのコンディションがちょうどいい。それに、そんな激しくやらないから。レッスン4は」
「なにするの?」
「レッスン4は反則技だ」
「反則技?」
「目潰しや金的ってわかるか?」
「一応」
「じゃあ、それから教えよう。まずは目潰しだ。るかの知っている目潰しは、どんなんだ?」
「えーと、こうやって目を突く?」
 わたしは人差し指と中指で自分の目を突く振りをする。
「それ外したら指折れるぞ」
 お兄ちゃんが言った。
「確かにそのやり方はよく見かけるが、それは指が折れる危険性がある。こうやって、な。だから俺はおすすめしない」
 と、お兄ちゃん、人差し指と中指を自分の額に当てててみせる。指は反れている。なるほど、この目潰しだと、外したら、額に当たって、指が逆に折れてしまいそうだ。
「るか、なんのための目潰しだと思う?」
「なんのためって」
 そりゃあ、もちろん、
「目を潰すためでしょ?」
「なんのために目を潰すかと聞いてんだ」
「あ、そっか。えーと」
 そうだ。もっと考えないと。
「視界を奪うため?」
「正解だ。正解がわかったところで考えてみろ。視界を奪うために、なにもわざわざ目ン玉潰す必要はないだろ?」
「そういえば」
「だから、おれはこーする」
 お兄ちゃんは手のひらで自分の眼球を叩く振りをした。目の上に掌底を叩き込むような感じだ。
「掌底なら指が折れる心配はない。打つのは片目だけでいい。それでも一瞬、視界は潰せる。それで充分だろ」
「あー、なるほど」
 理にかなっている。それに指を突き刺すよりは、やりやすい。
「やってみろ。素振りでいい。ただし相手をイメージしてな」
「実際に打つことはしないの?」
「さすがに反則技ばかり叩き込めるような人間サンドバッグは用意できなくてな。そんなことすれば廃人だからなあ」
「いや、それはいいです」
 それはちょっとむごすぎる。
 もしもお兄ちゃんが、よし、人間サンドバッグを用意する、と言い出すのを想像して、迂闊なことは言わないほうがいいな、と思った。
「だろ。だから、ほら。さっさと素振り」
「うん」
 虚空に相手をイメージする。体の位置。頭の位置。目の位置。
 そこに掌底を打ち込む。
 疲れているせいで腕が放り出されるような感じになる。
「うむ、いいぞ」
 お兄ちゃんが言った。
「きれいなフォームだしな」
「そうなの?」
「その感覚を覚えとけ。その打ち方ならうまく衝撃が伝わる」
「そうなんだ」
 自分ではわからない。
 力が入らないのはいいことなのか。
「反則技は知識として覚えとけ。いざってときに実践できるかどうかは心掛け次第だ」
「うん」
「それじゃあ次は金的な」
 目潰しの練習を中断して次に移る。
 次は、金的。

「るかの知ってる金的はどんなんだ?」
「えーと、こうやって、その、おとこのひとの股間を蹴る?」
 と、膝蹴り。
「押しいな。それだとうまく急所に当たらない」
「急所って」
「金的はどこを蹴る?」
「どこって、その」
 うっわー。
 それを言わせますか。
「その、おとこのひとの」
「どこだ?」
「その、えーと、股間を?」
「具体的に」
「ぐ、具体的に?」
「そう」
「はっきりと?」
「うむ」
「いわないとだめ?」
「だめだな」
 ひ、ひどい。それはちょっとひどいよ。
 うー。
「その、お、おちんちん?」
「違う」
「え?」
「金的は、そこじゃない。俺がセクハラするために言わせてると思ったか」
 ちょっとだけ思いました。
「金的で狙うべきはたまの部分だ。金玉だ。そこを潰すのが金的だ」
 あ、だから金的。
「で、金玉ってのは、位置的には股間の下だ。ぶら下がっているもんだ。るかの蹴り方だと股間の上を狙っている。それだと金的にならない。もっと下から蹴り上げろ」
「こう?」
 と再び膝蹴り。
 下からすくい上げるようなイメージ。
「そうだ。それなら当たる。あと手で狙ってもいい」
「え、きたない」
「汚いとかそういう問題じゃねえ。つうか、るかはきッたねえ闘い方覚えないと勝てないぞ。きれいな闘い方って、なんだ?」
「え」
 きれいな闘い方。
 きれいな闘い方って。
 喧嘩は。
 喧嘩は、なんだか怖い。したことはないけど、なんでもあり、それこそ金的や目潰しも。
 それがない、というと。
「格闘技の試合みたいな?」
「ああ、そうだな。格闘技の試合はきれいだな。ルールがある。審判がいる。けど、その結果、格闘技の試合ってのは、相手の意表を突くことが難しい、真っ向勝負になっちまった。るか。るかは相手の意表を突かなくちゃいけないんだ。大の男相手に、るかみたいな女の子が、真っ向勝負してられっかてんだ」
「だから、反則技」
「そういうこった。急所を狙われたら、たとえ当たらなくても、相手はひるむ。もちろん、当たればもっといいけどな、とりあえず急所の位置と、そこの正しい叩き方を覚えとけ。知識だけでいい。使い方は自分で考えろ。ただし、その闘い方は、どうしたって汚くなるからな」
「わかった。顔面にフルスイングとおなじってことだね」
「そうだ。有効ってことだ。どうしても必要になる。それがわかったら、次は、顔面の急所を教えるぜ」

「顔面ってのは急所の塊だ。それゆえにガードが固いが、相手にガードさせるために、相手の手をふさぐために、それを承知の上で顔面を狙うってのもひとつの手だ」
 お兄ちゃんが自分の顔を指す。
「目潰しは教えたな。鼻も、自然と打っていたようだが、潰しやすい急所だ。その下。人中。鼻の下も急所だ。ここにあるのは、なんだ?」
「前歯?」
「そうだ。それと歯茎。歯茎が頑丈だと思うか?」
「思わない」
「そう。だから、ここも急所ってわけだ。うまく打てば前歯をへし折れる」
 あ。
 そこ打ったかも。
 知らずに打っていたけど、前歯を折った、そういえば。
「どうやら理解した顔だな。それじゃ次。下顎。特に歯ァ食いしばってないときの下顎ほどもろいものはない。おもっきし打ち砕いてやれ。ただし自分が歯ァ食いしばることは忘れるな。どんなときでも、どんなに呼吸がつらくても、ぜってェに歯ァ食いしばり続けろ。できていなかったろ」
「あー。くちで息吸っていた。あれ、でも、それじゃあ叫ぶのもだめなの? 最初叫べっていっていたけど」
「本当はな」
 お兄ちゃんはぽりぽりと頭を掻いた。
「理屈一辺倒でやるより、テンションを上げるために、本当はやっちゃいけないことをしたほうがいいことも、ある。そのへんのさじ加減は自分で考えてくれや」
「なるほどねー」
「それじゃあ次。耳だ。引っ張ってよし、叩いてよし。耳を引っ張られたらだれだって自然とからだが傾く」
「いたたた! 痛い! 痛いって!」
 わたしの耳を引っ張りながらお兄ちゃんは言った。
「充分分かったから! 離して! もう離して!」
「ふふん」
 散々わめいて、ようやく解放してくれた。
「口頭で説明してばっかじゃ飽きるだろうと思ってな」
「そんなことしなくていいよう」
「はは。悪い悪い。それとな、耳を叩くときは、耳そのものじゃなくて、耳の奥、三半規管や鼓膜を叩くことを意識しろ」
「なんだっけ、それ? 三半規管?」
「水平感覚をつかさどる器官だ。こいつを狂わせることができれば相手はバランスを失う。鼓膜は、知っての通り、聴覚だ。まあ、そうそう三半規管が狂ったり、鼓膜が破けたりすることはないけどな。指でも突っ込まないかぎり。それは難しい。相手が驚いてくれれば充分だ」
「指を突っ込むの?」
「自分の耳に指入るか?」
 だめもとでやってみる。やっぱりだめ。第一関節までも入らない。
「だろ。しくじっから指折れるしな、やめとけ」
「うん」
「あと残るはこめかみ、側頭部、後頭部だな。このへんは反則技つうか、脳を揺らすために、掌底で打つときに狙いたい箇所だ。さっき防御を教えるときに狙ってきたが、あれはわかっていてやったのか?」
「いや、なんとなく勘で」
「本能ってやつなのかな。人間って怖ェなあ」
 そう語るお兄ちゃんは、どこか楽しそうだった。

 にゅっとお兄ちゃんが手のひらをつきだした。
 五本の指を揃えている。
「これ、なんだかわかるか?」
「これ? なに?」
「この手のかたちだ」
「わかんない」
「貫手って言うんだ」
「ぬきて?」
「貫く手と書いてぬきてと読む。腹部や喉など柔らかい箇所を打つのに有効だ。みぞおちとか狙うのは難しいからな。これで刺すほうがてっとり早い」
「刺すの? 指、折れない? わたしそういうのしたことないんだけど」
「いい質問だ。指の折れる心配するようになったか」
「そりゃあ、こんだけ耳にたこができるほどいわれれば」
「ちっと手ェ貸してみ」
「うん」
 言われたとおり手を出した。
「それじゃあ俺の腹ァ叩いてみ」
「叩くの? おもいきり?」
「遠慮なくこい。おもいっきりな」
「う、うん。いくよ」
 おもいっきり。
 だったら遠慮なく。
 ぐっとからだを沈ませる。
 叫ぶなといっていた。それを思い出して、ぐっと歯を食いしばり、
「フンッ」
「う」
 お兄ちゃんはちょっと呻いた。
 わたしの掌底はいわれたとおり、おもいきりお兄ちゃんの腹を叩いた。
「いや、その、確かにおもいきりといったが」
「うん、だからおもいきり打った」
「意外と効いた」
「えーと、ごめん?」
「平気だ。どうだった? 俺の腹筋」
「固かった」
「んじゃ今度は手を貫手にしてみ」
「こう?」
 五本の指を揃える。まっすぐ。ナイフみたいに。
「そう、それでいい。それで俺の腹を押してみ。今度はおもいきり打つなよ」
「うん」
 そーっと手を伸ばす。指先がお兄ちゃんの腹部に触れる。そのまま、そーっと押してみる。
 固いけれど、わずかに指は沈み込んだ。
「どうだ?」
「固い。けど、指が折れることはなさそう」
「だろう。しょせん筋肉も肉のうちってことだ」
「へぇー」
「骨を打つと、さすがに指が折れちまうが、肉を打つかぎりは、そうでもない。だから腹や喉を狙うときに使うといい。あと皮膚を切り裂くように使うというやり方もあるが、これはあんまりおすすめしない」
「どうして?」
「確かに血が流れれば相手が怯んでくれることもあるし、傷口をえぐることができれば激痛を与えられる。けど、な。これにハマッたやつがいてなあ。あんまり気にするな。それより次。肉の次は骨だ」

「骨は硬い。当たり前だけど硬い。その硬さが命取りになることもある。わかるか?」
「関節技?」
「惜しい。関節技を教えている暇はない。だから単純に打撃で関節を壊すやり方を教える」
「そんなことできるの? 打撃で骨を折るの? どっかもろいところを打つとか」
「そうじゃない。肋骨なら打撃で折れるけどな。俺が教えるのは膝の折り方だ」
「膝?」
「ちょっと棒立ちになってみ。棒立ちだ。膝を曲げるんじゃないぞ。膝をまっすぐに伸ばして立ってみろ」
 いわれたとおり棒立ちになる。
 膝を曲げずにといわれると、なんだか姿勢正しく直立不動の体勢になってしまう。
「こう?」
「そうだ。もし相手が棒立ちになっていたら、こうやって蹴ってみろ」
 お兄ちゃんが靴底でわたしの膝を踏みつけた。真ん前からではなく皿を横から踏むように、ぐっと。
「この位置から踏むと、折れる。蹴るというより踏むことを意識しろ。木の枝を踏みつけて折るようなイメージでだ」
「そんな簡単に折れるの?」
「脚ってのは元々立ったり走ったりするためにある器官だ。支えたり蹴ったりするのには強いが、その逆方向から負荷がかかることは想定されていないんだ。もっともこれは人体の全ての関節にいえることなんだが、膝ってのは立っているだけですでに負荷がかかっているし、蹴りやすい位置にあるから、ちょうどいい。もし相手が棒立ちになっていたら膝を蹴り壊してやれ。それが失敗しても相手のバランスを崩すことができる」
「それじゃあ、肘とかはどうなの?」
「肘はふつうの状態だと、ほら、ぶらぶらしてるだろう」
 お兄ちゃんは自分の手をぶらぶらとくねらせた。
「これだと逆から打撃を叩きこんでも衝撃が逃げてしまう。ただし相手が倒れたときに踏みつけてやるのは有効だ。下に地面があるから衝撃が逃げない。相手が倒れたらとにかく関節を狙って踏みつけろ。これをスタンピングという。英語で踏みつけるって意味だ」
 スタンピング。わたしはその名前を覚えた。
 固有名詞があると結びつけて覚えやすい。相手が倒れたらスタンピング。それだけ覚えておけば実戦で緊張した頭でも、すぐに実行できそうな気がする。
「骨の壊し方はこんなところだ。次は骨の活かし方だな」

「骨の硬さは諸刃の剣だ。へたに狙われればたやすく折られるし、うまく使えば便利な武器となる。たとえば肘と膝。間接の曲がらない方向から攻めれば、さっきのとおり、たやすく折れるが、そうではない方向、つまり間接本来の強度が発揮される部分を用いれば、打ってよし、切ってよしの武器となる」
「切るの? 打つのはわかるけど」
「切れるのさ。ボクシングとか見たことないか? 肘で相手のまぶたを切ってしまう、まあ、反則だが、けっこう頻繁に、あえて狙って使用される反則技だ」
「見たことない」
「そっか」
 お兄ちゃんは肘を極端に曲げて構えてみせた。
「こうやるんだ」
 ぶおん。
 肘が空を裂いた。その軌跡は架空の敵を確かに切り裂いた。わたしが肘を使うと聞いたとき、とっさに思い浮かんだのはハンマーのように打ちすえる肘の使い方だ。だけど、お兄ちゃんは、肘の先にナイフでもついているかのように振り抜いた。
「こうやって肘を絞れば肌が突っ張って、グローブを握りしめるように、凶器としての威力を増す。グローブってのは握りしめると表面が張って、硬くなる、それと同じだ」
「肘を打つのと切るのと、どっちのほうがいいの?」
「それは狙う箇所による。貫手と同じだ。柔らかい箇所なら、たとえばまぶたなら、切る、硬い箇所なら、打つ。ちょっとやってみろ」
 お兄ちゃんがわたしの背後に回った。
「相手にうしろを取られたときなどは肘で打つのが有効だ。うまくやれば腹に当たる。さっきいったように肘を絞ってみろ」
「こう?」
 ぎりぎりという擬音を想像しながら肘を折り畳んで、絞る。
「そうだ。それで、おもいきり背後を打つ。やってみろ。受け止めるから」
 背後から敵に抱き寄せられることを想像、嫌悪感で暴力を起爆させる。肘を持ち上げ、腹の位置をイメージしながら、一気に振り下ろした。ぱしんとおにいちゃんの手のひらがわたしの肘鉄を受け止めた。
「そんなかんじだ。なんも技術とか考えずに力任せでいい。あと膝。膝も同じだ」
「膝も、こんなかんじで?」
 金的のときより、振り抜くことを意識して、膝蹴りをやってみる。
「そうだ。骨は硬い。その強度が威力となるから、とにかくおもいきりやることだ。ただし肘も膝も射程距離が短い。掌底は射程が長い。ちゃんと考えて使い分けないと戦術が狂う。そのへん注意しとけ」
「わかった」
 長距離では掌底。短距離では肘と膝。隙をみて貫手や膝蹴り、スタンピングなど。わたしの選択肢はそんなところだろうか。戦術といえるほど幅は広くない。わたしにできることはかぎられている。
「ほかに骨を使った攻撃は頭突きだな」
「頭突き? その、こう?」
 わたしは頭を前後に振る動作をした。
「それ以外になにがある?」
「でも、致そうじゃない?」
「ふふん。たぶんるかの抱いているイメージは間違ってるぜ。そりゃあ痛いことには痛いが我慢できないってほどじゃない。どんな頭突きをイメージした?」
「頭を、こう、ごちんって打つ?」
 ごちん。
 お兄ちゃんの頭突きがヒットした。
「痛ぁッ!」
「頭を使え、頭を。この流れでそう答えたら頭突きされるのは当たり前だろ」
「でも、わたしのイメージって」
「ヒントは出している。骨の強度が威力だ。額同士を打ち合ってもしょうがない、もっと脆い箇所はどこだ?」

 考える。
 脆い箇所。骨は強度が威力。同じ箇所で打ち合っても、ただの我慢比べだ。さっきみたいに痛いだけ。硬い箇所で脆い箇所を打つ、それはどこだ?
 頭突きで狙える箇所はかぎられている。そしてわたしは、そのうちに該当する脆い箇所を知っている。散々打った箇所。急所の集まっている箇所。
「顔面」
「正解。だが、もうひとつ、防御の際に頭突きを用いるパターンが存在する。それは、どこだ?」
「頭突きで防御? そんなことできるの?」
「できる。ヒント。頭蓋骨は人体で最も硬い箇所だ。普段攻撃で使う箇所でも頭蓋骨に比べれば、比較的だが、脆い箇所となる。これがヒントだ」
 頭突きで某所。そんなこと考えもしなかった。わたしが抱いている頭突きのイメージは攻撃的なイメージだ。だけどお兄ちゃんは防御といった。
 防御。相手の攻撃を防御。頭部に対する攻撃を防御する。その攻撃は。
 ひとつのイメージが浮かんだけど、そんなことできるとは思えなかった。頭蓋骨がいくら硬いとはいえ、そんなことしたら割れちゃうんじゃないか、と。
「わからない」
 自分の想像に自信が持てなかった。だからわたしはわからないと答えた。
「本当にわからないか? 頭部に対する攻撃といえばパンチやキックだよな。蹴りは突きの三倍強いとさえいわれている。だから頭突きでキックを打ち落とすのは難しい。けど、パンチなら?」
「でも、そんなことしたら、頭が割れちゃいそう」
「いったろう。頭蓋骨は人体で最も硬い。頭が割れるなんて滅多にない。それに打点をずらせば威力は半減する。頭突きでパンチを打ち落とすこともできるんだよ」
「そんなうまくいくの? わたし、自信ないよ?」
 お兄ちゃんはわたしにできることだけ教えてくれていた。すぐに使える技ばかりだ。けど、これは、すぐに使えるとは思えない。わたしは不安になった。
「なに、避けきれないと思ったら、自分からパンチに突っ込むだけのことだ。そのまんまもろに食らうよりはマシくらいに覚えとけ。どっちにしろ痛いもんは痛いからな。もろに食らって滅茶苦茶痛い目に遭うか、自分から踏み込んで痛みを堪えて次に繋げるか、どっちかだ」
「やっぱ痛いんじゃん」
「痛いもんは痛いさ。けど、それで負けるかい? 痛いのと負けるのと、どっちがいい?」
 負ける。その一言が深く突き刺さった。
 負けて、姦られて、心を殺される。痛いのが嫌で、心を殺される。そんなの絶対だめだ。そんな殺され方しちゃだめだ。
 いや、じゃなくて、だめ。
 強烈な拒否感。
 たとえば自殺を拒否するように。どんなに苦しくても、それで死ぬことを選ぶようなことは、しちゃいけない。それは致命的な、まさしく死に至る逃避だ。
「わたしは痛くても勝つ」
「その調子だ。それに、アドレナリンが出ていれば痛みなんて消し飛んでくれる。気持ちを高ぶらせろ。相手に呑まれるな。喧嘩は根性ってのは正しい説でな、痛みを乗り越えるためにも、根性は必要だ」
 痛くても勝つ。わたしは脳裏に刻み込んだ。
 苦痛という名の恐怖に呑まれたら、それ以上の恐怖、敗北が待ちかまえている。そんなのごめんだ。わたしは痛くても勝つ。絶対勝つ。そして生き残ってみせる。

「それじゃあ次は小手先の技といこうか」
 お兄ちゃんは人差し指を突き立てて質問した。
「人体で最も折れやすい箇所はどこだ?」
「折れやすい箇所?」
 折れやすい箇所。
 折りやすい箇所。
 わたしはヒントを探すためにお兄ちゃんのからだを観察した。つま先から指先まで。あいにく私に骨折の経験はない。はからずとも折ったことならあるけど。昨日。
 お兄ちゃんは人差し指を突き立てている。人差し指。掴んでしまえば簡単に折れてしまいそうだ。
「指」
「正解。簡単だろ。そして教えることも簡単。相手の指を折れそうだと思ったら折っちまえ。掴みかかってくるやつほど手のひらが開いているから折りやすい。それはるかにもいえることだから、掌底使うとき、気をつけろ」
 ああ、そっか。
 掌底を使うときも指、危ないんだ。
「なにもこうやっておっ立てているときばかりじゃない。拳を握っていても当たりどころが悪ければ簡単に折れる。拳を握っても硬くなるのは間接だけだ。間接と間接のあいだの骨の部分。ここに強い衝撃が加わると、鍛え上げられた空手家の指でも、折れる。けど、ここを狙うのは難しいからな。あんまり考えなくていい」
 確かに狙うのは難しそう。どうやって狙うのだろう。カウンター? 向かってくる拳を狙う? そんなのわたしにできそうにない、これは忘れてもよさそうだ。
「で、どこを狙うにせよ、覚えておいて欲しいのは、なにやってもいいってことだ。なんだってやるんだ、勝つためには」
「わかってる」
「いや、そういう覚悟の話じゃなくてな、手段としての話だ。引っ掻いてもいい。唾を吐いてもいい。猫騙しも悪くない。とにかくどんな手を使ってもいいってこと」
「そういうの役に立つの? 猫騙しとか」
「猫騙しを馬鹿にすンじゃねェぞ? 大相撲でも立派な技だぜ?」
「でも、手のひらを叩くだけでしょ? そんなの役に立つの? 大体相撲って弱いんでしょう?」
「うっわ、なんてことをいうんだ。いや、俺も中途半端に引退した力士がほかの格闘技に転向した挙げ句、無様に負けてんのには、さすがに思うところあるけどよォ。それでも相撲ってのは強いんだぜ。あの化け物みたいな体格同士でぶつかり合いしてるんだ。しかもわかりにくいだろうが、あれで瞬発力が物凄いんだ。あの体重で、あのスピード。まともに食らいたくないもんだね」
「わ、わかった。わかったわかった。でも、それと猫騙しと、どう関係があるの?」
「勝負は一瞬ってことだ」
「え?」
「勝負は一瞬でけりがつく。一瞬で逆転する。一瞬で攻防は交わされる。一瞬、一瞬、一瞬。一瞬の連続だ。その一瞬を掴み取るために、奪い取るために、どんなに些細なことでも、どんなにかっこわるいことでも、とにかくやってみて、とにかく足掻くんだ。猫騙しでもなんでもいい。それで一瞬をものにできりゃあ、しめたものだ」
「う、うん」
「まだ完全に呑み込めてないって顔だな。そうだな、たとえば。素人がプロの格闘家に勝てると思うか?」
 そんなことを聞くってことは、たぶん、勝てるのだろう。でも、どうやって。どれがわからない。だからわたしは、
「わからない」
 とだけ答えた。
「こんなのこと聞くからには勝てるのだろうけど、どうやって勝てるのかわからないってか。答えはさっきいったとおり、なんでもやってみれば、素人でもプロに勝てるかもしれないってことだ。たとえば道具を使う。道ばたに落ちているビール瓶や鉄パイプ。石ころだって充分凶器だ」
「でも、オクタゴンには、武器なんて」
「おいおい、忘れちまったのか。受け身のときに教えたろ。うまく受け身を取れなければ床や地面だって選手を追い詰める凶器だ。それだけじゃない。るかの身につけている、ひらひらした服だって、使いようによっちゃ役立つぜ」
「このドレスが?」
「袴ってのは元々足の動きを隠すために、あんなふうにゆったりとした作りになっている。それと同じことが期待できる。身長の高いやつからすれば、そのスカートのせいで、膝蹴りなんてまったくわからない。ボンも視線を誘導したり、うまく相手の目に当てりゃあ目潰しになるし、その生地自体、わざと破けやすく作ってあるから、わざと相手に掴ませて、破って抜けりゃ、意表を突ける。ほら。役に立つだろ?」
 そんなこと考えもしなかった。こんなの動きにくい、なんの役にも立たない、と思っていた。そんなふうに使えるのか。いや。そんなふうに使うこともまで、なんでも利用することを考えなくちゃいけないんだ。
「お兄ちゃんのいいたいこと、ようやくわかった気がする」
「そりゃあよかった。さて、と。そろそろめしにするか」
 お兄ちゃんはぽんと自分の腹を叩いた。
 途端、ぐうと音が鳴った。
 自分の腹が鳴るタイミングってわかるものなんだと、それがおかしくて、わたしは声を上げて笑った。
 こんなくだらないことで笑うのは久しぶりだった。くだらないことで笑う。それができる余裕が生まれていることに気づいて、わたしは自分が強くなっていることを実感した。
 わたしの心、強くなってる。

 わたしがシャワーを浴びているあいだにお兄ちゃんは夕食を持ってきてくれていた。そのお兄ちゃんの姿は部屋には見当たらない。その心遣いが、ちょっと寂しかった。
 聞きたいこと、あるんだけどなあ。
 夕食と一緒に用意されていた着替えに袖を通し、さっぱりした状態で食事を始める。緊張から解放されると途端に腹が減り始めた。わたしはがつがつと、だれも見ていないことをいいことに、女の子として恥ずかしいいきおいで食事を平らげてしまった。
 からだは疲れている。だけど、眠りに就くには、まだ早い。それに色々と考えたいことがある。お兄ちゃんのこと。お兄ちゃんのいっていたこと。
 からだを動かしているうちはそっちに必死になって聞ける状態じゃないけど、こうして暇になると、ついつい考えてしまうのだ。そういえば昨日はすぐに眠っちゃったけど、これも慣れなのかな。
 そうやってぼーっとしていると、
「食い終わったか?」
 ノックもなくドアが開いてお兄ちゃんがやってきてくれた。
 ちょうどいい。
 わたしは、
「ごちそうさま。ところで、さ」
 なんてことないように切り出す。こういうことはなんてことないように切り出さないと、なかなかいえやしない。これも勢いが大事ってことだ、と思った。
「復讐って、どういうこと?」
「忘れろ」
 お兄ちゃんはにべもない。
「あれは喋りすぎちまっただけのことだ。くちが滑った。るかには関係ない。それより自分の行く末を気にしていろ。あと二日で試合に出るんだぞ」
「でも気になるんだもん。ここは、ほら、ひとつ、わたしの精神的コンディションのためにも疑問は解消したほうがいいと思わない? そのほうがお兄ちゃんの仕事にも都合がいいでしょう?」
「関係ないだろ」
「だって、ほら、たとえば、秘密のままじゃ、お兄ちゃんのことが信用できなくて、いざ本番ってときに迷いが生じじゃったり、するかもしれないよ?」
 もちろん嘘だ。
 本当にわたしには関係ない話なのだろう。これはただの好奇心と、ちょっぴりの寂しさ。わたしに話して欲しい。もっとわたしのことを信用して欲しい。わたしの味方はお兄ちゃんだけ。だからわたしはお兄ちゃんのことを信用せざるをえない。必要以上に信用、依存に近い感情を抱いているという自覚はある。だから、わたしはこんなふうに想っているのに、お兄ちゃんだけクールに装っていて、ちょっぴり寂しくて、ちょっぴり悔しいのだ。
「どうしても聞きたいか」
「うん」
「どうせ今日話さなくても、また聞かれるんだろうな」
「うん」
「しょうがねえ。それじゃあきりがないから話してやる。けどそんなにおもしろい話じゃないからな」
 お兄ちゃんはどかっとベッドに腰を下ろした。
「妹の話だ」
「お兄ちゃんの妹?」
「ああ、俺には妹がいた」
 過去系であることに気づいた。
「妹は真っ当な生活を送っていたらしい。らしいというのは、俺は昔から荒事に手を染めていたから、勘当同然で家を追い出されてな。だから実家がどうなっているかなんて、これっぽちも知らなかったんだ」
「家を追い出されるほどって、なにやったの?」
 なんとなくだけど、お兄ちゃんが恐喝とかやっているのは想像できない。お兄ちゃんは怖いけど、良心が残っているような、そんなかんじがするのだ。
「用心棒みたいなことをしていたよ。子供のころは喧嘩の助っ人だった。それが大人になると、バーの用心棒をやったり、いつのまにかヤクザの抗争に駆り出されたり、きっと付き合う人間を間違えたんだな。どいつもこいつもどんどん悪事に手を染めるようになっていった。だけど徐々にだったし、おれは直接悪事に関わるわけじゃなくて、あくまでも用心棒みたいなもんだったから、ずるずると、そんな生活を続けて、まあ、いまも続けているわけだが、それを親はこころよく思わなかったわけだ。当然だよな。その当時の俺は喧嘩は喧嘩であって、それ以上でもそれ以下でもないと思って、そんなに悪いことをしてるって自覚がなくて」
 その言いぐさはつまり、いまは違う考えを抱いているというだ。わたしには、その当時のお兄ちゃんの考え方がわからない。暴力は暴力であって基本的には悪いことだと思う。
 でも。
 ああ、そっか。
 わたしもいま暴力を必要としている。なにか理由があれば暴力は肯定される。いや。お兄ちゃんは喧嘩は喧嘩であって、それ以上でもそれ以下でもないといった。なにも理由がなければ、否定することも、ない。だから喧嘩と言い張ったんだ。それがお兄ちゃんにとっての免罪符だったんだ。わたしはお兄ちゃんを理解するために、ひとつひとつの言葉を頭のなかで噛みしめていた。
「で、家を追い出されたってわけだ」
「大変だったね」
「自業自得さ。とにかくそんな事情で家がどうなっているかなんて知らなかった。俺の知らぬ間に家は借金を背負っていた。親は自殺した。保険金のために自殺させられたのかもしれない。でも、その保険金でも借金は返せなかった。あとに残されたのは妹だ。その妹の連れられた先は、ここだった」

 言葉が出なかった。
 あまりにもあっけなく語られた凄絶な過去。
 それ以上に、容易に想像できる結末がわたしから言葉を奪った。わたしがもしもお兄ちゃんと出会わなかったら。その最悪の話が、お兄ちゃんの妹の話なのだ。
 わたしはお兄ちゃんに救われた。
 お兄ちゃんの妹は、だれにも救われなかった。
 きっと、そういう話なんだ。
「妹は地下闘技場に出場して、当然負けて、そして自殺した」
 ああ。
 わたしにはなにもいえない。いえやしない。わたしはお兄ちゃんに救われた。救われた側の人間なのだ。そんなわたしがなにをいっても、それは同情にしかなりえない。お兄ちゃんは同情なんて求めていない。それくらいわかる。わたしにできることは話を聞くこと。それだけだ。
「俺が知ったのは、すべてが終わったあとだった。なにかできたはずだ。なんとかできたはずだ。それこそ俺の得意分野だったんだ。後悔したさ。けど遅い。遅すぎた。もう俺にできることは復讐しか残っていなかった。だから俺は、この仕事を引き受けたんだ。以上。俺の話、終わり」
 お兄ちゃんは静かに話を終えた。
 二人とも無言だった。
 わたしはなにかいわなくちゃ、と思った。お兄ちゃんが喋り終えたんだから、わたしから、なにかいわなくちゃいけないんだ。けど、なにがいえる。わたしがなにをいっても同情にしかならない。お兄ちゃんの過去には触れられない。お兄ちゃんの、いま。いまいえること。あった。わたしにもいえること、あった。
「わたし、勝つから」
「ン?」
「わたし、絶対負けないで、レイプなんて、あいつらに、させないから」
「あー、それなんだが、そこんとこ勘違いされると困るから、あんまり喋りたくなったんだけど、この話」
「え?」
「これはあくまで俺の復讐。俺の戦い。るかの戦いはるかの戦い。たまたま試合に勝つって手段が同じなだけで、俺はレイプショーをぶち壊す、るかは生き残って自由になる、それぞれ目的が違うんだ。そこんところを混同されると、いざってときに心が弱くなる。だれかのために戦えるのは良いことだと思う。だけどるかには生き残るって目的が最初からあるんだ。それより強い目的はない。それを忘れないためにも俺の戦いとるかの戦い、ごっちゃにするな」
 お兄ちゃんのいっていることを、よく考えてみた。なんだかひどいことをいわれているように聞こえるけど、お兄ちゃんのぶっきらぼうば口調なんて、それこそ最初に会ったときからで。なんだかんだでお兄ちゃんはわたしの心配をしてくれているのだ、と理解した。お兄ちゃんの目的のためじゃなくて、わたしのために、わたしが負けないように、わたしのことを心配してくれているのだ。
 だからわたしは、
「わかった」
 とだけ答えた。
 もちろん、こころの奥底では、お兄ちゃんのことをちゃんと覚えていることにした。それくらいのわがまま、許されたっていいじゃん。お兄ちゃんの目的のために戦ったら、そりゃあ心が弱くなるかもしれないけど、わたしの目的とお兄ちゃんの目的、両方覚えていれば、プラスアルファで強くなれると思うし。それくらい、いいよね。
 なんだか気持ちがすっきりした。
 やっぱり、こういうこと話してもらえると嬉しいんだ。
 でも、最後に一個だけ。
「もう一個だけ聞きたいんだけど」
「ン?」
「どうしてお兄ちゃんって呼ばせたの?」
「そりゃあ、あいつらの目を欺くために。こうして部屋にきているのだって、あいつらにつまみ食いしてると思わせ」
「そうじゃなくて、どうして、わざわざお兄ちゃんなの? それだったらご主人様とか、えーと、ほかにもいろいろあるじゃん」
「あー、それはだなー」
 お兄ちゃんはぼりぼりと頭を掻いて、照れくさそうに、
「願掛けみたいなもんだ。妹の分もってな。でも、妹のかわりじゃねえぜ。ちゃんとるかのことはるかとして、あー、俺、なにいってんだ」
「本当?」
「うそうそ。やっぱ忘れろ。どうにもくちが滑りやすいな」
「ありがとうね、お兄ちゃん」
「だからうそだって」
「ありがとう」
「あー、ちくしょう、どういたしましてだ!」
 怒っているみたいな、でもあきらかに照れ隠し。お兄ちゃんにもかわいいところあるじゃん。わたしはおかしくて笑ってしまった。するとますますお兄ちゃんは気難しそうな顔をして、それがますますおかしかった。
 そうして今日は終わった。
 次の日。三日目。レッスン最終日。
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