レッスン5
オクタゴンに人影があった。その人物はわたしと同じゴシック・アンド・ロリータのドレスに身を包み、椅子に縛り付けられることのない自由な状態で、手足の筋を丹念に伸ばしてストレッチを行っていた。
「レッスン5は練習試合だ」
お兄ちゃんがいった。
「教えられることはだいたい教えた。欲をいえば寝技や間接技も教えたかったが、この短時間ではむりだし、俺の見たかぎりでは、その使い手はここにはいない。あとは実践だ。ちょうどいい相手を見繕ったから胸を借りてこい」
「お兄ちゃん、あれって」
「おはよう、お兄ちゃん。はじめまして、るかさん」
わたしたちに気づいた、彼女が、優雅にドレスの裾を持ち上げ挨拶した。わたしはその顔を知っている。彼女もわたしのことを知っているとは思わなかったけど。お兄ちゃんが教えたのだろう。でもわたしが驚いたのはそこじゃない。だって彼女は。
「あのときの」
「見ていたの?」
彼女が笑った。どこか壊れた笑い方だった。まるで相手の底をねめつけるような、いや、もっと、なんというか、わたしのことを人間として見ていないような。わたしという存在を別の角度から見ているような。
ぞっとした。
あのとき、彼女は泣き叫んでいたけど、こんな目はしていなかった。たった一回、心を殺されるだけで、こうも変わってしまうものなのか。
わたしが地下闘技場に連れてこられた初日、黒服に見せられた試合に出場していた女の子だった。そうだ。どうしてあんなことを「見ていたの?」なんて笑っていえるのだ。
わたしは曖昧にうなずくことしかできなかった。なんと答えればいいのか、彼女が考えていることが、わからなかった。
「彼女の名前は、沙耶。顔は知っているようだな」
「う、うん」
「一度試合に負けたから、こいつはもう使いものにならないかと思っていたが、なかなかどうしておもしろい壊れ方をしていたからな。るかのレッスンを終えてから、夜はこいつに仕込んでやったら、みるみる強くなりやがった。それで今日は二人で練習試合というわけだ」
なんかさりげなく恐ろしいことをいっている気がする。おもしろい壊れ方って。壊れ方におもしろいもおもしろくないというか、そもそも壊れちゃだめでしょというか、それを本人も意に介してないというか、ずっと微笑んでいるのがすっごくこわい。いやほんとなんで微笑んでいるんですか。
「よろしくね、るかさん」
「あ、はい、沙耶さん」
「それじゃあ、るかも適当にストレッチを始めてくれ。それが済んだらルールの説明をする。いっとくが練習試合だからって手加減は無用というか沙耶は手加減できないから気合い入れていけよ、るか」
その手加減できないっての、ちゃんと説明してくれませんか。なんだか嫌な予感がする。とっても危険な目に遭うという予感。本人は相変わらず微笑んでいるし。
壊れた少女の壊れた微笑み。
沙耶さんは、どんな戦い方で挑んでくるというのだろう。それを考えるとこわくてこわくてわたしは入念にからだをほぐし始めた。手加減してくれるように頼むとか、ましてや逃げるとか、そういう選択肢は思いつかなかった。やるしかない。これもやるかやられるかということだ。いつの間にか、その考え方が染み着いていた。
やるかやられるか。
やるしかない。
やってやる。
練習試合だ。
「基本的にはなんでもあり。ただし本番に支障の出る攻撃は寸止め。といってもそんなこと器用にできないだろうから俺が止めに入る。特に沙耶。気をつけろよ」
ルールの説明はそれだけだった。
しかも沙耶さんは、
「自信ないですね。るかさん、お互いがんばろうね?」
と物騒な返事をした。いやそこは自信を持ってください。それになにをがんばるんですか。なんか練習試合を健全な意味でがんばろうとは違う意味がこめられている気がするんですけど。
「そ、そうですね。がんばりましょうね」
さっきから曖昧な返事しかしていない気がする、わたし。
三人揃ってオクタゴンのうえに上がる。お兄ちゃんは審判役といったところか。お兄ちゃんが機械を操作してオクタゴンの金網がせり上がると舞台が完成した。
わたしと沙耶さんは適当な距離を取って対峙する。お兄ちゃんは二等辺三角形の頂点に移動する。あとはゴングを待つばかり。とっくのとうに覚悟は完了している。
やる。やる。やってやる。やるかやられるか。わたしだってレッスン2で一応、実戦は経験しているんだから。
わたしと沙耶さん、歳も、体格も、たぶん同じくらい。
肉体的な条件は変わらないはず。あとは精神的な条件。沙耶さんとわたしの決定的な違いは、敗北を経験しているかどうか。それが勝敗に関わってくるのか、それとも、それ以外の要素が、勝敗を決する条件となるのか。とめどない思考。緊張。少しだけ興奮。自分を試したいという感情。
ゴングが鳴った。
と同時、沙耶さんが駆け出した。
そんな、いきなり!
お兄ちゃんに教えられたことを思い出そうとする。こういうときは、こういうときは、こういうときは。まずは受け流して、それから。
動きがぎこちなくなったわたしに叱咤が飛ぶ。
「考える前に動け!」
そうだった!
「あああああああああああああああッ!」
叫ぶ。
勢い。
踏み込み。
一番得意な動き。
間合いのことだけ思い出す。
わたしの間合い、沙耶さんの間合い。沙耶さんの間合いはわからない。だから自分の間合いに持っていくことだけ考えて踏み込みを調整する。すると沙耶さんも飛び込むように地面を蹴った。お互いに自分の間合いから外れた状態となる。このままの状態で打つか、打たないか、それとも第三の選択肢か。
大切なのは勢い。
このまま打ってしまえ。
視線が交わる。腕が交差。次の瞬間、頬に熱を感じた。
なにをされた?
二人とも初撃を打ち込んだ状態で静止している。わたしは掌低。ねらいを外れて沙耶さんの髪を撫でたのみ。沙耶さんは。
沙耶さんは貫手だった。沙耶さんの貫手はわたしの頬を掠め、そこが熱を帯びているのだった。
出血していることを遅れて自覚する。
傷は浅い。
痛みはない。
それよりも驚きが大きい。
驚きが引くと納得。確かに壊れてる、この子。
まるで人形を怖そうとするみたいに大味な貫手。相手が人間だという意識が欠如している。それが彼女の壊れ方なんだと理解した。
ちょっと、お兄ちゃん。こんなのと練習試合組ませないでよ!
本当の本当に手加減なんて期待できそうにない。これは練習試合なんかじゃない。もっと凶悪な。
戦慄が走った。
本番同然の勝負だ。
沙耶さんの狂気に触れ、わたしは呑まれかけていた。
この子は壊れている。狂っている。いかれている。
逆の手がすくい上げるような貫手を放とうとしているのを察知した。のけぞるようにしてかわし。
腹部に熱。痛み。こみあげてくる吐き気。
上、上、下に貫手を放つという単純なコンビネーションに引っかかったのだ、と痛みのなかで気づいた。からだがくの字になる。みぞおちに貫手は突き刺さっていた。
呼吸が、できない。
痛みよりなにより、それが苦しい。
かわりに酸っぱいものが喉元までこみあげてくる。
無防備な背中を晒している。背中の上に攻撃が降ってくるのを視界の端で捕らえた。なんだかわからないけど、とにかく容赦ない勢いで、なにかが降ってくるのがわかった。
倒れ込むように転がって、なんとか攻撃を逃れる。
呼吸の戻らない状態で涙目になりながらさっきまで自分のいた位置を確認すると、沙耶さんは肘を振り下ろした状態だった。よかった。あんなのを食らっていたら、ひょっして死んじゃったかもしれない。もういやだ。これは練習試合なんだから、わたしの負けでいい。なにも失うものはない。だから。お兄ちゃん。ここから出して。だけど呼吸が戻らなければ声は出ないし、お兄ちゃんは素知らぬふりでわたしを見下ろしていて、この一方的な展開を止めようとしない。どうして。このままじゃわたし殺されちゃうよ。
死ぬ。
殺される。
痛みが強くなる。
興奮の冷めつつあつ証拠だ。わたしの戦意は失われつつあった。どう見ても、これ以上の試合続行は不可能、無意味じゃんか。もうやめてよ。ここから出してよ。わたしはあとずさった。わたしの後退は背中に金網の感触が食い込んだところで止まった。
「逃げたい?」
沙耶さんが微笑みながら近づいてくる。
「けどね」
そして容赦なく、
「私も逃げられなかった!」
「ひぁ!」
サッカーボールでも蹴るみたいなキックが放たれた。
わたしは再び転がることによって攻撃をかわす。お兄ちゃんのレッスンなんて忘れてしまった。もう必死で逃げることしか考えられない。だって沙耶さんは、わざと大振りな蹴りで、わたしをこわがらせるために蹴ってきたのだ。もういやだ。こんなの。もうやめてよ。わたしの負けでいいよ。
それでも涙が流れないのが我ながら不思議だった。
どくんどくんと心臓がやかましく叫んでいる。
そういえば一人で戦うのははじめてだ。なんだかんだでレッスン2もお兄ちゃんが一緒に戦ってくれた。いまはひとり。ひとりで戦わなくちゃいけない。ひとりで戦わなくちゃ。
戦わなかったら?
負けたら、どうなるんだっけ?
どくんどくんと心臓がやかましく叫んでいる。必死で血液を循環させている。ずきりずきりと頬の掠り傷が痛みを訴えてくる。こんなに小さな傷なのに。なにかを訴えようとしている。
負けたら。
地下闘技場で負けたら。
そうしたら、あれが、あのレイプショーだ。
ひとりで戦えるようにならなくちゃ、わたしは結局、心を殺される。ひとりで戦えなくちゃ、いま殺されるか、あとで殺されるか、それだけの違いで、結局、殺されてしまうことに変わりはないのだ。
「逃げてばっかりね、るかさん」
沙耶さんが近づいてくる。
死が近づいてくる。
「そろそろ飽きたから、とどめ、いくね」
そして、もう一度、サッカーボールキックが放たれた。ただし今度は明確な殺意のこめられた一撃必殺。顔面めがけて容赦なんて欠片もない死が迫る。死が。死。
わたしのなかの火種は、まだくすぶっていて、わたしは大胆な行動に出ることはできなかった。ほんのちょっとだけ首を動かすことが、いまのわたしの気力では精一杯だった。
痛くても勝つ。それだけを思い出して。
沙耶さんのつま先に向かって。
「ギィアアアアアアアアアアアアアアア!」
視界が飛んだ。
痛くはない。というか、なにがなんだかわからない。わたしのあたまは金網にぶつかって、その反動で前のめりに倒れてしまった。まるで土下座みたいな格好だ。
ぐわんぐわんと脳味噌が揺れている。ひょっとして脳震盪ってやつ?
からだがだるい。まるで動こうとしてくれない。
だからこれはわたしの悲鳴ではない。
沙耶さんだ。
ざまあみろってんだ。あんなの避けるなりなんなりするのが当たり前でしょ。なに驚いてんの。そんなみっともない悲鳴を上げてさ。ばーか。
サッカーボールキックなんて恐ろしい攻撃は、できれば避けたかったけど、座り込んだわたしに避けることはできなかったし、かといって受け流せるほどの元気もなかった。そうすると受けることくらいしかできない。どこで受け止めるかべきか。それを理路整然と考えてやったわけじゃない。けど、わたしがやったのは、わたしのからだで一番硬い部分で受け止めることだ。
頭蓋骨。
人体で最も硬い箇所。
つま先に向かって頭突き。つま先より頭蓋骨のほうが硬い。こっちも痛いけど沙耶さんだって痛い。ひょっとしたらわたしよりも。どうやら反撃は功を上げたようだ。みっともない悲鳴が続いている間に、わたしはゆっくりと立ち上がるだけの猶予を得た。
呼吸、良し。
からだはふらついてるけど、なんとか動ける。良し。
沙耶さんは、悲鳴は止んだけど、つま先が痛むらしく、けんけんするみたいに片足が落ち着けない。あんなにこわかったひとが、けんけんなんてしているのを見ると、どうしても笑いがこみ上げてくる。
「ぷふっ」
あ、笑っちゃった。
「笑うなァァァ」
笑うという行為が、なにか逆鱗に触れたらしい。わたしが反撃したときよりも過剰な反応を示し、仮面のように貼りついていた微笑みは怒りの表情へと変貌した。
こわい。
けど、だからどうした。
これは戦いだ。
やるかやられるかにこわいこわくないは関係ない。どっちのほうが強いか。それだけだ。どっちのなにが強いか。体も技も同等なら、あとは心の戦いだ。根性比べだ。
「そんなおもしろいことしてたらだれだって笑うに決まってんでしょ。あんまなめないでよ。こっちだって生き残りたいんだから。わたしのこと、お人形かなにかと勘違いしてたの? というか、お兄ちゃん、どうして止めてくれないのさ。あんなのもらっていたら死んじゃったよ」
「この程度でやられるようじゃ、この先はないからな」
わたしの文句など、どこ吹く風で、お兄ちゃんは答えた。こういうひとだとわかっているけど、そのとおりだともわかっているけど、やっぱりむかついてくるなあ。もう。
「私を笑うな! おまえらは本当は弱いくせに、よってたかって私を壊して!」
「最初はびびっちゃったけど、あれはなし。こっから仕切り直し」
「だから私は! 私の味わった痛みを! 苦しみを!」
「やるかやられるか。やってやる」
「おまえらも壊してやる!」
言葉がかみ合っていない。わたしたちは対話を求めていない。わたしたちは動機が違っても、ほかのなにが違っても、やることだけは変わらない。
「かかってきな、キチガイ女」
わたしたちは戦う。
「おまえだって本当は弱いはずだ!」
沙耶さんが走り出す。
まだからだが重い。まともに動けないことには真っ正面からやりあうのは避けるべきだ。なんとかして時間を稼がないと。
会話は、むり。そもそも話の通じる相手じゃない。
距離を取る。戦うために逃げる。
戦術的後退を検討。
むり。そんな空間はないし、それには相手よりも早く動けるという条件が必要だ。いま、まともに動けないからこそ、こんなせこいことを考えているというのに。まず前提条件が成立しない。
時間を稼ぐということは、むりだ。
だったらあきらめて、この状態で戦ってしまうか。それは賢い選択とはいえない。もっと頭を使わないと。
どうする?
時間を稼ぐ以外の選択肢はないか。
真っ正面からやり合わないことはできないか。
なにか、なにか利用できるものはないか。
背中に金網。床や壁も武器となり得ることを思い出す。これだ。お兄ちゃんのレッスンは確実に効果を示している。かつてのわたしでは思いつかなかったアイデアを採用することにした。
わたしが弱いかどうか。やってみろ。
背中に金網を押しつけるようにして構える。できるだけ小さく。きっとまた貫手を使ってくるはずだ。そのとき素早く避けられるように重心だけは高くしておく。これで、なんとかできるはず。
沙耶さんが貫手を放つ。やっぱり喉を狙ってきた。
わたしは首を横に傾ける。
貫手から完全に避けきることはできず、首筋を抉られる位置だが、それでも沙耶さんの腕が止まった。
わたしの背後に金網。貫手を放てば、わたしの首筋を抉りつつ、そこに激突する。そんなことしたら指を折りかねない。だから止まった。作戦はうまくいった。
沙耶さんが止まった一瞬を利用して、わたしは彼女を力任せに突き飛ばした。そうしたら男よりも全然軽いもんだから沙耶さんにしりもちをつかせるという予想以上の効果を上げてしまった。
「小癪なッ」
沙耶さんが毒づく。ぱっぱっとドレスについた埃を払いながら立ち上がる。もちろんダメージは全然ないけど、わたしが注目したのは彼女が喋ったという点だ。
「これくらいで怒らないでよ? それに、わたしをここまで追いやったのは沙耶さんだよ?」
彼女に答える。
時間を稼げるかもしれない。
「戦え! 正々堂々と戦え!」
「正々堂々? なにそれ?」
「そんなところに寄りかかってないで、かかってこいってんだ! なんだかいらいらするんだ、そんな不真面目な姿勢で戦われると!」
乗ってきた。どうやら沙耶さんは、さすがに金網がこわいからとはいえず、いらいらするからという方向でわたしを引きずり出そうとするつもりらしい。
「やなこった」
しばらくからかっていれば時間を稼げるだろう。あと少し、あと少しで、まともに戦える程度に回復しそうだから、この調子で。
と考え意地悪な返答をしたのがまずかったらしい。
「だったら」
沙耶さんが、
「こうだ!」
短い助走からジャンプ。
両足を揃えて靴底によるドロップキック。
しまった!
わたしは慌てて斜め前へ飛んだ。
がしゃんと音が鳴ってドロップキックが金網に激突したことが知れた。その反動を利用して沙耶さんはきれいに着地。
「出てきたな?」
わたしは斜め前に飛んだ。それは八角形のオクタゴンで、あの位置から真横に避ければ金網にぶつかってしまうからだ。その結果、わたしはリングの中央寄りに移動してしまった。
沙耶さんもわたしと対峙する位置まで移動する。
練習試合が始まったときと同じ立ち位置だ。
「これでとことんやりあえるね」
沙耶さんの微笑み。
まーいっか。からだは戦える程度に回復したし、あの位置は攻撃されにくいけど、こっちも攻撃しにくいから、ずっとあのままというわけにもいかなかった。この位置なら思う存分戦える。
「やりあいましょうか」
わたしは掌底を構える。
沙耶さんは貫手を構える。
沙耶さんが貫手を放つ。
わたしが掌底を打つ。
同時。
最初の再現。
ただし、今度は沙耶さんの貫手は、わたしの頬を裂くことなく、わたしの掌底も髪を掠らず、だれもいない虚空を穿った。お互いに相手の攻撃を見抜いたとはいわずとも、多少の慣れが、現れていた。そして、その次に取る行動が違った。
わたしはひるむことなく先手を打った。
膝蹴り。
沙耶さんはバックステップしてかわす。それを追うように膝蹴りから下ろした足を軸にして再度掌底。今度は沙耶さんの腕に当たる。
ダメージはなくともバックステップしたところに衝撃を加えられ沙耶さんのバランスは崩れる。そこに踏み込むようにして肘を振るう。
沙耶さんの貫手は、こわい。はっきりいってこわい。だったら使わせなければいい。そのためには距離を詰めるべきだけど、そうそう迂闊に近づこうとすれば返り討ちに遭う。だから掌底でバランスを崩してから近接戦に持ち込むことにした。
わたしの掌底は沙耶さんの貫手の間合いでもある。だから一番得意な攻撃を自ら封印することになるけど、そのかわり肘と膝がある。この距離で沙耶さんはどう出るのか。それはわからないけど、わかるまえに連続攻撃で倒してしまこうとができれば。
が。
わたしの肘を、沙耶さんは、沙耶さんも肘で受け止めた。ああ、くそっ。わたしは遅れて気がついた。さっきから貫手の印象が強くて忘れていたけど、彼女もお兄ちゃんのレッスンを受けているのだ。貫手だってレッスンで教えてもらった技だし、ならば肘と膝の使い方も心得ているはずだ。
互いに肘と肘を押しつけ合う。
牽制。
現状を打破する次の一手を探り合っている。
肘による攻撃の習熟度は二人とも同程度というかんじだ。それどころか掌底や貫手といった技さえも、それを使い手が好んでいるというだけで、いずれの技も習熟度自体は同程度かもしれない、という感触さえ得ていた。
二人とも同じくお兄ちゃんのレッスンを受けているのだから、なにか決定的な差異が二人の間に生じることは、先天的に才能で秀でていたり、お兄ちゃんがひいきでもしないかぎり、そう簡単には起こり得ないのではないか。
その傾向は、いまところ、ない。つまり二人とも技量は同程度であるという確信に近い予想が思考を占拠した。なにか別の手を考えるか、なんとか隙を作るか、とにかく頭を使うことに囚われてしまった。この戦いの真っ最中で。
「フッ!」
沙耶さんが鋭く息を吐き、わたしの肘を受け止める腕から力を抜くとともに、空いているほうの腕で下っ腹を掴み取るような貫手を放っていた。
最初の上、上、下のコンビネーションと似た攻撃。上に意識を集中させて下に仕掛けるという意味では同じだ。
沙耶さんのほうが頭の切り替えが素早かった。確実に相手を倒せる手段を考えるより、とりあえず有効だったコンビネーションを再現してきた。
それに対し、わたしの頭に浮かんだのは、これも再現にあたる行動だった。ただし沙耶さんの。
バックステップ。
沙耶さんの貫手より遅いスピードであるため少しだけ五本の指が腹に刺さりかけたが、なんとかさっきみたいにからだがくの字になることは避けた。が、まるで立場を逆にして最初の攻防を再現するように、彼女は続けざまに貫手を放ってきた。けれども、それがわたしとは異なるのは、それがしつこく喉元を狙う一撃である点だ。
しつこいッ!
恐怖を覚えるしつこさだ。とにかくわたしを壊すことしか考えていない。その一撃一撃に狂気がこめられていることを考えると、それが大雑把な攻撃であっても、やっぱりこわくなってきてしまうのだ。
けど。
こわいからといって、ここから逃げることはできない。
やれるまえにやるしかない。
受け止めれば、沙耶さんの指もダメージを負うだろうけど、わたしが攻撃を受け止めた部位もダメージを負う。ひょっとしたら痛いだけで済むかもしれない。また頭突きで受け止めれば痛いだけで済ませられるだろう。けど、そうしたら痛みによって隙が生じる。がまんしても痛いものは痛い。どっちのほうが痛みから回復するのが早いか。そんな賭けをするような場面ではない。だから受け流すことにする。
貫手を下から払う。
続けざまに、もう片方の腕からも貫手が放たれる。
最初の貫手を払ったときに生じた慣性に従うようにして横に避ける。わたしのからだは沙耶さんの斜め横に移動する。そこから肘鉄。切り裂く軌道ではなく打ち込む軌道で肘をわき腹に向かって。
命中。
えぐり込むようにして、わたしの攻撃がはじめて沙耶さんにダメージを食らわせる。沙耶さんが呻くようにしてわき腹を押さえる。ここでたたみかけないと。
調子に乗ったわたしは沙耶さんの背中に向かって膝蹴りを叩き込む。これも命中する。
「ギィアッ!」
沙耶さんが地に伏せる。
これはスタンピングするべきタイミングだ。
そう判断したわたしは沙耶さんの動向を見ずに足を持ち上げる。それが迂闊だった。
ぐいっと足を掴まれる。そのまま抱え込まれるように押し倒された。
地面に向かって落下する。受け身を取るためにからだを意識する。沙耶さんに足を掴まれたままだと認識する。
地面に激突する、その反動を使って沙耶さんの腕から足を抜き取った。これは意識しての行動ではなくて、それができる、そうすべきだと反射的に思ったら、それが実際にできてしまった。いわゆる本能というやつだろうか、と我ながらびっくりする。いや、そんなことよりも沙耶さんは。
わたしは地面で取っ組み合いの泥仕合になることを恐れた。それは教わってないシチュエーションだからだ。
沙耶さんは立ち上がっていた。わたしを待つように見下ろしている。
警戒しながら、ゆっくりと立ち上がる。沙耶さんの攻撃は、なかった。彼女も教わっていないシチュエーションは避けたいということだろうか。まるで自分の分身と戦っているような錯覚に襲われる。お兄ちゃんと出会わずに地下闘技場の試合に出場していたら、わたしも、ああなっていたかもしれない。
彼女に勝つためには、わたしがわたしに勝つ方法を考えなくちゃいけない。それは矛盾だ。けれども、その矛盾を破らないことには、この練習試合の勝敗は決しない。ああ、これは確かに練習試合だ。ちょうどいい相手だよ、お兄ちゃん。本当に。強すぎもせず、弱すぎもせず。まったく同じ。いやになるくらい。
「続けましょう?」
沙耶さんがいった。
いつまで続けるのかとわたしは聞き返したくなった。
深呼吸をひとつ。
すぅー。
はぁー。
不安を吐き出す。
まだとことんまでやりあっちゃいない。だから本当に同じなのかどうかは、まだわからないはず。いや、むしろ違いがあると考えてしかるべきだ。なにかしらの違いを見つけることができれば、たとえそれがわたしのほうがなんらかの部分で劣っているという違いであっても、それが判明すれば沙耶さんの行動を誘導できるなど、いくらでもやるようはある。ようするに突破口が欲しい。そのためには。
攻撃あるのみ。
わたしは一気に駆け出す。
いまのところ判明している違いは戦いの動機。沙耶さんは復讐のような感情が原動力だと推察できる。わたしは生き残るため。それはファイトスタイルにも表れている。ただし根本的な戦法が同じ。だからけりがつかない。けれども本当に同じなのか、どうか。それが疑問だ。
体格が同じ。
師が同じ。
それでも生じる違いが、どこかにあるはずだ。
間合いに入ると同時、掌底を放つ、と見せかけて飛び膝蹴り。助走の勢いも手伝ってかなりの速度で飛びかかることに成功したけど、沙耶さんはわたしを押しのけるように、あっさりと受け流した。
着地すると、わたしはだれもいない空間に向かって低姿勢のまま飛んだ。背後からの攻撃を避けるためだ。
金網に手を突き反動を利用して素早く反転。違いを確かめるためには、とことんまでやってみるべきだ。そのために攻撃の手を休めてはいけない。ひたすらに。攻撃。反転してからも足を止めない。その勢いのまま走り出す。
沙耶さんは両手を貫手のかたちにして待ちかまえている。わたしを迎え打つつもりだ。わたしが掌底を打つ振りをすると、沙耶さんも貫手を放ちにかかった。そこで軌道変更。掌底を打つ腕を折り曲げ、もう一歩踏み込み、肘鉄。
ほとんど肘からの体当たりに近い。これを沙耶さんがどう返すか。それが見ものだ。
わたしなら片手で受け流して逆の腕で反撃。
結局、沙耶さんもそうした。
片手で受け流して、逆の腕で、貫手。相変わらずの首狙い。わたしは首を傾けてぎりぎりでかわす。が、そのとき耳を掴まれた。
しまった!
掌底とは異なる指のかたちが、それを可能にしていた。
レッスン4、反則技で教えてもらったことだ。
相手の耳を掴んで。
わたしは横に引っ張られた。反射的にからだが傾く。横に。そして反対側の耳に衝撃。
耳の上から叩かれた。
そう気づいたときには地面に転がっていた。
キーンと耳鳴り。
叩かれた側の耳が、よく聴こえない。
鼓膜は破れていないと思う。あくまで一時的な影響だろう。けれども一時的にとはいえ聴覚が遮られるのは意外と混乱した。わたしは沙耶さんの靴底が床を踏んだ音を聴き逃してしまった。
靴底が降ってきた。
スタンピング。
顔面に向かって。
床を転がってかわす。沙耶さんが追ってくる。ごろごろと転がり続ける。そしてうつ伏せになったタイミングで腕立て伏せみたいに上体を起こした。
転がるのをやめたことで沙耶さんのスタンピングが命中したが、わたしは肩で受け止め、そのまま立ち上がった。
至近距離で睨み合う。
間合いの内側で。
「なかなかやるじゃん」
沙耶さんが答える。
「あなたもね」
「レッスン4?」
「そうね」
「それじゃあ」
ぐっと拳を握る。
「続けましょうか!」
拳を振る。というより腕を振ってドレスの裾で沙耶さんの顔面を叩く。
おそらくわたしたちのあいだでしか通じないやりとり。わたしは真っ向勝負、掌底や貫手では勝敗は決しないと悟った。それならばレッスン4、反則技を駆使して、さっさとけりをつけよう。そういうやりとりだ。
結局、同じ戦法。
けれどもレッスン4は創意工夫。違いが表れるとしたら、ここかもしれない。だからわたしは積極的に、まず袖による目潰しを敢行した。
「うっ」
沙耶さんが呻く。そこへすかさず掌底を叩き込んだ。
わたしの掌底は沙耶さんの顔面に命中した。
これで終わってくれたのなら、なんてあっけない幕切れだろう。
けれどもわたしの掌底は充分に通らなかった。
浅い。
沙耶さんは半歩下がって掌底の威力が最大になる瞬間から逃れていた。それでも顔面に当たったからには鼻血を流している。
が。
その目はレッスン1を思い出す。あのヤンキーの目を。
こんなの効いていない。
沙耶さんはわたしを壊すと覚悟を決めている。それは鼻血ごときで揺らぎやしない。わたしを壊すまで彼女は止まらない。あるいは彼女の意識を断ち切るまで。
ぶっ倒す。
側頭部めがけて掌底を振り下ろす。
沙耶さんは下がった分を取り戻すように前に踏み込んで、それをかわした。いや、もっと。
近い!
頭突きだと気づいて頭をひねったけど、こするように当たってしまった。鼻の奥が熱くなる。わたしも鼻血が出てしまったようだ。
沙耶さんが頭を引く。
もう一回頭突きがくる。
わたしは。
わたしも。
頭を引いて。
振り下ろす。
衝撃。
頭が割れた。
と、錯覚。
火花なんて散らない。こういうとき、いつもなにがなんだかわからなくなる。時間が飛んでしまったように。意識が途切れるような。この感覚から戻れなかったとき、それがいわゆる失神なんだろう、と思う。
やばい。
関係ないことを考えている。
いまは。
たたかうことだけを。
くらくらとするからだに神経を通す。かろうじて立っている。倒れちゃいない。だったら。攻撃を。
掌底。
を打ったつもりだったけど、まるで相手の胸ぐらを掴むような緩慢とした動作になってしまった。そして実際、沙耶さんの胸ぐらを掴んでいた。
わたしの肩にも沙耶さんの手のひらが添えられる。本人は貫手のつもりだったんだろう。どっちもふらふらってことだ。
沙耶さんが微笑む。
わたしも笑う。
そして。
二人とも頭突き。
鼻血をまき散らしながらふたりのからだは離れ離れになった。
「やるじゃん」
わたしは意識を繋ぎ止めるために口を開く。
「あなたもね」
沙耶さんも似たような口調。
ふたりともふらふら。だけど止まらない。この短い会話だけで、わたしたちはお互いにまだ戦えることを確認した。
夢遊病者のように歩く。くらくらするから足元がおぼつかない。けれども止まるはずがない。わたしたちが立ち止まるのは戦いが終わったとき、どちらがか倒れたときだけだ。
足元がおぼつかない。
けど、だからこそ。
わたしは蹴りを放った。低い蹴りだ。沙耶さんの膝を狙って。
沙耶さんの膝ががくりと落ちる。そのまま倒れてくれればいいと思ったけど、ぎりぎりのところで堪えて、そこからかえるみたいに飛びながら貫手を放ってきた。
ぱちん。
え。
ぱぁん。
眼球を打たれた。掌底だ。そのまえにわたしを混乱させたのは猫騙しだ。まさかこんなに猫騙しが有効だなんて。あなどっていた。どうせ手のひらを叩くだけ。それがこんなふうに集中を途切れさせる技だったなんて知らなかった。
すぐにも視覚は回復するだろう。けれどもわたしの混乱は大きく、
「うああッ!」
闇雲に腕を振り回した。
空振り。
そしてあざ笑うような一撃がこめかみをしたたかに打ち据えた。
声も出ない。
意識が持ってかれそうになるクリーンヒット。繋ぎ止めろ。このまま倒れるな。まだだ。まだわたしは戦える。このまま終わらせるものか。
意識が飛んでいたのに、そんなことを思った。そして意識が戻ったとき、わたしのからだは傾いている最中だった。ぐんと地面を踏み締める。なんとかして堪える。そして。
「うぉぉぉ!」
絶叫。
からだでもこころでもない別のどこかから戦意が湧いてくる。いまのわたしは一発の銃弾だ。すでに発射され、沙耶さんを射抜くか、彼方で墜落するか、それ以外選択肢はない、そういう存在へと変貌していた。
「いい仕上がり具合だァな」
お兄ちゃんの存在を忘れていた。
そのまま黙っていて。
いまいいところなんだからさ。
加速していく。
意識が。
肉体が。
いまよりも速く。
ここよりも遠く。
おのれの限界まで加速していく。
わたしと沙耶さん、どっちのほうが強いか、ぎりぎりの限界まで試している。ひゅうと口笛のように息を吐きながら掌底。顎を狙ったけど、かわされて胸に当たる。
打点がずれたせいで威力は減少している。けれども当たったものは当たった。とにかく当たってしまえば相手の動きを制することができる。わたしはこのチャンスを逃さず滅多打ちに掌底と肘を繰り出す。
沙耶さんはガードを固めていて一発も通らない。わたしは焦る。その焦りに乗じて沙耶さんが肘を差し込んできた。
打ち筋をこじあけられ、わたしのラッシュが一瞬止まる。ぐいっとドレスの裾を掴まれる。そして肘が振り下ろされた。
掴まれているせいで逃げられない。掴まれているせいで。だったら。
わたしはドレスを破る勢いでうしろに飛びのく。あっけなくドレスは破れ、なにもない虚空を肘が通過した。
距離が開くと沙耶さんがすかさず貫手を放ってきた。しつこいくらいに喉狙い。けれども、これは振りだ。喉を狙っている振り。この次が本命だ。どこを狙っているのか、なにを狙っているのか。わからない。わからないなら攻撃。攻撃は最大の防御。
貫手の軌道を見極め五本の指を掴もうとする。本気ではない貫手なら、振り終えたところを狙えば、掴み取れる気がした。けれどもわたしの意図を察知したのか沙耶さんは貫手を途中で止め。
拳に握り直して打ってきた。これは本気だ。
腕を固めてガードする。がつんと拳がぶつかった。
沙耶さんの追撃を防ぐために牽制の膝を蹴り上げる。沙耶さんは退かず、臑で受け止め。つまりお互いの間合いは維持され。わたしたちは打ち合いを始める。掌底、貫手、肘、膝が飛び交う。そのことごとくが受け止められ、受け流され、どれもこれもクリーンヒットには至らない。ふたりともタイミングが同じのせいだ。
埒が開かない。
わたしと沙耶さんは同時、弾けるように飛びずさった。
「もっといけるよね?」
「当然ッ!」
まだまだ。
もっと、もっと。
二人、再び打ち合う。ただし今度は反則技を挟みながら、より激しく、より乱れた、どうして打ち合えているのかわからないような苛烈な攻防だ。
足を踏み、ドレスを掴み、リボンを鞭代わりにして、わたしは苛烈な舞いを踊る。お互いの息がぴったりと合ってしまっている不本意な均衡。崩したいけど崩せない。わたしたちは同じだった。反則技の発想さえ似通っていた。
沙耶さんに勝つためには自分に勝つという矛盾したことをやってのけないといけない。でも、どうやって。
わたしが負けるのは。
わたしが苦手とすることは。
わたしがお兄ちゃんに教わっていないこと。
でも、そんなこと。
頭を使え。
ヒントはないか。なにかとっかかりになるものはないか。わたしの経験は、この三日間がすべて。そのなかで、お兄ちゃんに教わっていないけど、わたしにできそうなことは、なにか。なにか。なにか。
あった。
できるのか。
いいや、とりあえずやってみよう。やるだけやってみよう。
教わっていないからできないかもしれない。けど自分のからだで経験したことだ。ちゃんと思い出せばできるかもしれない。だから記憶を。掘り起こせ。経験を再現するんだ。
あのとき、あれは。
イメージする。
沙耶さんの攻撃は変わらない。これは突破口だ。わたしと沙耶さんのあいだに違いが生じる。これが吉と出るか、凶と出るか。なるようになれ!
沙耶さんが貫手を放つ。
いまだ!
沙耶さんの貫手の下をかいくぐるようにして彼女に抱きつく。
否、抱きつくなんてお優しい行為ではない。
タックル。
受け身の練習のときに体験した、あれを。いま。やるんだ!
「がっ」
「だぁあああああああああああああああ!」
組み付く位置が高すぎた。お兄ちゃんのタックルは、もっと低く地を這うようなものだった。けれども不幸中の幸いか、それが沙耶さんの腹部を圧迫し、わたしに次なる行動の機会を与えてくれた。
叫びながら沙耶さんを一気に持ち上げる。重い。けれども人間の平均的体重と比べれば軽いのだろう。
このまま床に叩きつけてもいい。でも、それだとスタンピングしか追撃の手がない。わたしは床に転がって沙耶さんのスタンピングをかわした。きっと沙耶さんもそうする。だから違う手を。
火事場の馬鹿力というやつか、わたしは彼女を持ち上げると筋力の全開を維持したまま壁際に向かって駆け出すことに成功した。わたしの狙いは、この金網だ。
「この、は、放せ!」
沙耶さんが肘を背中に打ちつけてくる。なにをされるかわからないという恐れ。こんなことお兄ちゃんに教わっていない。だから彼女は恐れている。その恐れが、わたしの勝機。
わたしたちは投げ技や関節技を教わっていない。ここにはそんな使い手はいないともいっていた。だけど、もしも使い手がいたら。それは脅威だ。
いま、わたしはタックルという沙耶さんの教わっていない技を使い、そして彼女を投げようとしている。それはとても技とはいえない力任せに投げ捨ててしまおうというアイデアだけれども、それでもわたしたちにとって未知の攻撃は脅威であるのだ。
「せェェェィ!」
金網に向かって沙耶さんを投げ捨てる。投げ飛ばすというほど飛びやしない。投げ捨てる。がしゃんと沙耶さんのからだが金網に叩きつけられ、しかし意識を立つには不充分だ。それは予想していた。こっから。とどめを。
たたみかける!
「だ、あ、ああああああああ!」
全力全開全速力で跳躍する。
わたしのすべてをこめて。
ヒーローみたいな。
空を切り裂いて。
跳び蹴りを。
ごしゃん!
沙耶さんの顔面に叩き込んだ。
靴底から脳天にかけて不可視の手応えが走った。これ以上ないくらい通ったという確信。倒した。わたしは沙耶さんを倒した。
勝ったんだ。
その瞬間、緊張が解け、着地に失敗してしまった。もつれるように沙耶さんのうえに倒れかかってしまう。その瞬間、
「まだだァァァ!」
沙耶さんが吼えた。
そして立ち上がろうとして。
電池が切れたように崩れ落ちた。
そのままぴくりとも動かない。
も、もう動かないよね?
うわぁ。
びっくりした。なにいまの。最後の気力ってやつ?
からだは力を失っても、こころは、まだ衝き動かされていた。
なんて、おそろしい。
勝ったのに、勝ったはずはずなのに、なんだか落ち着かない。わたしは彼女のからだに勝っても、こころには勝てなかった、みたいな、なんというか、ちゃんと勝ったという気がしない。
そのまま呆然としていたわたしは、
「レッスン5は、るか、おまえの勝ちだ」
お兄ちゃんの声が聞こえるまで試合が終わったという実感を得られなかった。ああ、そっか。ようやく終わったんだ。これで、この試合は終わったんだ。
ありがとう、沙耶さん。
自分の限界に挑むまで戦えたことを、ちょっとだけ感謝した。ちょっとだけ。こんな戦い、そうそう何度もやりたくないって。