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ロバの耳
 世界から音が消えて一ヶ月が経つ。
 そろそろ音がない生活にも慣れてきた。とにかく三百六十度視野を広げ注意を払うことだ。特に自動車と歩行者。不慣れなうちは交通事故に遭いそうになったりすれ違うひとに頻繁に肩がぶつかったりして散々だった。
 授業は板書中心になった。コミュニケーションの大部分をメールが占めるようになった。筆談用のメモ帳が飛ぶように売れテレビは音声を流せないかわりにテロップを多用するようになった。
 音楽を聴けないことだけはストレスを感じた。というより音楽を聴けないことでストレスを発散できなかった。以前は音楽に陶酔することで現実逃避してストレスを和らげていたからだ。そのかわりにぼくは新たなストレス解消法を獲得した。叫ぶことだ。
 嫌なことがあったら思い切り叫ぶ。これはけっこう気持ちがいい。このストレス解消法は世界中で流行っていた。ぼくたちはこの行為を「ロバの耳」や「ロバ」と呼称した。「王様の耳はロバの耳」だ。
 嫌なことばかりではない。たとえば「愛してる」という言葉。なかなか言いにくい言葉もロバだったら口に出すことができた。もちろん本人の目の前でロバすることはない。こっそりと口に出すのだ。
 聞こえないから、言える。
 聞こえていたら、言えない。
 ぼくもそういうふうになかなか言えない言葉をロバしている人間の一人だった。ぼくがロバする相手は目の前の席に座っている佐伯さん。彼女の長い髪に向かってぼくはこっそり「好きです」と呟く。教科書で口元を隠しながら。だれにも悟られないように。それがぼくの精一杯だった。
 音のない世界は静かだ。当たり前だけどひどく静かだ。先生は板書だけで授業を進めなくちゃいけないから滅多に生徒のほうを振り返らない。だからぼくは窓の外へと視線を向けることが多くなった。
 窓の外では世界が動いている。人が通る。車が走る。鴉が鳴いている。たぶん、鳴いている。今は聞こえないけど昔だったら「カァ、カァ」と聞こえたのだろう。そうやって音の聞こえたころを懐かしんでいた。それから、たまに、ちょっとだけ、窓に映った佐伯さんを眺めていた。彼女の横顔。熱心に板書を写している。たまに欠伸を噛み殺して眠たげにまぶたをこする。ぼくの視線に気付くことはないとは思うけどまじまじと見るのも悪い気がして、たまに、ちょっとだけ見るようにしていた。

 佐伯さんとはたまに会話を交わす。もちろん喋るのではなく筆談だ。ぼくは真面目に板書を写していないことを口実に彼女にノートを見せてもらう。ちょんちょんと肩をつついて彼女が振り返ったら両手を合わせて拝み倒す。彼女は苦笑してぼくにノートを貸してくれる。ぼくは予め用意してあったメモ「ありがとう」を彼女に渡す。彼女は「どういたしまして」とメモに書き足してぼくに返す。ぼくはそのメモを大切に取っている。
 メールや筆談が多くなると自然と文章を観察することが増えた。文章からそのひとのひととなりが窺えるのだ。そしてやっぱり佐伯さんのノートは可愛らしかった。真面目に授業の内容を写していて、消しゴムで消した跡があって、ノートのすみに落書きが描いてあって、そのひとつひとつまでぼくは写したい気持ちだった。
 ノートを写しながらぼくは「好きです」以外の言葉を考える。彼女に伝えたい言葉は、もっと、もっといっぱいある。だけどそれらは頭のなかでごちゃごちゃに動き回っていて、ぼくには「好きです」以外の言葉が思いつかない。もっとも思いついたところでぼくにはロバすることしかできないだけれど。

 放課後。みんな放課後の予定はメールですでに話し合っているから雑談という時間は消えた。授業が終わると部活動がある者はさっさと部室へ、そうでないものは下駄箱へと向かう。ぼくも佐伯さんも部活動に所属している。ぼくは陸上部、佐伯さんはテニス部だ。
 ぼくたちは荷物を鞄に詰めると席を立って廊下へと向かう。ぼくは自然に見えるように佐伯さんの後ろを歩く。まるでストーカーみたいだ、と自分でも思うけど。
 彼女の背中に、こっそりと呟く。「好きです」
 だけど、なぜだか、このときばかりは。
 どうせ聞こえないのだから。
 そしてそのときたまたま周囲にぼくのほうを見ている生徒はいなかった。唇の動きでぼくがロバする内容をだれかに悟られることはない状況が出来上がっていた。
「好きです、佐伯さん!」
 ぼくは叫んでいた。思い切り叫んでいた。
 すると、どういうわけか、佐伯さんが立ち止まった。ぼくも立ち止まる。どうしたのだろう。まさかいまのが聞こえてしまったのだろうか。そんな妄想に襲われる。けれども世界は相変わらず静かで、一切合切音は聞こえなくて、そんなはずがないことをぼくに思い知らせてくれた。
 佐伯さんの視線は窓に向いていた。窓には沢山の生徒と、佐伯さんと、ぼくが、鮮明に映っていた。まるで鏡のように鮮明に映っていた。
 佐伯さんは鞄を下ろすとポケットから携帯電話を取り出した。そして彼女が携帯電話を弄りだしてから数秒後、ぼくの携帯電話が震えた。佐伯さんが振り返った。
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