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そのぬくもりに用がある
 雨が降っている。
 土砂降りだ。
 空に穴が開いたように。
 ざあざあと、すべてを洗い流す雨。
「――――――」
 血が――
 血が洗い流される。
 だくだくと流れる血が水に溶けていく。
 河川敷の橋の下。
 ホームレスのねぐらだ。
 そこで、おれは血を流していた。
 風が吹いている。
 だから、雨も凌ぎきれない。
 冷たい風と、雨が、体温を奪っていく。
「――――――」
 もっとも、そうでなくても勝手に体は冷たくなっていく。
 腹の、刺し傷から血が流れていく。
 ナイフで刺された傷だ。
 ナイフの柄まで、ぐっさりと刺さった。
 いますぐ病院に行かないかぎり助かることはないだろう。
 そして病院に行く手立てはない。
 そもそも手術を受けるような金もない。
 だから、このまま冷たくなって死ぬことだろう。
「ざまーねーな」
 と、呟く。
 そんな体力が残っていたことに自分でも驚く。
 立ち上がることはできなくても喋ることはできるのか。
 立ち上がるほうが重要だろうに。
 それとも、喋ることのほうが重要なのだろうか。
 たとえば遺言を残すために最後まで喋ることができるようになってるとか。
「フン」
 笑ってしまう。
 一人で死ぬのに遺言もクソもない。
 いわゆる、親父狩りというやつだったのだろうか。
 突然、複数人の若者に囲まれ。
 抵抗したらナイフで刺されて。
 財布を盗られて、逃げられた。
 そういうことがあって、このざまだった。
 携帯電話も、そのときに壊されて、クズになっていた。
「はぁ」
 溜め息が出た。
 すると、ぺろりと頬を舐められた。
「ン?」
 眼球だけ動かすと。
 そこには痩せ細った犬がいた。
「死んだら食っていいけど、まだ死んでないから、食うなよ」
 と、おれは言った。
 きっと、この犬は野良犬だろう。
 痩せ細ってるから、きっと腹を空かせた野良犬だろう。
 死んでから食われるならいいけど。
 生きたまま食われるのは、ちょっとごめんだった。
「――――――」
 犬は、ぺろぺろと舐め続ける。
 血の味が美味いのだろうか、と思う。
 頬にも傷があって、その傷を犬は舐めていた。
 のそり、と犬が動いた。
 いよいよ食うのか、と、おれは覚悟を決めた。
 だけど、犬は、おれに身を寄せるようにして、体をくっつけると、また舐め始めた。
 犬の体は暖かかった。
 死にゆくおれの体よりは暖かかった。
 犬のおかげで、寒さが、ちょっとだけマシになった。
「なんだい、慰めてくれるのか、おまえ」
 と、おれは言う。
 犬は当然答えないけど。
 そのかわり、おれを舐め続ける。
「――――――」
 だけど。
 徐々に犬の動きが鈍っていく。
 気のせいか、ぬくもりも薄れていってる。
 いいや、それは気のせいじゃない。
 死にゆくおれだからわかる、この犬も死にそうなのだと。
 痩せ細った野良犬は、飢え死にしそうなのだと。
 そういうことがわかってしまった。
「ったく、おまえも死にそうなんじゃねーか」
 おれを食えばいいのに、と思う。
 食われたくないけど、食えばいいのに。
 そうすれば、この犬だけは助かるかもしれないのに。
 体が動かなかった。
 撫でてやることができないのが悔やまれた。
 最後の心残りは、犬を撫でることができないことになりそうだ。
 無性に、この犬を撫でたかった。
 慰めてくれてありがとう、というお礼なのか。
 おまえも可哀想に死ぬのか、という同情なのか。
 自分でもよくわからないけど、とにかく、この犬を撫でたかった。
 手が震えてる。
 犬も震えてる。
 雨が降って風が吹いて。
 一人と一匹の体温を容赦なく奪っていく。
「大丈夫ですか?」
 そのとき、これも突然、声が降ってきた。
 目が霞んで、よく見えない。
 だれだか知らないが、きれいな声だ。
 天使が迎えにきたのかと思ってしまったくらいだ。
「救急車、呼びますか?」
 と、天使は言った。
 おれは数秒迷ってから、こう言った。
「犬を助けてくれ。この血、おれの血じゃなくて、犬の血なんだ」
「わんちゃんが怪我しちゃったんですか?」
「そうだ」
 天使は嘘を信じてくれた。
「だから、悪いけど、おれのかわりに、この犬を獣医まで連れていってくれないか? おれも脚を挫いてしまって、ここから動けないんだ」
「わかりました――」
 と、天使が犬を抱え上げた。
 見えないけど、ぬくもりが消えたのでわかった。
「――近くの獣医は、わかりますか?」
「わかる。あとでおれもいくから、先にいっていてくれ」
「わかりました。わんちゃん、無事だといいですね」
「ああ」
「それじゃ、いってきます」
 ぱしゃぱしゃぱしゃ、と足音が遠ざかる。
 天使が犬を連れていったのだろう。
 一人になると、おれは、心の中で謝った。
「――――――」
 雨が降っている。
 もう、雨音もわからないけど。
 なんとなく、まだ雨が降ってることだけはわかった。
 一人になってから。
 急速に五感が薄れていく。
「あぁ……」
 ためしに声を出そうとしてみた。
 うめき声しか出なかった。
 さっきはぺらぺらと喋っていたのに。
 あれで力を使い果たしてしまったということか。
 なんだかおかしかった。
 笑いたいけど声が出なかった。
 命を懸けて。
 野良犬を助けて。
 おれはなにしてんだろう。
 最後に。
 犬を撫でたいと思った。
「――――――」
 指先が、あの犬の毛並みに触れた気がした。
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