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第一章
 氏家美咲。
 ショートボブの快活な印象の女子生徒である。
 髪も染めておらず、体も引き締まっており、スポーツ少女といった風体で、いつも手のひらにテーピングを巻いているのが特徴といえば特徴だ。
 女子生徒には「うーちゃん」と呼ばれている。
 男子生徒には「番長」や「道場破り」と、そして先日「百人斬り」という二つ名が新たに加わった。
 二つ名というか、やってることそのまんまである。
 強そうな男に片っ端から勝負を挑む。
 百戦百勝で不敗伝説更新中。
 負ける兆しは、ない。
「――それさえなければ今頃彼氏なんて作り放題なのに、プラマイゼロを通り越してマイナスだよね、うーちゃんって」
 と、その級友の吉井優歌は嫉妬と羨望の混じった声で言った。
 昼休みである。
 校庭の中庭で、二人は並んでベンチに坐って、雑談に興じていた。食べ終えた弁当箱は脇に置かれている。
 優歌の嫉妬と羨望の理由は美咲の容貌と人柄の良さにある。
 美咲は美少女だ。優歌も美少女には違いないが、それは努力の賜物である。美咲は違う。化粧のけの字だって知らないのだ。
 この年頃の少年は化粧を嫌う。だから優歌もナチュラルメイクを心掛けているが、それにしたって限度がある。美咲のノーメイクは男子生徒にはウケが良い。
 美咲は人柄も良い。ちょっと天然気味だが、それもウケが良い。あたふたしながら他人のために一生懸命尽くすような少女だ、彼女と友達と良かったと優歌は思う。
 だがしかし、
「そ、そんな、優歌ちゃん、わたしはただ、自分より強い人と付き合いたいだけだよ」
 この一点。
 この一点のせいで、いまだに彼氏がいない。
 優歌は溜息をついた。
「そんなこと言って、もうこのへんの強い男は全員倒しちゃったんでしょ?」
「うん……」
 美咲はうつむいて落ち込んでしまった。
 そう。
 このへんの強い男は全員倒してしまった。
 たとえば運動部系の主将は他校まで遠征して倒してしまった。道場破りと呼ばれる所以である。
「もう、諦めたら?」
「そんなの嫌だよ、わたしだって彼氏と付き合ってみたいよぉー」
「いや、自分より強い男ってのは諦められないの?」
「うーん……あ、でも、竹内先生なら、ひょっとして」
「それはやめて! それは色々危険だから!」
 竹内先生。古武術の達人と噂される妻子持ちの教員である。しかも定年間近の老齢である。
「ったく、こういうところは普通に弱いのに」
「きゃっ」
 不意を突いて脇をくすぐってやると美咲は可愛らしく身悶えた。
「ん……あっ……やめてよぉ……」
「ふふふ、ほーれほーれ、こんなのはどうよー?」
 しかも抗議の声こそ上げるが抵抗しないもんだから優歌の嗜虐心に火がついてしまった。
 いわく「怪我したら危ない」から抵抗しないそうだが、こうなってしまったら良い玩具である。
「うーちゃんって着痩せするタイプだよねー」
「ちょ、優歌ちゃん、どこ触って……んんっ!」
 調子に乗った優歌は右手で脇をくすぐったまんま、左手で胸を揉み始めた。
 美咲は必死で我慢している。
 ふるふると震えながら、息を荒げて。
 それでも抵抗しないから、ますます行為はエスカレート。
「んふふふ、ほらほらぁ、我慢は体に毒よぉー?」
「もうやめてよぉ、優歌ちゃ……んっ……変になっちゃうよぉ……っ」
「どこがどう変になるのかにゃー?」
「ん、あぁ……そ、それは……ひゃん! だめ、そんな!」
 とうとう両手で胸を揉み始めてしまった。
 遠慮呵責なく、めっちゃ揉んでいる。
 変な性癖に目覚めそうだった。
「ゆうかちゃぁん、んんっ……も、もうだめ、こうさん、わらし、こうさんするからぁぁ……!」
 美咲が涙目で訴える。
 ちょっとやりすぎたかな、と優歌は思い、
「それじゃこれでオシマイね」
 ――カプ。
 と耳を噛んで、ちょろちょろと舐めた。
「んん――――――っ!」
 びくん、と一際大きく美咲の体が跳ねると、完全に脱力して、彼女は優歌にしなだれかかってしまった。
「ちょ、うーちゃん、大丈夫? そんなにくすぐったかった?」
 さすがにこの反応には吃驚してしまった優歌が、美咲の体を揺さぶる。
「ん……はぁ……優歌ちゃん……」
 息を荒げたままの美咲は、その拍子に優歌の体に抱きついて、
「わたし、優歌ちゃんでも、いいかも……」
「え?」
「わたし、降参したから、負けちゃったから……」
 潤んだ瞳で見つめてくる。
 小動物のような可愛らしい眼差しだ。
 しかして優歌は背徳的な危険を感じてしまった。
 優歌を抱きしめる美咲の力が強くなり、彼女の顔が、唇が、接近してくる。熱っぽい吐息が頬をくすぐる。
「駄目っ! それは色々危険だからっ!」
「わたし、優歌ちゃんなら……いいんだよ……?」
「目を覚ましてっ! 変な性癖に目覚めないでーっ!」
「優歌ちゃん……わたし……」
「だ、だれかーっ! ごめん、私が悪かった! 私が悪かったから! 謝るから落ち着いて! 近い! マジで近いって! ちょ、きゃ、きゃぁぁぁぁぁぁ――――――っ!」


 放課後。
 雲は晴れ、青空が広がり、良い天気だった。
 氏家美咲と吉井優歌は駅近の繁華街でウィンドウショッピングに興じていた。
 二人とも制服のままだ。
 美咲はショートボブの快活な印象で女子生徒で、髪も染めておらず、体も引き締まっており、いかにもスポーツ少女といった風体だ。
 手のひらにテーピングを巻いているのが奇異といえば奇異だが、いちいち見咎められるほどのことでもない。
 優歌は茶髪で、校則違反にならない程度に肩まで髪を伸ばしており、ナチュラルメイクだが化粧もしているから、いかにも最近の若者という風体だ。
 傍目には真面目なスポーツ少女の美咲を遊び慣れている優歌が街に連れ出したように見えるが、実態は違う。
「ねえねえ、優歌ちゃん、これ、とっても可愛いよー!」
「うんうん、似合う似合う」
 美咲が優歌を引っ張り回していた。
 優歌は疲れたのか飽きたのか呆れたのか、とにかく返事がおざなりになっている有様だが、そんなことに気づかないほど美咲ははしゃいでいる。
「うーちゃーん、アンタ、いい加減彼氏作って、彼氏とデートしなさいよー」
「でも、わたしより強い男の人見つからないし……」
「妥協しなさいよ……」
 いままで一度も異性と付き合ったことのない美咲は、デートという行為に憧れを抱いている。
 でも、彼氏は、いない。
 自分より強い男と付き合いたい。
 容姿人柄文句なしの美咲だが、その一点が致命的なマイナスで、いまのところ彼氏のできる気配はなかった。
「優歌ちゃん、この服、似合いそうだねー」
「いやそれ男物だから。私女だから。うーちゃんの彼氏じゃないから」
 その結果――
 どういうわけか仲の良い優歌が「デート」に連れ回されている。それも頻繁に。
 原因は分かっている。
 優歌は、いまはフリーだが、それなりに異性と付き合ったこともある。
 で、「優歌ちゃん、デートって、どういうところに行くの?」と目をキラキラさせながら聞いてきた美咲にあれやこれや教えてしまったのが原因だ。
 天然を甘く見ていた。
 それ以来、頻繁に、美咲は優歌を「デート」に誘うようになったのだ。
「わたし、優歌ちゃんなら、いいんだけどなぁ……」
 美咲がぼそっと何か言った。
 気のせいか熱っぽい視線を感じる。
 優歌は、よく聞こえなかったが、貞操の危機を覚え、
「わ、私、小腹が空いたから、どっか食べに行かない? というか行こう! いますぐ行こう! スイーツ食い放題とか女の子らしいところに行こう!」
 と美咲をデートコースから引っ張り出したのだった。


 陽が傾き始めた頃、二人は店から出てきた。
「おいしかったねー、優歌ちゃん」
「うーちゃんの胃袋ってどうなってんの……? 私の倍は食べていたよね、別腹ってレベルじゃなかったよね? 別次元……?」
 美咲は満面の笑みを浮かべ、優歌は、ぐったりしている。どうやら食い過ぎたようだ。
 本当は懐的にも、あと近々控えている身体測定のためにもスイーツ食い放題なんて行きたくなかったのだが。
 美咲が変な性癖に目覚める前に、なんとしてでもデートコースから脱出しなければいけなかった。あのままだと本当の彼氏にされかねなかった。
「それじゃあ、そろそろ帰ろっか」
「うんっ」
 美咲は満足したらしく、おとなしく帰ることに賛成してくれた。
 優歌は、ほっと溜息をついた。
 もしも美咲が「えー、まだ帰りたくないよぉ」とか言い出したら断りきれない。
 瞳を潤ませながら、じっと見つめてくるのだ。
 駄々をこねたりはしない。ただ、じっと見つめてくる。
 そうすると罪悪感に駆られ、「まだ、ちょっとくらいいいかな……?」とか口走ってしまうのだ。
「うーちゃんって女子が相手でも最強だよね……」
「え、なに?」
「なんでもない」
 その後、二人は駅へ向かった。
 駅へ向かうには二通りの行き方がある。
 大通りを歩くか、ショートカットを選ぶか。
 優歌は、つい、いつもの癖で、ショートカットを選択してしまった。
 裏道である。
 こっちのほうが駅まで近道だ。
 だがしかし、いかがわしい店も多い。
「ねえ、優歌ちゃん、いつも思ってるんだけど、どうして、こんなところにお城が――」
「うーちゃんにはまだ早いからっ! 知らなくていいからっ! あと私は絶対一緒に入らないからっ!」
「えー」
「駄目っ! 絶対駄目ーっ!」
 再び貞操の危機の、そのときだ。
「――財布、出してもらおうか」
 ドスのきいた声が聞こえた。
 自分たちに向けた声ではない。
 裏道のさらに裏の小道から漏れた声だ。
「やば、うーちゃん――」
 優歌は、さっきとは異なる危険を覚えた。
 わかりやすい恐喝の現場だ、間違いなく。
 そして、そんな場所に美咲が遭遇したら。
「あはっ」
 美咲は可憐な、かつ凶暴な笑みを浮かべていた。
 歪んだ恋愛観のなせる暴力を期待する笑み。
 ぎりり、と彼女は拳を握りしめた。
 手のひらに巻いたテーピングが軋むほど、強く、強く。
 美咲のまとう空気が、変わる。
 今、自分が美咲の射程距離内にいるのだと、感じる。
 格闘技経験のない優歌でさえ感じるほど、あからさまなプレッシャー。
「ごめん、優歌ちゃん、ちょっと待ってて」
 止める間もなく美咲は路地裏に消えていった。
 完璧な体重移動によって足音は聞こえなかった。
 まさしく、闇に消え失せた。
 取り残された優歌は一人呟く。
「……また伝説作って、そんなんだから彼氏できないのよ、うーちゃんの馬鹿」


 既に陽は傾き始めている。
 中途半端な時間帯のため街灯は消えたままだ。
 裏道の、さらに裏の小道となれば、夜と変わらない暗がりが広がっていた。
 人目を忍ぶように、そこに五つの人影があった。
 四つの人影が一つの人影を囲っている。
 前者は、いかにもガラの悪そうな不良少年たちだ。
 髪を染めていたり、ピアスを空けていたり、タトゥーを入れていたり、煙草をくわえていたり、なにより取り囲んでいる人物に対する威圧的な、それでいて嘲けるような視線。
 後者は、学生服を着た少年だ。
 中肉中背、学生服を着崩してもいない、どこにでもいそうな普通の男子生徒。前髪が長く、表情は、ちょっと窺えない。
「だーかーらー、肩がぶつかった拍子に、ケータイが落ちて、壊れたから、弁償してもらうために――」
 わかりやすい恐喝の現場だった。
 四人の不良少年たちから一人の男子生徒から金を巻き上げようとしている。
「――財布、出してもらおうか」
 壁に背を突いた男子生徒の胸倉を掴み、不良少年が精一杯のドスをきかせて、怒鳴り声を上げた。
 次の瞬間、風が吹いて、怒鳴り声を上げた不良少年の姿が掻き消えた。
 一瞬の出来事だった。
 入れ替わるように、さっきまで不良少年の立っていた場所に、学生服を着た少女が忽然と姿を現したのだ。
 脅迫されている男子生徒と同じ学校の学生服を着た少女。
 ショートボブの快活な印象で女子生徒で、髪も染めておらず、体も引き締まっており、いかにもスポーツ少女といった風体だ。
 彼女が手のひらにテーピングを巻いていることに不良少年たちは気付かなかった。
 それより彼女の足元に、さっきまで怒鳴り声を上げていた仲間が倒れていたからだ。
 ようやく不良少年たちは、この乱入者が仲間を蹴り倒したのだと知った。
「まずは、挨拶代わりの一発です」
 女子生徒は言った。
「テメー、なにしやがるッ」
「なにって――」
 女子生徒は笑った。
 場違いに可憐な笑みだった。
 強面の不良たちに囲まれて浮かべる笑みでは、ない。
 彼女は挑発するように顔の前で拳と手のひらをパンと打ち合わせた。
 その拳を見て、不良少年のうちの一人がバンテージに気付いた。
「まさか――!」
「――私と、突き合ってください」
 だが、気付くのが遅過ぎた。
 ついさっき喧嘩腰で彼女に突っかかってしまったのだ。
 かれらは喧嘩を売って、彼女は喧嘩を買った。
 だから、もう遅い。
 もっと早く気付いて、さっさと退散すれば、あるいは逃げ切れたかもしれないが――
「ひゅっ」
 笛のような呼気と共に彼女の拳が伸びた。
 彼女――氏家美咲。
「番長」
「道場破り」
「百人斬り」
 等々、数多の二つ名で呼ばれる百戦百勝の女子高生。
 手のひらに巻いているバンテージは彼女の目印だ。
 いわく強い男と付き合いたい。
 そのために喧嘩を吹っ掛ける。
(イカレてる)
 次の瞬間、かれの思考は断ち切られた。
 美咲の放った左フックが側頭部に突き刺さり、意識を飛ばされたのだ。
「このアマァァァ――ッ!」
 残り二人――
 残り二人は、美咲の正体に気付いていなかった。
 それが幸いした。
 一人目は不意討ちだった。
 二人目は恐怖で体が硬直していた。
 残り二人は、かれらと違って万全の状態で戦える。
「いつものだッ」
「応ッ」
 一人が右からハイキックを、もう一人が左からローキックを放った。
 格闘技の経験に基づく体重の乗った蹴りではない。
 蹴るというより押す、素人のキックだ。
 だからといって弱くはない。
 上下同時攻撃は、それだけで防御が難しい。
 当たれば相手の体勢は崩れる。
 それが狙いだ。
 体勢が崩れたところを二人掛かりで袋叩きにすれば大抵の喧嘩は勝てる。
 実戦的な意味では強力なコンビネーションだ。
 この二人は、喧嘩慣れしている。
「フンッ!」
 美咲はローキックのほうへ飛び込み、なにやら気合を入れた。
 だが、それではハイキックはかわせても、ローキックは、当たる。
(とったッ!)
 ローキックを放った不良少年は心の中で喝采を上げた。
 バン、と肉が肉を打つ音が響いた。
 それだけだった。
「な……ッ」
 美咲は健在だった。
 倒れることも、体勢を崩すこともなく、踏み込んだ位置で二本の脚で立っている。
 美咲はローキックの打点をずらすことで踏ん張ったのだ。
 蹴り技は、基本的に、爪先寄りのほうが威力が強く、上にいくにつれ威力が弱くなる。
 遠心力や加速など、様々な条件による現象だが、とりあえず相手の太股に自分の脚がぶつかるようにすれば十分威力は殺せる。それを美咲は実行したのだ。
「蹴りはね――」
 美咲の手が、目の前の相手の首を捕まえた。
 首相撲に持ち込むと、
「――こうやって蹴るッ!」
 膝が跳ね上がって相手の顎を打ち抜いた。
 首相撲から膝蹴りのコンビネーション。
 ムエタイの技である。
 顎から脳天に衝撃が貫通して、かれも意識を失った。
 残り、一人。
「な、なんなんだよ……」
 最後の一人は怯えきっていた。
 四人もいたのに、あっという間に一人だ。
 目の前の少女は一体何者なのか、かれにはわからなかった。
 番長、道場破り、百人斬り、それらの噂は知っている。
 けど、頭がちっとも回っていなかった。
 恐怖と困惑で混乱していた。
「テメー、なんなんだよッ! ふざけんなッ!」
 とうとうキレてしまった。
 懐から得物を抜く。
 ナイフだ。
 普段は威嚇にしか使わないが、今日は、目の前の怪物に対して、武器として使う気だった。
 ――刺す。
 ――斬る。
 ――殺す。
 暴力の権化を目にして理性がショートしていた。
 それでも美咲は笑顔で、
「いいね、ナイフ。危なくて。だから、とっても強くて」
 いや、ますます笑みが深くなる。
「あなたが殺す気なら、わたしも殺す気でいくから。わたしも手加減しないから。ちゃんと狙ってね? ドキドキしちゃう。やるかやられるかの瀬戸際って」
 美咲のまとっていたプレッシャーの質が変わった。
 全包囲に拡散していた気が一点収束する。
 目の前の一人を全力で倒す。
 殺してしまっても構わない。
 緊張が高まり、
 ――ゴン。
 だが、その緊張は不意にぶったぎられた。
 鈍い音と共に最後の一人が崩れ落ちる。
「えー」
 美咲は不満の声を上げた。
「ごめん、助かった。ありがとう」
 不良少年たちに絡まれていた男子生徒が、拳大のブロック塀のかけらを持っていた。それで最後の一人の後頭部を強打したのだ。
 美咲は、じっとかれを見つめていた。
 疑うような、そんな視線だ。
「んー………………?」
「ひょっとして、なにかお礼したほうがいい?」
「いや、あの、そうじゃなくて――」
 美咲が、なにか言いかけたとき、
「うーちゃーん、終わったー?」
 と、美咲を呼ぶ声が向うから聞こえていた。
「あ、うん、終わったから、すぐいくからー」
 友達でも待たせているのだろう。
 美咲は慌て始めた。
「それじゃ、わたし、もう行かなくちゃいけないから」
「いいって、こっちはもう大丈夫だから」
「でも、一個だけ教えて」
 美咲は少年に質問した。
「きみ、強い?」
「まさか」
 少年は笑った。
「助けてもらわなかったらヤバかったよ」
「でも、手慣れていた」
「……なにが」
「それ」
 美咲はブロック塀のかけらを指さした。
「きみ、とっても落ち着いてるよね」
「たまたまだよ、たまたま」
「ひょっとして、わたしが助けなくても、自分でなんとかできたんじゃない?」
「そんなはずないって」
「でも――」
 尚、美咲は言い募ろうとしたが、
「うーちゃーん、まだー?」
 再び彼女を呼ぶ声。
 友達を待たせていることを思い出した美咲は、
「ご、ごめん、いまいくからーっ!」
 と、慌てて、
「同じ学校だよね? 会えたらよろしくねー!」
 そんなことを言い残しながら、その場から走り去った。
 一人残された少年はひとりごちる。
「……ヤバイヤツに目を付けられたかな、ひょっとして」
 めんどくさそうにぼりぼりと頭を掻く。
 美咲の指摘通り、少年は、やけに落ち着いていた。
 暴力を目の当たりにした直後にしては、不自然なほどに。
「まあいいや。とりあえず――」
 少年は屈み込むと、不良少年たちの懐を漁り始めた。
「――財布、出してもらおうか」


 朝。
 今日もいい天気だった。
 澄んだ青空が広がっている。
 あと数日は、こんな天気が続きそうだ。
 春原高校の校門は登校する生徒でにぎわっていた。
 自転車に乗って通学する生徒や徒歩で通学する生徒、バスに乗って通学する生徒、教職員の姿もちらほら。
 自転車通学する生徒が最も多い。
 バスは便利だが金が掛かるし、なにより混む。
 徒歩通学する生徒はバスに乗らず駅から歩いている者が大半だ。もちろん中には家が近いからという生徒はいるが、そういう生徒は大抵自転車を使う。
 氏家美咲と吉井優歌も駅から歩いて通学する生徒だ。
 美咲はショートボブの快活な印象で女子生徒で、髪も染めておらず、体も引き締まっており、いかにもスポーツ少女といった風体だ。
 手のひらにテーピングを巻いているのは彼女の目印だった。ある意味、有名人だ。
 優歌は茶髪で、校則違反にならない程度に肩まで髪を伸ばしており、ナチュラルメイクだが化粧もしているから、いかにも最近の若者という風体だ。
「それでね、優歌ちゃん、あの人、絶対強いって!」
「はいはい、アンタが言うならそうなんでしょうねー」
 普通、真面目なスポーツ少女の美咲を遊び慣れた優歌が引っ張り回すという関係を思い浮かべるが、この二人の場合、逆だ。
 美咲が、優歌を引っ張り回している。
 やたらと好かれていた。というか、なつかれていた。
 たまに度を超して変な性癖に目覚めそうになるくらいだ。
「また会えないかなぁー」
「同じ学校でしょ? 会えるんじゃない?」
 美咲は昨日会ったという男子生徒の話を熱心に語っていたが、優歌にはさっぱり分からない話だ。
 自然、返事もおざなりになる。
 なにやら強そうな男子に会ったことで興奮しているようだが、美咲の話を聞いていても、どこがどう強そうなのか分からない。
 勘違いじゃない? と思う。
 そして、その男子生徒、ご愁傷様、と思う。
 自分より強い男と付き合いたい美咲には、強そうな男を見つけると「突き合ってください」と喧嘩を仕掛ける悪癖がある。
 いまのところ全戦全勝、付いた二つ名が「番長」「道場破り」「百人斬り」等々、現在進行形で無敗伝説更新中。
 だから、その男子生徒も喧嘩を吹っ掛けられて、そして負けるんだろうなあ、と優歌は思ったわけだ。
「あ、いた」
 唐突に、美咲が声を上げた。
「え?」
「いたいた、優歌ちゃん、昨日の! おーいっ!」
 と美咲が手を振る方角を見れば、そこには一人の男子生徒がいた。
  中肉中背、学生服を着崩してもいない、どこにでもいそうな普通の男子生徒。前髪が長く、表情は、ちょっと窺えない。
 とても強そうには見えなかった。
 というより優歌の知った顔だった。
「あれ、蒼馬じゃん」
「知ってるの?」
「同級生」
「わあ、奇遇だねっ」
 たたたっと小気味良い足音と共に美咲は男子生徒に走り寄った。
 仕方なく優歌もついていった。
「おはよー、蒼馬」
「おはよう、吉井さん」
「昨日、うーちゃんに会ったんだって?」
「チンピラに絡まれてるところを助けられたんだ」
「災難だったねー」
「そうでもない」
 一瞬、蒼馬と呼ばれた少年が、なにやら含みのある笑みを浮かべた気がした。
 けど、それも一瞬のことだったから、優歌は気にしないことにした。
「ねーねー、優歌ちゃーん」
 と、美咲が袖を引っ張った。
 優歌は苦笑して、
「うーちゃんが蒼馬に興味あるんだってさ」
「俺は全然弱いって」
「うーちゃんのこと、知ってるんだ?」
「昨日直接見たし。さすが百人斬り。かないっこねーよ」
「ふーん。まあいいや。もしよかったらうーちゃんに自己紹介してもらえる? 弁解するチャンスを与えてあげるんだから私に感謝しなさい」
「……そうだな、そりゃいいアイデアだ」
 と、数瞬のためらいの後、美咲に向き直って、
「吉井と同級生の蒼馬刀冶だ。なんか勘違いしてるようだけど――」
「勘違いなんかじゃないよ」
 美咲が遮った。
「これでもわたし、人を見る目はあるんだから。強いか弱いか。頭悪いけど。なんとなくわかるの。刀冶くんって呼んでいい? 刀冶くん、なにか隠してるでしょ?」
「いや、俺は」
「ねえ、私と突き合っ――」
 クルッと回ってダッシュ。
 逃げた。
 逃げたのだ。
 迷いのない逃げっぷり。
 刀冶はすがすがしいほど全力で逃げ出した。
 優歌が気付いたときには十メートルは走っていた。
 そして一瞬遅れて駆け出した美咲は刀冶の後を追走していた。
「………………早っ」
 優歌は茫然と立ち尽くしていた。
 初めてだった。
 美咲に喧嘩を吹っ掛けられて、あんなに勢いよく逃げ出す男子生徒を見たのは。


 全力疾走。
 刀冶の脚は遅くはなかった。
 陸上部など毎日走ってる連中よりは遅い。
 しかし一般的に見て十分速いと言えるスピードだ。
 だが、
「待って、ねえ、待ってってばーっ!」
 美咲も速い。
 女子としては脅威的な速さだ。
 実際、刀冶より速いくらいで、徐々に距離を詰めていく。
「待てと言われて待つやつがいるかっ! オマエ、俺をボコる気だろうがーっ!」
「ボコるって、違うよっ、そこまでしないよっ!」
「勝てっこねえヤツと喧嘩するやつがいるかっ!」
「そんなこと言わないで突き合ってよーっ!」
 校門を抜けて下駄箱へ、しかし二人とも上靴に履き変えず土足のまま校舎に突入する。
 廊下には沢山の生徒がいる。
 かれらの間をすり抜け、曲がり角に入る。
 刀冶の進路上に女子生徒がいた、こっちに気付いていない。
「チッ」
 舌打ち。
 このままだとぶつかる。
 このスピードを維持したま進路は変えられない。
 ――ダンッ!
 刀冶は壁を蹴って、三角飛びの要領で角を曲がった。
 ほとんど壁を走ってるようなものだ。
 ――ダンッ!
 同じく美咲も壁を走って女子生徒を回避した。
 女子生徒は腰を抜かせていた。
「ごめんなさい、急いでるのーっ!」
 美咲が大声で謝ってるのが刀冶にも聞こえた。
 まだ、追ってくる。
(しつこい)
 校舎に入れば諦めるかと思ったが、美咲の追撃は、想像以上に執念深かった。
 ちらっと後ろを振り返る。
「待ってーっ! お願いだから突き合ってーっ!」
 脳内麻薬でも出ているのか、ものすごくキラキラした笑顔で追っかけてきていた。
「……見なきゃよかった」
 刀冶は、対象的な表情だった。
 ものすごくげんなりしている。
 気を取り直して周囲を様子を観察する。
 なにか使えそうなものはないか。
 今、刀冶と美咲が走っているのは一階だった。
 春原高校は一階は一年生、二階は二年生、三階は一年生の教室となっている。
 一年生のころに、このへんの教室を使っていたことがある。その記憶を掘り出していく。
(あった)
 次の作戦が決まった。
 昔、自分の使っていた教室に飛び込む。
「どけぇぇぇぇぇぇ――ッ!」
 幸いにして窓は開いていた。
 勢いを殺さず窓枠に飛び乗って、ジャンプ。
「お、お、おおおおぉぉぉぉぉぉ――ッ!」
 ダンクシュートを決めるように手を上に伸ばして、
 ――ガッ!
 掴んだ。
 校舎の外に木が生えている。
 窓際からジャンプしたら手が届くかどうか微妙なところに伸びている太い枝。
 刀冶は、その枝に掴まっていた。そのまま体を持ち上げて枝の上に乗る。
 美咲の身長では、ここまで手が届かないだろう。
 そう判断して選択した逃走路だった。
「よし」
 目の前の教室の窓も開いていた。ますます運が良い。
 もし閉まっていたらどうしようかと思っていたところだ。
 木の枝からジャンプして二階の教室に飛び込む。 
 若干の注目を浴びてしまったが、
「これなら――」
 逃げられたか? と安堵しかけた刀冶だが、
「――とうっ!」
 なんか背後から聞こえた気がした。
 おそるおそる振り返ると、
「ふふ、逃がさないよ」
 美咲が木の枝に立っていた。
 刀冶は迷うことなく窓を締めてロックを掛けた。
 ついでにカーテンも締めて美咲の姿が見えないようにした。
「あ、ちょ――! 開けて! それ困るから! 開けて開けて、だれか開けてー! 逃げられちゃう! って、うわ、チャイムが! ホームルームが始まっちゃうーっ!」


「うーちゃんから逃げ切ったんだって?」
 朝のホームルームが終わると同時、吉井優歌は蒼馬刀冶の机にやってきて、好奇心を隠し切れない笑顔で、そう尋ねた。
 優歌は茶髪で、校則違反にならない程度に肩まで髪を伸ばしており、ナチュラルメイクだが化粧もしているから、いかにも最近の若者という風体だ。
 刀冶は中肉中背、学生服を着崩してもいない、どこにでもいそうな普通の男子生徒。前髪が長く、表情は、ちょっと窺えない。
 二人にはなんの共通点もなかった。
 たまに挨拶を交わす程度の、ただのクラスメイト。
 個人的な会話を交わすのはこれが初めてのことだった。
 原因は、うーちゃんこと氏家美咲。
 自分より強い男と付き合いたい美咲には、強そうな男を見つけると「突き合ってください」と喧嘩を仕掛ける悪癖がある。
 いまのところ全戦全勝、付いた二つ名が「番長」「道場破り」「百人斬り」等々、現在進行形で無敗伝説更新中。優歌の友人である。
「たまたまだよ、たまたま。運が良かった」
「本当は蒼馬、強いんじゃないの?」
「弱いから逃げた。脚だって、アイツのほうが速かったんだぜ?」
「それで逃げ切るってすごくない? 自分より脚の速い相手から逃げるなんて普通無理だよ? というか、うーちゃんから逃げ切ったのは蒼馬が初めてなんだよ?」
「……いや、だから、運が良かったんだ」
「本当に、なにか隠していない? なんだかあやしーなー」
 優歌は最初、刀冶が強そうとは思えなかった。
 見た目は普通。チンピラに絡まれてるところを助けてもらったのが美咲と刀冶の知り合ったきっかけだ。美咲が、刀冶を助けたのである。刀冶が強いとは思えない。
 だが、美咲から逃げ切った。
 あの、美咲から逃げ切った。
 いままでそんなやつは一人もいなかった。
 俄然、興味が湧いてくるというもの。
 百戦練磨の美咲が「絶対強いって!」と言い張る理由となる、なにかを、この一見普通のクラスメイトは隠しているのではないかと。
「なんも隠してないって」
 と言うや刀冶は席を立った。
「どこいくの?」
「便所」
 刀冶が教室の戸を開けた。
 廊下には、一人の女子生徒が、戸を開けようとする姿勢で固まっていた。
「あ」
「げ」
 ショートボブの快活な印象で女子生徒。髪も染めておらず、体も引き締まっており、いかにもスポーツ少女といった風体だ。
 手のひらにテーピングを巻いているのは、いつでも戦えるように。
 噂をすればなんとやら。
 美咲だった。
「あの、私と突きあって――!」
「ていっ」
 美咲が喧嘩を仕掛けるより早く刀冶が動いた。
 ポケットから小瓶を取り出し、その中身を美咲の顔面にぶっかける。茶色い粉末である。
 喋りかけていた美咲は、もろに吸い込んでしまった。
「っくしゅん!」
 途端、美咲はくしゃみを上げた。
 小瓶の中身は、コショウ。
 その隙に刀冶は教室の戸を抜け一目散に駈け出した。
「あ、ちょ、待っ、っくしゅん! っくしょん!」
 くしゃみが止まらないらしい。
 そんな状態でも美咲は追ってきた。
 だが、明らかにスピードが落ちている。
「刀冶くーん、待ってよぉぉー!」
 しかも涙目だ。
 なんだか自分が悪者の気がしてくる。
 かといって待たない。待てば勝ち目のない喧嘩だ。
 刀冶が目当ての部屋に飛び込むと、よくよく確認もせず、美咲もついてきた。
 そこで刀冶は脚を止めて、彼女のほうに振り返った。
「ぐすっ……突き合ってくれる気に……なってくれた……?」
 鼻をすすりながらも、美咲は嬉しそうな笑顔になった。
 涙目だから、まるで嬉し泣きしてるようにも見える。
 騙してるようで悪いなあと思いつつも、
「あのさ」
「うんっ」
「ここ男子便所」
「……えっ?」
「男子便所だけど、いいのか?」
 今気付いたとばかりに美咲は小動物じみた動作で周囲をきょろきょろと確認した。
 小便器で用を足している男子生徒が、とても困った顔をしている。
 個室からは、食事中は絶対聞きたくない類の音が聞こえてくる。
 どこをどう見ても男子便所以外何物でもなかった。
「え、わた、わ、わたし……っ! ご、ごめんなさいっ! ごめんなさいぃぃぃ――――――っ!」
 耳まで真っ赤になって、美咲は逃げていった。
 数秒後、教室のほうから、
「優歌ちゃぁぁぁん、わたし、もう、お嫁にいけなくなっちゃったぁぁ――!」
「え、なにっ? なにが起こったのっ?」
「優歌ちゃん、わたしのこと、もらってぇぇー」
「どうしてそうなる!」
「不束者だけど、がんばるからぁー!」
「うーちゃん落ち着いて! 落ち着いて、大丈夫だから! って、こら鼻水! 鼻水がぁぁぁ――――――っ!」
 なんだか大変な声が聞こえてきた。
 が、そんなことはお構いなしに、とりあえず刀冶は小便を済ませた。


 一限目の授業が始まり、そして終わる。
 教師が教室から出ていく。
 優歌は、なんとなく刀冶のほうに目を向けた。
 なんといっても二度も美咲から逃げ切った人物だ。
 正直、二度目の逃げ方はどうかと思うが、それでも逃げ切ったには違いない。
 これから刀冶が、どうやって逃げ続けるのか、興味があった。
「――って、なにしてんのっ!」
 刀冶は窓から飛び降りようとしていた。
 ここは校舎の二階だ。
 教室の天井は高い。床も厚い。
 だから各階の高さが、けっこうある。
 校舎の二階から飛び降りるのは、普通の家屋の三階から飛び降りるに等しい。
「逃げるが勝ち」
 と刀冶は言った。
 にやり、と余裕のある笑みを浮かべ、そして飛んだ。
 クラスメイトが窓際に駈け寄って、階下を確認すると、花壇の土の上に着地して、見事逃走する刀冶の姿があった。
 ちなみに今は園芸部が廃部になって使われなくなった花壇だから、花は咲いておらず、土しかない。だれも咎める者はいなかった。
 というよりクラスメイトの大半は呆れ半分、感心していた。かれらも美咲の件は知っているのだ。
「刀冶くん、わたしと突き合って――あれ? 刀冶くん、どこ?」
 当の美咲が教室に登場したが、ときすでに遅し。
 刀冶の姿は窓からも見えなくなっていた。
「蒼馬なら窓から逃げた」
「えー!」
 するとみるみる美咲は涙目になった。
「わたし、刀冶くんに、きらわれちゃったのかなぁ……?」
「いや、うーん、どうだろう」
 美咲の目的は強い男と付き合うことだ。
 突き合うのは、そのための手段に過ぎない。
 だから、嫌われることを、非常に恐れている。
 喧嘩を吹っ掛けておいて勝手な理屈だが、そういう性癖なのである。
 それに、この悪癖を除けば容姿人柄文句なしの美少女である。なんだかんだで人気者なので、他人に嫌われることに慣れていなかった。
 だから美咲の泣きそうな顔を見ていたら、それに刀冶の逃げっぷりも見たくて、
「まあ、大丈夫だって! もっとがんばればいいじゃん!」
 と優歌は無責任なことを言うのだった。
 案外、食わせ者だった。


 チャイムが鳴った。
 午前中の授業が終わりを告げる。
 教師が教室から出ていくと昼休みの始まりである。
 教師が出ていくのを見計らって、蒼馬刀冶は真っ先に教室の窓際に移動し、窓のロックに手を掛けた。
 授業中は教室の窓は締めてある。
 それほど暑くないし、風が吹くのを防ぐためだ。
 昼休みでも開ける必要はないが、刀冶には、教室の外へ可及的速やかに脱出するために、窓を開け、飛び降りる必要があった。
 刀冶は中肉中背、学生服を着崩してもいない、どこにでもいそうな普通の男子生徒だ。前髪が長く、表情は、ちょっと窺えない。
 一見普通の男子生徒だが、かれは今日の休み時間、授業が終わる度に教室の窓から飛び降りるという極端な逃亡を繰り返していた。
「む?」
 刀冶の手が止まった。
 窓が、開かない。
 クラスメイトたちは同情するような視線を向けている。
 窓の開かない理由を、かれらは知っていた。
「――接着剤かッ」
 すぐに、刀冶も理解した。
 窓のロックが接着剤で固定されている。
 窓を開けることができないのは、これのせいだ。
 ――ガラッ。
 教室の戸が勢いよく開いた。
「――刀冶くん、突き合ってくださいっ! もう逃げちゃ駄目ですっ!」
 ショートボブの快活な印象で女子生徒。髪も染めておらず、体も引き締まっており、いかにもスポーツ少女といった風体だ。
 手のひらに巻いているテーピングには接着剤の跡。
 接着材は彼女の仕業に違いなかった。
 うーちゃんこと氏家美咲。
 彼女には自分より強い男と付き合いたいという奇妙な性癖があって、そのために強い男に片っ端から喧嘩を吹っ掛けて回っている。
 いまのところ全戦全勝、無敗伝説更新中、付いた二つ名は「番長」「道場破り」「百人斬り」。現在の標的は、なんの因果か刀冶なのである。
「テメーらどけぇぇぇぇぇぇ――ッ!」
 美咲の姿を認めるや刀冶は別の手段に打って出た。
 教室から最短のルートで脱出するために机の上に飛び乗り、彼女とは反対側の戸口へ向かって、一直線に駆け出したのだ。
 まだ昼休みが始まって間もなく、クラスメイトたちも騒動を予感していたから、机の上に弁当を広げている者はなく、スムーズに机から机に飛び移っていく。
「もう、逃がさないっ」
 美咲も机の上に飛び乗って追走開始する。
「うーちゃん、がんばれー!」
「蒼馬ァ、逃げ切れーッ!」
 女子生徒は美咲を、男子生徒は刀冶を応援。
 二人は注目の的だった。
「テメーらいっぺん追われてみろッ」
 刀冶は毒付いた。
 美少女に追われるというシチュエーション。
 けれども刀冶は全然嬉しくなかった。
 なにせ彼女は「突き合いたい」。
 一字違うだけで全然違う。
「これでも食らえッ!」
 辛くも刀冶のほうが早く教室の戸口に着いた。
 廊下に脱出すると同時、コショウの煙幕をばらまく。
 簡易的な道具だが命中すれば催涙効果を期待できる。
「――――っ」
 だが彼女は息を止め、目を瞑り、顔の前で両手をクロスして粉末の付着まで完全防護した。
「一度見た技は二度通用しないっ!」
「少年漫画かッ!」
 そして追跡劇の舞台は廊下へ。
 昼休みだけあって廊下の人通りは多い。
 その間を縫うようにして二人は全速力で駆け抜ける。
「待てーっ! 刀冶くん、待ちなさーいっ!」
 気のせいか美咲の張り切り具合が増している。
 刀冶は生命の危機を覚えずにはいられなかった。
「いい加減諦めろッ!」
「諦めないもんっ! 絶対突き合ってもらうもーんっ!」
「もんってなんだァァァァァァ――!」
 朝、ホームルーム前も廊下で走った。
 しかしいまは昼休みである。
 人通りが倍近い。
 しかも隣の教室へ移動する者や学食へ移動する者、購買へ移動する者、中庭へ移動する者、便所へ移動する者、廊下で立ち止まって雑談に興じている者、等々。
 混乱具合は朝の比ではない。
 二人は巧みなステップと、ときには壁を蹴る強引な進路変更も行い、決して誰ともぶつかることなく、だが最高速を維持して走り続ける。
 やがて曲がり角。
(ここだッ)
 三角飛びの要領で、ほとんど壁を走るようにして最高速を維持したまま曲がり角を抜ける。
 美咲も刀冶を真似るように三角飛びで壁を蹴って。
 その着地を狙って、
「ていっ」
「え」
 懐からボトルを抜き出し、その中身を床にばらまいた。
 ボトルの中身は透明な液体である。
 液溜まりに美咲は突っ込んだ。
「きゃ、あぁぁぁぁぁぁ――――っ」
 そして滑ってコケた。
 透明な液体は水ではない。
 やたらベトベトするローションだった。
 おもいっきりその中に突っ伏してしまった美咲は頭のてっぺんから爪先までローションまみれになってしまった。
「やだ、なにこれ! って、あっ! 刀冶くん! 刀冶くん、待ってよーっ! 行かないでーっ! わたしと突き合って――――っ! ふぇぇぇぇぇぇ――――――ん!」


 一方、その頃、教室では――
 吉井優歌を中心としたトトカルチョで盛り上がっていた。
 優歌は茶髪で、校則違反にならない程度に肩まで髪を伸ばしており、ナチュラルメイクだが化粧もしているから、いかにも最近の若者という風体だ。
 その風体に相応しく、ほどほどに悪い遊びも心得ている。そういう一面を発揮して刀冶と美咲を対象としたトトカルチョを企画したのだ。
 一枚の巨大なボードが教卓の上に乗っかって、
「蒼馬はうーちゃんから逃げ切れるか」
「蒼馬はうーちゃんと突き合って勝てるか」
 等々の項目と、その倍率が発表されている。
「んふふ、儲かりそぉー」
 優歌はこっそりとほくそ笑んだ。
 ギャンブルとは胴元が儲かるようにできている。
 ギャンブルするなら胴元に限るというのが持論だった。
「――優歌ちゃぁぁぁぁぁぁん」
 美咲の声が聞こえてきた。
 声からして逃げられたのだろう。
 優歌は賭けの配当を計算しながら振り返って、
「――って、どうしたのうーちゃんっ!」
 美咲は全身、ヌルヌルのローションまみれだった。
 学生服は乱れて、下着まで透けている。
 スカートは太股に張り付いている。
 恥ずかしいのか顔を赤らめて、太股を擦り合わせたりして、なんだか妙にエロいことになっていた。
「また刀冶くんに逃げられちゃったよぉぉぉ」
「ひゃっ、その格好で抱きつかないでっ! なにこれっ、蒼馬のやつ、どっからこんなもん用意したのよーっ!」
「優歌ちゃぁぁぁん」
「ちょ、どこ抱きついてんの! スカートがめくれちゃう! って指っ! 指っ! うーちゃんどこ触ってんの! やめて! みんな見てるから、やめて!」
「わたし、見られてもいいんだよ……優歌ちゃんなら……」
「目覚めるな! どさくさにまぎれて目覚めるなーっ!」
「えへへ、優歌ちゃん、やわらかーい……いいにおい……あったかい……ねえ、だから……いいでしょ……?」
「なにが! なにがいいの! なにもよくない! 駄目! 私はノーマル! 私はノーマルなのっ! 写メを撮るな録音するな動画を取るな早く助けてぇぇ――――――っ!」


 その後、刀冶が教室に戻ると、ぐったりした優歌が「私、もう、お嫁にいけない……みんなの前で、あんな……」と呟いていたという。


 放課後。
 階段の下の物陰に二つの人影がある。
 氏家美咲と、その友人の吉井優歌だった。
 美咲はショートボブの快活な印象で女子生徒で、髪も染めておらず、体も引き締まっており、いかにもスポーツ少女といった風体だ。
 手のひらに巻いているテーピングを知らぬ者は校内にはいない。ましてや校外まで知れ渡っている。
 優歌は茶髪で、校則違反にならない程度に肩まで髪を伸ばしており、ナチュラルメイクだが化粧もしているから、いかにも最近の若者という風体だ。
「刀冶くん、まだかな、まだかな?」
「私が教室を出たときは、まだいたけど……」
 二人とも閉暗所を好むような特殊な趣味はない。
 階段の下の物陰に隠れているのは蒼馬刀冶を待ち伏せするため。ここからなら下駄箱を監視できるのだ。
 美咲には自分より強い男と付き合いたいという奇妙な性癖があって、そのため強そうな男に片っ端から喧嘩を吹っ掛けて回っているのだ、が――
 刀冶には、ずっと逃げられていた。
 今日一日何度も何度も仕掛けたのに。
 毎回毎回奇妙な手腕で逃げられ続けてる。
 強いんだか弱いんだか分からないが凄いことに間違いない。それが傍観者たる優歌の感想だった。
 今日に至るまで美咲に勝った者は無論、逃げ切った者だっていなかったのだ。刀冶を除いて。
「こないなー」
「そうだねー」
 下駄箱の人通りが減った。
 まだ、刀冶は現れない。
「刀冶くんって、なにか部活動や委員会に所属してる?」
「や、いつもまっすぐ帰ってる無所属のはずだよ」
「まだ、刀冶くんの靴だけ残ってるよね」
「つーかどうして私まで付き合わされんの?」
「だって、寂しいし……」
 美咲は「ごめんね」と可愛らしく謝った。
 これは反則だ、と優歌は思う。
 断れるはずがない。
「しょうがないなー、もう」
「えへ、ありがとう」
 美咲の頭を撫でてやる。
 美咲は、もっと撫でてと言わんばかりに体を寄せて、
「――優歌ちゃん、大好き」
 と言った。
 嬉しくなりかけたが、ハッとする。
 最近、美咲は変な性癖に目覚めかけている。
 いまの台詞にも他意が含まれているような気がして、
「そ、そんなことより監視! 監視してっ!」
「せっかく二人きりなのに……」
 ちょっと待て。
 なにを変な空気出してんだ。
 優歌は貞操の危機を覚え始めた。
「いや、だから、監視――」
「たぶん、もう来ないと思う」
「え?」
「たぶん、別の靴を使って、別の所から帰ったんだと思う」
 確かに、その可能性は高い。
 刀冶はやたらと用意がいい。
 先を読むことにも優れてる。
「だ、だったら、もう、よくない?」
 刀冶が別の靴を調達して、どこかから、もう帰ったのだとすれば、このままここに隠れている必要はない。
 なにより、貞操の危機だ。
「ね、帰ろ、私たちも! ね?」
「だれも、見てないよ……?」
「だ、だから、なに……?」
「教室では、見られてるから、いやがっていたよね? ここなら、だれにも見られないよ……?」
「いや、それはそうだけど、違う、違うから! そういうことじゃなくて! なんか最近、スイッチが入るの早いよっ!」
 物陰でもわかるほど美咲の顔が接近している。
「ね……?」
 瞳は潤み、頬は熱っぽく、唇は何かを期待するように。
 彼女の指が、ゆっくりと太股をなぞっていく。
「ね、いいでしょ……?」
「いや、だから、駄目だって! 落ち着いて! ね? 落ち着いて! それ以上は駄目だって! 本当に駄目だって! うーちゃん、もう、やめてぇ……!」
「優歌ちゃんだって、わたしがやめてと言っても、やめてくれなかったじゃん。だから、わたしもやめないよ? もっと優歌ちゃんの可愛い顔、見たいな……ふふふ……」
「んっ、もう、本当に、本当に駄目なのぉ……! そこ、だめ、そんなところ触っちゃ駄目なんだから……っ!」
「優歌ちゃんの身体、熱くなってきたね……それじゃあ、もっと……ん……」
「もう、駄目……駄目だから……これ以上、本当に駄目になっちゃうからぁ……! あ……んんっ! もう、やめてよぉ、うーちゃあぁん……!」
 段々美咲のテクが上手くなってる。
 優歌は、ふるふると震えた。
 このままだと、本当に。
「――優歌ちゃんのだめなところ、もっと見たいなぁ」


 夜。
 蒼馬刀冶はソファの上で漫画を読んでいた。
 自宅の自室という趣ではなかった。
 玄関に靴を脱ぐスペースがない。靴を履いたまま室内に上がる構造である。
 玄関を抜けると、右手に扉、正面に応接用らしきソファ、左手には四つ並んだデスクがある。
 刀冶は、そのソファの上で漫画を読んでいた。
 どう見ても雑居ビルの一間である。
 高校生には似つかわしくない場所だ。
 だが、刀冶は馴れた様子でくつろいでいた。
 刀冶は中肉中背、今は黒いスウェットを着ている、どこにでもいそうな普通の少年だ。前髪が長く、表情は、ちょっと窺えない。
 最奥のデスクには一人の女性が座っていた。
 歳は二十代半ばから三十手前、赤茶色に染めた髪の隙間から、どことなく不健康そうな顔が覗いている。ストレートロングの髪は少々痛んでおり、ばさついている。
 縁無眼鏡を掛けていて、唇には煙草をくわえている。その唇だけ妙に赤いのが印象的だ。
 彼女はデスクの上のパソコンとにらめっこしていて、マウスホイールを操作するカリカリという音と、キーボードを操作するカタカタという音が時折聞こえてくる。
「……刀冶、今月、バイト代削っていい?」
「……赤字? また赤字?」
 はぁぁぁ、と幸せがまるごと逃げてしまいそうなため息を吐き出すと、パソコンとのにらめっこをやめて、ほとんど仰向けになるほど椅子を後ろに倒した。
 彼女が来ているのは、くたびれた男物のスーツだった。スーツもワイシャツも濃淡の差こそあれ灰色、ネクタイだけワインレッドなのは髪の色とマッチしていた。
「今月、例の仕事が片付けば金が入るからさ」
「わかった、いいよ、バイト代削って。そのかわり来月は弾んでくれるんだろ?」
「んー、体で払っちゃダメ?」
「歳考えてから言え」
「――殺す」
 地獄の底から絞り出すような声だった。
 刀冶は漫画に視線を戻した。
 それからしばらくして、
 ――コンコン。
 とノックがあった。
「刀冶」
「ん」
 刀冶が立ち上がって、ドアを開けた。
「はい、どちらさまで――」
 言いかけて、硬直。
 知らない顔があったからではない。
 知った顔だが、見たくない顔があったからだ。
「あ、本当に刀冶くんちだったんだ」
 うーちゃんこと氏家美咲。
 美咲には自分より強い男と付き合いたいという奇妙な性癖があって、そのために強そうな男に片っ端から喧嘩を吹っ掛けて回ってる。
 現在、彼女の標的は刀冶である。
 学校では大変な逃走劇を繰り広げた。
 刀冶からすれば絶対会いたくない相手だった。
 美咲はショートボブの快活な印象で少女で、髪も染めておらず、体も引き締まっているが、いまは私服らしく白いワンピースを着ていて、おとなしげな雰囲気だ、が――
 手のひらに巻いているテーピングは不吉以外の何物でもない。
「じゃ」
 刀冶はドアを締めようとした。
 ――ガッ。
 だが、そのまえに美咲の靴が隙間に差し込まれる。
 彼女はドアに手を掛け、強引に開けようとし始めた。
「おねがいっ、入れてっ?」
「嫌だっ」
「暴れないっ、からっ」
「だったらっ、どうしてっ、テーピングっ、巻いてるっ」
「これはっ、いつでもっ、戦えるっ、ようにっ」
「やる気っ、満々っ、じゃねーかっ」
「違うっ、ついっ、癖でっ」
「どうしてっ、ここがっ、わかったっ?」
「優歌っ、ちゃんにっ、教えてっ、もらってっ」
 力を込めているため二人の声は震えている。
 そのとき三人目の声が美咲の背後から、
「……お願い、暴れないから入れてくれないかな……?」
 美咲の友人、吉井優歌だった。
 優歌は茶髪で、校則違反にならない程度に肩まで髪を伸ばしており、ナチュラルメイクだが化粧もしているから、いかにも最近の若者という風体だ。
 彼女も私服といえば私服だったが、なんと着ているのは赤いジャージだった。お洒落に気を使う彼女らしくない。
 そして優歌の声は震えてはおらず、その逆。
 平坦というか脱力というか魂の抜けたような声。 
 どことなく真っ白に燃え尽きたボクサーっぽかった。
「……とばっちりがこっちにきて、もうこれ以上は私の身が保たない……」
「なっ、なにをされたんだ……っ?」
「言えない、そんなことっ!」
「そっ、そうかっ」
 刀冶は、あまりの優歌の剣幕にたじろいでしまった。
 年齢の話になったときの室内の彼女と似たような凄みがあった。
「おーい、どうした?」
 その室内の彼女が優歌の声で異変に気付いた。
「なんかトラブル? キの字の人? ヤの字の人?」
「いや、クラスメイトなんだけど……」
「なに? 痴話喧嘩? やるねー、刀冶も」
「全然違うッ」
 彼女の声が聞こえたことで美咲の力が緩んだ。
 刀冶も警戒を残しつつ力を緩める。
「だったら入れてあげなよ? 可哀想に」
「えーと、その、なんというか」
「やっぱり痴話喧嘩?」
「違うって!」
 刀冶は完全に力を抜いた。
 このままだと、いずれ入れる羽目になる。
 どうせ入れるなら早いほうがいいと判断したのだ。
「あー、ただのクラスメイトだから、うちに入れるけど、あっちの部屋使っていい?」
「私がいたら邪魔なの? なに? 年齢制限? 殺す」
「何も言ってねぇ!」
 まあ、とりあえず了承は取ったと思っていいだろう。
 刀冶はひとつ溜息をつくと、
「入れてやるけど絶対暴れてくれるなよ?」
 小声で美咲と優歌に囁いた。
「うん」
 美咲がこくりと頷く。
 優歌もなんとなくノリで頷いた。
「それじゃ、入っていいぞ」
 刀冶がドアを解放して二人はおそるおそるといったかんじで室内に侵入した。
「おじゃましまーす」
「おじゃましまーす」
「それじゃ月子さん、あっちの部屋使うけど絶対邪魔すんなよ?」
「……刀冶、どんな特殊なプレイをするつもり? この私がドン引きするようなプレイをしたいから邪魔されたくないだなんて、てーか3Pだし、いつの間にそんな超進化を……」
「違うッ! 色々違うッ!」
「エロエロ? エロエロだって?」
「中学二年生か、アンタの脳味噌は!」
「なに? 歳を考えろって? 殺す」
「優歌ちゃん、3Pって、なに?」
「うーちゃんは知らなくていいから知っちゃ駄目だから!」
「……いいから、こっち」
 刀冶は早くも疲れた顔で二人を奥の部屋に招き入れる。
 二人が入ると、月子と呼ばれた女性が入れないようにか内側からガチャリと鍵が締められた。
 美咲と優歌の入ってきた玄関のドアには「神城探偵事務所」と描かれたプレートが飾ってあった。


 その部屋はプライベートな空間という趣だった。
 入って右手には台所と風呂と便所、正面にはクローゼット、左手にはシングルベッドが二つ並んでいる。
 巨大な本棚も置いてあって、そこにはファイルやアルバム、実用書、教科書、漫画、小説、等々、統一間なく沢山の本が詰まっていた。
 刀冶は、そこにさっきまで読んでいた漫画本を戻すと、
「てきとーに、そのへんに座ってくれ」
 とベッドのほうを顎を示し、自分は壁にもたれかかった。
 いつでも動けるようにと、まだ警戒は解いていない。
 美咲と優歌は言われた通り二人並んでベッドの上に腰を下した。
「何の用だ?」
「ここ、刀冶くんのおうちなの?」
 美咲が質問に質問で返した。
 だが、刀冶は、念を押すためにも答えることにした。
「おれんちじゃない、ここは、イトコの家だ」
「イトコだったんだ、あのひと」
「家庭の事情で、ここに預けられている。いいか? ここはおれんちじゃない。おれのイトコの家だ。だから、ここで暴れられたら、ますます困る。絶対暴れんじゃねーぞ」
「もー、しつこいなー。わかってるよー」
 美咲はバタバタと宙を蹴った。
 刀冶はふぅと溜息をついて、
「で、何の用だ?」
「え、えええと、それはね? ね? わた、わ、わたしと、わたしと、わたしと、つ、つ、つ……ふぇぇぇ――――――ん、優歌ちゃん、恥ずかしいよぉ!」
「あーもう、うーちゃん、ほら、しっかり」
「だってぇぇぇ」
「もう……」
 美咲の様子に、優歌は時間稼ぎするように、
「蒼馬って、本当は強いんじゃないの?」
「強かったら逃げないって」
「逃げるにしたって、うーちゃんから逃げ切ったのは蒼馬が初めてなんだよ? それってけっこう凄いことなんだよ? 私には信じられない、蒼馬が弱いなんて」
「俺は――」
 刀冶は一瞬、ドアの向こうに視線をやった。
「ボクシングと空手、それと武器術を少々」
「え?」
「月子さんから習った」
 月子さんとは、さっきのイトコだと優歌は理解した。
「だったら、強いんじゃないの?」
「沢山習ってるから強いってわけじゃない」
「そうなの?」
「むしろ逆だ。どれもこれも中途半端になるから、弱い」
 優歌は納得できない顔だ。
「俺のは、あくまで逃げるためなんだよ」
「逃げるため?」
「たまに、ここでバイトしてる」
「神城探偵事務所?」
 優歌は、ドアに掛かっていたプレートを思い出した。
「そう。で、たまーに、ごくごくたまーにだが、トラブルに巻き込まれることもある。そんなときは逃げる。逃げるが勝ち。そのために覚えた。というか覚えさせられた」
 あと、と刀冶は付け足す。
「月子さんのダイエットのためにも付き合わされてる」
 部屋の向こうから、ぶぇっくしょーい! と強烈なくしゃみが聞こえた。
「だから、部活にも委員会にも入っていないんだ?」
「そういうこった。絶対、他人に言うなよ?」
 春原高校は原則、アルバイトは禁止である。
 美咲も優歌も頷いた。
「んじゃ、うーちゃんには勝てないの?」
「まともにやりあってもかないっこねーって」
「そうなんだ。ふーん。うーちゃん、こういうところは弱いのにねー」
 優歌の指が、美咲の背筋を、つぅーとなぞった。
 話に聞き入っていたから、なおさら油断していた美咲は、びくんっ! と大きく体を震わせた。
「ゆ、優歌ちゃんっ、いきなりやめてよぉ!」
「この子、こんなに弱点だらけなんだよー?」
 今日一日、美咲には、いいように弄ばれた。あんなことや、そんなことまで。お嫁にいけないのはこっちだ。その恨みを晴らすかのように優歌は悪ノリする。
「ふふふ、ワンピースだから、背中がガラ空きだよー?」
 背筋から首筋へ指へ滑らせ、また背筋に戻る。背中でのの字を書いたりする。そのたんびに美咲は、
「ひゃぁ! んんっ……やめっ……んふぅ……!」
 ビクビクと震えるが、決して抵抗はしない。
 抵抗して「優歌ちゃんが怪我したら危ないから」だそうが、悪ノリしてる優歌にしてみれば、もっとやってくださいと言っているようなものだ。
「――と、油断させて」
「きゃ、あああ!」
 優歌の手が脇の下に潜り込んで、こちょこちょとくすぐり始めた。
「ん、あはっ、はぁ……っ! 優歌ちゃん、らめぇ、くすぐったいよぉ……っ!」
「そお?」
 と、今度は、手が服の中に潜る。
「ゆ、優歌ちゃん! それは駄目! 刀冶くんが見てるから!」
「……私も、教室で、そう言ったよねぇ……?」
「ご、ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! 謝るから、謝るからぁ、んっ! ふぁ……ああん、んんっ! らめ、もうらめなのぉ……!」
 優歌が胸を揉み始めると、美咲は頬を紅潮させた。
 みるみる彼女の体から力が抜けて、
 ――ばすんっ!
 とベッドの上に倒れる。
 その状態でも優歌は手を休めなかった。
 それどころか、熱を帯び始めた美咲の肩と首の境のあたりに、カプリと甘噛みした。まるでヴァンパイアだ。
「んん――――――っ!」
 それから優歌は、体勢を入れ替えた。
 美咲の上に覆い被さるようにして、
「再開」
 また首筋を、今度は、舐めた。
 そのまま優歌の舌は、美咲の耳まで登っていく。
「ふぁ……! らめぇ、なめちゃらめなのぉ、らめになっちゃうのぉ……っ!」
「本当、うーちゃんは耳弱いよね」
「もう……みみは、やめへぇ……わらし、もう、あついのがきちゃってるからぁ……っ! んんっ! んふっ! ふぁ、あ、あ……んんん……っ!」
 ――ぴちゃぴちゃ。
 ――かぷっ。
 ――ちゅぅー。
 と、その弱い耳を重点的に責め立てる。
 ベッドの上に押し倒されたかたちの美咲は、スカートが膝上までまくれ上がり、下着らしき白い布が、ちらちらと見えたり見えなかったりする。
 太股をもじもじと擦り合せているが、それが服を乱れさせていると、きっと気付いていない。ワンピースの肩紐も、とっくにずり落ち始めている。
 優歌は耳を責めながら、空いた手では胸を揉んだり、脇をくすぐったり、太股を撫でたり、まるで容赦がない。こっちはこっちで周囲が見えなくなっていた。
「ゆうかちゃん、ゆうかちゃん、ゆうかちゃぁん、もう、もう、わらしぃ……もう、らめぇ……っ! へんになっちゃう、へんになっちゃうよぉ……っ!」
「んー、なにがー? なにがだめにのかにゃー? なにがへんになるのかにゃー?」
「わかんないっ、わかんないよぉ……っ! もうらめぇ、見ちゃらめぇ……っ! 見ちゃらめなのぉ……っ! 見ちゃらめらからぁ、あ、あ、んっ、んんん――――――っ!」
 びくびくびくん、と美咲は一際大きく体を跳ねさせた。
「ハイ、いっちょあがりぃー」
 優歌は満足したようで、くるりと刀次に振り返った。
 なぜか、優歌の肌はツヤツヤになっていた。
 彼女は酔っぱらいのようなテンションで、
「ほらぁ、なにしてんのぉ、蒼馬もこっちきなよぉー」
「……いや、なにを変な性癖に目覚めてんだ、オマエは」
「なにがよぉー?」
「今、オマエは、何をして、何を誘ってる?」
「えーと、ねぇ――――――」
 そこで、優歌はフリーズした。
 正気が戻ってきたらしい。
 見下ろせば、
「ゆうか、ちゃぁ……ん……」
 息も絶え絶えな美咲の姿が目に入った。
 しまった。
 やりすぎた。
 なにしてんだ私。
 優歌の顔は、青から赤へ。
「きゃ、にゃぁぁぁぁぁぁ――――――っ!」
 悲鳴を上げるとベッドから立ち上がって、美咲を抱き起こして、
「ご、ごめんなさいっ! 今日は帰りますっ! また明日学校で会いましょうっ!」
 なぜか、敬語でまくしたてながら。
 優歌は美咲の手を引っ張りながら、逃げるように、というか実際羞恥から逃げるためにダッシュで部屋を出て玄関のドアを開けて「神城探偵事務所」から帰っていた。
 ドアを閉め直した刀冶に、好奇心満々の月子が、
「なにをしたのさ、刀冶?」
「いや、俺はなにも……」
「特殊なプレイでエロエロだったんでしょ?」
「俺はしてない、俺は!」
「次はお姉さんも混ぜなさい! 4Pで!」
「黙れ、万年発情期! 大人になれ!」
「なに? 歳の割にガキみたいって? 殺す」
「めんどくせー……それにしても、何の用だったんだアイツら、結局騒いで帰っただけじゃねーか……」
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