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第三章
 翌日の朝。
 春原高校が教室の一角にて。
 蒼馬刀治はひそかに注目に集めていた。
「オイオイ、マジか? マジなのか?」
「ちょっとオマエ、聞いてこいよ」
「強そうに見えないんだけど、アイツ」
「俺、見たぜ。ものすごい勢いで逃げてんの」
「逃げるだけならだれでもできるって」
「そうそう、百人斬りに勝ったのかって話」
 同級生と、よその組の生徒。
 上級生や下級生も時折廊下に現れる。
 かれらに共通するのは刀治を値踏みするような視線だ。
(勘弁してくれ)
 刀冶は中肉中背、学生服を着崩してもいない、どこにでもいそうな普通の男子生徒。前髪が長く、普段は表情を窺えないが、今日に限って朝っぱらから疲労の色を浮かべていた。
 刀治が注目される理由はひとつしかなかった。
 机に突っ伏して昨日のことを考える。
 うーちゃんこと氏家美咲。
 彼女には自分より強い男と付き合いたいという奇妙な性癖があって、そのために強そうな男に片っ端から喧嘩を吹っ掛けて回っていた。それは、もはや過去形だ。
 昨日、美咲は刀治に付き合ってくださいと告白した。
 すったもんだの末、刀治は“はい”と答えた。
 つまり彼氏と彼女の関係が始まったのだ。
 告白の事実は美咲の友人、吉井優歌のうっかりによって教室中に知られてる。それがさらにほかのクラスにも広まってしまったのだろう。あの百人斬りに彼氏が、と。
 厳密には刀治は美咲に喧嘩で勝ったわけじゃない。
 逃げて逃げて逃げるが勝ち。
 逃げ切って告白された。
(本当にこんなんでいいのか?)
 刀治は“逃げるが勝ち”は負け犬の遠吠えだと思ってる。
 毎日毎日追いかけられたら、いつか捕まっただろう。
 美咲の気まぐれで見逃してもらったようなもの。
(それに――)
 美咲は卑怯な手段で負けても、そんな人とは付き合いたくないと言った。つまり精神的な強さ、正々堂々と戦う心の強さを重視してることになる。
 だが、勝つことを、生き残ることを至上とした勝つことも重視してもいる。それは実戦的な強さ、ひいては卑怯な手段もアリだと言ってるようなものだ。
(――これからどっちに転ぶか)
 卑怯な手段である“逃げるが勝ち”は本当にアリだったのか。
 オンナノコの主張と格闘家の主義が混在してるような。
 彼女の言葉には一貫性がなく歪みを孕んでいた。
(まともにやり合いたくないもんだな)
 優歌の言うように、そんなこだわりは忘れてくれれば良いが。
 まともにやり合ったら絶対勝てっこない相手だ。
 美咲の歪みは刀治の悩みの種だった。
「――おっはよー、蒼馬」
 がたん、と目の前の席に女子生徒が座った。
 席の主ではないが、よくしった顔。
 優歌だった。
 彼女は茶髪で、校則違反にならない程度に肩まで髪を伸ばしており、ナチュラルメイクだけど化粧もしてるから、いかにも最近の若者という風体だ。
 美咲の一件がなければ挨拶を交わすだけの関係だった。いまでは随分親しく話す間柄になった。もっとも、その話題といえば美咲の件ばかりだが。
「おはよう、吉井」
「付き合うことにしたんだって? おめっとーさん」
「だれのせいでこんなことになってると思う?」
 優歌の登場によってギャラリーはますます沸いている。
 二人の会話を聞き逃すまいと好奇心剥き出し。
 鬱陶しいこと、この上なかった。
「ごめんごめん。それじゃ――」
 と、優歌は、ギャラリーに向き直って、
「――出歯亀してる連中は、うーちゃんに喧嘩売ってんの?」
 そのたった一言で、よその教室から出張っていた連中は逃げ去り、同級生は聞いてませんアピールのために昨夜見たテレビについて大声で話し始めたり携帯電話を弄り始めたり。
「これだから男子は、もう」
 優歌の言うとおり、さっきの連中は大半が男子生徒だった。
「女子は美咲のとこに集まってんのか?」
「直接聞いたほうが早いしスマートでしょ?」
 刀治には、そのへんの機微は理解できなかった。
 直接聞かれるのも迷惑という点で違いはない。
 放っておくという選択肢はないのだろうか。
「てーか蒼馬、うーちゃんのこと名前で呼んでんの? うーちゃんって呼んであげなさいよ、うーちゃんって」
「いや、なんか慣れなくて」
「そういうのは言ってるうちに慣れてくるモンよ。そのまま慣れない慣れないでいくと学生の恋愛なんて自然消滅しちゃうもんなんだから」
「生々しいな、オイ」
「慣れない慣れないで手も繋がないようなカップルが上手くいくと思う? 何事もカタチからよ、カタチから」
「そういうもんか」
「そういうもんなの。それで、これからどうするつもり?」
「どうするつもりって、なにが?」
「うーちゃんのことに決まってるじゃない」
「何も考えていない」
「だと思った」
 優歌は、だけど楽しそうだった。
 そしてポケットの中から便箋を取り出し、
「ジャーン!」
「いや、なにそれ」
「この私がデートプランを考えてきましたーっ!」
「張り切ってるな、オイ」
「恋する乙女の味方ですから? さっきも言ったでしょ、まずはカタチからって。なんも考えていないんだから、とりあえずこれに書いてある通りに従いなさい」
 刀治は便箋を開いて中に入っていたプリントに目を通した。
 放課後ルート、休日ルート、三パターンずつ書いてある。
 時間割まで書いてあって、ほとんど旅のしおりだ。
「どうどう、すごいでしょー?」
 上から下に目を通していく。
 デートとはこういうものかと納得しかけたが、
 ――ビリッ!
 どのルートも最後は三字の単語になってるのを見るや即座に破り捨てた。
「ああっ! ひどいっ! 徹夜で作ったのにっ!」
「どうしてどれもこれも最後はホテルに行き着くんだよっ!」
「そ、それくらいふつーでしょ?」
「そんなことは知らん。しかもホテルのところだけ情報量が少ない。ほかはプリクラの機種名まで書いてあるのに。これオマエが行ってみたいだけだろ、絶対っ!」
「つい、出来心で」
「その出来心のせいで全部台無しだっ!」
「いや、でも、うーちゃんも興味アリだったよ?」
「そこは止めろ! 友達として止めておけ!」
「ホテルに行ってしまえばカタチはカンペキだよ? これ以上ないくらい彼氏彼女の関係っ! 結婚を前提としたお付き合いにレベルアップっ!」
「それは既成事実って言うんだっ!」
「早いとこ、うーちゃんにも落ち着いて欲しいし」
「その親切心が逆に怖いっ!」
 ツッコミ疲れた刀治は天井を仰いで「うあー」と呻いた。
 こんな調子では先が思いやられる。
 味方はいないのか。
「まーいいや。それは置いといて」
「諦めてくれ」
「でも絶対、デートには誘ってあげなよ?」
「……善処します」
「いつ誘うの?」
「来週。いや、今週末」
「遅い。今日」
「今日? 早すぎないか? もっと、こう――」
「何事もカタチからって言ったでしょ。それじゃうーちゃんのことよろしくねー」
 言うだけ言うと優歌は席を立って自分の机に戻っていった。
 何事もカタチからというのはホテルを除いて納得できる。
 しかし、だからといって、デートに誘うというのは、
「………………」
 顔が赤くなるのを自覚した。
 ホームルームの開始を告げる鐘が鳴った。


「――それで、こんなところに逃げてきたんスか?」
 昼休み。
 刀治は屋上にいた。
 ベンチに二人並んで腰掛けてる。
 フルラウンドを戦い抜いたボクサーの水分補給のように牛乳を啜ってる刀治とは対照的に、もう一人はサンドイッチを食べながらコロコロと笑って実に楽しそうな様子だ。
 一見女子と見紛う小柄な男子生徒。金髪だが不良には全然見えない。そもそもが中性的な顔立ちで、しかもヘアバンドで持ち上げた前髪が猫耳っぽく跳ね返ってるため愛嬌がある。
「どうすればいいと思う? オマエ、慣れてんだろ?」
「その優歌さんのプランのまんまでいいと思うんスけど」
「最後はホテルだぞ、ホテル? そんなの――」
「いや、全部従わなくてもいいじゃないスか」
 心底可笑しそうに、もう一人は笑った。
「その程度で動揺しちゃって刀治サン、変なところでウブなんスよね。だから弄り甲斐があるんスけど。つーかホテルくらい行っちゃってもいいんじゃないんスか?」
「杏太、オマエなぁ」
「フヒヒ、サーセン先輩」
 杏太と呼ばれた男子生徒はちろりと舌を出した。
 そしてぱっちりと片目をつむってウインク。
 ――ゴンッ。
 刀治の拳骨が振り落とされた。
「痛ぁ! いきなりなにするんスか、先輩っ!」
「俺相手にぶりっこすんな、気色悪い」
「んじゃ先輩はどういう仕草が好きなんスか?」
「もう一発殴るぞ」
「いやいや冗談、冗談ですってばー」
 コロコロと、よく笑う美少年だ。
 ただし、本人も美少年であることを自覚していて、それを目一杯有効活用しようとするタイプだ。かなりタチが悪い。もっとも刀治には本性がバレていた。
「ま、その優歌サンの言ってることは概ね正しいッスよ」
「やっぱそんなもんか」
「そんなことより例の件、どうなってんスか?」
「そんなことって言ってくれるなよ、ちくしょう」
 自分の悩みをそんなこと呼ばわりされて刀治は腐った。
「まだ調査中。入り口が見付からない」
「乱入しちゃえばいいじゃないスか。どうせやることは同じッスよ。よーするにソイツをボコってしまえばいいんスよね?」
「バーサーカーめ、いっそオマエが美咲と付き合えよ」
「無理無理、勝てっこないし逃げ切る自信もないッス。つーか刀治サンなら本気出せば勝てるんじゃないんスか?」
「馬鹿を言うな――」
 その時、校舎と屋上を繋ぐ扉が開いた。
 噂をすればなんとやら。
「――俺の本気はみっともないからアイツにゃ見せらんねーよ」


「蒼馬、こんなところにーっ!」
 優歌と美咲だった。
 刀治を探してここまできたのだろう。
 優歌はともかく美咲と今日会うのは初めてだった。
 美咲はショートボブの快活な印象で女子生徒で、髪も染めておらず、体も引き締まっており、いかにもスポーツ少女といった風体だ。そして一応、刀治の彼女ということになる。
 手のひらにテーピングを巻いてることは今更咎めまい。テーピングを巻いてないと不安なのだろう。突き合うとか付き合うとか、そんなことは関係無しに。
 刀治にも心当たりがある。だからこそ刀治もあれやこれやの道具を常に隠し持ってるのだ。もしものとき、いざというときのために。そして現に役に立った。
「彼女放っといてなに油売ってんのよアンタ!」
「ゆ、優花ちゃん、そこまで言わなくても……」
 優歌はご立腹のようだった。
 刀治の前までずかずかと歩いて、
「なにか、言うことあるんじゃないの?」
「そうだな」
 刀治は頷いた。
「美咲」
「は、はいっ」
「放課後、デートしよう」
「ブ――――――ッ!」
 真横で昼食を吹き出す汚い音が聞こえた。
「ンだよ、きったねーなー」
「蒼馬、だれ?」
 優歌が興味深げに質問した。
 だれとはもちろん刀治の横に座ってる男子生徒のことだ。
 肝心の美咲は「デ……デート……デート……?」とうわごとを呟いたまま戻ってこない。それまでのあいだ、この男子生徒を紹介してやることにした。
「天元杏太。俺の後輩」
「ども、よろしくッス」
「私は吉井優歌。よろしくね」
 刀治は委員会にも部活動にも所属しない。
 だのに、なぜ下級生と知り合いなのか。
 その不思議を優歌は追求しなかった。
「それで先輩。デートってマジッスか」
「どうしてオマエが聞くんだ気色悪い」
「いや、だって、ふつーはムードとか、そういうのもっと大切にするモンじゃないスか。しかも初デートになるんじゃないスか? なのにあんな軽いノリで……」
「俺はオマエと違って慣れてねーからこれでいーんだよ」
「ぼ、ボクは別に慣れちゃいないっスよっ!」
「……ふーん、そういうことか」
「な、なんスか……?」
 ――ガシッ。
 と刀治は杏太の肩を組んで、こっそりと耳元で囁いた。
「オマエ、吉井のこと狙ってんだろ」
「バレましたか」
「年上好きめ」
「たまたまッスよ」
「吉井はいまフリーだ」
「恩に着るッス」
「貸し一な」
「了解ッス」
「なに? なにを男同士、コソコソと喋ってんの?」
 優歌が首を突っ込んできた。
 刀治は杏太から離れ、
「いや、なんでもない」
「そうそう、なんでもないッス」
「まーいいや。そんなこよりデートよ、デート」
「そうだな。おーい、美咲」
「は、はいっ! な、ななな、なに? 刀治くんっ!」
 美咲は顔が真っ赤で声も上ずってる。
 だが、なんとか意識は帰ってきた模様だ。
 刀治はデートの約束を取り付けることにする。
「放課後空いてる?」
「あ、空いてますっ! 空けますっ! 邪魔する者は蹴散らしますっ! 先生だってブッ飛ばしますっ!」
「先生はブッ飛ばしちゃマズいだろ。まあ、そんなわけで放課後迎えにいくから教室で待っていてもらえるか?」
「はいっ! わかりましたっ! 絶対待ってますっ!」
「そっか。よかった。ありがとう」
「い、いえいえいえいえっ! こちらこそっ! えへへ……デートだ……初デートだ……デートに誘われちゃったぁ……」
 デートの約束を取り付けた直後、美咲の意識は再び旅立ってしまった。
 優歌は優歌で「よっしゃ!」と小さくガッツポーズして野次馬根性剥き出しだし杏太はニコニコと顔は笑ってるが頭の中では絶対邪なことを考えてる。とても不穏な雰囲気だ。
(不安だ……)
 快晴のはずなのに刀治は不安を覚えずにはいられなかった。


 約束の放課後。
 荷物を鞄にまとめると刀治は教室を出ようとした。
 無論、美咲を迎えにいくためだが、そのとき異常に気付いた。
(吉井がいない?)
 教室のどこにも優歌の姿が見当たらなかった。
 彼女のこれまでの行動を鑑みてデートの心得などを得々と押し付けられるかと思っていたのだが、どうやら刀治より先に教室から去っていたようだ。
(嫌な予感がする)
 刀治は偶然を疑う。
 必然を見逃して手痛い目に遭わないようにするために身に付いた癖。杞憂に終わればそれで良し。ほんのちょっと頭を働かせるだけで必然的な不幸を回避できれば儲けものだ。
「吉井、知らない?」
 教室を去る際、適当に捕まえたクラスメイトに聞いてみた。
「なんか上機嫌で帰ったけど?」
「そっか。サンキュー」
 ――ビンゴ。
 確信を得ると刀治は廊下を駆け出した。
 約束を破るわけにはいかないから美咲と合流したらダッシュで校舎から脱出する。それが最善であると導き出した。なにか仕掛けてくるとしたら校舎内だ。
「――美咲ィ!」
 廊下続きの美咲に教室に到着する。
 彼女の姿を探す手間も惜しんで名を叫んだ。
「と、刀治くんっ」
「急げ! 学校から脱出するぞ!」
 美咲は顔を赤くしていた。
 クラスメイトの面前で彼氏に呼び出されて恥ずかしいのだろうが、いまはそんなこと言ってられない状況。下手すりゃもっと恥ずかしいことだって有り得る。
「鞄は持ったか?」
「も、持ったけどっ」
「よし、いくぞッ」
 そして美咲の手を掴んで再び走り出す。
 仕掛けてくるとしたら校舎内。校舎外で仕掛けるためにはこちらの行動を把握する必要があるが、優歌の用意したデートコースを破棄して、かつ尾行に注意すれば容易に阻止可能だ。
「刀治くん、なに? なにが起こったの?」
「吉井がなにかを起こすっ」
「優歌ちゃんが? だったら逃げなくても――」
「恥ずかしいことは好きか?」
「え?」
「恥ずかしい目に遭うかもしれない」
「逃げよう。全力で」
 美咲がスピードを上げた。
 刀治も全力で手を繋いだまま併走する。
 下駄箱手前の一際開けた空間まで駆け抜けて――
「随分遅かったねー?」
 ――急ブレーキ。
 そこには優歌が待ち構えていた。
 そして優歌の背後には人、人、人。
 下駄箱の前を人の壁がふさいでいた。
「あ、でも手を繋いでんだ? えらいえらい」
「――あっ!」
 その一言で手を繋いでるという状況をいまになって自覚したらしく美咲がバッと手を離した。
「優歌ちゃん、どうして……?」
「吉井、こりゃ、なんの真似だ」
「んー、このひとたちを見て分からない?」
 美咲が背後に従えてる、その全員が男子生徒だ。
 それもガタイの良い連中ばかり集めてる。
 刀治には見覚えなんてなかったが、
「ひょっとして――」
 美咲は、なにかに気付いたらしい。
 それと同時、優歌の背後の人々が叫ぶ。
「我らッ」
「うーちゃんにッ」
「振られ隊ッ」
「オマエら全員病院行けェェェ――――――ッ!」
 刀治が全力でツッコミを入れた。
 かれらは皆、美咲に振られた男子生徒だった。
「オマエら馬鹿か? 馬鹿だろ? 絶対馬鹿だろ! 美咲、謝っとけッ! オマエに殴られてこいつら全員馬鹿になっちまったんだぞッ!」
「そ、そうなの? えーと、ごめんなさい……?」
「違うッ」
 と振られ隊の一人が一歩前に出た。
「オレは美咲さんに突き合いを挑まれ、そして負けた。だがしかし、そのときィ! そのとき恋に目覚めたのだッ! そして再び突き合うために体を鍛え続けてきた――」
 と、もう一人前に出る。
「――だが、貴様はァ! 美咲ちゃんと突き合わずにお付き合いだと? ふざけるなッ! それでは我々は一体何だったのかッ! 認めんッ! 逃げるが勝ちなど認めんぞッ!」
 さらにもう一人。
「貴様には我々と突き合ってもらうッ! 我々に勝って愛を証明してみせろッ! 貴様の愛が我々の愛より強いと証明してみせろォォォ、蒼馬刀治ィィィィィィ――――――ッ!」
 かれらは“お”を付けることによって“突き合い”と“お付き合い”を区別していた。どうでもいい創意工夫である。
 とはいえ脅威度は高い。なにせ美咲が強そうだと思って突き合いを挑んだ面々なんだから一般的には強い部類に入るはず。
「どう、これ? 障害が多いほど恋は燃える! ライバルを倒して愛を強くするのは王道でしょ、王道っ! 名付けてロミオとジュリエット作戦っ!」
「オマエも病院行ってこォォォ――――――いッ!」
「優歌ちゃんが馬鹿になっちゃった……? どうしよう、わたしのせい? 優歌ちゃんもわたしのせいで馬鹿になっちゃったの……? どうしよう……っ!」
 高笑いする優歌。
 ツッコミ疲れしてる刀治。
 本気で優歌の頭を心配する美咲。
 下駄箱前は混沌と混乱の坩堝と化していた。
「なになに? なんなの?」
「百人斬りを巡って三角関係だって」
「いやこれ何角関係だ? もっと多いだろ?」
「百人斬りの彼氏、本当に強いのか?」
「愛のために戦うって、ものすごい状況だな」
「ちょっとだけ憧れちゃうかも、こういうのって」
 これだけ騒げば嫌でも人が集まる。
 そうでなくても帰宅する生徒や部活動へ向かう生徒。
 下駄箱を利用するために学園中の生徒が集まってると言えた。
(吉井、後で覚えてろよ)
 刀治一人であればロッカーにスペアの靴があるから下駄箱を通らずに済んだが、いまは美咲も連れている。だから下駄箱は回避不能だった。
 作戦負けとも言える結果だ。
(学校中の生徒の前で愛のために戦えって? 冗談じゃない)
 恥ずかしいにもほどがある。そうでなくても勝てる自信がない。これだけの人数を相手に戦えば、よほどの手練れじゃないかぎり袋叩きだ。
 よほどの手練れといえば美咲だが――
「美咲、手伝ってくれるか?」
「……刀治くん、わたしのために戦ってくれないの?」
 ――戦力外。
 どうやら美咲好みのシチュエーションらしい。
 こうなったら覚悟を決めるしかない。
 もちろん、逃げる覚悟を。
「美咲、逃げるが勝ちだ」
「ふぇ?」
「吉井ィ! 悪いがデートの時間だ――!」
 刀治は大仰に優歌を指さして叫び。
 そして逆の手を鞄に突っ込んだ。
「――俺は帰るぜッ!」
 鞄から出てきたのは卵状の物体。
 それをおもいきり地面に叩きつける。
 ――バフッ!
 と白い煙が舞い上がった。
「煙幕だとッ」
「逃がすなッ」
「落ち着け、ヤツはまだ――」
「そう、ここにいる」
 騒ぎ出した振られ隊の面々。
 そのうち下駄箱から一番離れた男子生徒。
 かれの正面に伸縮式トンファーを携えた刀治が現れた。
「逃げると思ったろ? だから、まずは――」
 ――ドドッ!
 男子生徒の腹と脇腹に連続してトンファーを叩き込む。
 鳩尾と肝臓を的確に突かれ、男子生徒は、
「ごふぁ」
 と呻いて崩れ落ちた。
 刀治は次の道具を用意する。
「――まずは、オマエらを削ってやる。それから逃げる。まともにやり合えるなんて思うなよ。俺は弱いからよ。手段選んでる余裕なんてないんだよ」


「美咲は先に行ってろ、できるだろ?」
「うんっ! がんばってね、刀治くんっ!」
 美咲は先に逃がすことにした。
 手伝ってくれないなら邪魔になるだけだ。
 煙幕は消えつつある。
 この状態なら迷うこともないはず。
 美咲は下駄箱のあるだろう方角に走り去った。
 ――ドッ! バシッ! ゴシャッ!
 美咲の消えた方角から打撃音が聞こえた。
 進路上の邪魔な連中を蹴散らしたのだろう。
 想定外だが、いまのでも大分削れた気がする。
(さすが百人斬り)
 刀治の次の道具はボトルだ。
 中身は美咲にも使ったローション。
 全部使い切る勢いで中身を床に散布する。
(ま、俺は俺のやり方だ)
 煙幕が晴れる。
 振られ隊の面々が刀治を発見した。
 思った通り、かれらは下駄箱前に集中していた。
「なにしてんだ? 俺はこっちだぜ?」
 くいくい、と片手で手招き。
 安い挑発に、しかし振られ隊は乗ってきた。
 ローションの仕掛けも、刀治の逆の手も、またも見落として。
「いたぞッ」
「逃がすものかッ」
「オマエを倒して、このオレが――ッ」
 刀治を倒した者が一番最初に美咲に突き合いを申し込む。そんな約定でも交わされているのだろう。ろくに足下も確認せず我先に駆け出して、
 ――ズダン!
 おもいっきり滑ってコケた。
「なんだ、これッ」
「蒼馬刀治、卑怯なッ」
「男だったら正々堂々戦えッ」
 第一陣を飛び越えて、第二陣が、現れる。
 ローションが散布されてるとわかれば着地くらいどうってことない。その程度のバランス感覚は保有している、かれらは美咲の見込んだくらい強い男たちだ。
「多勢に無勢は卑怯じゃねーのかよ」
 ゆえに、かれらの認識には慢心があった。
 正々堂々正面からやり合うものだと思い込んで。
 刀治が次を用意している可能性に思い至らなかった。
 ――バラララ。
 刀治は次の道具を解放した。
 パチンコ玉のような小さな鉄球だ。
 大量のそれを第二陣の足下にばら撒いてやる。
「うおッ」
「しまっ――ッ」
「うお、と、と、と――ッ!」
 ローションにまみれた鉄球に足を取られて、
 ――ズダン!
 第二陣もバランスを崩して床に叩き伏せられた。
 さらに、第一陣も第二陣も立ち上がろうとするが、かれらには協力し合うという意識がなかった。やはり再戦権でも懸かっているのだろう。
「このッ」
「引っ張るな、オマエッ」
「邪魔だ、オレが、オレがアイツをッ」
 文字通り足の引っ張り合いだ。
 倒れた者同士で立ち上がるのを邪魔し合ってる。
 第三陣も控えているが、なかには巻き込まれる者もいた。
 地獄絵図みたいな有り様だ。
 その間に刀治は、最後の道具を用意する。
 黒革製の頑丈なグローブをはめ、それを振るう。
 ――ヒュバッ。
 振られ隊の間を細いきらめきが走った。
 蜘蛛の糸のようなそれは、かれらを諸共絡め取る。
「うわ、なんだッ」
「痛ッ」
「堅いぞ、この糸ッ」
 解こうとして暴れれば暴れるほど。
 ますます絡まり合って身動きが取れなくなる。
 糸は、グローブをはめた刀治の指先から伸びていた。
 親指を除く四本の指から一本すつ。
 両手併せて計八本の糸があやとりのように。
 蜘蛛の巣状の網となって振られ隊を捕縛したのだ。
 第三陣まで網は及んでいる。
 背後にはまだ第四陣が控えてるが問題ない。
 第一陣から第三陣まで肉の壁が出来上がってくれた。
「暴れるんじゃねーぞ、特性の鋼線だ。指くらいなら簡単に千切れるぜ。試したことはねーが首だって刈り取れるって触れ込みの代物だ」
 グイ、と鋼線を引っ張る。
 指から伸びる鋼線が振られ隊を締め付け、
「わ、わかった! 暴れない!」
「ここまでするなんて正気か……ッ」
「こんな、こんな卑怯な男がうーちゃんと……ッ!」
 それだけ――
 それだけの動作で刀治は場を支配した。
 脅しだ。
 脅しだとは理解してる。
 学校で、まさか本当に刃傷沙汰を起こすつもりはないだろう。
「それじゃ、今度こそ行かせてもらうぜ」
 死屍累々の中を刀治は悠々と歩き始める。
 時折、鋼線の締め具合を調節しつつ、振られ隊の頭を飛び越えて、転ばないように気を付けながら、ゆっくりと下駄箱まで歩いていく。
「今、手を出すんじゃねーぞ、オマエら? 俺が転んだらどうなるかわからねーからなー? だれかの首が飛んでも俺は知らねーからなー?」
 刀治は、ここまでやる。
 脅しだろうと何だろうとここまでやる。
 脅しでこれなんだから、もしも本気でキレたら、なにをしでかすかわかったもんじゃない。なにをするかわからないというのは、それだけで恐怖の対象だ。
 必要以上の暴力をひけらかすという行為には、そういう効果がある。不良が暴力を振るうのには、そういう意図がある。というより、これは正しい脅迫の仕方とさえ言えることだ。
 そう、刀治は意図的に脅迫を行った。本気で指を切ったり首を切ったりするつもりはない。グローブの親指には鋼線を着脱するトリガーが仕掛けてあり、実は、すでに鋼線は解放済みだ。
「美咲、待ったか?」
 下駄箱で靴を履き替えて美咲と合流した。
「……刀治くんって、やっぱり本当は強い?」
「……期待に満ちた目で見るな。本当に強かったらこんなことしねーよ。まともにやり合っても勝てっこない。だから俺は手段を選ばないって、それだけのことだ」
「ちょ、ちょっと! 蒼馬が行っちゃうじゃない! 早く追いなさいよ、アンタたち! うーちゃんが取られちゃうよ、それでもいいのっ!」
 優歌が、振られ隊の生き残りをけしかけてる。
 あれではまるで振られ隊を率いる女王様みたいだ。
 刀治はハァと溜息をついた。もうすでに障害を乗り越えるというロミオとジュリエット作戦とやらの目的は成功してるというのに、あの様子では絶対目的を見失っている。
「美咲、走るぞッ」
「えー」
「えーじゃない、走れッ!」
 背後から振られ隊の生き残りが迫ってくる。
 削ることには削ったが、まだまだ生き残りは大勢だ。
 鋼線が解放されたことに気付いた連中も加勢するかもしれない。脅迫というのはバレたら効力をなくすものでもある。刀治が本気ではないとバレたら、かれらも追ってくるだろう。
「ほら、走れや走れッ! 逃げるぞーッ!」
「あ、待ってよ、刀治くんっ!」
 刀治と美咲は校庭に飛び出した。
 初デートからこんなのでは先が思いやられる。
 だが、ほんのちょっと、ちょっとだけ笑みが零れていた。


 刀治と美咲は学校から駅前まで一気に駆け抜けた。学生の姿は多いが追っ手の姿は見当たらない。どうやら無事、振られ隊から逃げ切ったらしかった。
 刀治はすっかり息が上がっていた。
 美咲も汗ばんでいるが刀治ほどではない。
 基礎体力においても“百人斬り”が刀治より優れてる証左と言えた。刀治が優れてるのは知略の一点のみ。だが、その一点で今回も逃げ切ることに成功したのだ。
「また、逃げるが勝ちで勝っちゃったね、刀治くん」
「そんなことより休憩だ、休憩」
「休憩?」
 疲労困憊で壁に寄り掛かってる刀治。
 美咲は、刀治のためにきょろきょろと周囲を見渡して、
「刀治くん、あのお城、休憩って書いてあるよ?」
「いや、あれは駄目だ」
「宿泊って書いてあるけど泊まることもできるの?」
「美咲は知らなくていい」
「あ、あのひとたちお城に入って――」
「見るな。見ちゃいけない。見たら色々問題のあるカップルだ」
 そうこうしてる間に刀治の呼吸は回復してきた。
 美咲に代わって休憩できそうなところを探す。
 数秒後、とある看板に刀治の目は止まった。
「漫画喫茶でも行こうか」
「漫画喫茶って……ええっ……?」
 美咲が、なぜか狼狽えた。
 刀治にはその理由がわからない。
「ン? おかしいか? 安いし飲み放題だし」
 振られ隊が追ってきても、しばらく身を隠すことができると刀治は心の中で付け加えた。追っ手に見つかったら休憩もクソもない。人目につかないところを探した結果が漫画喫茶だ。
 だがしかし、それは漫画喫茶の特性をひとつ忘れていた。
 カップルが漫画喫茶に入場すれば否応なく――


「………………」
「………………」
 漫画喫茶のペアシート。
 刀治と美咲は一緒のソファに座っていた。
 二人とも適当な漫画をパラパラとめくってるのだが。
 沈黙――
 不自然な沈黙が二人の間に生まれていた。
 適当な漫画をパラパラとめくってるというのは比喩ではない。
 マトモに読んじゃいない。まるで占いでもするかのようにパラパラとめくって適当なページで止めて、そして見るのは漫画ではなく隣の相手だ。
 刀治が美咲を、美咲が刀治を。
 こっそり窺うようにチラチラと見る。
 すると二人の目が合って慌てて漫画に視線を戻す。
「………………」
「………………」
 なにが問題かといえば、それは距離が問題なのだ。
 カップルが漫画喫茶に入場すれば否応なく――
 カップルが漫画喫茶に入場すれば否応なくペアシートになって、そうすればソファに座った二人の距離は肩が触れそうなくらい接近してしまう。ちょっと位置をズレれば密着してしまう。
「ト、トイレいってくるっ」
「い、いってらっしゃいっ」
 二人が緊張してしまうのも無理のないことだ。
 一応、彼氏と彼女なのだから当然意識してしまう。
 だから、刀治は尿意など催していなかった。
 緊張に耐えきれず男子便所へ避難したのだった。
 男子便所で時間を潰しながら刀治が心の中で思うのは、
(なんで、あんなにあったかいんだよ)
 というようなことだ。
 肩が触れてもいないのに、ぬくもりが伝わってくる。
 刀治は、もっと近くに寄りたいと思ってしまうのを必死で自制していた。なにせ初めての彼女だ。しかも、よくわからないまま彼氏と彼女の関係になってしまった。
(俺は――)
 これでいいのか、と思う。
 このまま彼氏になってしまっていいも。
 彼女とアレとかコレとかしてしまっていいのか。
(――いやいや、なにを考えてる)
 顔を水で洗って妄想を振り払った。
 男子便所を出て美咲の待ってる個室に戻る。
 個室に入ると美咲はパソコンを操作してるとこだった。
「とっ、刀治くんおかえりっ!」
 照れ隠しなのか、やたらと美咲の声は大きい。
「ただいま。それ、何見てんの?」
「えーと、これは――」
 見たほうが早い。
 刀治は視線をパソコンに移した。
 インターネットブラウザが起動していて、そこには動画共有サイトにアップロードされてる総合格闘技の試合動画が再生されていた。刀治も知ってる選手がローキックを連発していた。
「ご、ごめんね。せっかくのデートなのに。もう見ないから」
「勝てると思う?」
「え?」
「美咲は、この川崎選手に勝てると思う?」
 なんとなく気になったので聞いてみた。
 沈黙するよりは、こんな話題でもないよりマシだ。
 それに美咲がどの程度出来るのか気になった。まだ美咲の本気を見ていない。ただでさえ強い彼女が本気で戦ったら、たとえば、この選手と戦ったらどうなるのか。
「んー」
 美咲はしばし思案すると、
「一回目なら勝てると思う。二回目以降は勝てない」
「というと?」
「川崎選手がわたしのことをなにも知らなかったら、打撃で誘って、関節を取ることができるかもしれない。でも、そんなのは二度も通じないから」
「騙し討ちか」
「二度目は通用しないよ。刀治くんは?」
「まともにやり合って勝てっこないって」
「まともじゃないやり方だったら? 各闘技の試合じゃなくて路上の喧嘩だったら、なんでもありだったら、それだったら勝てるんじゃない?」
「……どうかな。よっぽどうまくハメなきゃ無理だ。たとえば俺が逃げたと思わせたところを後ろから不意打ちとか、それくらいやらなくちゃ無理だ」
 つい、本音を言ってしまった。
 美咲がプロの選手に勝てると言ったことに驚いて。
 パソコンのモニターに映ってる川崎選手は堅実なファイトスタイル。ローキックを中心とした隙のないコンビネーションに定評があり、どんな選手が相手でも実力を発揮する。
 その川崎選手に、たとえ騙し討ちでも勝てると言った。たとえ二度目のない戦法だとしても充分驚異的だ。それから美咲が関節技も習得してるというのにも驚いてしまった。
「ふーん?」
「いまのは勝てないって言ってるのと同じようなもんだ」
「でも、勝てるんだ?」
「不意打ちすれば勝てるなんて、そんなのだれがやっても同じだろ。不意打ちすれば、どんなヤツでも勝てる。強さとは、また別の話だ」
「でも、勝てるんだ?」
 美咲が、刀治を追いかけてた時の目になっていた。
 ソファの合成皮革が軋む。
 それまでソファの端に座っていたのが隙間を埋めるようにジリジリと寄り始めた。刀治に逃げ場はない。肩と肩の密着するくらい近寄られてしまう。
「ねえ」
 美咲が言った。
 美咲の手が肩にかかる。
 半立ちになって刀治をソファに押し付ける。
「わたしに勝って?」
 肩には手、脚には太股が当たってる。
 押し倒されてしまいそうな。
 逃げられない体勢。
 刀治を見下ろす美咲の目は、なにか期待して。
 誘うように、小声で、唇が囁く。
「刀治くんにだったら、なにされてもいいんだよ?」
 耳元で囁かれる。
「不意打ちでも騙し討ちでもなんでもいい。どんな手を使っても構わない。刀治くんだったらいいよ。だから、お願い。わたしに勝って? わたしを打ち倒して?」
「俺は――」
 なにかを刀治は言おうとした。
 だが、口籠もり、そして諦めるように溜息。
「――ここじゃ無理だな」
「いつでも、どこでもいいよ。わたしは――」
「あとさ、すっげー言いづらいんだけど」
「なぁに?」
「胸、当たってる」
 刀治の耳元で囁いてる美咲。
 ほとんど体を押し付けてるような状態だ。
 小柄な彼女の体格では、そうなってしまうのは当然のこと。
 ゆえに――
 ちょっとどころではない。
 おもいっきり胸も押し付けてしまっていた。
 指摘した刀治の顔も赤い。
「…………どいて、くれないかな?」
「――――――っ!」
 直後、美咲の悲鳴が漫画喫茶を貫いたのだった。


 店員に「ほかのお客さまのご迷惑になりますので――」と注意された刀治と美咲は漫画喫茶を逃げるように退出した。
 漫画喫茶に入ってから一時間も経っていなかったが美咲が出たがっていたので仕方がなかった。刀治も、さっきのことを思い出すと赤面してしまうので賛成だった。
「ごめんね、刀治くん」
「いいって」
 店を出たところで再度謝られてしまった。
 刀治はぶっきらぼうに答えたが無論照れ隠しだ。
 美咲から視線を逸らして周囲をぐるっと見渡してみる。
 駅前繁華街は人通りが絶えない。
 遊ぶ場所にも隠れる場所にも困らない。
 振られ隊の追撃を想定してるわけだが考え直す。
(いや、さすがに、そろそろ諦めてくれる頃か)
 だがそのとき人垣を割って、
「見付けたぁぁぁぁぁぁ――――――っ!」
「嫌なタイミンクで出てくるなー、オマエらッ」
 振られ隊が現れた。
 優歌を先頭にゾロゾロと勢揃いだ。
 周囲の人々はドン引きして道を空ける有り様だ。
「我らッ」
「うーちゃんにッ」
「振られ隊ッ」
「だれか救急車呼べェェェェェェェ――――――ッ!」
 ずっとこのテンションで美咲を探していたのだろうか。
 コイツらに常識とか羞恥心とか、そういうものはないのか。
「追ってくるかもしれないとは思っていたけどオマエらもっと常識的に考えて行動しろッ! つーか吉井だ、吉井! 正気に戻れッ! 目的忘れて手段楽しくなってきてるだろオマエッ!」
「ふふふ、うーちゃんは私のモノよ! 蒼馬なんかに絶対渡さないんだからっ! ほら、うーちゃんおいで! お城でもどこでも連れていっちゃうんだからっ!」
「え、ほんと?」
「興味を持つな、いつまでこのネタで引っ張るんだッ! つーか吉井は変な性癖に目覚めてないで正気に戻ってくれッ! いい加減にしないとなあ、あーもうめんどくさいッ!」
 相手をしてたらキリがない。
 悠長に隠れるとか言ってないで逃げるべきだ。
「杏太、いるんだろッ! 出てこいッ!」
「……いないッスよー」
「返事してんじゃねえかオマエッ!」
 ひょっこりと横手の人垣から杏太が顔を出した。
「どうしてボクがいるって分かったんスか?」
「どうせオマエのことだから――」
 チラリと優歌を見る。
「――フラグを立てるチャンスでも狙ってんだろ?」
「フヒヒ、サーセン」
「そんなことより貸し一でチャリの鍵貸せ」
「貸し三でどうッスか?」
「貸し二。オマエに貸し一あったろ」
「あー、そういえばそうッスね。んじゃ貸し二で」
 杏太が自転車の鍵を放り投げる。
 刀治がそれをキャッチする。
「自転車は、いつもの駐輪場ッス」
「サンキュー」
「ねえねえ刀治くん、貸しってなんのこと?」
「そんなことより、さっさと逃げるぞ。あんなの相手にしてたら日が暮れちまう。それじゃ杏太ッ! 後は任せたーッ! 貸し三でいいからーッ!」
 わざと杏太の名前を大声で呼んだ。
「ちょ、先輩ーッ!」
 刀治と美咲が人混みに消える。
 後に残ったのは振られ隊と杏太一人。
 振られ隊と、そして優歌の視線が杏太に集中する。
「あ、は、ははは。いや、ボクは何の関係もないッスよ?」
「杏太くんって言ったよね、確か?」
「覚えていてくれたんスか! ありがとうございまッス。それじゃボクはこれで――」
 ――パチン。
 優歌が指を鳴らす。
 次の瞬間、振られ隊が杏太を一斉包囲した。
 よく訓練された軍隊のように一糸乱れぬ動きだった。
「悪い子にはオシオキしないとねぇ?」
「いやいやいや、ないない、それはないッス」
「この私を怒らせたらどうなるか、たーっぷりと教えてアゲル」
「ったく先輩、貸し三じゃ割に合わないッスよ――」
「ん?」
「――先輩直伝ッ! 逃げるが勝ちッ!」
 杏太は卵状の物体を振り上げた。
 刀治が使っていたのと同じ煙幕弾だ。
 そして、それをアスファルトに叩きつける。
 ――バフッ。
 白い煙が杏太の姿を覆い隠す。
 混乱に乗じて、その場を逃げ去ろうとしたが、
「甘いッ」
 振られ隊は煙幕を突き破る。
「その技はッ」
 一人目がショルダータックルをぶちかます。
 技ではない。ただの力任せの体当たり。
 だが、視界を封じられても有効だ。
「――ウソぉ!」
 杏太の小柄な体躯はなすすべもなく吹っ飛ぶ。
「一度見ているッ」
 一人目の攻撃を支点に杏太の位置は読み取り可能となった。
 二人目と三人目が、一人目の背中を飛び越えて現れる。
 そのまま二人掛かりで地面に組み伏せられる。
「我らにッ」
「同じ技はッ」
「通用しないッ」
「なんなんスか、そのカンペキすぎるコンビネーションは!」
「なにって愛に決まってるでしょ? ちなみに煙幕の最大の効果は混乱。姿が見えなくなるのは自分も相手も同じ。びっくりさせなきゃ意味ないワケで――」
 振られ隊を割って優歌が悠然と現れた。
 振られ隊を完全に統率している。
 女王様が板についていた。
「――蒼馬が使ってるのを一度見た私たちは混乱しない。だから無意味。蒼馬と相当仲が良いみたいね? 同じ手を使うなんて。どういう関係なの、アナタたち?」
「いやいやいや、どういう関係も何も、ただの先輩後輩ッス。キャラが完全に崩壊していて怖いッスよ! 吉井サンっ!」
「吉井さん――?」
「あふぁ!」
 ――グリ。
 優歌の脚が杏太の股間を踏んでいた。
 ぐり、ぐり、ぐりとゆっくりと踏みにじってる。
「――お姉様って呼びなさい? 下級生でしょう?」
「お、お姉サマ! お姉サマお姉サマお姉サマ! お姉サマって呼ぶから、だからそれやめて……ふぁ……ああぁ……んっ……! やめて……ください……ッスよぉ……!」
 喘ぎながら訴える。
 杏太のその様子を見て優歌は嗜虐心が刺激されまくった。杏太の中性的な雰囲気がツボってしまったようだ。それに加えて屈服させるというシチュエーションもまたツボってしまった。
「やめてくださいって言う割には喜んでるみたいだけど?」
「そ、そんなことないからぁ……お願いッス……! あっ!  駄目ッス……そこは、そこはやめてぇ……!」
「ふーん? ここ? ここがいいの? こんなことで喜ぶイケナイコだなんて教育が必要みたいねぇ? ふふふ――」
 ――パチン。
 優歌が再度指を鳴らす。
 すると振られ隊が杏太の体を担ぎ上げた。
「落ち着ける場所で、ゆっくりと、たっぷりと、この私が色々教えてあげるね? それとも、ここで見られながらのほうが良かった? どっちがいい? ねえ、杏太くん?」
「どっちもイヤーっ! 降ろして! どこへ連れてくつもりなんスか! 怖い! マジで怖いッス! イヤーっ! 降ろしてーっ! だれか助けてくださいッスよぉぉぉ――――っ!」


 高架下の駐輪場。
 杏太はいつも同じ場所に自転車を駐めてる。
 杏太の自転車は、荷台付きの、よくあるママチャリだ。
「あったあった」
「これ?」
 美咲の質問に答えるかわり鍵を取り出した。
 杏太から受け取った鍵だ。その鍵を錠に差し込む。
 カチンと解錠に成功した自転車のスタンドを蹴り上げて、
 ――トゥルルル、トゥルルル。
 その時、刀治の携帯電話が着信を告げた。
「もしもし?」
「先輩っ! 先輩ッスか! 貸し三全部チャラでいいッスから助けてください! このまんまだとボク、ああっ! ペットボトルがっ! ペットボトルがぁぁぁぁ――――――っ!」
 ――プッ。
 刀治は無言で電話を切った。
 空を見上げると白い雲がプカプカと浮いていた。
「今日も良い天気だな……」
「なに、だれ? 杏太くんだっけ、あの男の子?」
「無事だってさ」
「悲鳴が聞こえたような気がするけど?」
「気のせいだから気にするな気にしたら負けだ。そんなことよりうしろに乗れ。隣町まで逃げるぞ」


 自転車を漕ぐ、漕ぐ、漕ぐ。
 春原駅がみるみる遠ざかっていく。
 自動車に抜かれたり信号で抜き返したり。
「………………」
「………………」
 荷台に美咲を乗せている。
 美咲は刀治の背中にしがみついてる。
 漫画喫茶以上に体温がダイレクトに伝わってくる。
「悪いな」
 だけど自転車なら顔を見なくていい。
 そのことが刀治に話す勇気を与えてくれた。
「せっかくの初デートがこんなんになっちまって」
「ううん、こういうのも楽しいよ」
「そっか?」
「うん」
「そっか」
「うん」
 ギュッとしがみつく力が強くなる。
 言葉以上に安心させてくれるぬくもり。
 悪くはない。こういうのも悪くはないと思う。
「あのさ」
「うん」
「隣町着いたら、どこへいく?」
「うーん」
 美咲は少し考えて、
「ゲーセンかな?」
「ゲーセンでなにする?」
「プリクラ!」
「プリクラか、やったことないんだよなー」
「楽しいよっ!」
「なにがおもしろいんだ、あれ?」
「落書きできるし、沢山撮れるし、それに――」
「ン?」
「――まだ、刀治くんの写真とか、なにも持ってないし」
 瞬間、言葉に詰まる。
 ブレーキを掛けそうになる。
 自転車を漕ぐ速度が上がってる。
「ば、馬鹿! 学校で毎日会えるだろ!」
 けれども美咲は敏感に刀治の照れを感じ取って。
 というよりバレないほうがおかしいくらい動揺してる。
 刀治の普段見せない狼狽えぶりが可愛く思えて、さらに追撃。
「プリクラ、ケータイに貼ってくれる?」
「なッ! そ、それは恥ずかしすぎるだろッ!」
「わたしは貼るよ、刀治くんのプリクラ。刀治くんはイヤ?」
「あーもうわかったよ! 貼る! プリクラでもなんでも貼ってやる! それでいいんだろ、それで! ちくしょう、どうして俺が、そんなこっぱずかしいことを……」
 刀治はブツブツと呟き出した。
 照れ隠しの愚痴だ。
 美咲は笑う。
 しがみつく力が、また強くなる。
 刀治は自転車を加速させる。
 二人を乗せた自転車は、どこまでも走り続ける。


 それから――
 それから刀治と美咲はうまくやっていた。
 朝、美咲が刀治の住処に迎えに来る。刀治の住処は知られてるので自然とそうなった。月子が絡んでくるのを適当にあしらってから二人一緒に登校する。
 学校に着いたら優歌率いる振られ隊が追っかけてくるので当然逃げる。優歌といえばたまに美咲に押し倒されてる模様だったが助ける義理はないので放置。
 放課後も、まずは振られ隊を振り切ってから駅前繁華街へ繰り出す。その際頻繁に杏太を囮にしていたが杏太は元々優歌狙いのはずなので罪悪感はなかった。
 繁華街に着いたら漫画喫茶で格闘技の試合の動画を見たりゲーセンで遊んだり。なんだかんだ言いつつ刀治の携帯電話には二人で撮ったプリクラが貼ってある。
 つまるところ、うまくやっていたのだ。
 毎日毎日こんな調子なのだから、だれがどう見ても彼氏彼女のカップルだ。というかバカップルである。そして実際刀治も悪い気はしなかった。この生活を快く思うようになっていた。
 だから――
 だから忘れてしまっていたのだ。
 ――美咲の歪みを。


 朝。
 灰色の空に風が吹いている。
 数日間続いてた快晴が陰りを見せ始めていた。
「雨、降るのかな?」
「降水確率五〇パーセントだってさ」
 そんな暗雲の元、刀治と美咲は一緒に登校していた。
 二人を手を繋いでる。
 刀治も抵抗せず手を繋ぐようになった。
 そうすることが二人の間では自然なことになっていた。
「刀治くんは傘、持ってきた?」
「折り畳みを鞄に入れてる」
「わたし、忘れちゃったよ」
「学校にも置き傘あるから貸そっか」
「んー、それより相合い傘がいいな」
「…………好きにしろ」
 最近では刀治は文句も言わない。
 素っ気ない態度も徐々に軟化している。
 刀治がいつデレるのかは生徒たちの密かな話題だ。
「それから家まで送ってもらっていい?」
「しょうがねーなー」
「それからさ」
「ン」
「今日、家に親いないんだ」
「――――――」
 瞬間、刀治の思考は停止した。
 二つの言葉が脳内でリフレインする。
 ――家まで送ってもらっていい?
 ――今日、家に親いないんだ。
 いやいやそんなつもりで美咲は言ったんじゃないと妄想を打ち払おうとするも、さらに美咲はトドメの一言を放った。ちなみに美咲の家に上がったことはまだ、ない。
「――家に上がっていかない?」


「先輩って本当、変なところでウブッスよねー」
 昼休み。
 刀治と杏太は屋上にいた。
 悪天候のため少し肌寒いが我慢できるレベルだ。
 いつものようにベンチに腰掛けながら刀治は杏太から受け取ったサンドイッチの封を開けていた。杏太は自分用のサンドイッチを先に食い始めてる。
「オマエが慣れすぎてるんだよ、そんな顔の癖に」
「ヤだなー、先輩。この顔だからこそモテるんスよー」
「吉井呼ぶぞ」
「サーセン、それだけは勘弁ッス」
 優歌の名前を聞いた途端、杏太は、なぜか前屈みになって訴えた。優歌に何をされてるのか非常に気になるところだがあえて聞かないことにした。
 もっともいま、本当に優歌を呼ぶことはできない。
 優歌と振られ隊は美咲を追っかけてるはずだからだ。
 美咲を囮にして一人だけ逃げて、刀治は、ここにいる。
 杏太に今朝の件を相談するためだ。
 ――彼女の家に呼ばれた。
 ――家に親がいない状況で。
 これはつまりそういうアレなのか、それとも、そういうアレを考えてしまうのは先走りすぎなのか。こういうことを相談できそうな同性は杏太くらいしか思い浮かばなかった。
 優歌は異性だし、なにより、いまや振られ隊の女王様だ。先頭に立って刀治と美咲を追っかけ回してくる。もはや完全に目的を忘れて手段が楽しくなってるとしか考えられなかった。
「お、噂をすればなんとやらだ」
 校庭から騒ぎ声が聞こえる。
 刀治は立ち上がって金網の側に近付いた。
 校庭では美咲と振られ隊が大立ち回りを演じてた。
「刀治くーん、どこにいるのよーっ! もーうっ!」
「うーちゃんを抑えろッ」
「その隙に蒼馬刀治をッ」
「蒼馬刀治を探し出せッ」
 美咲は囮として充分役目を果たしているようだ。
 それどころか振られ隊を殲滅せんばかりの勢いである。
 すでに校庭は気絶した振られ隊で死屍累々の有り様だった。
 美咲を騙してしまったようで気が引けるが、こうでもしないと杏太と密談できそうになかった。それほど美咲の家に誘われたことは刀治にとって重大な問題だった。
 あとで機嫌を取ってやらないといけない、と刀治は思った。そしてそんなことを思う自分に驚いた。まったく、これでは本当に普通の彼氏と彼女みたいじゃないか。
「これでラストォ――!」
 美咲が最後の一人を片付けた。
「――もう邪魔者はいないね? いないね? いたらぶちのめすからね? って、あれ? 優歌ちゃん? なーんだ、まだ優歌ちゃんが残ってたんだぁ」
「ひぃ!」
「大丈夫、優歌ちゃんをぶちのめしたりしないよ。オシオキはするけど。せっかく刀治くんと一緒にお弁当食べようと思っていたのに優歌ちゃんのせいで昼休みが終わっちゃうじゃない」
「ご、ごめんっ! ほんとごめんっ!」
「本当に悪いと思ってる?」
「もうしない! もうしないから!」
「そう言って何度も何度も邪魔してるよね?」
「そ、それは障害があったほうが恋は燃えると思って――」
「やっぱりカラダに言い聞かせたほうがいいみたいね、優歌ちゃん? 何度も何度もお願いしてるのに。ひょっとしてオシオキされたかった? わたしにオシオキされたかった?」
「いや、ちょ、下ろして――!」
「邪魔なものは脱いじゃおうね」
「にゃぁぁぁぁ――――――っ! な、なにしてんのっ! やめてっ! なに考えてるの、うーちゃん! 返してっ! 私のパンツ返してーっ!」
「だってこうしないとおしりを叩けないでしょ? ふふふ、かわいいおしり。おいしそう。いたずらしたくなっちゃう。でも今日はオシオキだから心を鬼にして叩いてあげなくちゃ」
「た、叩くって、そんな、やめてようーちゃん! やめてやめてやめて! お願いだからやめてーっ!」
 ――パァン。
 肉を打つ音が響く。
「うにゃぁぁぁぁぁぁ――――――っ!」
「赤くなっちゃったね、優歌ちゃん。ますますおいしそう。もっとたくさん叩いてあげるからね。そしたら食べちゃおっかな」
「うう、やめてよぉ、うーちゃん……もうしないからぁ……」
「だーめ、これはオシオキなんだから。それじゃいくね――」
 ――パァン。
 快音が再び響いた。
 ああなった美咲は手が付けられない。
 まあ、自業自得なのでハナから助ける気はないが。
「いいなあ、羨ましいッスね……」
 いつの間にか横に並んでいた杏太が呟いた。
 気のせいか美咲の振り上げる手を見ながら「羨ましい」と言った気がする。どうやら優歌に可愛がられるようになってから変な性癖が目覚めてしまったようだ。
(コイツも、もう駄目だ……!)
 刀治はツッコまないことにした。
 別の話題を振る。
「杏太、明日って空いてるか?」
「空いてるッスけど?」
「例の件。入り口が見つかったらしい」
「マジッスか!」
「月子さんが明日、オマエを連れてくってさ」
「やりィ! 最近疼いてしょうがなかったんスよ」
「ったく、このバーサーカーめ」
「先輩も入るんスか?」
「ああ、やりたかねーんだけどなー」
「先輩と戦うこともあるかもしれないッスね」
「怖いこと言うんじゃねーよ」
 刀治は溜息をついた。
 美咲といい杏太といいだ。
 どうしてみんな買い被るのだろう。
「俺は弱いよ」
 それはコンプレックスとも言える感情だった。
 風が吹いた。
 空は朝より暗くなってる。
 放課後には雨の降り出しそうな空模様だ。
 ……ゴロゴロゴロ。
 彼方から遠雷が聞こえてきた。


 雨が降っていた。
 雨粒の大きい土砂降りだ。
 風も強い。
 横殴りの雨が吹きつける。
 傘が、まるで役に立たない有り様だった。
 刀治も美咲もずぶ濡れだ。
 一応、カタチだけは傘を差していたが、ほとんど意味をなしていなかった。裾も袖も靴も水浸しだ。相合い傘なんて浮かれてる余裕はなかった。
「刀治くんっ! ここがわたしんちだよっ!」
 雨のせいで声が聞き取りにくい。
 だから自然、美咲は声を張り上げた。
 刀治は目の前の門を仰ぎ見た。
 大きい。
 だれもがそう思うだろう。
 純和風の古めかしい門がそびえ立ってる。
 家というより屋敷だ。
 武家屋敷というものだろうか。
 屋敷を取り囲む石垣が威圧的だった。
「すごいな……」
「刀治くん、早く早くっ!」
 正門の横に小さなドアがある。
 現代になってから改装したのだろう。
 ポストとインターホンも備え付けられてる。
 そのドアを美咲が開けた。
「早くっ! 濡れちゃうよーっ!」
 そうだ、いつまでも惚けてる場合ではない。
 刀治はドアを潜った。


 広い庭。
 年季の入った屋敷。
 蔵らしき建物も離れにあった。
 だが、なにより刀治の興味を惹いたのは道場らしき建物の存在だった。春原高校にも挌技場はある。だが、それよりもっと小さくて、もっと格式張った作りだ。
(古武道か?)
 美咲のファイトスタイルのベースは古武道ではないかと刀治は予測してる。多種多様な格闘技を駆使するため確証は持てないが足運びになどにそれっぽい癖も見受けられる。
 他流試合を禁じられてるからよその技を使って本来の流派を誤魔化してるのかもしれない。あるいは奥の手として隠匿してるのか。いずれにせよ古武道説の疑いは強くなった。
 かといって本人に聞くことはできない。関心を美咲に知られたら、そのまま勝負を吹っ掛けられそうだ。興味を持たないフリをしなきゃいけないのが刀治のつらいところだった。
「ただいまー」
「おじゃまします」
 美咲に続き刀治も玄関に入る。
 玄関から、まっすぐ廊下が続いていた。
 襖はどれも閉まってる。
 階段の上からも物音はしなかった。
 美咲の言ってた通り家族は留守中のようだ。
「タオル、持ってくるから! 待っててー!」
 美咲は先に上がると廊下の奥へ走っていった。
 刀治は一人、玄関に残される。
 雨の音だけが響く。
(本当に、ふたりっきりか)
 意識した途端、緊張してきた。
 古武道云々考えてる余裕は消し飛んでた。
 考えまい考えまいとすればするほど考えてしまう。
 額を抑える。
 顔が熱くなってる。
 赤くなってると自覚した。
「刀治くーんっ」
 そこへ美咲が戻ってきた。
 宣言通りタオルを持ってきて。
「はい、タオル」
「サンキュー」
 タオルを受け取って髪を拭く。
 美咲も自分用のタオルで髪を拭いていた。
 乱れた髪、濡れた肌、透けた制服。目が釘付けになる。
(いやいや、平常心、平常心)
 刀治は視線を逸らして髪を拭くことに専念した。
「刀治くん、ついてきて」
「おう」
 髪を拭き終えると美咲が刀治の手を引いて歩き出した。
 美咲の手は雨のせいで冷たくなっていた。
 刀治は強めに手を握った。
 美咲もぎゅっと握り返した。
 暖かい沈黙が続いた。
 廊下の角を曲がるまで。
「こっち」
「オイ、ちょっと待て、こっちは――」
 急激に、嫌な予感がした。
 頭の中で屋敷の全体図を思い浮かべてみる。
 屋敷と蔵と道場の位置は把握していた。
 美咲が連れていこうとしてるのは、
「――――――ッ」
「逃げないで? ね?」
 刀治は手を離そうとする。
 だが、美咲は握ったまま離さない。
 緊張が走る。
 嫌な汗が額を伝う。
「美咲、落ち着け、馬鹿な真似は――」
「ごめん、でも、もう我慢できない。わたしは――」
 そうして美咲に引っ張られて。
 そこに放り込まれた。
 ようやく手を離してくれたが、もう遅い。
 なぜなら美咲が入り口の戸を閉めてしまったからだ。
「――わたしは、刀治くんと戦いたい」
 真っ暗だったそこのライトのスイッチを入れたらしい。
 パチパチと蛍光灯が瞬いて明かりを灯す。
 もっとも、明かりなんてなくても板張りの床の感触はわかっていた。そのまえから、ここの位置はわかっていた。ここの位置は外から見てわかっていた。ここは、そう――
 道場だ。
 戦うための場所だ。
 遠雷が、まるでゴングのように鳴った。
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