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第四章
 朝、蒼馬刀治は通学路を一人で歩いていた。
 刀冶は中肉中背、学生服を着崩してもいない、どこにでもいそうな普通の男子学生。前髪が長く、表情は窺えないが、今日は頬に痣が出来ていた。
「蒼馬刀治ッ」
「今日という今日はッ」
「逃しはせんぞッ」
 春原高校の校門前に、いつもの光景が広がってた。
 吉井優歌を陣頭にずらりと並んだ、うーちゃんに振られ隊。
 優歌は茶髪で、校則違反にならない程度に肩まで髪を伸ばしており、ナチュラルメイクだけど化粧もしてるから、いかにも最近の若者という風体だ。
 彼女とは随分親しくなったものだ。もっとも無関係だった二人を結んでいた縁は昨日の時点で切れている。そのことを優歌が知らされていないのは少々意外だった。
「って、あれ、うーちゃんは?」
 優歌は、肝心の彼女がいないことに気付いた。
 刀治の頬の痣にも気付いたようだ。
 それは、殴られた跡。
 逃げるが勝ちの刀治が殴られたということは。
 当然、逃げ切れなかったわけで。
 何が起こったのか優歌は一瞬で理解してしまった。
「蒼馬、嘘でしょ――――?」
「負けた」
 一言だけ告げて。
 刀治は、優歌の横を通り過ぎた。
 振られ隊も、おとなしく道を開けてくれた。
「オマエらも解散しろ、解散」
 刀治の姿は、校舎に消えていった。
 振られ隊は、その後ろ姿を見送るしかなかった。
 敗者特有の自暴自棄を感じ取ったからだ。
 刀治は嘘を吐いてないと、それが分かったからだ。


 教室に着くなり刀治は机に突っ伏した。
 何も考えまいとしていたら眠気が襲ってきた。
 睡魔に身を任せたものの夢を見たことは誤算だった。


 いざというとき刀治の決断は速い。
 逃げるときも、そして戦うときも即断即決だ。
 逃げられないと判断したから即座に戦うことを決断した。
 道場の入り口近く。
 目の前の敵は氏家美咲。
 恋仲ではなかった。もはや敵だ。
 美咲は、ショートボブが快活な印象の女子学生。髪も染めておらず、体も引き締まっており、いかにもスポーツ少女といった風体だ。
 手のひらに巻いてるテーピングは彼女の目印。彼女と仲の良い者は「うーちゃん」と呼ぶ。あるいは彼女を畏怖する者は「番長」「道場破り」「百人斬り」等々と。
 数多の二つ名で呼ばれる百戦百勝の暴力の権化。強い男と突き合うために喧嘩を吹っ掛けて回っていた。そして、ついに刀治は「逃げるが勝ち」では済まなくなったということだ。
 ――チッ。
 金属を弾く音。硬貨を弾く音に似てる。
 刀治はパチンコサイズの鉄球を親指で弾いて放った。
 指弾という技だ。
 美咲は、両手で円を描くようにして指弾を払った。
 回し受けという空手の技だ。
 大袈裟すぎる防御に思えるが、おそらく攻撃の正体を見極める前に防御を決断したのだろう。おそるべき判断力と言えた。
 ――ヒュバッ。
 続け様に刀治は鋼線を放った。
 指弾は、このために時間稼ぎに過ぎない。
 複数の鋼線をあやとりのように操って網を作り、それを投擲した。美咲を捕縛できれば逃げるも良し身動きできないところを追撃して勝つも良しだ。
「指弾は初めてだったけど――」
 だが美咲は素早く横へ跳んで回避した。
「――その技は知ってるんだからっ!」
 さらに、もう一歩跳んで刀治に接近する。
「本気で戦ってよ! そんな技じゃわたしは倒せない!」
 そして、次の一歩で飛んだ。
 大きく脚を振り上げて、そこから繰り出される技は――
「チィ――!」
 踵落としを刀治は伸縮式トンファーで受けた。
 回避するという選択肢もあったが美咲の突進力を考慮した場合、下手に距離を取ることは危険だった。それより零距離から得物を叩き込んだほうが、まだ勝ち目がありそうだ。
 ゆえに防御した。
 防御の瞬間、美咲のスカートの中身が見えた。
「パンツ、見えてるぞ」
「だからなに?」
 だが今日の美咲は動揺してくれなかった。
 滞空状態から続け様に逆の脚で蹴りを放つ。
 踵落としをガードしことによって硬直していた刀治は、その蹴りをモロに喰らってブッ倒れた。吹き飛ばされたトンファーが板張りの床を滑る。
 ――バフッ!
 次の瞬間、煙が舞った。
 受け身と同時、刀治は卵状の球体を床に叩きつけていた。
 球体は簡単に割れて刀治の周辺に煙幕を張った。
 追撃を避けるための目眩ましだった。
「……次は、なに?」
 美咲は思惑通り追撃しなかった。
 煙幕が晴れるのを、その場で待っていた。
 出口は一箇所しかない。
 刀治が逃げる心配はなかった。
 ――ばさっ。
 煙を突き破って学生服が現れた。
 学生服の上着だけだった。
 刀治本人と勘違いして攻撃していれば隙が生まれるはずだったが、美咲は、この程度のことは一瞬で見抜いていた。放物線を描いて学生服が落下を始める。
「ッシャァァァ――――――!」
 気合一閃。
 煙の中から刀治が現れた。
 学生服ごと蹴り抜けるようなドロップキックで。
 両足を揃えて放つドロップキックは、プロレスの技だが、見せ物技というわけではない。全体重を乗せるから重いし、相手には足の裏しか見えないから、有効なカウンターが存在しない。
 格闘技の試合で階級が厳密に分けられることから窺えるように体重は重要な要素だ。重ければ重いほど攻撃の威力が高まるのは当然の理屈だからだ。そして刀治と美咲の体重差は大きい。
「くっ」
 煙幕と学生服。
 二重の目眩ましによって美咲は回避し損なった。
 ガードは間に合った。
 しかし体重差には逆らえない。
 二人はもつれるようにして床を転がった。
「寝技ならこっちのもんだッ」
 刀治は叫んだ。
 だが、美咲は、漫画喫茶で関節技も使えると言っていた。
 それを忘れてしまったのだろうか。
 案の定、
「そうでもないよ」
 美咲は刀治の手から逃れ、逆に、刀治の腕を極めようとした。
 腕ひしぎ十字固めという柔道の技だ。
 だが、
「え――?」
 刀治の腕がすっぽ抜けた。
 刀治の腕にはローションが塗ってあった。
 ローションのせいで、腕が滑って、掴めなかったのだ。
「――もらったッ」
 自然に脱ぐために学生服を目眩ましに使った。
 ドロップキックはグラウンドに持ち込むためだった。
 美咲を誘導するために、わざと「寝技なら――」と叫んだ。
 すべては、この一瞬の隙を作るため。
 マウントポジションを取って拳を振り下ろした。
 勝った、と思った。
「――――――」
 溜息だったのかもしれない。
 美咲の腰が浮いて、刀治の体を持ち上げた。
 次の瞬間、ごろんと転がって、上下が入れ替わった。
 躱すまでもなく刀治の攻撃は空振った。
 今度は美咲がマウントポジションから拳を振り上げた。
「ごめんね、付き合わせて」
 頬に一発喰らった。
 意識を飛ばされることはなかった。
 だが、それは勝負に負けたことを意味する一撃だった。
 美咲がその気になれば、いくらでも連打できた。
 最後に情けをかけられて刀治は負けた。
 美咲は、泣きそうな笑顔だった。


「それで先輩、負けちゃったんスか?」
 と、天元杏太が言った。
 杏太は、一見女子と見紛う小柄な男子学生。金髪だが不良には全然見えない。そもそも中性的な顔立ちで、しかもヘアバンドで持ち上げた前髪が猫耳っぽく跳ね返ってるため愛嬌がある。
「刀治、手加減したんじゃない、ひょっとして?」
 と、神城月子が言った。
 月子は、くたびれた男物のスーツ、ロングストレートの赤髪の隙間から縁無眼鏡、唇には常時煙草をくわえてる女性。不健康そうなのに唇だけ妙に紅いのが印象的だ。
「本気で負けた」
 深夜、神城探偵事務所に三人は揃っていた。
 神城探偵事務所は玄関を抜けると右手に扉、正面に応接用のソファ、左手には四つ並んだデスクがある。
 その本来、応接用のソファに月子と刀治・杏太が向かい合うに座ってる。もっとも視線は刀治に集中してる。
「本気でやって、そうそう簡単に負けちゃうような鍛え方してないと思うんだけど」
「そうそう簡単に勝たせてくれるような相手じゃねーよ、アレは。普通に強い。隙を作るための隙もない。ジムを強くしまくったらイデオンになっちまったような、そんなバケモノだ」
「そんなに強いんスか。ちょっとやってみたいッス」
「オマエのスピードでも絶対余裕でカウンターを合わせられて一撃で終わりだ。それともそれがお望みか? オマエ、吉井に虐められて喜んでるものな?」
「ちょ、そんなんじゃないッスよ!」
「杏太ってそうだったの? だったら私が虐めてあげようか? 登っちゃう? 大人の階段登っちゃう? そういうことだったら私に任せれば天国行きよ、天国行き!」
「勘弁ッス! 月子サンだと洒落になんないッス!」
「月子サンだとってなに? 年上は駄目なの? 殺す」
「言ってないッス! そんなこと一言も言ってないッス!」
 ソファを乗り越えて月子が杏太の首を絞めようとした。
 月子の腕が刀治の顔にも当たりそうだったが、それを手で払いのけながら、刀治は言った。
「そんなことより仕事の話」
「あ、そうだった」
 その一言で月子は杏太を解放した。
 元々、仕事の話のために集まっていたのだ。
 一枚の写真を取り出し、それをテーブルの上に叩き付ける。
 杏太も、ここでアルバイトしてる。
 ただし荒っぽい仕事のときだけの遊撃要員だ。
 杏太がいるということは、今回は、荒っぽい仕事ということだ。
「ターゲットの名前は天音香純」
 刀治らと同じ学校の制服を着た女子学生。腰まである長髪と気の強そうな瞳。上品そうな顔立ちだが一筋縄でいかない雰囲気だ。
 刀治はすでに、だれだか知っていた。
 前々から資料を見せてもらっていたからだ。
「生徒会長じゃないスか」
 杏太も気付いた。
 春原高校の生徒会長だ。
「なんだ、杏太も知ってるの?」
 と月子。説明の機会を奪われて残念そうだ。
「人気高いッスよ、生徒会長。先輩は興味なさそうッスけど」
「ムッツリスケベだから興味ないフリしてるだけでしょ」
「先輩、ムッツリスケベだったんスか」
「ペットボトル」
「サーセン、それだけはマジで勘弁ッス」
「巫山戯てないで。このオジョウサマの夜遊びは知ってる?」
「夜遊び? 三年生だから弓道部は引退してるはずッスけど……」
「残念、時間切れ」
 月子はぶーとクイズ番組のブザーの口真似をして、
「正解はストリートファイトクラブでした」
「ストリートファイトクラブ? なんスか、それ?」
「そのまんま、ストリートファイトしてる集団ってとこ」
 最初は、身辺調査の依頼だった。
 娘が夜な夜な出掛けてるから行き先を調べて欲しい。
 思春期の娘を持つ金持ちの、よくある身辺調査の依頼だった。
 割の良い仕事だ。
 月子は依頼を引き受けた。
 ところが、その娘の夜遊びが問題だった。
 ストリートファイトクラブ。
 その名の通りストリートファイトを開催してる集団。
 連日連夜、路地裏や廃ビルで殴り合いをしてる酔狂者の集いだ。
 天音香純は、そこに出没すると言う。
「依頼人は、ターゲットの父親。依頼内容は娘の夜遊びを力尽くで止めて欲しい。この力尽くってのが、ようするにストリートファイトクラブの現場を押さえて欲しいってことなんだけど」
 月子は携帯電話を操作して、とあるURLを表示した。
「ランキングトップの“レリエル”がターゲットなんだけど」
 ストリートファイトクラブのホームページだった。
“SFC”という文字がタイトルに躍ってる。
 ストリートファイトクラブの略称なのだろう。
 刀治も、その三文字を頭の中に叩き込んでおいた。
 ランキングや次回試合の賭けのオッズ、雑談用掲示板等々。SFCを盛り上げるための様々な情報が、ただし開催場所など実態を明かす情報は除いて、そこには表示されてる。
 レリエルは、すなわち天音香純はランキングの一位だった。しかも百八戦全戦全勝という数字が横に並んでる。数字だけ見れば美咲並みの、このSFCの女帝だった。
「ランキング形式だからSFCに潜入しても、ここまで登り詰めるのは手間暇掛かりすぎる。だからランキングに登録はするけど順当に戦ってくなんてまどろっこしい真似はしない」
「それじゃ、どうするんスか?」
「たった一つだけランキングを無視してやり合えるチャンスがあるの。それが“タングラム”ってイベント」
 カレンダーページに記載された“タングラム”という五文字は大規模なイベントであることを強調するためかチカチカと点滅してる。チカチカ、チカチカと。
 月子は、それを指先でコンコンと叩きながら、
「これ、ランキング無視のバトルロイヤルイベント。ゴチャマゼの混戦に乗じてターゲットをボコって拉致って親御さんに届けるのが神城探偵事務所の仕事ってワケよん」
「それにしても“オマエが諦めるまで、何度でも、怖い人たちにお願いして、力尽くで止めてもらうぞ”って、この娘にしてこの親ありだよな……」
 他人様の家庭の事情には踏み込まないが、それにしても強引な手段に打って出たものだ。
 対話による説得は失敗済みらしい。いわく「止められるものなら止めてみなさい」と開き直られたそうだ。
 警察沙汰にはしたくない。そこで神城探偵事務所に「力尽くで止めてくれ」という追加依頼が入ったというワケだ。
「それじゃ二人とも支度して」
 そう言って月子が席を立った。
「とりあえず、いまからランキングに登録しに行くから。まだタングラムイベントは後日だけど、そのまえにテストで一回戦わなくちゃいけないから、ちゃんと勝ってよ、テスト」


 駅前からスタートして。
 細い道へ、細い道へと折れていく。
 するとゴーストタウンのような場所に辿り着く。
 そこは路地裏の一角だった。
 雑居ビルと雑居ビルの隙間のような空間。
 パチパチと切れかかっている街灯が点滅を繰り返してる。
 大勢の若者が集まっていた。
 かれらは皆、同じ方向を見ていた。
 路地の中央では二人の若者が戦っていた。
 片やキックボクシング、片や格闘技は素人だった。キックボクシングを、素人が、おもいきりのよい攻撃で押していた。
 周囲の観客は格闘技対喧嘩というカードに興奮してるようだった。ひっきりなしに野次と歓声が飛ぶ。
 ここが――ここもSFCの会場だった。SFCの会場はランダムに移動する。だから無関係な人間の介入は困難で、そのせいで月子は苦労した。
 入り口が見付からないと言っていたのは、このことだ。入り口を見付けたと言っていたのは、なんらかのコネを入手して、この場所を教えてもらったということだ。
「そこだ、いけ!」
「所詮、格闘技なんてスポーツだ!」
「素人なんかに負けるなー! ローキックだ、ロー!」
 弱い、と刀治は思った。
 美咲と比べるまでもなく弱い。
 暴力的な感情が膨れ上がってきた。
「ちょっといいかい?」
 月子が、そのうち一人に声を掛けた。
 赤いバンダナを巻いた男だった。
 ほかにも数名、赤いバンダナを巻いている。
 この場所では、それはSFCのスタッフの目印だった。
「だれだい、アンタ」
「昨日、連絡した神城だ」
「神城さん? 話は聞いてるけど」
「コイツらをテストしてくれ」
 月子は、背後に控えてる二人を顎で示した。
 刀治は無反応、杏太は笑顔を返した。
 スタッフは渋い顔になった。
「弱そうだけどイイのか? ここはリアルファイトだぜ?」
 刀治は中肉中背、一見普通の男子学生。
 杏太に至っては女子と見紛おう美少年。
 男スタッフ弱そうと言ったのも頷ける。
「そのためのテストだろ?」
「そうだけど。どうなっても知らないぜ?」
「ああ、どうなっても知らないよ、私は」
 月子は、ニヤリと笑った。
 スタッフは諦めたように、
「わかった。この試合が終わったら二人のテストだ。それまで適当に待機していてくれ」
 とだけ言うと、その場を離れ、ほかのスタッフのところへ去っていった。なにやら話し合ってる。そして時折刀治と杏太を見ては苦笑や失笑が浮かべていた。
 杏太は不満げに、
「なんか、感じ悪いッス」
「知ったこっちゃねーよ」
 だが刀治は気にしなかった。
 ナメられるのは構わない。
 油断してくれていたほうが楽だ。
 それに、いまは最初から荒っぽい気分だ。
(八つ当たりさせてもらうぜ)
 刀治は、いつもは下ろしてる髪を掻き上げた。
 髪の毛をオールバックにするのは神城探偵事務所のアルバイトのときの癖だった。最初は変装のためだったが、いまは、なんとなく癖で続けてる仕草だ。
 オールバックにすると、いつもは髪の下に隠れてる素顔が露わになった。黒目勝ちだが好戦的な眼光を放つ双眸は、まるで飢えた狼のように、解放の瞬間を待ち望んでいた。


「ブラックスミス、出番だ」
 スタッフが叫んだ。
 先に行われていた試合は終わったようだ。
 興味がなかったので、どちらが勝ったか見ていなかった。
「刀治」
 月子が背中を叩いた。
「ブラックスミス?」
「登録名。刀鍛冶って意味よん」
「そのまんまじゃねーか」
 刀治は路地裏の中央へ歩み出た。
 試合のために、その空間だけ空けられてる。
 出てきた刀治を見て観客たちは一斉にざわめきだした。
「なにあれ?」
「勘違いしてんじゃねーの?」
「あーあ、可哀想。二、三本持ってかれるよ」
 スタッフより露骨な反応だ。
 侮蔑や嘲笑、下品な野次が飛び交う。
 刀治は全部無視した。
 どうでもいい、と思った。
「逃げたと思ったぜ」
 対戦相手は先に待ち構えていた。
 背の高い少年。刀治と違う学校の制服だった。
 少年は木刀を携えていた。これみよがしに木刀を突きつけ、
「剣道三倍段って知ってるか?」
「どうでもいい」
「あン?」
「御託はいいってんだ」
「オイオイ、せっかく人が心配してやってるのによ? いまならまだ逃げてもイイんだぜ? 木刀は痛いんだぜ? お母さーんって泣いてしまうぜ?」
 木刀使いの挑発に観客は沸いたが、刀治は無視して、すぐそばのスタッフに声を掛けた。このスタッフが審判のかわりらしいと立ち位置で判断した。
「さっさと始めてくれないか?」
「む……」
「いつまでアイツの独り言を聞かされなくちゃいけないんだ」
 刀治は木刀使いを指差した。
 木刀使いの形相がみるみる怒りに変貌していく。
 さらに、木刀使いの怒りがピークに達したタイミングを見計らって同じ指をくいくいと内側に曲げて「かかってこい」とジェスチャーしてやった。
「この野郎、ふざけやがって。そこまで言うなら本気で潰してやる! 腕でも脚でも折られたいとこ出せやコラァ――ッ!」
 試合開始の合図を待たず木刀使いが飛び出した。
 挑発するのはともかく挑発されることには慣れていなかったようだ。こういう手合いは刀治の得意とするところだった。
 ――カァァン。
 スタッフが遅れて試合開始のゴングを鳴らした。
「オラァァァ」
 木刀使いは大上段に木刀を構えていた。
 上から下に振り下ろす最も単純だが最も攻撃的な構えだ。
 刀治が素手だと思って油断してるのだろう。あるいは単に頭に血が上ってるだけかもしれない。いずれにせよ誘われたことに気付かない馬鹿だった。
 ――くい。
 刀治は構える振りをして、その実、指を差したときに木刀使いの脚に巻き付けておいた鋼線を引っ張った。
 指を差したのは挑発と同時、鋼線を投擲する動作を悟らせないためのカモフラージュでもあった。
「おお?」
 バランスを崩した木刀使いは大きくつんのめって攻撃のタイミングを逃してしまう。それに合わせて大きく踏み込む。もうそこは刀治の間合いだ。
 挑発によって単純な攻撃を誘導し、そこへ鋼線によってタイミングを奪う。こうなれば剣道三倍段もクソもない。この瞬間、刀治の一方的優位となった。
「オマエ、喋ってる時間のほうが長かったな」
 木刀使いは大上段に振りかぶったまま。
 防御も、バランスを崩してるから回避もできない。
 刀治は、がら空きの胴体に回し蹴りをお見舞いしてやった。
「がはぁ」
 その一発で終わりだ。
 一声呻くと木刀使いは地に伏せた。
 木刀がカランコロンとアスファルトを転がってく。
 観客は一斉に静まり返っていた。
 あまりに呆気ない、そして不自然な決着に。
「テストは合格?」
「あ、ああ……」
 スタッフは曖昧に頷いた。
「あっそ」
 それだけ確認すると刀治はフィールドから歩み去った。
 観客が、ようやく声を出し始める。
 戸惑いのざわめきだ。
「今、何が起こった?」
「脚がもつれたみたいだったけど?」
「ビギナーズラック? でも、なんだか……」
 鋼線はバレていない。
 バレないほうが都合が良いが、それはそれでつまらない。
 もっと歯応えのあるヤツはいないのか。
 美咲のように。
「……何を考えてるんだ、俺は」
 もう、終わったことだ。
 美咲のことは終わったはずだ。
 なのに、どうして、こうも引きずるのか。
「勝者、ブラックスミス――――――!」
 背後で、ようやく勝者宣言が上がった。
 だからといって、ちっとも気分は晴れなかった。


「キャットボーイ、出番だ」
 スタッフが叫んだ。
 刀治と入れ替わり杏太が出てきた。
 すれ違うとき、刀治とハイタッチしながら、
「先輩、瞬殺はウケが悪いッスよ」
 と杏太は笑った。
「遊びじゃねーんだぞ」
「遊びッスよ」
 そのまま刀治は月子の横に並ぶと観客の一部となった。
 杏太がフィールドに立つと刀治と月子を除く観客は皆一様に色めきたった。なにせ少女と見紛う美少年が戦いの舞台に登場したのだ。
「やだ、あの子、可愛い!」
「ある意味、強敵だ……罪悪感が……」
「いや、ブラックスミスの仲間だから油断できねーぞ」
 杏太は観客に手を振ったりして愛想を振りまいていた。調子に乗ってバク宙を決めては喝采を浴びたり、あっという間にアイドルだ。
 もっとも刀治は、その本性を知ってるから、
「俺よか、よっぽどタチが悪い癖に……」
「刀治だって回し蹴りなんてらしくないじゃん」
「たまには、そういうことだってある」
「うーちゃんのこと?」
 刀治は口をへの字に曲げ押し黙ってしまった。
 だがしかし、月子は喋り続ける。
 空気なんて読まない。
「本当は気にしてるんでしょ、うーちゃんのこと」
「………………」
「納得できないんでしょ? だったら――」
 ――カァァン。
 試合開始のゴングが会話を中断した。
 杏太の相手は大柄な青年。大人と子供の体格差だ。
 大きく盛り上がった肩を突き出すような前傾姿勢だ。
 筋肉の付き方と構え方で格闘家ではないことが窺えた。
 アメリカンフットボールだ。
 あの構え方はアメフトのタックルだ。
 あの大柄な青年は、おそらくラガーマンだ。
「手加減はできない」
 と、ラガーマンは言った。
 次の瞬間、ラガーマンの体が爆ぜた。
 四輪駆動車と張り合えそうな爆発的な突進だった。
 アメフトはフィールドの格闘技と呼ばれる。
 パワーとスピードをフルに活用するテクニックがある。
 全力の癖が体に染みついてるのだろう。
 宣言通り手加減抜きのタックルが杏太に迫った。
「――だったらなんなのさ」
 と刀治は呟いた。
 心配なんてしてなかった。
 スピードだけで言えば杏太は別格だ。
「あはっ」
 ラガーマンが爆発だとすれば。
 杏太は瞬間移動だ。
 消える。
「――――ッ」
 標的を見失ってブレーキを掛けた。
 いない。どこにもいない。
 杏太がいない。
「どこ探してるんスか?」
 背後から声。ラガーマンが体を捻って背後を振り向く。
 同時、杏太はラガーマンと逆方向へ飛び跳ねる。
 そして再びラガーマンの視界から消え、
「こっちこっち」
 ラガーマンから見て瞬間移動も同然だ。
 天才的な足運びに前動作というものはない。
 圧倒的な速度は常人離れした跳躍を可能とする。
「フヒヒ」
 振り向く。消える。振り向く。消える。
 振り向く。消える。振り向く。消える。
 振り向く。消える。振り向く。消える。
「このォ――――ッ」
 ようやくラガーマンは気付いたようだ。
 突進をやめて後方に下がった。そこには壁。
 壁に背を付け背後に回り込まれることを阻止する。
「これでどうだッ」
「だからどうしたんスか?」
 ラガーマンの正面に杏太は現れた。
「真っ向勝負でも構わないッスよ」
「ナメてるのか」
「それじゃ、いちについてぇ――」
「後悔しても知らないぞ」
「――よーいどんっ!」
 杏太の合図で二人同時に。
 ラガーマンは相変わらずタックル。
 杏太は横には跳ばなかった。だが正面に飛んだ。
「な――――――」
 ラガーマンの表情が驚愕に歪んだ。
 高い。そして速い。
 助走なしで、こんな跳躍ができるのか。
 杏太は、できる。
 杏太だけは、できてしまうのだ。
 ――ぐしゃ。
 杏太の膝がラガーマンの顔面にめり込んだ。
 タックルの威力がすべて自分に返ってきた。
 そうでなくても膝蹴りの威力は充分だった。
「っと」
 杏太が、膝蹴りから華麗に着地した。
 ラガーマンは鼻血を吹いて仰向けにブッ倒れた。
 だれがどう見てもわかりやすい杏太の完全勝利だった。
「勝者、キャットボーイ――――――!」
「うおおお、すげえええ!」
「あの子、すごい! すごいすごい!」
「なんださっきのミサイルみたいだったぞ!」
 観客は沸いていた。
 刀治と月子を除いて。
 これでテストは合格だ。
「これで、あとはタングラムだ」
 金勘定してるのか、それとも派手好きの性格ゆえか。
 月子はニヤニヤといやらしい笑みを浮かべていた。
 刀治は、口をへの字に曲げて、押し黙っていた。


 昼休み。
 刀治は屋上にいた。
 ベンチでサンドイッチを食べていた。
 優歌も杏太もいない。
 もちろん、美咲もいない。
 一人だった。
 一人になりたかった。
 刀治が負けたという噂は、あっという間に広まったが、クラスメイトが話しかけてこないのは意外だった。しかしてそれは居心地の悪い反応だった。
 刀治が負けるなんて思っていなかったような、そんな雰囲気が教室に蔓延していた。まるで、刀治が勝つことに、みんな期待していたようだった。
 やめてくれ、と思う。まだ、からかわれていたほうが対処がラクだった。気遣うような空気がいたたまれなくて、それで屋上に逃げてしまった。
「俺は……」
 俺は、強くないんだ。
 勝てるもんだったら勝っていた。
 そこまで考えたところで自分の感情に気付いた。
「俺は、勝ちたかったのか――」
 当たり前といえば当たり前のことだ。
 喧嘩は勝ちたい。
 負けてもいいなんて思う男はいない。
 勝ち目がなくても勝ちたいものは勝ちたいのだ。
 それは人間の、いや生物の本能だ。
 目の前に敵がいたら、だれだって勝ちたい。
 生きるために、生物は、そういうふうに出来てるのだ。
 それが突き合うだの付き合うだの色々変な要素が介入したせいでごちゃごちゃになってわからなくなっていた。
 単純に考えてしまえば「勝ちたい」の一言で済む。たったのそれだけのことがわからなくて、うじうじと悩んでいたのだ。
「――でもなぁ」
 だからといって勝てるかどうか、それはまた別の話だ。
 勝ったと思った。
 完膚無きまでに負けた。
 本気で戦って本気で負けたのだ。
 手は使い果たした。いや、まだ見せていない手もあるが、どれもこれも似たり寄ったりだ。こんなのでは、いくら小細工を弄しても見破られてしまうだろう。
「強すぎるんだよなぁ」
 何度、頭の中でシミュレートしても負ける。
 全般的に強い。
 隙を作るための隙もない。
 小細工は、どれもこれも突破される。
 相性が悪かった。
 そもそも、刀治は弱い。
 優れてるのは知略の一点のみだ。
 小細工で誤魔化してるが単純な力量では振られ隊の面々にも劣る。その小細工が効かないとなると丸裸にされたも同然だ。かといって強くなる時間も、そして才能も持ち合わせていなかった。
「俺、弱いなぁ」
 それは、ほとんどコンプレックスに近い感情だ。
 才能は存在する。
 それは厳然たる事実だ。
 そして刀治には才能がなかった。
 弱い。
 だから頭を使う。
 知略を駆使してだまくらかす。
 もっとも、それは卑怯と言われることだし、刀治も、これは卑怯だと思ってる。だから、このコンプレックスは治らない。刀治だって、本当は、真っ正面からやり合いたいのだ。
 けど、そうしたら負ける。
 勝つためには、これしかない。
 そして、これが通用しないとなると、もう、どうしようもない。もう、諦めてしまおうか、という理性の囁きに、反論できる材料が残ってない。
 勝ちたいという感情に気付いたところで、それも美咲が相手では、諦めるという次のステップに進むための材料にしかならなかった。それはそれで気持ちは落ち着いてきたが、
「ままならねーなー、っと」
 刀治はベンチから立ち上がった。
 サンドイッチも食べ終えたし、そろそろ教室に戻ろう。いつまでも避けていちゃ、クラスメイトも、この状態に慣れてくれないだろうし。
 ――ガチャ。
 そのとき、校舎と屋上を繋ぐ扉が開いた。
 扉を開けた人物は刀治を見付けると、ころころと笑った。
「あ、いたいた」
 腰まである長髪と気の強そうな瞳。髪も染めてないしスカートの丈も短くしてない、上品そうな身形なのに、どことなく一筋縄ではいかない雰囲気だ。
「蒼馬刀治くん、だよね?」
 天音香純。
 神城探偵事務所のターゲット。
 春原高校生徒会長にしてSFCランキングトップ“レリエル”。
 ――ガチャン。
 後ろ手で彼女は扉を閉めた。
 逃げ道はなくなった。あのときのように。
「俺に何の用ですか」
「ヤだなー、そんなに警戒しなくてもいいじゃない?」
 個人的な面識はないはずだ。
 どうして刀治の名前を知ってるのか。
 神城探偵事務所のことがバレてるのだろうか。
 探り合いはごめんだ。
「SFC」
「神城探偵事務所」
 直球で返された。
 刀治は頭をぐしゃぐしゃと掻いた。
 想定外の事態だ。それも、かなり厄介な事態だ。
「全部、バレてるってことか」
「お父様のメールの履歴を見たから」
「パスワードくらいかけておけよ……」
「私の誕生日だったけど?」
 お父様、駄目駄目だ。
「……それで? 俺を潰しに来た?」
「だから、そんな警戒しなくていいってば」
「この状況で警戒しないヤツがいたらソイツの前世はステラーカイギュウだ」
 ステラーカイギュウとは警戒心が皆無だったせいでハンターに乱獲され、発見からわずか二七年で絶滅に追いやられた、世にも可哀想な絶滅動物である。ちなみにジュゴン目ジュゴン科。
「神城探偵事務所もSFCも関係ない、私は、蒼馬刀治個人に興味があるの」
「俺に?」
「百人斬りと付き合ってたんでしょ?」
「昨日、振られたけど」
 美咲に用がある、ということだろうか。
 それにしては様子がおかしい。
 なんだか、嫌な予感。
「だから今日来たの。やっぱ他人の彼氏に手を出すのって気が引けるじゃない? 昨日二人が別れたと聞いて、これで気兼ねなく手を出すことができると思って――」
「落ち着け、俺は弱いぞ?」
 一応、予防線を張ってみた。
 しかし香純は、
「――今度は、私と突き合ってみない?」
「やっぱ潰しに来たんじゃねーかッ!」
 美咲と同類だった。


 ――タンッ。
 と、香純の脚が軽やかにアスファルトを蹴った。
 美咲と同じだ。
 問答無用で突き合いだ。
 逃げ道はない。あのときのように。
 わざと負けてもいい。
 そのはずなのに、やっぱりだ。
 やっぱり、勝ちたいと思ってしまうのだ。
「やるっきゃねーか」
 打算も働いた。
 ここで手の内を見ておけば。
 あとで神城探偵事務所の仕事がやりやすくなる。
 ――ダンッ。
 と、刀治は一歩前に踏み込んだ。
 重心は低い。
 格闘技の足運びだ。
 やってやるという意思表示だ。
 ――カキン、カキン。
 懐から、伸縮式トンファーを抜いた。
 トンファーでやり合う。
 と、見せ掛けて、実は浅く握ってる。
 トンファーを囮にして、まずは拳風を見極めてやる。
「いくよっ」
 威勢良く香純が叫んだ。
 重心が高い。
 格闘技の足運びではない。
 重くない、速いだけの掌底が伸びる。
 これを掌底と言っていいのか。
 ほとんど素人が突き飛ばそうとするような。
 簡単に防御して、簡単に反撃できる、そんな攻撃だ。
 とはいえ香純はSFCのランキングトップだ。
 一〇八戦全戦全勝という数字は伊達じゃないはずだ。
 わざと隙を作って誘ってるんじゃないか、と疑ってしまう。
 速いことには速い。
 完全に回避するのは難しい。
 トンファーを囮にする必要がある。
 ――トンファーを囮にして回避するべきか。
 ――トンファーを捨てずに防御するべきか。
 常識的に考えれば後者だ。
 だけど、刀治は、慎重を期して前者を選択した。
 当初の予定通り、トンファーを浅く握って、浅く打ち込む。
 ――バンッ。
 トンファーと掌底が激突する。
 次の瞬間、トンファーは弾かれたように吹っ飛ばされた。
(なんだ――?)
 有り得ない威力だ。
 まともに防御したら腕ごと持ってかれた。
 速いだけの掌底のはずなのに、ローキックみたいに、強力無比。
「ふふふ」
 と、香純が笑う。
 刀治の混乱を楽しむかのように。
「チィ――ッ!」
 一応、回避は成功した。
 刀治のほうが次の手を早く打てる。
 逆の手のトンファーを、今度は、おもいきり打ち込む。
 ――バンッ。
 手のひらで受け止められた。
 しかも刀治の腕のほうが痺れる始末だ。
 鍔迫り合いの状態で、刀治は、香純に問うてみた。
「どういう手品だ、オイ」
「発勁みたいなもんかな?」
 ますます有り得ない。
 発勁とは本来合理的な身体運用による技だ。
 漫画みたいに気を爆発させるとか、そんな技ではない。
 素人目には気が爆発したり、不思議な力な働いてるように見えるかもしれないが、実際には、至近距離でも十二分に体重を乗せて打ち込んでるだけのことだ。
「冗談じゃねーぞ――」
 香純のそれは刀治の知る発勁ではない。
 体重が乗ってない。
 重くない、速いだけの掌底だ。
 火薬でも仕込んでるんじゃないかと疑ったくらいだ。
 漫画に出てくる発勁みたいに気を爆発させるとか、不思議な力を操ってるとか、そういうことでもないと説明できない未知の攻撃だった。
 ――バッ。
 と、後方に飛んで、一旦距離を取る。
 得体の知れない技だ。
 かといって対処法がないワケじゃない。
 間合いに入らなければいいという、それだけの話だ。
「手品だったら、俺も、使えるんだ――」
 トンファーを仕舞う。
 かわりに鋼線用のグローブを両手にはめる。
 鋼線の先端に、手の平に収まるくらいの鉄球を括り付ける。
「――流星錘」
 正確には流星錘とは微妙に違う代物だが、適当な名前を思いつかないので、そのまま流星錘と呼んでいる。ちなみに流星錘とは元々は中国の武器だ。
 美咲には見せてないが、もったいぶったワケじゃなくて、美咲とは相性が悪いと判断したからだ。美咲なら、鉄球をキャッチして、こっちに投げ返しかねない。だから使わなかった。
 ――ヒュン、ヒュン、ヒュン。
 と、鉄球を振り回して、制空権を誇示する。
 両手で、それぞれ一個ずつ鉄球を振り回してる。
 精度は落ちるものの最大で八個まで鉄球は増やせる。
「さあ、どうする、発勁使い」
「実は私、発勁だけじゃないんだ」
「なに?」
「縮地って知ってる?」
 ――ズダンッ!
 と、香純の足下が爆ぜた。
 そして次の瞬間、刀治の目の前で接近していた。
 制空権もクソもない。
 デタラメなスピードで急接近された。
 鉄球の間隙を弾丸のように突破しやがったのだ。
「馬鹿な――!」
「これが私の縮地」
 刀治の知る縮地ではない。
 縮地とは本来精密な体捌きを指す。
 杏太のやってることが、その意味で正しい縮地だ。あれは動作の溜めを作らないことによって行動の発生を相手に悟らせず、まるで瞬間移動したかのように錯覚させている。
 香純の、この縮地は、たぶん、あのインチキみたいな発勁を足元で使ったのだろう。よっぽど器用な手品だ。あのインパクトで超加速した。そんな使い方ができるとは思ってもいなかった。
 ――ズンッ。
 浮遊感と、そして。
 体の芯まで伝わるような衝撃。
 香純に吹っ飛ばされたのだと理解した。
 だが、しかし、
(なぜだ?)
 衝撃は肩から伝わった。
 香純は、肩に掌底を叩き込んだのだ。
 急所を攻撃する絶好のチャンスだったにもかかわらずだ。
 アスファルトをゴロゴロと転がる。
 受け身を取って頭を守ることには成功した。
 頭から落下したら、それだけで失神も有り得るのだ。
(ナメやがって)
 立ち上がる。
 骨は折れてないようだ。
 多少痛むが、この程度なら問題ない。
「どうして、さっきのでケリをつけなかった?」
「不意打ちで勝っても面白くないじゃない」
「ああ、そうかい、そういう手合いか」
 戦闘狂め、と心の中で呟く。
 だが、それにしても強い。
 美咲とは、また違った強さだ。
 発勁も縮地も、どっちも厄介極まる。
「まだ秘密道具隠し持ってる?」
「ううん、だからもう油断しないでよ?」
「そうかそうか――」
 手品のタネはわからないまま。
 だが、とりあえず情報収集は完了したということだ。
 それはそれとして、
(参ったな)
 分かったのは、美咲並みに強いということだ。
 能力に偏りがある分、美咲より、まだ攻略しやすそうだが、
(強すぎる)
 神城探偵事務所の仕事もある。
 なんとかして、勝ち目を見付けたいが。
 香純が強すぎるせいで、勝ち目が、見付からない。
 ――ヴヴヴヴ、ヴヴヴヴ。
 そのとき、マナーモードにしていた携帯電話が震えた。
「電話取っていい?」
「どうぞ」
 戦闘中断を認めてくれた。
 ポケットから携帯電話を取り出す。
 液晶画面には杏太の名前が表示されていた。
「もしもし」
「先輩いまどこスか?」
「屋上だけど」
「チャリの鍵返して欲しいんスけど」
「そういや借りっぱだったか」
「屋上行くんで待っててくださいッス」
「オッケー」
 電話を切る。
 そして心の中で呟く。
(スケープゴート、ゲット)
 とりあえず、この場は逃げるが勝ちだ。
(いや、待てよ?)
 ふと、思いついた。
 単純な足し算だ。
 一人で勝てなければ、二人。
 刀治と杏太の二人掛かりであればどうだ?
(杏太だけじゃ足りない)
 二人で勝てなければ、三人、四人と増やしたらどうだ?
(けど、もっと手数を増やせれば)
 勝ち目が見えた。
 香純と、そして美咲に。
 美咲にだって勝てるかもしれない。
 まだ諦めるのは早い。
 勝つためならなんだってしてやる。
 まだ、そのすべてをやり尽くしてないと気付いた。
 この場は逃げるとして。
 あとでプランを練ってみよう。
 杏太が来るまで、ここは時間稼ぎだ。
「待たせたな」
「それじゃ、戦闘再開――」
「待った。そのまえに一個聞きたい」
「なに?」
「アンタも、自分より強い男と付き合いたいってクチ?」
「ううん、自分と同じ趣味のヒトがいいってだけ」
「同じ趣味って、ほかに趣味はないの?」
「コスプレ」
「マジッスか」
「だから実はコスプレイヤーでも良かったりする」
「そっちで探せ、そっちで」
「それが、私の好きなのドマイナーなジャンルでさ――」
 香純は案外、天然らしい。
 勝負そっちのけて話に乗ってくれた。
 そんなふうに、どうでもいい会話で時間を潰していたら、
 ――ガチャ。
 と、唐突に扉が開いて。
 スケープゴート、もとい杏太が現れた。
「せんぱーい、チャリの鍵返してくださいッス」
「え?」
 香純が振り返った。
 その隙を逃さず全力ダッシュ。
 香純を抜いて一気に扉の中に駆け込み、
「杏太、後は任せたー!」
 自転車の鍵を押し付けざま、そう叫んだ。
 状況を理解してない杏太を放って階段を駆け下りて、
「え?」
「え?」
 そうして刀治は逃げ切った。
 屋上には、香純と杏太だけ取り残された。
 杏太は混乱したままだが、香純は、落ち着きを取り戻した。
「残念、逃げられちゃった」
「生徒会長? どうして、生徒会長と先輩が――?」
「でも、君も目を付けていたんだよねー」
「なにがどうなってるんスか!」
「天元杏太くんだっけ? 私と、突き合ってみない?」
「え、待っ、うぁぁぁ――――――っ!」


「先輩、助けてッス! 生徒会長もヤバイッス! 生徒会室の奥に秘密の部屋が! って、ああ、そんなの無理! 絶対無理ッスからっ! ちょ、やめ、ひぎぃぃぃ――――――っ!」
 ――プッ。
 刀治は無言で電話を切った。
 窓の外は白い雲、青い空、良い天気だった。
「どこまで話したっけ?」
「杏太くんの悲鳴が聞こえたけど?」
「気のせいだから気にするな気にしたら負けだ」
 まだ昼休みの教室。
 刀治は優歌と話し合ってた。
 周囲に聞かれないように気遣いながら。
「――タングラムまで」
 と、優歌は言った。
 そう、刀治は優歌にタングラムのことを教えた。
 神城探偵事務所の仕事も香純のこともSFCのことも全部だ。
 優歌の協力が必要不可欠だからだ。
 香純と、そして美咲に勝つために。
 協力を仰ぐからには全部説明した。
「つまり、タングラムを乗っ取りたいってこと?」
「そういうことだ」
「んふふ」
 優歌が堪えきれない、というふうに笑った。
 計画を聞き終えた優歌は随分乗り気になってくれた。
 彼女に断られる可能性は、この計画の一番の不安要素だったが、どうやら杞憂に過ぎなかったようだ。刀治が困惑するくらいノリノリの乗り気だ。
「蒼馬は、やっぱ凄いよ、こんなこと考えるなんて」
「協力してくれるのか?」
「当然っ!」
「自分で言うのもなんだが、すっげー卑怯な計画だぞ?」
「恋は盲目って嫌いじゃないから、んふふふ」
「いや、俺は、会長と、それから美咲に勝ちたいだけで――」
「喧嘩に勝ちたいってだけでここまでする、普通?」
 優歌は、なにやら勝ち誇るように言った。
「生徒会長は、神城探偵事務所のために勝たなくちゃいけないって理由もあるかもしれないけど、うーちゃんは? 喧嘩に勝ちたいってだけでここまですることないでしょ?」
「それは……」
「白状しないと協力してあげないよー?」
「む……」
「さーん、にー、いーち」
 カウントダウンまで始めた。しかも早い。
「あーもうわかった美咲のことは気になる! それでいいだろ!」
「気になるだけなの?」
「そ、そうだ」
「気になるだけなの?」
「う……」
「気になるだけなの?」
 優歌はもっと言わせたいようだ。
 断られたら元も子もない。
 刀治は観念した。
「美咲が好きだ――」
「おおっ」
「――だから勝ちたい。これで、いいか?」
 好きか嫌いか言われたら好きだ。
 ライクとラブのどっちの好きか言われたらラブの好きだ。
 認めざるを得なかった。
 俺は、美咲のことが好きだと。
 優歌の言うとおりだ。
 喧嘩に勝ちたいだけでここまでしない。
 勝ちたい理由はふたつあった。
 単純な理由が、ふたつ混ざっていたのだ。
 喧嘩に勝ちたい。それも、事実だ。
 好きな子に振り向いて欲しい。それも、事実だ。
「上出来っ! 安心して、恋する乙女の味方って言ったでしょ?」
「ン? どういう意味だ?」
「うーちゃんも刀治のことが気になってんのよ。というか好き」
「それは――」
 刀治は追求しようとしたが、
 ――キーンコーンカーンコーン。
 と、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。
 だから刀治は会話を切り上げて、
「それじゃ、よろしく」
 と自分の席に戻ろうとした。
 が、ちょっと待って、と優歌が引き止めた。
「うーちゃん、まだ、だれとも突き合ってないの。だからがんばろうね、タングラムジャックっ!」
 それで充分だった。
 授業前の喧噪に呑み込まれる。
 自分の席に戻り際、刀治は優歌に手を振った。
 いや、拳を。
 握り拳を振り上げた。
 らしくないが、悪い気分ではなかった。


 夜。
 神城探偵事務所のプライベートルーム。
 刀治は、タングラムに持っていく道具を点検していた。
 プライベートルームは入って右手に台所と風呂と便所、正面にクローゼット、左手にシングルベッドが二つ並んでる。
「――と」
 そのクローゼットが解放されていた。
 ハンガーに掛かった服が左右に押しやられてる。
 奥にある、様々な道具の収納された隠し棚が露出していた。
 神城探偵事務所の武器庫だ。
「こんなもんか」
 道具を点検し終え、刀治は、学生服を羽織った。
 一見普通の学生服だが、刀治の改造によって、タクティカルベストのような仕組みになってる。あて布によって多少、防御力も向上している。まあ、これは副次的な効果だが。
「フンッ」
 と、気合を入れると。
 伸縮式トンファーを一瞬で抜き出し、
 ――ヒュバババ!
 シャドーボクシングするようにトンファーを連続で放つ。
 取り回しの確認だ。
 道具を仕込み過ぎると当然動きにくくなる。
 適切な道具を取捨選択することでバランスを維持しているのだ。
 用意は万端だった。
「やってやる」
 刀治は呟いた。
 足りない分は頭で補う。
 その際、一番必要なのは実は覚悟だ。
 常識や良心、正義感。
 そういったものが行動を阻む。
 そこまでしなくてもいいんじゃないかと。
 だがら、覚悟が必要になる。
 不意打ちでも卑怯でも何でもいい。
 俺は、絶対に勝たなくちゃいけないのだと。
「美咲に、勝つ」
 刀治は、覚悟を決めた。


「マスター! おかわりぃ!」
「月子さん、飲みすぎですよ」
 神城探偵事務所に月子の姿は見えなかった。
 では、どこにいるのか。
 それは駅前にあるショットバー「dust to dust」だ。
“土は土に、灰は灰に、塵は塵に”を店名に冠してるだけあって落ち着いた佇まいの店だ。そのなかで、ぐでんぐでんに酔っ払った月子は迷惑な客以外何者でもなかった。
「いいの! 前祝いなの!」
「何か良いことでもあったんですか?」
 マスターは、月子の気を酒から逸らすために聞いてみた。この店で月子は常連だから、その扱いは慣れたものだった。
 酔っ払った月子は、舌っ足らずな口調で、
「引っ張ってた仕事が片付くの! お金が入るの!」
「へえ、それはよかったですね」
「マスターも祝ってよぉ!」
「私にできることであれば」
「マスター結婚して!」
「できません」
 無茶振りにもかかわらずマスターは即答した。というか、酔っ払った月子が結婚してと言い出すのもいつものことなので、これも慣れたものだった。
「マスター! おかわりぃ!」
「月子さん、飲みすぎですよ」
 月子は、いつものように自棄酒に突入した。


「うーん、うーん」
 神城探偵事務所の最後の一人、杏太は悪夢にうなされていた。
 夢の中では、優歌と香純が両方現れて、
「赤マントがいい?」
「青マントがいい?」
 と、怪人赤マントみたいな選択を迫られていた。ちなみに怪人赤マントとは昭和初期の、どっち選んでも殺されるという理不尽な都市伝説だ。
「赤マント、プレゼントしてあげる」
「青マント、プレゼントしてあげる」
 優歌と香純は赤マントではないので殺されることはないが、どっちを選んでも貞操の危機であることは間違いなかった。そのことは夢特有のご都合主義で理解できた。
 そして、
「どっちにしよう……」
 杏太は、なぜか、ちょっぴり嬉しそうだった。


「もしもし? 優歌だけど――」
 優歌は、その頃、電話して回っていた。
「――というわけで、この場所に来て欲しいの。バイトがあるって? うーちゃんとバイトどっちが大事なの? お金のほうが大事っていうの? でしょ? 振られ隊はそうでなくっちゃ!」
 優歌は、自分に課せられた役目を着実に遂行していた。


「どれにしよっかなー」
 香純は、クローゼットの前で下着姿で仁王立ちしていた。
 神城探偵事務所と違って普通のクローゼットだ。ただし、コスプレが趣味だけあって、やたらめった服が詰め込まれてる。
 それらを一着ずつ引っ張り出して、着込んでは鏡の前でポーズを取って、また違う服を選んでを何度も何度も繰り返してる。
「制服が一番良いのかなー」
 香純は、タングラムに着ていく服を考えあぐねていた。


「すー、すー」
 美咲は眠っていた。
 枕元には充電状態の携帯電話が置いてある。
 携帯電話には、まだ刀治と撮ったプリクラが貼ってあった。
「……刀治……くぅん……」
 美咲は、夢の中で刀治の名前を呼んだ。


 そしてタングラム、当日。
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