第五章
春原駅前再開発地区。
と、いうのが正式名称である。
もっとも、その存在は忘れられて久しい。
駅前というわりに駅から離れてるし、なにより肝心の再開発計画が頓挫してる。だから解体途中や建設途中のビルやマンションがまぜこぜになった、ちょっとしたゴーストタウンの有り様だ。
だから、
『ウェルカァァム・トゥ・ザ・タングラァァ――――ムッ!』
真っ昼間からこんなことやっても、だれも気付かない。
各所に設置されたスピーカーから少女の声。
腹の底から絞り出すような声が会場を盛り上げる。
彼女の声に呼応して、そこかしこから歓声が上がってる。
『オマエらァ、最強を見たいかァ――――ッ!』
「「オオ――ッ!」」
『勝負は時の運ッ! 今日の勝者が明日の敗者ッ! だがしかァァしッ! それでも勝ちは勝ちッ! 最強は最強ッ! 本日限りの最強を決めようじゃないかァァ――――ッ!』
「「オオオォォ――――ッ!」」
そこは、廃病院だった。
何科の医院だったか今となっては知る由はない。
適度に大きくて、適度に綺麗だったから、会場に選ばれた。
ここが、タングラムの会場だ。
選手は全員廃病院の中、廃病院の外には観客。
カメラによる中継もあるが、やはり会場に足を運ぶ者は多い。
選手は総勢一〇八人。
そのなかに蒼馬刀治と天元杏太の姿もあった。
刀冶は学生服だが、髪をオールバックにしてるため、好戦的な眼光を放つ双眸が露わになってる。まるで飢えた狼のような、いつもと違って凶悪な雰囲気だ。
対して、杏太は、なんとメイド服を着せられていた。それもミニスカートのメイド服だ。そもそも女子と見紛う容姿の持ち主だから、ますます性別が分からなくなる。
「……どうしてボク、こんな格好なんスか」
「男だろ、細かいことは気にすんな」
「女の格好なんスけど」
杏太は、スカートの丈が気になるようだった。
『準備運動は済ませた? 朝飯食った? トイレは? 保険証持ってきた? 金玉蹴り上げられる覚悟はオッケー? 私女だからよくわからないけどっ!』
下品な物言いに、どっと会場が沸く。
『女といえば、レリエルッ! 不動の一位ッ! 同性として痺れる憧れる強すぎるゥ! 今日こそ彼女を倒す大番狂わせはあるかッ! 今日も彼女に大注目だッ!』
ある、と刀治は思う。
大番狂わせを起こすために。
そのために、刀治はここにいるのだ。
タングラムを乗っ取って。
最強の香純と、そして美咲に勝つ。
『さァァてSFCスペシャルイベント“タングラム”ッ! いよいよ開始だッ! 最強は一人ッ! いくぜェ野郎共ッ! 最後の一人になるまで戦い抜けッ! レディィィ――――』
その瞬間、会場が静まり返る。
観客は固唾を呑み、選手は身構える。
静寂の中、緊張と興奮、期待が最高潮に達し、
――――カァァァァンッ!
と、スピーカーからゴングの音が高らかに鳴った。
『――――ファイッ!』
その瞬間、歓声と打撃音。
『ポストマン、ダウゥゥ――――ンッ! ドラゴンカイザー、エージェントスミス、マスターハルハラ、ダウンダウンダウゥゥゥ――――――ンッ!』
と、実況が叫ぶ。
これは、刀治も予測していたことだ。
開戦直後が一番脱落者が多い。
出会い頭の激突で次々脱落していく。
まずはこの混戦を勝ち残らなければいけない。
「杏太、合わせろよ!」
「ッス!」
廃病院の廊下。
刀治と杏太が駆け抜ける。
目の前に掴み合ってる選手が、二人。
「気を付けろッ! メイドだッ!」
「ふざけるな――って本当にメイドォ!」
刀治と杏太に気付いた二人は、掴み合いを中断。
迎撃するために共同戦線を張る。
二対二の構図だ。
だが、所詮は即席のコンビネーションだ。
「邪魔だッ」
刀治が突っ込んだ。
伸縮式トンファーを抜き出し、
――ズンッ。
と、手前にいた一人の鳩尾に叩き込む。
即席のコンビネーションだから、刀治の奇襲を、どっちが迎撃するのか意思疎通できていなかった。お互いに遠慮して身動きがとれず、そのせいでやられてしまうのだ。
一方、刀治と杏太は違う。
神城探偵事務所の戦友同士である。
杏太は、刀治の意図を的確に汲むことができる。
刀治の背中を踏み台にして、
「イィィヤッハァァァ――――――ッ!」
杏太が跳んだ。
高い。
天井に頭が届きそうなくらい、高い。
そのまま刀治と、刀治が倒した一人目を飛び越えて、
「縞パ――」
高低差があるため、ほとんどローキックみたいに打ち下ろして、なにか言おうとした二人目に回し蹴りを決めた。そして着地も決める。ふわりと舞い上がったスカートの下は縞模様だった。
「次行くぞ」
「ッス」
初戦を生き残ったら、次の目的だ。
刀治と杏太は再び駆け出した。
『初っ端から脱落者続出ゥゥ――――ッ! それにしてもレリエル選手強いッ! 強すぎるッ! ランキングトップは健在だァ! だれか彼女を止めろォォ――――ッ!』
――ヴヴヴヴ、ヴヴヴヴ。
そのとき、マナーモードにしていた刀治の携帯電話が震えた。
廃病院の外で待機してる神城月子からの着信だった。
周囲を警戒しながら素早く電話を取る。
「刀治、ターゲットは二階中央階段付近だ」
「了解」
そして素早く切る。
杏太にも電話の内容を教える。
「ターゲットは二階中央階段付近だ」
「中央階段ってどこスか?」
「真っ直ぐ行って右のはずだ」
廃病院のあちらこちらで勝負が繰り広げてる。
雑魚に興味はない。
最強を目指してるワケじゃない。
香純と、それから美咲に勝てればいいだけ。
だから刀治は、それらを全部無視して、とばっちりを受けないようにすることだけ気を付けて、二階中央階段を目指して一気に駆け抜けていく。
『ブラックウィドウ、ダウゥゥ――――ンッ! バタフライ、ダウゥゥ――――ンッ! おーっとアッシュ、オメガ、ダウンダウゥゥゥ――――――ンッ! 相打ちだ――――ッ!』
杏太の姿は消えている。
杏太には杏太の役目がある。
それから、優歌だ。
優歌が役目を果たしていれば、そろそろ約束の時間になる。
そのまえに香純を捕まえておかなければならない。
だから刀治は走るペースを上げた。
『マッドガッサー、ダゥゥ――――ンッ! そろそろペースが落ちてきたところで自己紹介いってみようかっ! 主催者のダリッタですっ! よろぴくねーっ!』
と、スピーカーから聞こえた。
主催者とは、SFCの主催者という意味だろうか。
だとすれば彼女は、ある意味、刀治の敵。
というより、刀治が敵だ。
刀治は、これからタングラムを乗っ取るのだから。
「――見付けたぜ、レリエル」
二階中央階段に辿り着いた。
かつて何科の受付だったのだろう。
廊下よりも、そこは格段開けた空間だった。
余計な物は片付いてる。
片付けられない区画は封鎖されてる。
危険な事故が起こらないようにするための配慮だった。
そこに、天音香純はいた。
香純は、いつもの学生服。腰まである長髪と気の強そうな瞳。上品そうな身形だが、その正体はSFCランキングトップ“レリエル”であることは、ここにいるだれもが知っている。
大勢に取り囲まれてるが、まるで不利には見えない。たとえるならライオンと仔猫の戦いだ。それくらい実力に差がありすぎて、その他大勢は攻めるに攻められないといった構図だ。
そこに、
――バシュッ! バシュッ!
と、問答無用でワイヤーネットを打ち込んだ。
「うおおッ!」
「なんだこりゃあッ」
「くそッ! 絡まってッ!」
余計な戦闘を避けるため、ワイヤーネットの射出装置を左右の袖の下に仕込んでおいたのだ。
ワイヤーネットは放射状に広がり、香純を取り囲んでいたその他大勢をまとめて絡め取った。
香純は、もちろんワイヤーネットを避けていた。
あの、縮地とやらを使って、射程距離外まで一瞬で移動した。
「遅かったじゃない、ブラックスミス」
「仕込みに時間が掛かってな」
「仕込み?」
「ま、見てなって」
と、携帯電話を出す。
約束の時間だ。
香純は、
「ん?」
と、小首を傾げたけど、止めようとはしない。
何を企んでるのか興味津々といった様子だ。
「なにをするの?」
「電話」
そして宣言通り電話を掛ける。
「蒼馬、どこにいる?」
「二階中央階段」
「了解」
そして通話を切る。
「なにをしたの?」
「タングラムジャック」
「え?」
「タングラムを乗っ取る」
『ブラックスミス選手、ワイヤーネットッ! ワイヤーネットを使った――ッ! ルールには抵触していないが、これは卑怯ッ! けど面白いから良しッ! いいぞ、もっとやれッ! って、あれ――』
そのとき、主催者が異変に気付いた。
ダリッタと名乗った主催者が、困惑の声を上げた。
『――ちょっとちょっと、なにあれ? あれあれ、あれ、なんの集団? 春原高校? 乱入? 乱入上等だけど、って、うわ、なになに、なにすんの、うわわわ、と、飛んだァァァ――――――ッ!』
実況と同時、
――パリィィィンッ!
と、廃病院二階の窓硝子が砕け散った。
なにかが、いや、だれかが二階に飛び込んだのだ。
彼女は、ショートボブが快活な印象の女子学生。髪も染めておらず、体も引き締まっており、いかにもスポーツ少女といった風体だ。
手のひらに巻いてるテーピングは彼女の目印。彼女と仲の良い者は「うーちゃん」と呼ぶ。あるいは彼女を畏怖する者は「番長」「道場破り」「百人斬り」等々と。
「――刀治くんっ!」
氏家美咲は、キョロキョロと周囲を見渡して、刀治の姿を認めるや、溢れんばかりの笑顔で叫んだ。
一方、時は少し遡る――
春原駅前再開発地区。
廃墟の建ち並ぶゴーストタウン。
刀治や杏太と同じ道をなぞる人影が、二つ。
まだ、タングラムは始まってない。
だから、ここには何もないし、何も聞こえない。
真っ昼間から肝試しのはずもないし、意図がわからなくて、
「優歌ちゃん、どこいくの?」
と、美咲は、吉井優歌に尋ねた。
優歌は茶髪で、校則違反にならない程度に肩まで髪を伸ばしており、ナチュラルメイクだけど化粧もしてるから、いかにも最近の若者という風体だ。
「いいところ」
優歌は、その一言だけしか返事を返さなかった。
けど、なんだか楽しそうで、なんだか声が弾んでるから。
どこでもいいや、なんて美咲は思ってしまった。
もう、刀治と別れてしまったのだし、どこでもいいや、と。
元々、突発的なお出かけだった。
気分転換に出掛けよう、なんて優歌が言い出して。
気を遣わせて悪いなと思うと、それ以上追求はできなかった。
「このへんのはずなんだけど……」
と、優歌が呟いた。
よく見ると、廃墟に、落書きがされている。
“タングラム”という文字や矢印などが書いてある。
それらの矢印は、どこか一箇所を指しているようだった。
「……もう時間も、もうすぐだし」
優歌は、携帯電話で時刻を確認していた。
時間、というキーワード。
なにかが始まるのだと美咲にも想像できた。
なにかは知らないが、そのなにかに自分を連れて行きたいのだと。
なんだろう、と思う。
なんでもいいや、と思う。
どうせ、刀治と別れてしまったのだし、と。
『ウェルカァァム・トゥ・ザ・タングラァァ――――ムッ!』
すると突然、大きな声が聞こえた。
スピーカーで拡張された、とても楽しそうな声。
「あっち!」
その声が聞こえるや、優歌が、美咲の手を引いて走り出した。
「なに? なにがあるの?」
「蒼馬が待ってる!」
「――――――」
その一言で充分だった。
無粋な疑問は全部吹っ飛んだ。
心臓が脈打って。
全身に力が漲ってくる。
刀治が。
刀治が待ってる。
『オマエらァ、最強を見たいかァ――――ッ!』
と、また、スピーカーで拡張された声が聞こえてきた。
「刀治くんっ!」
圧倒的な力の差を見せつけたのだ。
まともにやり合ったら刀治に勝ち目はないのだ。
なのに、あの刀治が仕組んだというのだ。
なにかとんでもないことをたくらんでるに違いない。
それを考えるだけでドキドキが止まらない。
『勝負は時の運ッ! 今日の勝者が明日の敗者ッ! だがしかァァしッ! それでも勝ちは勝ちッ! 最強は最強ッ! 本日限りの最強を決めようじゃないかァァ――――ッ!』
美咲は走り出した。
先導していた優歌を追い越して。
優歌を引きずらんばかりの勢いで全力疾走。
「うーちゃん、速い! 速いって! 私引きずってるって!」
というか本当に引きずってた。
『準備運動は済ませた? 朝飯食った? トイレは? 保険証持ってきた? 金玉蹴り上げられる覚悟はオッケー? 私女だからよくわからないけどっ!』
やがて人が大勢集まってる場所が見えてくる。
なんだかお祭りみたいだ。
それにしては熱気の質が違う。
リングの間近にいるかのような熱気。
「削れるぅ! 私削れちゃうからうーちゃん止まってぇぇぇ!」
ズザザザと引きずられてる優歌は死にそうだった。
『女といえば、レリエルッ! 不動の一位ッ! 同性として痺れる憧れる強すぎるゥ! 今日こそ彼女を倒す大番狂わせはあるかッ! 今日も彼女に大注目だッ!』
辿り着いた、そこは廃病院だった。
美咲は、そこでようやくブレーキをかけた。
廃病院の周囲がぐるっとテープで囲まれて、そこに人が詰めかけてる。廃病院の中にも人がいるのが見える。雰囲気から、廃病院の中が、戦いの舞台だとわかった。
「優歌ちゃん、ここに、ここに刀治くんがいるの?」
「……ごめん、ちょっと待って。いま私西部劇で馬に引きずられた人みたいなことになってるから。お願いだから休ませて」
散々引きずられた優歌はボロボロだった。
『さァァてSFCスペシャルイベント“タングラム”ッ! いよいよ開始だッ! 最強は一人ッ! いくぜェ野郎共ッ! 最後の一人になるまで戦い抜けッ! レディィィ――――』
その時、廃病院が静まり返って、
――――カァァァァンッ!
と、スピーカーからゴングの音が高らかに鳴った。
『――――ファイッ!』
「「オオオォォ――――ッ!」」
歓声と打撃音。
始まった。
戦いが始まったのだ。
美咲は闘争の空気を感じ取った。
『ポストマン、ダウゥゥ――――ンッ! ドラゴンカイザー、エージェントスミス、マスターハルハラ、ダウンダウンダウゥゥゥ――――――ンッ!』
刀治は。
刀治はどこにいる。
嫉妬に似た感情が美咲を支配する。
自分以外の人と戦って欲しくないという気持ち。
「――刀治くんっ」
美咲は焦って廃病院に突入しようとした。
けど、そのまえに復活した優歌に引き止められた。
「待って、落ち着いて、うーちゃん」
「優歌ちゃん、離してっ! 刀治くんが戦ってるのにっ!」
「その刀治くんの指示なんだから落ち着いてって」
ぴたり、と美咲の動きが止まる。
「刀治くんの?」
「うん」
「わかったっ! 待ってるっ!」
刀治の名前を出した途端、飼い主に「待て」と言われた犬みたいに素直になった。尻尾があったら絶対振ってる。まだかな、まだかなと期待に満ちた顔だ。
それを見て、優歌は、
「蒼馬、羨ましいなぁ……」
と微笑んだ。
「なに?」
「なんでもない」
優歌は携帯電話を出して電波状態を確認した。
アンテナは三本立ってる。
電波状態は良好。
「蒼馬から連絡が入るまで、それまで待ってて」
「うんっ」
そして美咲は待った。
ここが何なのかも知らない。
でも、そんなことはどうだっていい。
優歌もそれを理解していたから、いまさらSFCやタングラムについて説明することはしなかった。美咲の頭の中にあるのは刀治と戦う、それだけだと理解していたからだ。
『ブラックウィドウ、ダウゥゥ――――ンッ! バタフライ、ダウゥゥ――――ンッ! おーっとアッシュ、オメガ、ダウンダウゥゥゥ――――――ンッ! 相打ちだ――――ッ!』
美咲は、拳を握り締めていた。
拳に巻いたバンテージがギリギリと軋む。
『マッドガッサー、ダゥゥ――――ンッ! そろそろペースが落ちてきたところで自己紹介いってみようかっ! 主催者のダリッタですっ! よろぴくねーっ!』
優歌も不安だった。
刀治が先に負けていたら全部台無しだ。
最悪、いつまで待っても連絡が入らないことも有り得る。
(時間だ)
約束の時間が迫ってくる。
一見平気そうだが優歌も緊張していた。
携帯電話の時刻を見つめる。
あと五秒、四秒、三秒、二病、一秒、
――トゥルルルルルル、トゥルルルルルル。
刀治だ。
時間ぴったりだ。
優歌は即座に通話を開いて、
「蒼馬、どこにいる?」
「二階中央階段」
「了解」
そして通話を切った。
「優歌ちゃんっ!」
「刀治は二階中央階段っ! そしてェ――ッ!」
優歌は手を高々と掲げた。
彼女の役目は美咲を連れてくるだけではない。
もうひとつ、もうひとつの役目が、この合図で発動するのだ。
――パチンッ!
優歌が指を鳴らした。
と同時、聞き慣れた掛け声が上がる。
「我らッ」
「うーちゃんにッ」
「振られ隊ッ」
観客の中に紛れ込んでいた、かれら。
優歌と美咲を守るように円陣を組んでいたのだ。
振られ隊は一斉に上着を脱ぎ捨てた。
その下に着込んでる学生服がユニフォームの代わりだ。
「ど、どうして……?」
さすがの美咲も、これはびっくりする。
そのびっくりした顔だけで振られ隊は満足だ。
なんせ、これで初めて美咲から一本取ったようなものだ。
「露払いは我らに任せろッ」
と、かれらは叫ぶ。
「二人の邪魔はさせんッ」
と、かれらは叫ぶ。
「でも、だって、刀治くんは――」
美咲は困惑してしまう。
振られ隊にとって刀治は恋敵だったはずだ。
だのに、どうして振られ隊は協力してくれるというのか。
「我らは拳で語り合ったのだッ」
「強敵と書いて友と読むッ」
「これが男の友情ッ」
なんて、かれらは叫ぶ。
それがおかしくておかしくて、
「変なのぉ」
美咲は、腹を抱えて笑ってしまう。
振られ隊が馬鹿みたいに優しくて笑ってしまう。
『ブラックスミス選手、ワイヤーネットッ! ワイヤーネットを使った――ッ! ルールには抵触していないが、これは卑怯ッ! けど面白いから良しッ! いいぞ、もっとやれッ! って、あれ――』
実況が美咲と優歌、振られ隊に気付いた。
赤いバンダナを巻いたSFCのスタッフをも気付いて、
「あれ、ひょっとして春原高校の百人斬り――?」
と、美咲に、背後から声を掛けた。
そのとき彼女の肩を叩こうとしたのがマズかった。
美咲は、臨戦態勢に入ってたのだ。
無意識のうちに背後から伸びた手を掴んで、
――ズダンッ!
と、見事な一本背負いを決めてしまった。
それを見ていた、ほかのスタッフが騒ぎ始める。
「春原高校っ! 春原高校の百人斬りが乱入してきたぁぁ!」
「スタッフが一人やられたぞっ!」
「ちょっと待て、アレって噂の振られ隊じゃ――?」
スタッフが大勢集まってくる。
だけど、こんなところで時間を食ってられない。
「みんなっ! ありがとうっ! いってくるっ!」
礼を言うや美咲は走り始める。
正面から美咲を止めようとスタッフが迫ってくる。
そのスタッフに跳び蹴りを食らわし、さらに踏み台にして、
――タンッ!
美咲は大きく飛んだ。
「いっけぇぇぇぇぇぇ――――――っ!」
背後から声援が聞こえてくる。
その声に後押しされたみたいに高く高く飛んで、
『――ちょっとちょっと、なにあれ? あれあれ、あれ、なんの集団? 春原高校? 乱入? 乱入上等だけど、って、うわ、なになに、なにすんの、うわわわ、と、飛んだァァァ――――――ッ!』
そうして、廃病院二階に美咲は飛び込んだ。
廃病院の近くにある廃墟。
以前はコンビニだったと思われる。
そこが、SFCのスタッフの詰め所代わりだった。
「――アハハハハハハ! すごいっ! すごいすごいっ! 二階まで飛んじゃったよっ! 石本くん踏み台にしてっ! なにコイツガンダム? ガンダムなの? 俺を踏み台にしたってやつ?」
そこで、ノートパソコンを抱えた少女が大笑いしていた。
ノートパソコンにはカメラから中継された映像が複数窓で表示されてる。そのうちひとつは美咲がスタッフを踏み台にして、窓硝子を割って、廃病院二階に飛び込む様子を、繰り返し再生している。
「しかもこれ百人斬りってマジ? マジで百人斬り? 百人斬りが乱入しちゃった? しかもこれ二階にはレリエルっしょ? レリエルVS百人斬り? なにそれメチャクチャオイシイじゃんっ!」
ケタケタと笑う少女。
その声は、ダリッタと名乗った声だ。
タングラムの実況を務め、そしてSFCの主催者でもある。
まだ若い少女。中学生かもしれない。しかし幼く見えるだけかもしれないから実年齢はわからない。なにせこんな大それたイベントの主催者なのだから中学生とは考えにくい。
ヘッドホンを耳に当てた幼い顔。前髪の揃ったセミロング。ロックバンドのプリントが入ったTシャツを着てるが、サイズが大きすぎて、ワンピースを着てるみたいに見える。
「笑ってないで、どうするんですか、これ?」
スタッフが対応を求めると、ダリッタは、
「乱入上等っ!」
と言って、また笑った。ひとしきり笑い終えてから、
「でも、面子が立たないって、そういうこと言いたいんでしょ?」
「まあ、そういうことです」
「そうだよねー、好き放題され放題はマズいよねー」
「レリエルVS百人斬りはオレも見たいんですけどね……」
スタッフは困った顔で言った。
スタッフも百人斬りの名は聞き及んでる。
裏の最強がレリエルなら、表の最強が百人斬りだ。
SFCのスタッフなのだから当然興味があるカードだ。けれどもSFCのスタッフなのだから運営にも気を配らないといけないというジレンマがそこには見えた。
ダリッタも、うーん、と考え込むが、やがて、
「決めたっ!」
と言うや赤いバンダナを持ち出して出掛ける準備を始めた。
赤いバンダナはスタッフと一般人を見分けるたけの必需品だ。
「ウチらはストリートファイトが見たいんだから乱入者をシメるなんて本末転倒。乱入上等の方針は変えない。百人斬りには手を出さない。振られ隊にも手を出さない。けど、親玉の――」
ノートパソコンの液晶画面を指先で叩く。
そこには振られ隊を指揮する優歌の姿が映ってる。
「――コイツだけシメる。乱入上等だけど部外者の好きにはさせない。それでいいんじゃない? どんなヤツが、こんなことたくらむのか興味あるし」
「ダリッタさんが直接行くんですか?」
「最近運動不足なの、ヒキコモってるから」
ダリッタは、そう言って笑った。
廃病院二階。
刀治と香純と美咲。
正三角形の三竦みの状態だった。
刀治は、とりあえず美咲に挨拶することにした。こういう混戦では間が肝心だ。とりあえずでもなんでも、なにか喋ることで主導権を確保したかった。
「久し振りだな、美咲」
「……刀治くん、そのひとだれ?」
だが。
なんだか美咲は怒ってた。
さっきまで、それはもういますぐ刀治に飛びつきそうな勢いだったのに、いまは滅茶苦茶怒ってる。ものすごいジト目で刀治を睨みまくってる。そして、その原因は、
「………………」
香純に違いなかった。
こっちはニコニコと笑顔だった。
その笑顔が怖い。
強いとか弱いとかじゃなくて。
その笑顔によって繰り広げられるであろう泥沼が怖い。
刀治は主導権を取ることに失敗してしまった。というより、主導権なんてものは、美咲と香純の戦いが、二人が出会った瞬間から始まっていたのだ。
(どうしてこうなるんだ)
予想外の展開に刀治は頭を抱えたくなった。
「美咲さん? 私は天音香純、初めまして」
わざわざ香純は“レリエル”ではなく本名を名乗った。
それは宣戦布告みたいな響きを含んでいた。
というか実際、宣戦布告だった。
――カーン。
刀治の頭の中でゴングが鳴った。
女の戦いが始まった。
「どうして、香純さんが刀治くんと戦ってるの?」
「別に、だれと戦ってもいいんじゃない?」
「だって、刀治くんは、わたしと――!」
「二人は別れたって聞いたけど?」
「……それは、でも、だって刀治くんは!」
「でもとかだってとか言い訳しなくていいから別れたの別れてないのどっちなの? 別れたの? 別れてないの?」
「それは……刀治くんが負けたから……」
「刀治くんが負けたから、なに? はいかいいえで答えて」
「……別れた、けど」
「だったら、私と突き合ってもいいんじゃない?」
「刀治くんは、わたしと突き合うために、ここにいるんだからっ!」
「……ふーん?」
「香純さんなんて噛ませ犬なんだからっ!」
「この私が噛ませ犬? 面白いこと言うのね――?」
「だから、前座なんで、さっさと引っ込んでください――!」
バチバチと二人の視線が火花を散らす。
本当に目からビームが出そうなガンの飛ばし合いだ。
(女って怖い……)
話には聞いていたが、ここまで怖いとは思ってなかった。
「この泥棒猫ォォォ――――――っ!」
「中古の癖にィィィ――――――っ!」
聞くに堪えない台詞と共に戦闘は開始した。
美咲の神速の踏み込み。
香純の縮地による超加速。
開始直後からフルスロットルで、
――バシィッ!
香純の肘鉄を、美咲が受け止めた状態で静止した。
「そんなもので――ッ!」
美咲は、縮地を見るのは初めてのはずだ。
だのに対応してみせた、その圧倒的なテクニック。
純粋なパワーでも美咲は勝っていた。
受け流すことなく、力で、肘鉄をこじ開けようとする。
だが、
「――だったら、これは?」
今度は発勁が来る。
刀治には、それがわかった。
――ズンッ。
理解不能な高出力の一撃が美咲を穿った。
いまだ、その原理は分からない。ここまできたら香純の発勁はそういうものだと思うしかない。漫画に出てくるような不可思議な力によるものだと。そして、香純の発勁をまともに喰らえば――
「ふぅぅぅぅぅぅ――――」
しかし、美咲は倒れていなかった。
位置が後方に下がってるが、たたらを踏んだ様子もない。
耐えきったのだ。
(マジかよ)
たとえば、プロの試合で、ハイキックの直撃を受けても倒れないことはある。だがそれはプロだからこそ可能な荒技。決め技が決まったら倒れるのが当然なのだ。
これには香純もビックリしたようで、
「……すごいタフネス」
と感心したような呆れたような様子だった。
美咲は重心が、ひどく下がっていた。それを見て刀治は、香純の手品とは違う、美咲は本物の発勁を使ったのだと理解した。
勁の力は攻撃ばかりではない。瞬間的に重心を下げることによって擬似的に重量を増し、攻撃を耐える、そういう防御にも使えるのが本物の発勁だ。
もちろん、擬似的に増した重量を攻撃に転化することも可能だ。そうやって十二分に、まさに十分を超えた体重を乗せることによって本物の発勁は高威力を実現しているのだ。
「……そんなこけおどしじゃ、わたしには勝てない」
そう言って、美咲は攻撃の構えを取る。
重心が通常より、さらに低い。
一撃必殺の構え。
と、そこに、
「あのさ」
なんて、刀治が言い出した。
「二人とも熱くなってるとこ悪いんだけど」
その両手の指の間に煙幕弾を四個ずつ握ってる。
「俺のこと忘れてない?」
そして、その計八個の煙幕弾を一斉にばら撒き、
――バフッ。
全部、炸裂させた。
周囲一帯が煙に包まれる。
すると美咲と香純、二人同時に、
「「ちょっと刀治くん、どっちの味方なのっ!」」
返答に困ることを言われた。
「そんなことステレオで言われても、どっちも敵だ――と」
――トォン。
という音が響いた。
軽い音だ。
正体は見えない。
しかも、それが沢山、
――トォン、トォン、トォン、トォン。
なにかが連続して跳ねる音が沢山聞こえ始めた。
「なにこれ?」
と、香純は驚く。
「始まった」
と、美咲は笑う。
「分身の術だ」
と、刀治は言って、そして、
――ジリリリリリリリリリリリリリリリリ!
これは、目覚まし時計だとわかる大音量が流れ始めた。
煙幕によって視覚は封じられた。
目覚まし時計の大音量で聴覚は封じられた。
耳を澄ませば辛うじて聞こえなくもないが、聴覚が馬鹿になってるせいでトォン、トォンという音と足音を聞き分けることができない。まるで本当に分身してるみたいだ。
――ジリリリリリリリリリリリリリリリリ!
――トォン、トォン、トォン、トォン。
この状況で一番緊張してるのは香純だった。
美咲は刀治の手口を理解しているが、香純は、トンファーと流星錘しか知らない。あれだけ校内で派手に暴れ回っていたから噂には聞いていたが、こうして生で見るのは初めてだ。
摺り足で慎重に移動する。
美咲の位置も刀治の位置もわからない。
縮地は使えない。どこに障害物があるかわからないからだ。
――トォン。
と、跳ねたそれが、香純にぶつかった。
それはスーパーボールだった。
カラフルに彩色されたゴム製のボール。非常に弾力が強いのが特徴で、縁日の屋台のスーパーボールすくいでもお馴染みだから、スーパーボールを見たことがないという人はいないだろう。
(なるほど)
分身の術の種は割れた。
煙幕と目覚まし時計とスーパーボール。
弾力が強いと言っても、いつまでも跳ね続けるものではない。そのうち止まるはず。そのまえに刀治は仕掛けてくるはずだ。そうでなければ分身の術の意味がない。
だが、どうやって。
どうやって位置を知るのか。
――ピン。
摺り足を続けていた香純の脚が、なにかに引っ掛かった。
煙幕は薄れつつある。
香純の目が、その正体を捉えた。
(いつの間に――)
それは鋼線だった。
鋼線が足元に張り巡らされてる。
香純は、刀治の触覚に触れてしまったのだ。
(――来る!)
ほとんど勘で横に跳んだ。
そっちから刀治が来ていたら危うかったが、
――ブォン。
煙幕を破って現れた刀治のトンファーは空振りした。
「チッ」
「今度はこっちの番っ!」
香純が、発勁を打とうと踏み込む。
手のひらが刀治に伸びる。
刀治はスウェーバックで避けようとするも近過ぎる。
だが、さらに体を後ろに倒して、バク転に切り替えることで、すんでのところで回避に成功する。さらに着地してから後ろに跳んで距離を取った。
「刀治くんを取るなぁぁ――――っ!」
さっきの香純の声を聞きつけて、今度は、美咲が襲い掛かる。
美咲の拳と香純の発勁が激突して、
――バシィ!
と、にぶい音が響く。
「安心しろ、美咲も敵だ」
その美咲の背後から刀治が流星錘を投擲する。
美咲は横に跳んで、鉄球を躱すが、
「そこォ!」
縮地を使って香純が追撃して、
――ズンッ!
そして発勁のコンボを叩き込んだ。
今度は決まった。
モロに発勁を腹に喰らって。
為す術もなく美咲は吹っ飛ばされた。
「トドメッ!」
駄目押しの一発を香純は続けようとする。
が、そのとき、
――ジリリリリリリ……ン。
目覚まし時計のベルが突然止まった。
突如静寂が戻ったことで反射的に体が硬直してしまう。
だが、これを予期してた者がいたらどうか。
これがなにかの合図で、この瞬間を待っていた者がいたら。
「Jackpot」
刀治が呟いた直後、
「チェストォォォォォォ――――――ッ!」
裂帛の気合と共に杏太の跳び蹴りが香純をブッ飛ばした。
「――繰り返すっ! 振られ隊は刀治と杏太、うーちゃんを除いた連中を各個撃破っ! 赤いバンダナを巻いた連中もっ! とにかくうーちゃんに手を出させないことっ!」
タングラムは大混乱だった。
振られ隊、タングラムの出場選手、自己判断で応戦に打って出たSFCのスタッフ、さらにテンションの上がった観客まで巻き込んで、廃病院の内でも外でも、しっちゃかめっちゃかの大乱闘だ。
とはいえ――
ほぼ、振られ隊の独壇場だった。
振られ隊の恐るべきはコンビネーションだ。
自分より強い敵でも、早い話が、袋叩きにしてしまう。
優歌の指揮の下、タングラムの制圧は順調に進んでいた。すべては廃病院二階を死守するため。だれにも美咲の邪魔を、というより刀治の邪魔をさせないためだ。
いかに刀治が知略に優れてるとはいえ、バトルロイヤルの不確定性まで考慮した計画は立てられない。だったらタングラムを乗っ取って不確定要素を排除してしまおう。それが振られ隊の役目だった。
「ん?」
と、そこで優歌は気付いた。
混戦の中を一人の少女が歩いてくる。
彼女はこちらを見て、こちらに近付いてくる。
ヘッドホンを耳に当てた少女。中学生くらいに見えるが、赤いバンダナを手に巻いてるから、あれでもSFCのスタッフなのだろうか、と優歌は迷った。
彼女は長い棒を持っていた。
先端を見るに、それは木槌だった。
大工道具として、また参議院において本会議開始の合図としても使用される木製のハンマーだ。ただし、やたらと柄が長い。まるで物干し竿だ。
「――振られ隊なら滅多なヤツに負けないと思うが、弱そうなヤツが生き残ってたら注意しろ。弱そうなのは擬態だと思え。生き残ってるんだから強いはずだ」
という刀治のアドバイスを思い出した。
あんな子が強いのだろうか、と優歌は悩んでしまう。
女の子だから見逃してもらってるだけでは、と疑ってしまう。
「……擬態?」
すると、
「オマエらの好きにさせるかァァ――ッ!」
「振られ隊をナメるなァァ――ッ!」
少女の進路上で、振られ隊とSFCのスタッフが戦っていた。
少女は、箒を掃くように、無造作に木槌を振った。
遠心力で回転する木槌の頭部は、
――ゴッ。
振られ隊の側頭部を的確に捉えた。
崩れ落ちた振られ隊を尻目に、
「石本くん、ここはウチに任せていいから」
なんて少女は偉そうに言った。
「スタッフを集めて、ギャラリーを安全な場所に誘導して。乱闘は放置して良いから。乱入上等ってことで。ほかのスタッフにも、そう伝えておいて」
「ダリッタさん! 了解です!」
石本と呼ばれたスタッフは、その場から走り去る。
その一部始終を見ていた優歌は、
「……ダリッタ? 主催者の名前じゃん?」
と、その事実に気付いた。
ダリッタと目が合う。
ニタァ、とダリッタは笑った。
いかにも危機感を煽るような笑顔だ。
「振られ隊っ! あの子がラスボスだから早く集中攻撃してっ!」
優歌が振られ隊に攻撃の指示を出すと、
「あんな子が……?」
「いや、一人倒したのを見たッ」
「油断するなッ! ハンマーに注意しろッ!」
振られ隊は戸惑いつつも指示に従って攻撃開始した。
三人同時に三方向から襲い掛かる。
回避も防御も不可能なコンビネーション。
少女とはいえ、得物を持ってるからには手加減なしだ。
だが、ダリッタは、
「ほいっ」
と、軽い調子で木槌を一回転させた。
ぐるんと回りながら、さらに高低を調節して。
三人の振られ隊の頭に木槌の頭部がくるように回転する。
遠心力の乗った木槌は、それだけで威力を発揮する。長物の肝要は遠心力だ。筋力は、極論を言えば、それを支える程度で良い。だから、たとえば薙刀は力の弱い女性の武道として定着している。
遠心力を侮ってはいけない。たとえば野球のバットを筋肉を弛緩させた状態で振り回したとしよう。遠心力だけで振り回した。このとき、このバットに打たれても平気だと思うことはないはずだ。
遠心力は強い。だから、
「うおッ」
「あぶねッ」
振られ隊は木槌を躱して攻撃を中止せざるを得なかった。
躱すことができたのは二人だけだ。
三人のうち一人は、
――ゴンッ。
木槌の直撃を喰らって地面に倒れた。
「ラッキー」
なんてダリッタは笑う。
この程度も避けられないなんてと嘲って。
彼女は、そして振られ隊から優歌に視線をやった。
この程度の連中じゃ止められないよ、と。
いまからそっちにいくからね、と、そういう目だ。
「ヤバ……」
優歌に緊張が走る。
優歌に格闘技の心得なんてない。
ダリッタと相対したら瞬殺されるだろう。
かといって逃げることもできない。
振られ隊を指揮してるのは優歌なのだ。
優歌が逃げたら振られ隊がバラバラになってしまう。
「――お困りかい?」
――ポン。
背後から肩を叩かれた。
振り返ると、そこには月子が立っていた。
「久し振りィ」
唇を片方だけ釣り上げて月子は笑った。
「うちの刀治が世話になったみたいで、ほんと、ありがとう」
「ど、どうも」
「お礼に助けてあげる、タダで」
「え?」
「行き掛けの駄賃だから」
そう言って、月子はダリッタに歩み寄っていく。
その間にダリッタは振られ隊の残りを倒し終えている。
木槌の間合いからギリギリで外れたところで月子は立ち止まった。
「オイ、ガキ、この私が相手だ」
「オバサン、だれ? オバサンがコイツらの親玉なの?」
「――――――」
瞬間、月子がキレた。
背後にいる優歌にもわかった。
背中からドス黒いオーラが噴出している。
「オバサン? オバサンだと? 殺す」
「あれれ、怒っちゃった?」
「優しくしてやろうと思ったけど、やっぱやめた。ねじ伏せてやるから覚悟しな、クソガキ」
――カキン、カキン。
月子は、刀治と同じ伸縮式トンファーを抜いた。
「ついでに言うと頭は私でも、こっちの嬢ちゃんでもねーよ。うちの若いのが仕切ってるんだ。いまごろおたくのレリエルをボコり終えてるはずだぜッ」
言うや、月子が踏み込む。
美咲ほどではないが、それでも速い。
だが、遠い。
踏み込んでも、そこは。
トンファーの間合いの外、木槌の間合いの内。
――ブォン。
と、木槌が回転する。
木槌の頭部の内側まで潜り込んだが、柄の部分でも、十分な威力を備えている。この柄の長い木槌は本来棒術的な使い方が主なのだろう。むしろ槌としての機能がオマケなのだ。
棒は全てが柄であると同時、全てが刃である遠近両用の万能武器である。真偽はともかく最強の武器として薙刀や槍、棒といった長物の名前が挙がりやすいのは、この万能性が所以だ。
――カッ。
月子は、トンファーで木槌を上に弾いた。
が、ダリッタの攻撃は、それだけで止まらない。
上に上がったら、下に下ろせばいい。
ダリッタは、今度は木槌を下に振り落とした。
――ブォン。
――カッ。
――ブォン。
――カッ。
――ブォン。
――カッ。
一進一退の攻防が続く。
約束組手であるかのように淀みなくダリッタが打ち、月子が弾くが延々繰り返される。実力が拮抗していた。お互いに決め手を欠いた状態だった。
だが、長期的に見れば有利なのはダリッタのほうだ。ずっと防御し続けるのは体力的にも、なにより気力的に辛いはずだ。いずれ月子に隙が生まれるはず。そう、ダリッタは考えていたのだが、
「見切った――」
一言、月子が呟いた。
――カァァン。
直後、月子の爪先が木槌を蹴り上げた。
「うっそ!」
ダリッタは驚く。
木槌を手放すことこそしなかったが、堪えるのがやっとで、致命的な隙が生まれてしまった。
高速で移動する木槌を蹴り上げるのは生半可なことではない。こんな反撃を受けるとは思ってもいなかったのだ。
――ダンッ。
その隙を逃さず月子が踏み込み。
トンファーが、ダリッタを射程距離内に捉えた。
もう、完全に詰みだった。
ダリッタのどんな攻撃より早く。
月子のフィニッシュブローが確実に入る。
「……若くて綺麗なお姉さん、許してくれない?」
ダリッタは自分で考えられる全力のぶりっ子ポーズを取った。
幼い見た目を最大限利用して命乞いした。
が、
――ブチン。
ダリッタは選択を誤った。
「貴様の若さを寄越せェェェェェェ――――――ッ!」
許してくれなかった。
というよりますます月子の逆鱗に触れてしまった。
なぜなら月子には、年齢的に、そういうポーズが不可能だからだ。
――ドドドドドドドドッ!
と、トンファーが連続して打ち込まれ、
「ホァチャァァァ――――――ッ!」
怪鳥の叫びと共に渾身の横蹴りが放たれた。
――ズドンッ!
ダリッタの小さな体が、格闘ゲームみたいに、大きく弧を描いて後方に吹っ飛んだ。
それを見ていた優歌は、あまりにも大人げないキレっぷりに、ガクガクブルブルと震えていた。
「さーて、仕事仕事」
そうして怒りを静めた月子は、何事もなかったかのように、その場を去っていった。
周囲では乱闘が続いてる。
優歌は、とりあえずダリッタに近付いた。
月子の怒りを一身に受けたダリッタはボロボロだった。
「おーい、大丈夫? 生きてる?」
「……生きてるけど、なに? いまのなに? 若さを妬む妖怪?」
「たぶんそれ以上言わないほうがいいと思う」
二人は同時にブルッと身を震わせた。
月子のキレっぷりはトラウマになりそうだった。
やがて、ダリッタが言った。
「あー、負けちゃったかー」
「喧嘩を売る相手間違えたねー」
「そっちが最初に売ってきたんじゃん」
「いやー、ごめんねー」
「負けたから、あーだこーだ言わないけどさー」
ダリッタは、諦めたように溜息を吐いて、
「でも、一個だけ教えて。なんのためにこんなことしたの?」
それを聞いて、優歌は笑った。
「ラヴ」
「え?」
「愛よ、愛。一世一代の告白が始まるのよ」
刀治と美咲、そして杏太。
香純は、杏太の跳び蹴りでKOされた。
自分の脚で立ってるのは相変わらず三人だった。
ただし、今度は二対一だ。
「よくやった」
「フヒヒ、やるときゃやらないとモテないッスから」
刀治の策。
杏太による不意打ち。
美咲と香純、最強同士がぶつかれば、お互いに余計な気を回す余裕はなくなるだろうと踏んだ。そこで美咲と香純を引き合わせ、戦闘が激化したところを突いて、杏太に不意打ちさせた。
結果はごらんの通り。まともにやり合えば太刀打ちできなかったはずの香純を、まずは倒すことができた。これで神城探偵事務所の仕事は片付いた。そして、
「美咲も、いまのは効いたろ?」
美咲に、ダメージを負わせることもできた。
美咲と香純を引き合わせたのには、そういう狙いもあった。
万全の状態の美咲には勝てない。だったら手負いの状態の美咲に勝負を挑む。それも二対一で勝負を挑めば、どうだ。それだったらやりあえるんじゃないか、と刀治は考えたワケだ。
「凄いね、やっぱ――」
と、美咲は言った。
刀治の質問には答えなかった。
自分の状態を教えてやるほど愚かではない。
「ふぅぅ――――」
と、美咲は息を吐く。
空手の息吹という技術だ。
呼吸を落ち着け、状態を回復するための呼吸法。空手以外の格闘技でも取り入れられている。そうして長い息を吐き終えると、
「――こんな手を思いつくなんて」
と、続けた。
「卑怯か?」
「ううん、嬉しいよ」
「こんな手しか思いつかなかった」
「それでいいの。そうでないと、わたしは納得できないから」
美咲は悲しそうに言った。
逃げるが勝ちでは我慢できなかった。
後悔、懺悔、あるいは救いを求めるような声。
「それでいい」
刀治は、そんな彼女を赦した。
美咲の歪みなんて、ずっとまえに気付いていた。
それに、刀治だって、逃げるが勝ちでは気に入らなかったのだ。
「勝たなきゃ気が済まない。そんなの俺だって同じだ」
「刀治くんも?」
「というか、男なら、だれだってそうだ。男の子には意地があるんだよ。強いとか弱いとか関係ない。やっぱ、なにがなんでも勝ちたくなる。どんだけ言い訳しても、それは変わらない。だから――」
二人が会話してる間にも、ジリジリと、杏太は挟撃するための位置に移動してる。これは必要な会話であると同時、時間稼ぎでもあった。そして舞台は整った。
「――今度は俺が勝つッ」
言うや、流星錘を放つ。
「俺と突き合ってもらうぜッ!」
左右二発の流星錘は空中で交差することによって鋼線が捻れて軌道が変化した。さらに手首のスナップも加えることによって変幻自在の変化球と化す。
「――――――っ!」
美咲は、それをしゃがんで躱した。
普段なら、こんなに大きく避けないはずだ。
香純の発勁が、やはり大きなダメージを与えている。
「こっちも!」
そこに杏太が中段蹴り。
と、いうよりトゥークックだ。
爪先で蹴る技だ。
靴を履いた爪先は一種の凶器だ。
蹴り技の中でも特にリーチが長い技でもある。
「くぅ――っ!」
美咲は前転して躱す。
やはり普段と比べて回避が大きい。
普段なら伸びきった蹴り脚を掴んで関節技くらい極めるはず。
「杏太、イケるぞ!」
「ッス!」
二人掛かりで襲い掛かる。
刀治は流星錘からトンファーに切り替える。
流星錘だと杏太まで巻き込んで同士討ちしかねないからだ。
杏太が再びトゥーキック。
美咲は前に踏み込んで打点をずらして受ける。
美咲が反撃に移ろうとする。
そこに、刀治がトンファーを打ち込む。
美咲はスウェーバックして回避、同時に裏拳を放ってくる。
杏太が三度目のトゥーキック。
三度目の正直が命中して美咲の体勢が崩れる。
裏拳は軌道が逸れた。
無防備な脇腹を狙ってトンファー。
美咲は後退して回避しながら下段蹴りで足元狙い。
刀治はジャンプしてそれを躱す。
杏太が美咲を追撃、四度目のトゥーキック。
トゥーキックによるヒット・アンド・アウェイ戦法。
だが、いい加減美咲も見切った。
蹴り脚を持ち上げるようにして弾き飛ばす。
杏太の体勢が崩れる。
美咲が杏太に追撃しようとする。
それを刀治が見過ごさない。
トンファーを片方投げて美咲を牽制。
美咲、トンファーを回避。杏太は体勢を立て直す。
蹴りは見切られた。
杏太は貫手に切り替えて襲い掛かる。
五指を揃えて突き刺すように攻撃する空手の技だ。
立て続けに貫手、貫手、貫手。
持ち前のスピードを活かした連続攻撃。
美咲は回避、回避、回避。
普段より遅れたタイミングで反撃に移ろうとする。
だが、そのまえに杏太はヒット・アンド・アウェイで離脱する。
刀治が小型の鉄球で指弾を放つ。
眼球を狙った鉄球を、頭を逸らすことで、回避。
しかし鋼線が繋がっていた。
指弾と見せ掛け、その実、小型流星錘。
鋼線が首に巻き付こうとする。
美咲は鋼線を掴み取って、それを阻止。
鋼線ごと刀治を引っ張ろうとする。
だが、そのまえに刀治は鋼線を手放していた。
すかさず刀治と杏太の同時攻撃。
美咲はスウェーバックからバク転して回避。
そのまま二度、三度とバク転を繰り返して距離を取る。
「――ふぅ。すごいコンビネーション」
美咲が息を吐く。
美咲は避けてばかりだった。
あの美咲が、ここまで追い詰められてる。
「先輩」
と、杏太、上機嫌。
「これ、貸し何個分スか?」
「十でも二十でも好きなだけ持ってけ」
「刀治くんには、勝てたら、わたしをあげるからっ!」
「あぁぁ――――っ! なんスかそのノロケはっ! メチャクチャ両思いじゃないスかっ! こんな回りくどいことしてないでいますぐ付き合えばいいじゃないスかっ!」
「えへへ」
「そこ、全然照れるとこじゃないッスよっ!」
「珍しい、杏太がツッコミに回ってる」
「先輩も冷静に解説してないでなんとか言ってくださいッスよっ!」
「いや、俺は納得してるから」
「馬鹿だーっ! 先輩たちいろんな意味でバカップルッスよっ!」
「でも、ほら、言うだろ?」
「……なんスか?」
「馬鹿は死んでも治らないって」
刀治は投げ捨てたトンファーを拾う。
「死んでも治らねーんだから、それを抱えたまんま生きるしかねーだろ? それに、そのほうが面白いじゃねーか。そんなことより杏太、気を抜くんじゃねーぞ」
「わかってるッスよ」
状況は有利のように見えて、実は不利だ。
刀治も杏太も決め手に欠けてる。
美咲には、捨て身の攻撃という選択肢が残ってる。
一発もらうことを覚悟して飛び込まれたら簡単に状況は逆転する。
――ダンッ。
美咲が大きく構えた。
脚幅が広い。
迎撃重視の構え。
その覚悟を決めたらしい。
「勝てたら、だから」
一発を耐えた後、一撃必殺の反撃で一人屠る気だ。
手負いの状態とはいえ、一対一であれば遅れを取らない。
二対一という状況を崩されたら、刀治の負けだ。
二対一を維持してるうちに決着をつけなければいけない。
「杏太ッ」
「ッス!」
杏太が駆ける。
刀治も後に続く。
決着の時だ。
まず、杏太が全力の一発をお見舞いする。
それで倒せれば、それでOKだ。
倒せなかったら、杏太と引き替えに、刀治が一発を打ち込む。
そういう背水の陣を覚悟したフォーメーションだった。
「うおおおォォォォォォ――――――ッ!」
杏太の全力疾走。
速い。
スピードだけなら美咲より速い。
なにより、その加速力だ。
瞬間的に最高速まで跳ね上がった。
杏太の体重は軽い。
だが、それを補って余りある速度がある。
この速度に体重を乗せれば、何物も撃ち抜く、人間弾丸。
「おォォらァァァァァァ――――――ッ!」
杏太の上体が下に傾く。
アメフトのタックルに似た構え。
だがしかし力は肩ではなく拳に収束して。
体で拳を守るような姿勢。
絶対に止められない一発の弾丸。
そして美咲と杏太、二人同時に拳を解き放った。
――ドンッ!
車に跳ねられたような鈍い音。
杏太の体が吹っ飛ぶ。
美咲のカウンターが炸裂した。
杏太、倒れる。
二対一の状況が潰える。
しかし、
「ぐっ」
美咲の膝も落ちた。
片手で腹を押さえている。
杏太の弾丸もまた届いていたのだ。
勝機は生きている。
「だァらァァァァァァ――――――ッ!」
間髪置かず刀治が突っ込む。
美咲も、すぐに体勢を立て直す。
再度、迎撃の構え。
全神経を刀治に集中する。
――ヒュゴッ!
その刹那、脇腹にめり込む鈍痛。
(鉄球っ!)
流星錘だった。
だが、刀治ではない。
美咲は一瞬、視線を横にやる。
(――月子さんっ)
美咲が突き破った窓枠に月子が立っていた。
ニヤリ、と月子が笑う。
やられた、と思う。
伏兵による不意打ちは二度目だ。
香純がやられたのに、それを忘れてしまっていた。
「いけェェェェェェ――――――ッ!」
月子が叫ぶ。
目の前まで刀治は迫ってる。
――杏太の一発。
――月子の流星錘。
腹部に溜まったダメージは限界に近い。
水中であるかのように呼吸ができなくなってる。
だけど、あと一発。
刀治に一発打ち返すくらいは。
刀治に報いるためにも、あと一発だけは打つ。
「ああぁぁぁぁぁぁ――――――ッ!」
叫ぶ。
腹の中の力全部使って。
打った。
拳に手応え。
刀治より早く打った。
「――――――」
美咲の拳が刀治の頬にめり込んでいた。
完璧なカウンターだ。
勝った。
勝っちゃった。
「意地を見せろォォ、刀治ィィィ――――――ッ!」
気を抜いた瞬間、月子が、また叫んだ。
(……嘘っ)
ぐり、と拳が押し返される。
刀治は倒れていない。
刀治は倒れていない。
――ギュリッ。
と、刀治の靴が床を噛み締める。
脚から腰、腰から肩に力が走っていく。
刀治と目が合う。
爛々と輝く狼のような双眸。
「俺は勝つと言ったはずだッ、美咲ィィィィィィ――――――ッ!」
絶叫。
限界を超えた一撃。
刀治の拳が美咲の腹に突き刺さった。
――杏太の一発。
――月子の流星錘。
――刀治の一撃。
美咲のダメージは限界に達した。
踏ん張ることもできず美咲の体が浮いた。
(わたし、負けたんだ……)
そして美咲は笑いながら気を失った。
刀治の姿を目に焼き付けながら。